山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第五十六章

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――第五十六章 西徳寺の紙灯――

 翌朝、空はまだ薄い雲に覆われていた。

 陽はあるのに、どこか翳りを含んだ朝である。伊織は井戸水で顔を洗い、その冷たさで胸の内を静めた。西徳寺へ向かうと決めてから、夜のあいだ幾度も目が覚めた。寺が相手だからではない。寺という顔の奥に、戻る場所と流す場所の両方がありうると知ってしまったからだ。いまや、疑う目は味方の顔にも、善意の顔にも向かわねばならぬ。そこが苦しかった。

 囲炉裏の前では、母がもう味噌汁をよそっていた。

「今日は西徳寺だね」

 母が言う。

「ああ」

「なら、まず人の顔を見てきなさい」

 伊織は思わず母を見た。昨夜の問いの続きを、母はもう受け取っていたのだろう。

「帳面より先に、ですか」

「そうだよ」

 母は湯気の立つ椀を差し出しながら言った。

「紙は後からでも読める。でも、人の顔は、その場でしか見えないからね」

 志乃が横で頷いた。

「兄さま、今日は怖い顔しすぎないでください」

 新兵衛が笑う。

「それは無理だろ」

「無理でも少しは、です」

 お澪は何も言わず、昨夜の札を一枚、伊織の前へそっと置いた。《西徳寺》。その“徳”の字の旁がわずかに省かれている、あの札である。

「この字を書いた人は、急いでいたのではありません」

 お澪が静かに言う。

「むしろ、長く同じ癖で書いています。たぶん、年配の人です」

「寺の坊主か、寺へ札を置く者か」

 伊織が呟くと、お澪は小さく頷いた。

「はい。でも、この字には“隠すためのうまさ”がありません。だから、書いた人は悪いことを書いているつもりではないのかもしれません」

 伊織は札を懐へ入れた。悪いことを書いているつもりではない――そこが、いちばん厄介なのだと、もう嫌というほど知っている。

 朝餉を終えると、新兵衛が当然のように立ち上がった。

「行くぞ」

「また付いてくるのか」

「寺の顔を見るんなら、俺みてぇな顔も必要だろ」

 乱暴な理屈だが、半分は当たっている気がした。伊織は苦笑し、それ以上は言わなかった。


 西徳寺は、浅草から少し外れた裏町にあった。

 母の言った通り、大きな寺ではない。山門も低く、土塀もところどころ剥げ、庭の木も手入れは行き届いているが、豊かさの色はない。むしろ、慎ましく持ちこたえている寺という印象だった。門前に人は少ない。寺子屋の札も出ていない。だが境内へ一歩入ると、紙と薬草の匂いが微かに混じっていた。

「たしかに、ちょっと変わった匂いだな」

 新兵衛が言う。

「紙の寺、か」

「いや」

 伊織は低く答えた。

「紙だけじゃない。乾かした草の匂いもある」

 寺の本堂の脇に、小さな薬草棚があった。束ねた葉や根が軒先に干してある。母がかつて薬草をもらったという話は本当らしい。つまりこの寺は、貧しいながらも、近隣の人のために手を尽くしてきた場所なのだろう。そういう寺が、紙の流れの口に使われているのだとしたら、それはなおさら始末が悪い。

 庫裏の方から、ひとりの老僧が出てきた。七十に近いか、それ以上か。痩せてはいるが、目が澄んでいる。こちらを見る目に怯えも媚びもない。

「何用でござるかな」

 坊主の口調ではあったが、どこか侍の名残を思わせる響きだった。

「少し、お訊ねしたいことがある」

 伊織が言うと、老僧は伊織の顔と新兵衛の顔を順に見て、それから静かに頷いた。

「立ち話も何です。中へ」

 あまりにも自然な招き方だったので、伊織は逆に用心した。だが、ここで断れば人の顔は見えぬ。二人は庫裏へ通された。

 座敷は狭いが整っている。畳も古いが清潔で、障子の補修跡が丁寧だ。金はない。だが手は抜いていない。こういう場所は、人を戻す寺の顔をしている。問題は、その顔の裏に別の手があるかどうかだ。

「私は西徳寺の住持、玄応と申します」

 老僧が名乗った。

「榊原伊織」

「久世新兵衛だ」

 玄応は、そこでわずかに目を細めた。

「榊原……」

 その声には覚えがあった。伊織の胸が小さく鳴る。どこかで聞いた響きだ。思い出そうとする前に、玄応が静かに言った。

「戸沢半十郎殿の弟子であろう」

 伊織は驚いた。

「師範をご存じか」

「昔、少しな」

 玄応はそれ以上は言わず、茶を出した。
 半十郎と縁がある。
 それだけで安心はできない。だが少なくとも、この寺は完全な他人の顔ではなくなった。

「訊ねたいのは、紙のことだ」

 伊織が言うと、玄応はすぐには表情を変えなかった。

「紙?」

 伊織は懐から《西徳寺》の札を出し、畳の上へ置いた。

「これは、お寺の札か」

 玄応は札を手に取り、しばらく黙って見つめた。
 その沈黙には、驚きよりも苦さがあった。
 やがて、静かに言う。

「……昔、使っていた」

「昔?」

「寺子屋を閉じる前だ」

 伊織は眉をひそめた。

「寺子屋を?」

「三年前に畳んだ」

 玄応は答えた。

「紙代が払えず、子らに教える者もいなくなった。だから寺子屋は閉じた。……この札はその頃のものだ」

 新兵衛が身を乗り出した。

「じゃあ今は使ってねぇのか」

「使っておらぬ」

 玄応は即座に答えた。

「使う理由がない」

 それが本当なら、西徳寺は“戻る寺”の顔をしている。だが札は実際に流れの中にあった。ならば、誰かがこの寺の古い札を使っているのだ。

「札が外へ流れている」

 伊織が言う。

「しかも紙の流れの中だ。寺納めの紙として、幾つかの口に使われている」

 玄応の目に、初めてはっきりとした影が差した。

「……そうか」

 それだけだった。
 怒りよりも、ひどく疲れたような声だった。

「心当たりはあるか」

 伊織が問うと、玄応は少し考え、やがて低く言った。

「札を持ち出せた者は、一人しかおらぬ」

「誰だ」

「かつて寺子屋を手伝っていた男だ。名を宗次という」

 新兵衛が口を挟む。

「坊主か」

「いや、町人だ」

 玄応は答えた。

「筆が達者で、子らに手習いを教えていた。寺子屋を閉じた後も、しばらく寺の帳場を手伝っていたが……二年前に姿を消した」

 宗次。
 筆が達者。
 寺子屋。
 帳場。
 札を書く手も、紙を仕分ける手も持っている。
 しかも寺の顔を知っている。
 白紙の流れにとって、これ以上ない人間だ。

「その宗次に、札を書かせていたのか」

 伊織が問うと、玄応は頷いた。

「寺子屋用の紙束や薬草の控え、年に一度の布施札も、だいたいあれが書いておった」

 伊織は懐の札を見た。
 “徳”の旁が少し省かれる癖。
 年配の字だと思っていたが、同じ癖を長く持つ男なら年若くてもありうる。
 お澪の見立ては“隠すためのうまさがない”だった。
 それも宗次という男の像に合う。
 悪の手ではなく、日常の帳場の手。
 だから気づかれにくい。

「宗次はどこへ」

 伊織が問うと、玄応は首を振った。

「分からぬ。だが姿を消す少し前、よく表具屋へ出入りしていた」

 新兵衛が顔をしかめる。

「やっぱりつながってやがる」

「浅草の表具屋か」

 伊織が聞くと、玄応はゆっくり頷いた。

「《高津屋》という古い店だ。寺子屋の手本を表具にしたり、破れた経本を直したりしていた」

 高津屋。
 また一つ名が出た。
 しかも今度は“古くからある、まともな顔”の店らしい。
 白紙の流れは、いつも真っ当な顔の上を渡っていく。

「玄応殿」

 伊織が言った。

「札が流れに使われていたこと、寺の名が借りられていたことを、表へ出すかもしれぬ」

 玄応は驚かなかった。ただ、小さく目を伏せた。

「致し方あるまい」

「お寺には迷惑が及ぶ」

「すでに及んでおる」

 玄応は静かに言う。

「札一枚でも、寺の顔で人を欺いたのなら、それはもう寺の恥だ。……だが一つだけ、願いがある」

「何だ」

「寺を責める前に、宗次の顔を見てほしい」

 伊織は黙った。

 宗次がどのような男か、玄応の目にはまだ“寺子屋を手伝っていた町人”として残っているのだろう。悪としてだけ切られたくないのだ。その気持ちは分かる。分かるが、分かるからこそ苦しい。

「約束はできぬ」

 伊織は言った。

「だが、顔を見る前に札だけで切ることはしない」

 玄応は深く頭を下げた。

「それで十分だ」


 庫裏を出ると、昼の光が境内へ落ちていた。

 薬草棚の葉が風に揺れる。
 戻る寺の顔と、流された札の影が、同じ庭の中にある。
 伊織はそのことが胸に堪えた。

「どう見る」

 門を出たところで新兵衛が聞く。

「西徳寺は、戻る寺だ」

 伊織は答えた。

「だが、その顔を知る者が札を持ち出した」

「宗次、か」

「そうだ」

「じゃあ次は高津屋だな」

「高津屋だ」

 新兵衛は肩を回した。

「紙、表具、寺。ほんと、どこも似た顔してやがる」

「だから見分けねばならぬ」

 伊織は言った。

「戻すための手か、流すための手かを」

 そう言いながら、伊織は自分自身にも言い聞かせていた。
 紙の流れは、いつも善い顔の上を通る。
 だからこそ、目を曇らせればすぐに間違える。
 剣で斬るより難しいのは、そのためだ。

 西徳寺を振り返ると、玄応がまだ門の内側に立っていた。
 何も言わず、ただ見送っている。
 戻る寺の坊主は、人の背をそうやって見るのかもしれない。

 波瀾万丈の物語は、次に高津屋へ向かう。
 札を書いた宗次。
 表具屋を通る紙。
 寺の顔を借りる流れ。

 まだ終わらぬ。
 だが、少しずつ顔は見え始めている。

(第五十七章につづく)

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