上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第十八章

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第十八章 鷹の印

 西徳寺の鐘の余韻は、夕闇の江戸へゆっくりと溶けていった。

 真崎半九郎は山門の外で一礼したまま、新之介の返事を待っていた。

 年の頃は三十を少し過ぎたほど。

 粗末な木綿の羽織をまとっているが、立ち姿には武家らしい節度があった。

 玄斎は男の足元を一瞥し、小さく頷いた。

「足運びに乱れがない。剣を捨ててはおらぬな」

 真崎は苦笑した。

「父ほどではありません」

「父君は誰だ」

「真崎玄十郎。鷹見塾では末席でしたが、先生の用向きをよく務めておりました」

 その名に忠左衛門の記憶はなかったが、玄斎は静かに目を閉じた。

「思い出した。帳場で筆を持つことの多い男だ」

「はい。父は剣より筆が得意でした」

 新之介は問いかけた。

「その父君は」

「三年前に亡くなりました」

 真崎は懐から油紙に包まれた文を取り出した。

「父は亡くなる前、『榊原忠左衛門殿か、その倅に渡せ』と言い残しました」

 新之介は受け取り、その場で封を切る。

 中には地図が一枚。

 江戸市中ではない。

 郊外にある古い寺院と、その裏山へ続く細い道が墨で記されている。

 そして、短い一文。

 ――鷹は二つの巣を持つ。

 新之介は眉を寄せた。

「二つの巣とは」

 真崎は首を振る。

「父も詳しくは語りませんでした。ただ、『鷹見先生は一つだけでは備えなかった』と」

 玄斎の表情が変わった。

「……そういうことか」

「先生、お心当たりが」

「ある」

 玄斎は低く答えた。

「鷹見静山は、門人を一か所に集めることを嫌った。万一塾が潰されても、学びも証も残るよう、別の場所へ書物や記録を移しておった」

 源太郎が息を呑む。

「つまり、もう一つの隠し蔵がある」

「おそらくな」

 新之介は地図を見つめた。

 そこに残る記録が、酒井丹波守よりさらに上にいる者へ繋がる証になるかもしれない。

 ◇

 その夜、榊原家では戸田備前守から密書が届けられた。

 病床にありながら書かれたもので、筆跡には力がある。

 新之介は忠左衛門とともに文を開いた。

 ――評定は一時止め置く。証は揃いつつあるが、敵もまた動き始めた。老中の一人が酒井を切り捨て、すべてを終わらせようとしている。軽々しく動けば証は失われる。

 忠左衛門は文を畳んだ。

「戸田様らしい」

「慎重に、ということですね」

「違う」

 父は首を横に振る。

「急げ、だ」

「え?」

「慎重であれとは書いておらぬ。証を失う前に動けと言っておられる」

 新之介はもう一度文を読んだ。

 確かにそうだった。

 戸田は待てとは言っていない。

 敵より先に証を押さえよ、と言っている。

 「父上」

 「明朝、出立しよう」

 忠左衛門は静かに言った。

 「傷は」

 「痛む」

 「ならば」

 「痛みは置いて行けぬ」

 新之介は反論を飲み込んだ。

 この人は、もう役目を自分の命より重く置いている。

 それを止めることはできない。

 ◇

 翌朝、一行は江戸を離れた。

 新之介、忠左衛門、玄斎、源太郎、真崎半九郎。

 五人だけの旅である。

 表向きは寺参り。

 奉行所にも詳しい行き先は告げなかった。

 街道を外れ、山道へ入る。

 初夏の木々は濃く茂り、小鳥の声だけが響いている。

「静かですね」

 源太郎が呟いた。

「静かな場所ほど、人は秘密を隠す」

 玄斎が答えた。

 昼過ぎ、一行は古びた山寺へ着いた。

 山門は傾き、境内には人影もない。

 住職は九十近い老人だった。

 真崎を見ると、何も聞かずに頷いた。

「やっと来られましたか」

 新之介は一礼した。

「鷹見静山殿の縁を訪ねて参りました」

「承知しております」

 老人は本堂の裏へ案内した。

 苔むした石灯籠を動かす。

 その下から、石段が現れた。

 地下へ続く階段である。

 冷たい空気が吹き上がってきた。

 「これが……」

 「先生は、万一の日に備えてここを造らせました」

 灯を手に地下へ降りる。

 そこには木箱が幾つも並び、巻物や帳面が整然と納められていた。

 新之介は一冊を開く。

 鷹見静山の筆による覚え書きだった。

 武士の心得だけではない。

 幕府財政への提言。

 札差制度の弊害。

 旗本の借財構造。

 そして最後に、人名が記されていた。

 その中には若き日の酒井丹波守の名もあった。

 さらに、その上。

 老中首座の名がある。

 忠左衛門は静かに息を吸った。

「……ここまで見抜いておられたのか」

 玄斎は巻物を閉じた。

「だから先生は消された」

 地下室は静まり返っていた。

 だが、その静けさは長く続かなかった。

 地上から鐘が乱暴に打ち鳴らされる。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 住職が青ざめた。

「合図です!」

「何の」

「寺が囲まれました!」

 源太郎は刀を抜く。

 真崎も続いた。

 新之介は巻物を箱へ戻し、重要な数冊だけを風呂敷へ包む。

「すべては持ち出せぬ」

「どれを選ぶ」

 忠左衛門が問う。

 新之介は迷わなかった。

「人物ではなく、仕組みを書いたものです」

「なぜだ」

「人は死にます。しかし仕組みを変えねば、また同じことが起きます」

 忠左衛門は満足そうに頷いた。

「その考えを忘れるな」

 地上では足音が近づいていた。

 敵は寺へ入った。

 地下室へ続く石段にも、鎧の擦れる音が響く。

 玄斎は木刀を構えた。

「ここは狭い」

 源太郎が笑う。

「ならば五人でも守れます」

 新之介は風呂敷を背負い、刀を抜いた。

 地下室を守る戦いが始まる。

 それは証を守るためだけではない。

 武士という存在が、何を拠り所に生きるべきか。

 その答えを未来へ残すための戦いでもあった。

 石段の上に、最初の敵の影が現れる。

 新之介は静かに息を整えた。

 ――退けない。

 その思いだけが、刀を握る手に力を与えていた。

(第十九章へ続く)

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