上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第十章

目次

第十章 城門の刃

 神田橋へ向かう道は、すでに騒然としていた。

 日本橋の火騒ぎは、風より早く町を走る。

 火事か、辻斬りか、鉄砲か。

 噂は形を変えながら人々の口を渡り、江戸城近くの大通りにまで届いていた。

 新之介は濡れた袴のまま走った。

 肩の傷が痛む。

 左腕の布は赤く滲んでいる。

 だが立ち止まる暇はなかった。

 源太郎が先を走り、玄斎が後ろにつく。

 老いた身とは思えぬ足取りである。

「戸田様の駕籠は」

「神田橋を越え、内桜田へ向かうはずです!」

 源太郎が答えた。

「敵はどこで仕掛ける」

「城門前は警固が厚い」

「だからこそ、油断が生じる」

 新之介は息を整えた。

 日本橋で大久保主膳を狙ったのは、口封じである。

 だが書付には、はっきり記されていた。

 ――大久保を消せ。戸田は次。

 敵の本命はまだ戸田備前守にある。

 借財整理を進めようとする若年寄。

 それを恐れる旗本、札差、役人たち。

 その闇は、思っていたより深い。

 江戸城の石垣が見えてきた。

 堀の水は朝日に鈍く光っている。

 城門へ向かう武家の列。

 槍持ち。

 駕籠。

 供侍。

 礼法に従って進むその姿は、徳川の世そのものだった。

 だがその秩序の中に、刃が紛れている。

 新之介はそう感じた。

 ◇

 戸田備前守の駕籠は、内桜田門へ向かう手前で止まっていた。

 理由はすぐに分かった。

 道の先で、馬が暴れている。

 荷を積んだ馬が突然立ち上がり、供侍たちが道を塞がれていた。

「また騒ぎか」

 源太郎が歯噛みする。

「違う」

 新之介は目を細めた。

「あれは作られた騒ぎだ」

 馬の手綱を取る男の動きが不自然だった。

 慌てているようで、駕籠の進路を正確に塞いでいる。

 その周囲には、荷担ぎ、草履取り、槍持ちに紛れた男たち。

 いずれも目が死んでいない。

 刀を抜く者の目である。

「源太郎、奉行所の者を左右へ」

「承知!」

「先生」

「分かっておる」

 玄斎は木刀を握り直した。

 新之介は戸田の駕籠へ向かって走った。

 その時、荷車の中から火花が上がった。

 火薬。

 小さな爆ぜ音とともに白煙が広がる。

 供侍たちの視界が奪われた。

 同時に、槍持ちに化けた男が駕籠へ突進した。

「戸田様!」

 新之介は叫び、間に飛び込んだ。

 男の槍先が迫る。

 新之介は脇差で受け流し、体を寄せる。

 槍は近間に入れば弱い。

 柄を踏み、男の顎を打つ。

 一人が倒れた。

 だが次が来る。

 白煙の中、刃が左右から迫った。

 新之介は一方をかわし、もう一方の腕を斬った。

 悲鳴。

 血の匂い。

 城門の前が一瞬で修羅場となった。

 ◇

 駕籠の戸が開いた。

 中から戸田備前守が姿を見せた。

 年は五十前後。

 痩せた顔に鋭い目を持つ男である。

 騒ぎの最中にも取り乱した様子はない。

「何事か」

「お下がりください!」

 新之介が叫ぶ。

 戸田は新之介を見た。

「榊原忠左衛門の倅か」

「はい」

「父に似ておらぬな」

「今はその話をしている時ではございません」

 戸田は薄く笑った。

「確かに」

 その直後、白煙の奥から一人の男が現れた。

 黒装束ではない。

 供侍の姿である。

 戸田家の家紋を付けていた。

 源太郎が叫ぶ。

「内の者です!」

 男は戸田のすぐ近くまで入り込んでいた。

 手には短筒。

 新之介は間に合わない。

 発砲音。

 戸田の体が揺れた。

 しかし倒れたのは、戸田ではなかった。

 忠左衛門だった。

「父上!」

 いつの間に来たのか。

 傷を負った身で、忠左衛門は戸田の前に立っていた。

 銃弾は肩を抜けている。

 致命傷ではない。

 だが膝が崩れた。

 新之介は怒りを押し殺し、短筒の男へ飛び込んだ。

 男は二発目を込めようとしていた。

 新之介の刀が短筒を弾き飛ばす。

 返す刃で男の太腿を斬る。

 源太郎が縄を打った。

「捕えた!」

 だが騒ぎはまだ終わらない。

 馬がさらに暴れ、荷車が横転する。

 火薬袋が転がった。

 誰かが火を投げれば、城門前は爆ぜる。

 新之介は走った。

 火薬袋を掴み、堀へ投げ込む。

 水柱が上がる。

 その直後、別の火薬が小さく爆ぜ、馬がさらに暴れた。

 人々が逃げ惑う。

 それでも戸田は動かなかった。

 忠左衛門を支えながら、静かに言った。

「榊原、よく来た」

 忠左衛門は苦しげに笑った。

「遅参いたしました」

「昔から遅い」

「面目次第もございません」

 二人の間に、二十年前の鷹見塾の影が通った。

 新之介にはそれが分かった。

 ◇

 城門の警固がようやく駆けつけた。

 襲撃者の多くは捕えられ、一部は逃げた。

 短筒を撃った供侍は、戸田家の中間として雇われていた者だった。

 だが取り調べれば、必ず背後が出る。

 そう思われた。

 しかし男は、縄を打たれた直後、口から血を吐いて倒れた。

「毒か!」

 源太郎が叫ぶ。

 男はすでに息絶えていた。

 口封じ。

 またである。

 新之介は拳を握った。

 敵は自らの手先さえ残さない。

 間宮。

 矢代。

 大久保。

 そして今度は戸田家の内に入り込んだ男。

 闇は城門の内側にまで伸びていた。

 戸田備前守は、騒ぎが収まると新之介を呼んだ。

「名は」

「榊原新之介にございます」

「よく働いた」

「恐れ入ります」

「だが、これは町方の働きだけでは済まぬ」

「はい」

 戸田は堀の向こう、江戸城を見た。

「借財整理を恐れている者は多い。だがここまでやるとなれば、背後には評定を動かせる者がいる」

「心当たりは」

「ありすぎる」

 戸田は苦笑した。

「だから厄介なのだ」

 忠左衛門が傷を押さえながら言った。

「戸田様、評定は」

「出る」

「危険です」

「だからこそ出る」

 戸田の声は静かだった。

「今日退けば、奴らは勝ったと思う。武士は脅せば動くと知る」

 新之介は、その言葉に胸を打たれた。

 武士とは何か。

 戸田の姿に、一つの答えがあった。

 恐れぬことではない。

 恐れても、役目から退かぬこと。

 忠左衛門も同じことをしようとしていた。

 新之介は頭を下げた。

「私もお供いたします」

「お前にその権はない」

「承知しています」

「ならばなぜ言う」

「役目を越える罪は、後で受けます」

 戸田はしばらく新之介を見つめた。

 やがて笑った。

「忠左衛門」

「はい」

「よい倅だ」

「まだ青うございます」

「青いから走れる」

 戸田は供侍に命じた。

「榊原新之介を臨時の護衛として加える。異を唱える者は、わしに申せ」

 新之介は深く礼をした。

 ◇

 江戸城へ入る門は重かった。

 石垣は高く、堀は深い。

 そこをくぐる時、新之介は背筋に冷たいものを感じた。

 ここは徳川の中心。

 武士の世の心臓である。

 その心臓を、誰かが内側から腐らせようとしている。

 戸田の駕籠は進む。

 新之介はその脇を歩いた。

 玄斎は城内に入れぬため、門外で待つことになった。

 源太郎も町方ゆえ、同行できない。

 ここから先は、新之介一人だった。

 城内の廊下は静かだった。

 畳の匂い。

 磨かれた柱。

 足音を抑えて歩く役人たち。

 外の騒ぎが嘘のようである。

 だが新之介は感じていた。

 視線。

 どこからか見られている。

 戸田は低く言った。

「怯えるな」

「怯えてはおりません」

「ならばよい」

 評定の間へ向かう途中、ひとりの老中配下の役人が戸田を迎えた。

 名を水野監物という。

 白髪交じりの品の良い男である。

「戸田様、ご無事で何より」

「そなたも早いな、監物」

「城門の騒ぎ、すぐに耳に入りました」

 水野は新之介へ目を向けた。

「こちらは」

「榊原新之介。今日の護衛だ」

「護衛?」

 水野は薄く笑った。

「城内で護衛とは、物騒な」

「物騒なことがあったのでな」

 戸田の声は冷たい。

 水野は表情を変えなかった。

「評定の刻が迫っております。どうぞ」

 その仕草は丁寧だった。

 だが新之介は見た。

 水野の袖口に、ほんのわずかに白檀の香が染みていることを。

 怪文書。

 大久保家。

 そしてこの男。

 香りがまた一つの糸を結んだ。

 ◇

 評定の間に入る前、新之介は戸田へ囁いた。

「水野監物にご用心ください」

「理由は」

「白檀です」

 戸田の目がわずかに動いた。

「それだけか」

「それだけです」

「十分だ」

 戸田は小さく頷いた。

 評定の間には、すでに数名の重職が座していた。

 空気は重い。

 借財整理。

 旗本救済。

 札差への規制。

 それは江戸の武士社会の根を揺るがす議題である。

 戸田が座る。

 新之介は末席近くに控えた。

 本来なら許されぬ場所である。

 だが誰も今は咎めなかった。

 評定が始まった。

 言葉は丁寧である。

 だが内容は鋭い。

 旗本の借財をどう処理するか。

 札差の利をどこまで抑えるか。

 家禄の少ない御家人をどう救うか。

 そして、家の面目を守りながら、腐った金の流れを断てるのか。

 戸田は静かに語った。

「武士は刀だけでは立てぬ。家があり、米があり、役があり、民がある。借財に縛られた武士は、いずれ役目を売る」

 その言葉に、数名が顔を伏せた。

 水野監物は表情を変えない。

 だが指先だけが膝の上でわずかに動いていた。

 新之介はそれを見逃さなかった。

 次の瞬間、天井裏で微かな音がした。

 鼠ではない。

 人の気配。

 新之介は立ち上がった。

「上だ!」

 天井板が外れた。

 短い刃を持った男が落ちてくる。

 狙いは戸田。

 新之介は間に飛び込んだ。

 刃が肩を裂く。

 だが止まらない。

 新之介は男の腕を掴み、畳へ叩きつけた。

 隠れていた侍たちが取り押さえる。

 評定の間は騒然となった。

 戸田は立ち上がり、水野を見た。

「監物」

「何でございましょう」

「城内の天井裏まで、浪人が勝手に入れると思うか」

 水野は答えなかった。

 その沈黙が、すべてを語っていた。

 新之介は刀に手をかけた。

 だが水野は笑った。

「戸田様、これで終わりと思われるか」

「何」

「借財は血脈でございます。一本斬れば、十本が絡む」

 水野はゆっくり立ち上がった。

「この評定、すでに外へ漏れております。札差どもも、旗本どもも、皆怯えております」

「そなたが流したか」

「私は流れを整えただけ」

 新之介は一歩前へ出た。

「水野監物、御用改めに従っていただく」

 水野は新之介を見て、薄く笑った。

「榊原新之介。若いな」

「若くとも、逃げはしません」

「ならば見届けるがよい」

 水野は懐から小さな紙包みを出した。

 毒か。

 新之介が動くより早く、水野はそれを口に含もうとした。

 その瞬間、戸田が扇を投げた。

 扇が水野の手を打つ。

 紙包みが畳へ落ちた。

 新之介が水野を押さえ込む。

「死なせるな!」

 戸田の声が響いた。

「この男には、生きて話してもらう」

 水野は初めて顔色を変えた。

 死んで逃げることすら許されぬ。

 それが、戸田の裁きだった。

 ◇

 評定は中断された。

 水野監物は密かに拘束され、城内の別室へ移された。

 だが騒ぎを表へ出せば、幕府そのものの威信が揺らぐ。

 処理は慎重を要した。

 新之介は廊下に座り、傷の手当てを受けていた。

 肩の傷はまた開いた。

 血が止まりにくい。

 しかし命に関わるものではない。

 戸田がやってきた。

「よく動いた」

「恐れ入ります」

「だが、まだ終わらぬ」

「はい」

「水野の背後には札差だけではない。旗本の名もある。大名家の名もある」

 戸田は声を低くした。

「そして、おそらく勘定方にも」

 新之介は顔を上げた。

 勘定方。

 自分の属する役所。

 榊原家が代々仕える場所。

 そこにも闇がある。

「榊原新之介」

「はい」

「この先、身内を疑うことになる」

「承知しております」

「できるか」

 新之介は父の姿を思い出した。

 過去から逃げなかった父。

 鷹見塾で死んだ矢代。

 泣かずに立っていた志乃。

 そして、町を守ろうと水を運んだ魚河岸の若者たち。

「やらねばならぬなら、やります」

 戸田は頷いた。

「それが武士だ」

 その言葉は静かだったが、新之介の胸に深く残った。

 江戸城の外では、昼の光が堀を照らしている。

 泰平の世は、相変わらず美しく見えた。

 だがその下には、見えぬ腐りがある。

 新之介は刀の柄に手を置いた。

 斬るべきものは人だけではない。

 不正。

 怯え。

 家を守るという名の卑怯。

 役目を盾にした逃げ。

 そうしたものもまた、斬らねばならぬ。

 その刃が己に向く日が来るとしても。

(第十一章へ続く)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次