――第九十六章 それぞれの速さ――
三人の返し文が町に流れてから、笑いの質が変わった。
消えたわけではない。
人はそう簡単に、誰かを笑うことをやめない。
けれど、笑う時に少しだけためらうようになった。荒筆、稚筆、病筆――そうまとめて口にしようとすると、その向こうに清之進、伊之助、直之助の顔が浮かぶ。顔が浮かぶ笑いは、顔のない笑いより少し重い。
それだけで十分だった。
伊織は、戻り帳の頁を見ながら思った。人を戻すとは、世の笑いを消すことではない。笑いの中に顔を戻すことだ。顔が戻れば、言葉は少し鈍る。鈍った言葉なら、人は受け止めることも、返すこともできる。
その朝、主水から文が届いた。
――三家の返し、効き目あり。
――されど、次は「榊原流」を広げる手あり。
――若名ではなく、おぬしの名で一括りにする狙い。
――己の速さを失うな。
伊織は文を畳んだ。
「榊原流、か」
新兵衛が横から覗き込む。
「流派になったな。めでてぇじゃねぇか」
「めでたくはない」
「だろうな」
新兵衛は笑ったが、目は笑っていなかった。
「三人をまとめられねぇなら、お前でまとめるってわけか」
「ああ」
それは当然の手だった。
三家の若名を別々に戻した。
ならば、敵はその違いを消すために、伊織の名で一括りにする。
榊原流。
若者に未熟を誇らせる流派。
病を言い訳にする流派。
家を弱くする流派。
そう書けば、三人の違いはまた薄くなる。
母が味噌汁を置きながら言った。
「人は、面倒なものを一つの箱に入れたがるからね」
「箱ですか」
「そうだよ。片づいた気になるんだ」
伊織は頷いた。
紙を箱に入れて顔を消した者たちを思い出した。
今度は、名を箱に入れようとしているのだ。
箱の名は、榊原流。
昼前、伊織は三家の若者を呼ばなかった。
呼べば、また「榊原流」と見られる。
だから、それぞれへ別々に文を出した。
清之進へは、こう書いた。
――荒筆は、荒筆のまま進め。
――他人の名で強くなるな。
伊之助へは、
――稚筆は、来年へ残せ。
――急いで大人の列に入るな。
直之助へは、
――病筆は、風を選べ。
――人の期待に合わせて出るな、隠れるな。
最後に、どの文にも同じ一文を添えた。
――これは榊原の流儀ではない。おぬし自身の速さである。
文を出したあと、伊織はしばらく筆を置けなかった。
自分はまた整えていないか。
三人の名を守ると言いながら、自分の言葉で枠を作っていないか。
その疑いが胸に残った。
お澪がそれに気づいた。
「気になりますか」
「ああ」
「でも、文を出したあとは、相手のものです」
伊織は顔を上げた。
「相手のもの?」
「はい。受け取った人が、どう読むかで変わります。書いた人が最後まで握っていたら、それも整える手になります」
その言葉に、伊織は深く息を吐いた。
「そうだな」
文も、名も、いったん渡せば相手のものになる。
それを忘れれば、自分も采女や宗庵と同じ側へ滑る。
戻す者は、最後に手を離さねばならないのだ。
夕方、三人からそれぞれ返事が来た。
清之進の文は短かった。
――荒筆、今日も笑われ候。されど、一字直り候。
伊之助の文には、
――来年の私に見せる文を、今日も一枚書き候。まだ幼し。
直之助の文には、
――本日は風強く、出ず。出ぬことも我が速さと心得候。
伊織は三通を並べ、静かに笑った。
三人は、それぞれの場所にいる。
集まっていない。
同じ言葉で動いていない。
だから、まだ大丈夫だ。
その時、門の外から声がした。
「榊原殿はおられるか」
聞き覚えのない声だった。
門を開けると、そこには町人風の男が立っていた。年は四十前後。身なりは悪くないが、目が油断なく動く。手には巻いた紙を一本持っている。
「私は瓦版を扱う者で、佐平と申します」
「瓦版?」
「はい。近ごろ評判の“榊原流”について、ひとつ話を伺いたく」
新兵衛がすぐに不機嫌な顔をした。
「帰れ」
佐平は笑った。
「いやいや、悪く書こうというのではございません。むしろ世には、榊原様のされていることを面白いと見る向きもある。若様方がそれぞれの筆で返した話など、なかなか読ませる」
伊織は黙って男を見た。
面白い。
その言葉がひっかかった。
笑いより厄介かもしれない。
人の戻りを、今度は“美談”として売る。
それもまた、名を奪う手だ。
「お帰りください」
伊織は言った。
「お話はしません」
「なぜです」
「若様方の戻りは、読み物ではない」
佐平は少し眉を上げた。
「ですが、世に知らせれば励みになる者もおりましょう」
「励みになる者もいる。だが、売り物にもなる」
「それは言い過ぎで」
「帰れ」
今度は新兵衛が一歩出た。
佐平は肩をすくめたが、笑みは消さなかった。
「では、また改めて」
男は去った。
伊織はその背を見送りながら、胸の中で新しい点を見た。
悪名の次は、美談。
嘲りの次は、評判。
どちらも、人の名を本人から離して歩かせる。
榊原流を悪く売る者がいるなら、よく売る者も出る。
どちらも危うい。
夜、主水へそのことを知らせると、返事はすぐ来た。
――佐平、扇屋宗庵の筋ではない。
――ただし、噂を商う者。
――悪名より美名に注意せよ。
――人は褒められても名を失う。
伊織は文を読み、しばらく動けなかった。
褒められても名を失う。
清之進が采女の文で褒められ、自分の名を失いかけたことを思い出した。
直之助が“病める名の美談”にされかけたことを思い出した。
遠山伊之助が“立派な幼君”にされかけたことを思い出した。
悪く言われることだけが危険ではない。
よく言われることも、同じくらい危険なのだ。
お澪が戻り帳を開いた。
「今日は、何を書きますか」
伊織は答えた。
「三人、それぞれの速さを守る。榊原流に入れず」
お澪は筆を取った。
――三家の若名。
――榊原流と一括りにされんとす。
――伊織、三人を集めず、それぞれへ文を遣わす。
――戻りは、流派にあらず。己の速さなり。
さらに伊織は言った。
「佐平のことも」
――佐平。
――噂を商う者。
――悪名のみならず、美名もまた名を奪う恐れあり。
――未詳。
お澪が筆を置く。
母が、囲炉裏の火を見ながら言った。
「褒められるのも、怖いもんだね」
「はい」
「褒め言葉も、食べすぎると腹を壊すよ」
新兵衛が笑った。
「また腹か」
「腹で分からないことは難しすぎるって言ったろ」
伊織は笑った。
だがその笑いの奥で、明日の道がまた少し険しくなるのを感じていた。
悪く言われても、良く言われても、名は揺れる。
ならば人は、どこで自分を保つのか。
それは、戻る場所と、自分の速さを知ることに尽きるのかもしれない。
波瀾万丈の物語は、嘲りの風を越え、美名の甘い風へ向かおうとしていた。
冷たい風より、甘い風の方が、人を遠くへ運ぶこともある。
伊織はそのことを、今度こそ見落とすまいと思った。
(第97章につづく)

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