第五章 役目の重さ
寛永寺裏での一戦から一夜明けた。
夜露を含んだ庭石が朝日に光る。
榊原家の中庭では、いつものように黒川玄斎が木刀を手に立っていた。
だが、その前に立つ新之介の左肩には白い布が巻かれている。
矢代左馬之助との斬り結びで負った傷であった。
「構えろ」
玄斎が短く言った。
「傷が」
「傷は腕にはついておらぬ」
新之介は苦笑しながら木刀を構えた。
老人は一歩踏み込む。
打ち込みは鋭い。
新之介は受ける。
肩が痛む。
そのわずかな迷いを見逃さず、玄斎の木刀が胸を叩いた。
「甘い」
鈍い音が庭に響く。
「痛みを避ける心が動きを鈍らせる。」
「……はい」
「だが、痛みを忘れる者もまた長生きはせぬ。」
玄斎は木刀を下ろした。
「武士は傷を誇るものではない。」
「では何を。」
「傷を負ってなお役目を果たすことを誇る。」
新之介は黙って頭を下げた。
その言葉は、昨夜の敗北を責めるものではなかった。
生き残った者に向けられた教えだった。
◇
朝餉の後、父・忠左衛門は新之介を書院へ呼んだ。
障子の向こうでは庭師が松を刈り込んでいる。
規則正しい鋏の音が静かな座敷へ流れてきた。
「昨夜も屋敷を空けたな。」
「はい。」
「理由は聞かぬ。」
忠左衛門は茶碗を置いた。
「だが一つだけ申しておく。」
新之介は父を見た。
「武士には二つの顔がある。」
「二つ。」
「家の者としての顔と、幕府に仕える者としての顔だ。」
父は静かに続けた。
「どちらか一方だけを守ろうとすれば、必ずもう一方を失う。」
「……。」
「お前はいま、その境目に立っておる。」
忠左衛門は息子の目をまっすぐ見据えた。
「迷うことは恥ではない。」
「はい。」
「だが、迷ったまま刀を抜くことだけは許されぬ。」
その言葉は重かった。
新之介は深く一礼した。
◇
その日の昼過ぎ、新之介は南町奉行所を訪れた。
庄司源太郎は一睡もしていないらしく、目の下に薄い隈をつくっていた。
「榊原様、お待ちしておりました。」
「進展は。」
源太郎は一枚の紙を広げた。
江戸の町絵図である。
「昨夜捕えた者どもを調べましたが、口は割りません。」
「素性は。」
「浪人ばかりです。しかし、不思議なことがあります。」
源太郎は絵図に印を付けた。
「誠心組と思われる者の目撃場所を並べると、このようになります。」
印は、日本橋、本所、深川、浅草、上野と点在していた。
新之介はしばらく眺めた。
「何か見えるか。」
「……見えません。」
「私も初めはそうでした。」
源太郎は別の紙を重ねた。
そこには江戸城と主要街道が記されている。
「ほう。」
新之介は息を呑んだ。
点が一本の線になった。
それは、江戸城へ向かう登城路を囲むように並んでいた。
「登城の日だけではない。」
新之介が呟く。
「逃げ道まで考えている。」
源太郎は頷く。
「しかも、町人の多い場所ばかりです。」
「騒ぎを起こせば、追手は思うように動けぬ。」
矢代は、ただ剣の立つ男ではない。
町の構造まで読んでいる。
「参ったな。」
源太郎が小さく笑う。
「敵ながら大したものです。」
「感心している場合ではない。」
「ええ。」
二人は顔を見合わせた。
残された日は四日。
時間は刻一刻と失われていた。
◇
奉行所を辞した新之介は、日本橋へ向かった。
魚河岸は昼の盛りである。
威勢のよい掛け声。
桶を担ぐ若者。
干物を並べる商人。
武士とは違う活気が町を満たしていた。
新之介は橋のたもとで立ち止まる。
ここを歩く者たちは、幕府の政争など知らない。
ただ今日を生きるために働いている。
その暮らしを守ることも、武士の役目ではないか。
玄斎の言葉が浮かぶ。
――己を律する者が武士だ。
父の言葉も浮かぶ。
――家とは責任だ。
そして矢代の問い。
――お前の武士道とは何だ。
三つの言葉は互いに違うようでいて、どこか一つに繋がっている気がした。
「榊原様。」
声がした。
振り返ると、古着屋・伊勢屋の主人が立っていた。
「お前か。」
店主は周囲を見回し、声を潜めた。
「昨夜のことは申し訳ございません。」
「何だ。」
「命が惜しゅうございました。」
「分かっている。」
店主は懐から小さな包みを差し出した。
「これを。」
「何だ。」
「蔵を借りていた浪人が置き忘れたものです。」
中には古びた根付が入っていた。
木彫りの小さな鷹。
裏には細かな文字が刻まれている。
「巳の刻 柳原土手」
新之介の目が鋭くなった。
「柳原土手。」
「私は何も存じません。」
「誰にも話しておりませぬ。」
店主は深く頭を下げ、足早に人混みへ消えた。
◇
その夕刻。
新之介は玄斎と源太郎に根付を見せた。
「罠でしょうか。」
源太郎が言う。
「そのつもりで参ればよい。」
玄斎は平然としている。
「柳原土手は人通りが少ない。」
新之介は江戸図を広げた。
「神田川沿い。橋も近い。」
「逃げ道はいくらでもあります。」
源太郎が頷く。
「では。」
新之介は決断した。
「今夜、三人だけで行く。」
「奉行所は。」
「まだ動かさぬ。」
証拠が足りない。
いま大勢を動かせば、矢代は姿をくらますだろう。
玄斎が静かに笑った。
「少しは考えるようになった。」
「先生のおかげです。」
「いや。」
老人は首を振る。
「失敗のおかげだ。」
その言葉に三人は小さく笑った。
しかし、その笑みは長く続かなかった。
柳原土手で待つものが、敵か味方か。
それは誰にも分からない。
◇
夜。
月は薄雲に隠れ、川面だけが淡く光っていた。
三人は柳原土手へ着いた。
風が草を揺らす。
人影はない。
「早かったか。」
源太郎が呟く。
その時だった。
土手の向こうから、小さな灯が一つ近づいてきた。
提灯である。
持っているのは僧衣をまとった老人だった。
白い眉を蓄え、歩みはゆっくりとしている。
「榊原新之介殿。」
僧は静かに名を呼んだ。
「私をご存じか。」
「志乃殿から頼まれました。」
新之介の表情が変わる。
「志乃殿は無事なのか。」
「命はあります。」
「どこに。」
僧は答えず、一通の文を差し出した。
「これを。」
新之介が受け取ろうとした、その瞬間。
玄斎の声が飛んだ。
「伏せろ!」
闇を裂いて矢が飛んだ。
提灯が砕け、火が消える。
夜は一瞬で漆黒に包まれた。
川風の中、どこからともなく笛の音が響く。
それは誠心組が仲間へ送る合図だった。
新之介は文を握り締め、刀の柄へ手をかける。
闇の向こうで、複数の足音がゆっくりと近づいてきた。
(第六章へ続く)

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