上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第四十四章

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第四十四章 火薬蔵の炎

 火矢は、火薬蔵の屋根へ深く突き刺さっていた。

 矢尻には油を含ませた布が巻かれている。

 炎はまだ掌ほどだったが、乾いた板へ舌を伸ばし始めていた。

「梯子を!」

 新之介が叫ぶ。

「井戸から水を運べ!」

 役宅の者たちは、一瞬動かなかった。

 門前にいた者たちも同じだった。

 つい先ほどまで、互いに刀を向け合っていた。

 どちらの命を聞くべきか分からない。

 役人か。

 鷹見静山の門人を名乗る者か。

 それとも、帳面へ異国船の手引きをしたと書かれた新之介か。

「何をしている!」

 水野隼人正が怒鳴った。

「火薬蔵だ! 燃えれば、ここにいる全員が死ぬ!」

 その言葉で、ようやく人々が動いた。

 役宅の小者が梯子を運ぶ。

 門前にいた浪人が井戸へ走る。

 町人が桶を探す。

 海防掛の役人と、彼らを討とうとしていた元門人が同じ綱を引いた。

「新之介!」

 水野が屋根を見上げる。

「上がるな!」

「では誰が上がる!」

「火消しを待て!」

「待つ時間がない!」

「屋根の下は火薬だぞ!」

「分かっています!」

 新之介は梯子へ足をかけた。

 背後で高梨勘兵衛が止めようとする。

「榊原殿、縄を!」

「何のためだ」

「落ちた時に引く!」

「燃えた時は」

「その前に引く!」

 高梨は荒縄を新之介の腰へ結んだ。

 新之介は屋根へ上がる。

 瓦ではない。

 火薬蔵は、万一の際に屋根を吹き飛ばして爆風を逃がすため、軽い板葺きになっている。

 その分、火には弱い。

 新之介が一歩進むたび、板が軋んだ。

「水!」

 下から桶が渡される。

 新之介は火矢へ水を浴びせた。

 白い煙。

 炎が一瞬小さくなる。

 だが消えない。

 油が板の隙間へ流れ込み、内側で燃えている。

「屋根の下へ回っています!」

 高梨が叫ぶ。

「板を剥がす!」

「火薬へ火の粉が落ちる!」

「このままでも落ちる!」

 新之介は刀を抜いた。

 刀の切っ先を板の継ぎ目へ入れ、梃子のように持ち上げる。

 火が隙間から噴き出した。

「榊原!」

 水野の声。

「下りろ!」

「今下りれば燃え広がる!」

「そなたが焼ける!」

「役目だけでは人を失うのでしょう!」

「今は役目の話をしておらぬ!」

「では、人として水をください!」

 次の桶が上がる。

 新之介は燃えている板を剥がし、水をかけた。

 その時、屋根の内側から黒煙が上がった。

 火薬ではない。

 火薬樽を包む藁が燃え始めている。

「蔵の中へ入る!」

 高梨が戸へ向かう。

 水野が腕を掴んだ。

「開ければ風が入る!」

「中の藁を出さなければ!」

「火薬樽もある!」

 二人が言い争う。

 そこへ、門前にいた白布の浪人が一人進み出た。

「裏に小窓がある」

「なぜ知っている」

 高梨が睨む。

「以前、火薬を運んだ」

「海防掛の者か」

「元はな」

「名は」

「矢倉勘蔵」

 浪人は腕へ巻いていた白布を外した。

「鷹見先生の門へ入ったことはない。今夜、声を聞き、集まっただけだ」

「なぜ従った」

「水野殿が鷹見先生を殺したと聞いた」

 水野の顔が固くなる。

「半分は真だ」

「認めるのか」

「今は火を消す」

 水野は矢倉を見た。

「裏窓から入れるか」

「人一人なら」

「火薬の位置は」

「十五年前と同じなら、奥に樽。手前に弾薬。壁際に消火砂」

「砂があるのか」

「火薬蔵には水より砂を置く」

 水野は高梨へ命じた。

「矢倉と裏へ回れ」

「この者を信用するのですか」

「信用しておらぬ」

「では」

「場所を知る者が必要だ」

 矢倉が苦く笑った。

「変わらぬな、海防掛は」

「何がだ」

「疑いながら使う」

「そなたも同じだろう」

「ああ」

 二人は裏へ走った。

 ◇

 新之介は屋根の上から、黒布の男を探した。

 先ほどまで門前の中央にいた。

 鷹見静山の声を使い、人々を煽った男。

 もう姿がない。

「黒布の男はどこだ!」

 新之介が叫ぶ。

 門前の群衆が互いの顔を見る。

「裏へ逃げた!」

 誰かが指さした。

 役宅の塀沿い。

 黒い影が一つ走っている。

「追え!」

 海防掛の兵が動く。

 だが新之介は叫び直した。

「二人だけだ! 残りは火を消せ!」

 全員が追えば、火薬蔵へ運ぶ水が止まる。

 黒布の男は逃がしたくない。

 しかし、今は目の前の火が先である。

 選びながら、捨てない。

 追う者を残し、消す者も残す。

 言葉にすれば簡単だが、動く人数を決める一瞬にも責がある。

 門前にいた若い浪人が二人、黒布の男を追った。

 海防掛の同心も二人続く。

「誰の命を聞いている!」

 水野が叫ぶ。

 浪人の一人が振り返った。

「目の前を見て決めた!」

 水野は何も言えなかった。

 ◇

 蔵の裏から木の割れる音がした。

 高梨と矢倉が小窓を壊している。

「開いた!」

「砂袋を寄越せ!」

 役人たちが倉庫から砂を運ぶ。

 小窓の中へ次々と押し込む。

 矢倉が身体を半分入れた。

「藁が燃えている!」

「樽は」

「まだだ!」

「砂をかけろ!」

「狭くて届かぬ!」

 新之介は屋根へ刀を突き立て、板をもう一枚剥がした。

 内側の様子が見える。

 火薬樽が十数個。

 樽と樽の間に、燃えた藁。

 火は一番手前の樽へ近づいている。

「そこだ!」

 新之介は砂袋を受け取る。

 口を切り、屋根の穴から砂を流し込む。

 だが穴が小さい。

 砂は梁へ当たり、火の手前へしか落ちない。

「屋根をもう少し開ける!」

「梁が落ちるぞ!」

 水野が止める。

「落とす!」

「何」

「梁ごと火の上へ!」

 燃えていない屋根板を剥がし、火の周囲へ落とせば、砂を溜める壁になる。

「そんなやり方が」

「辰蔵なら、燃える家の隣を壊す!」

「ここは火薬蔵だ!」

「同じです!」

「違う!」

「燃え広がる前に壊すのは同じだ!」

 新之介は梁の継ぎ目へ刀を入れた。

 高梨が下から怒鳴る。

「待ってください! その梁は樽を押さえています!」

「外せば樽が動くか」

「斜めになります!」

「どちらへ」

「奥です!」

 奥へ転がるなら、火から離れる。

「切る!」

「本当に分かっていますか!」

「分かっていない!」

「ならば!」

「今あるものを見て決める!」

 刀を振り下ろす。

 一度。

 二度。

 梁へ刃が食い込む。

 新之介の肩の傷が開いた。

 布の下から血が流れる。

「傷人は下りろ!」

 水野が叫ぶ。

「皆、同じことを申す!」

 梁をもう一度打つ。

 木が折れた。

 屋根の一部が蔵内へ落ちる。

 火薬樽が音を立て、奥へ転がった。

 一つ。

 二つ。

 燃えた藁から離れる。

 同時に、落ちた屋根板が砂をせき止めた。

「今だ!」

 砂袋が次々と上がる。

 新之介は穴へ流す。

 高梨と矢倉も小窓から砂を投げる。

 白い煙が上がる。

 赤い火が砂の下へ隠れる。

「まだだ!」

 矢倉の声。

「奥に火が残っている!」

 新之介は屋根の穴から身を乗り出した。

 小さな炎。

 火薬樽の縄へ移っている。

「届かぬ」

 刀では遠い。

 砂袋を投げても、梁へ当たる。

 その時、門前から一本の槍が差し出された。

 白布を巻いた老浪人。

「使え!」

 新之介は槍を受け取った。

 穂先へ濡れた布を巻く。

「水を!」

 濡らした槍を屋根の穴へ入れる。

 炎のついた縄へ押しつける。

 一度では消えない。

 二度。

 三度。

 煙。

 炎が消えた。

「砂を!」

 最後の砂袋を投げ込む。

 火薬樽の周囲が覆われる。

 誰も声を出さなかった。

 ただ黒煙だけが、屋根の穴から夜空へ上がっている。

「消えたか」

 水野が問う。

 矢倉が小窓から中を覗く。

「まだ待て」

「火は」

「見えない」

「熱は」

「残っている」

「では砂を続けろ」

「もう袋がない」

 門前の町人が言った。

「庭の土を使え!」

 役宅の庭が掘られた。

 植木の根元。

 白砂。

 池の泥。

 使えるものは何でも桶へ入れ、蔵へ運ぶ。

 庭の形が崩れていく。

 水野が手入れしていたという松の根も、半分ほど露出した。

 小者が躊躇する。

「松が枯れます」

「掘れ」

 水野が命じた。

「ですが、水野様が毎朝」

「人より木を先にするな」

 小者は頭を下げ、土を掘った。

 ◇

 半刻後。

 高梨と矢倉が蔵へ入り、火の残りがないことを確かめた。

 火薬樽の一つは焦げていた。

 縄も黒くなっている。

 あとわずか遅ければ、爆ぜていたかもしれない。

「下りてこい」

 水野が屋根の下から言った。

「もう少し確認を」

「下りろ」

「命ですか」

「人としてだ」

 新之介は梯子へ足をかけた。

 肩からの血で手が滑る。

 高梨が下から支えた。

 地面へ降りた瞬間、膝が崩れる。

「榊原!」

 水野と高梨が両側から腕を掴んだ。

「立てます」

「傷人は皆、同じことを申す」

 水野が言った。

「いつ覚えたのです」

「何度も聞いた」

「離してください」

「座れ」

「黒布の男が」

「追手を出した」

「逃げます」

「そなたが追えば血が止まるのか」

「止まりません」

「ならば座れ」

 新之介は庭石へ腰を下ろした。

 若い僧が傷を見ようとする。

「浅いです」

「口を出すな」

「傷人は」

「分かりました」

 僧が布を解く。

 刃傷は深くない。

 だが屋根で刀を振ったため、傷口が大きく開いていた。

「縫います」

「ここで」

「嫌なら寺へ運びます」

「ここでお願いします」

「素直ですね」

「皆に言われます」

 ◇

 門前には、まだ白布を巻いた者たちが残っていた。

 刀を捨てた者。

 火消しに加わった者。

 今も何を信じればよいか分からず、立ち尽くす者。

 水野が彼らの前へ出た。

「名を記す」

 その一言で、何人かが身構えた。

「捕えるのか!」

「今夜、何を聞き、なぜ来たかを確かめる」

「水野が鷹見先生を殺した!」

 若い男が叫ぶ。

「私が捕縛を求めた」

 水野は否定しなかった。

「違法な詮議へつながった責もある」

「ならば討たれて当然だ!」

「そう考える者がいることも分かる」

「では刀を取れ!」

「今、そなたと斬り合えば、鷹見の問いへ答えたことになるのか」

 男が黙った。

「私は裁きを受ける」

「役人同士の裁きか」

「それだけにしないため、書付を残した」

「信じられるか!」

「信じるな」

 水野は言った。

「見ろ」

「何を」

「私が逃げるか。調べを止めるか。自分の名を帳面から消すか」

「その間に証が消される」

「だから一人へ預けていない」

 新之介は庭石に座ったまま、水野の背を見る。

 この男が真に責を負うかは分からない。

 今の言葉も、自分を守るためかもしれない。

 だが少なくとも、群衆へ嘘の謝罪をして解散させようとはしていない。

「鷹見先生の声は」

 老浪人が問う。

「偽物なのか」

「私が聞いた鷹見静山は、迷うなとは言わなかった」

「本当に先生の声を知るのか」

「詮議場で聞いた」

「苦しめながらか」

「ああ」

「そなたの言葉を、どう信じろと」

「信じなくてよい」

 水野は同じ答えを繰り返した。

「黒川玄斎と榊兵庫が、声の仕掛けを調べている。戻れば、二人にも聞け」

「二人まで買われていたら」

「その時は、さらに別の者へ聞け」

「きりがない」

「だから一人の声だけで刀を抜くな」

 老浪人は腕の白布を外した。

 地面へ置く。

 一人。

 また一人。

 すべてではない。

 白布を巻いたままの者もいる。

 だが刀を納める者は増えていった。

 ◇

 黒布の男を追った者たちが戻った。

 海防掛の同心一人は腕を斬られている。

 浪人の一人は額に泥。

「逃げられました」

「どちらへ」

 高梨が問う。

「川です。小舟が待っていました」

「船頭は」

「女です」

「顔は」

「布で隠していました」

 鈴の音を聞いた者はいない。

 お澄か。

 別の女か。

「残した物は」

 浪人が黒い布を差し出す。

 声を出していた男の顔を覆っていた布。

 内側に、薄い木の板が縫いつけられている。

「何だ」

 水野が受け取る。

 板は口元を囲む形。

 中央に小さな筒。

 兵庫が見た伝声の管と同じ仕掛けかもしれない。

「声を変える道具か」

 高梨が問う。

「喉の音を響かせるのだろう」

 新之介が言う。

「これだけで死者の声に」

「似た声の者が使えば」

 浪人が続けた。

「男は逃げる時、普通の声を出しました」

「どのような」

「若い声です」

「顔は」

「一瞬だけ見ました」

「知っている者か」

「いいえ。ただ」

「何だ」

「左の耳がありませんでした」

 兵庫の門人か。

 海防掛の者か。

 長崎の船員か。

 まだ分からない。

「この男は火矢を放ったのか」

「違います」

「では誰が」

「屋根です」

 浪人は役宅の向かいにある米問屋の屋根を指した。

「あそこから別の者が」

「二人いた」

 新之介が言う。

「声で人を集める者と、全員を焼く者」

「宗山の命でしょうか」

 高梨が問う。

「決めつけるな」

 水野が答えた。

「宗山は何をしている」

「まだ知らせがありません」

 ◇

 夜が明ける少し前、谷中から使いが到着した。

 南町奉行所の同心。

 息を切らし、泥にまみれている。

「長泉寺にて、鷹見宗山を捕縛――」

 新之介が立ち上がろうとする。

 傷を縫っていた僧が肩を押さえた。

「動かないでください」

「捕えたのか」

 使いは首を振った。

「捕縛寸前、墓地の地下道へ逃走しました」

「お澄殿は」

「宗山を追いました」

「玄斎先生たちは」

「地下道へ」

「何人で」

「黒川玄斎殿、榊兵庫殿、真崎半九郎殿、庄司源太郎殿、お志津殿」

「源太郎は脚を痛めている」

「止めましたが」

「同じことを申したか」

「自分で歩けると」

「やはり」

 水野が使いへ問う。

「地下道はどこへ続く」

「寺の記録では、谷中から上野の山へ」

「出口は」

「三つあると」

「一つは」

「不忍池」

「二つ目」

「寛永寺裏」

「三つ目は記録にございません」

 新之介は傷を押さえ、立った。

 僧が怒る。

「まだ縫い終わっていません!」

「先生たちが」

「そなたは動くな」

 水野が命じた。

「またですか」

「続帳へ名がある」

「今夜のことで、逃亡ではないと」

「今夜のことで、さらに動けば旗にされる」

「先生たちが地下へ入った!」

「人を出す」

「誰を」

「高梨」

「役宅の守りは」

「矢倉勘蔵を使う」

 門前の浪人が顔を上げた。

「私をか」

「火薬蔵を知っていた」

「元海防掛だからだ」

「今も腕は鈍っていない」

「疑っているのだろう」

「ああ」

「それでも任せるか」

「私もここに残る」

 水野は高梨へ向いた。

「兵を十人。町方からも五人。戸田家へ知らせ、別の出口へ回らせろ」

「新之介様は」

 使いが問う。

「ここに残す」

「残りません」

 新之介が言う。

「何」

「私は地下へは行かない」

「では」

「不忍池の出口で待つ」

「役宅から出ることに変わりはない」

「四者の見張りを連れていく」

「傷は」

「縫いながら運んでください」

 若い僧が呆れた顔をする。

「無理です」

「では歩きながら」

「もっと無理です」

 水野が新之介を見た。

「なぜそこまで」

「先生は十五年前、無音寺へ行かなかった」

「知っている」

「今度は地下へ入った」

「だから」

「戻る出口が必要です」

「兵を置く」

「兵だけでは、先生は敵と思うかもしれない」

「そなたなら信じると」

「問いを投げながら出てきます」

「面倒な師だな」

「はい」

「そなたもだ」

「よく言われます」

 水野はしばらく考えた。

「駕籠で行け」

「歩けます」

「傷人は」

「分かりました」

「素直だな」

「皆に言われます」

 ◇

 不忍池へ向かう支度が始まった。

 役宅の庭には、火薬蔵を救った者たちが残っている。

 役人。

 浪人。

 町人。

 互いの名も知らぬ者たち。

 鷹見静山の偽の声へ集まり、今は本物の火を消した。

 老浪人が新之介へ槍を返してほしいと申し出た。

「助かった」

 新之介が槍を渡す。

「私は、そなたを討つために来た」

「知っている」

「それでも槍を使った」

「火を消すためだ」

「私が後ろから刺すとは」

「思った」

「ではなぜ」

「刺す前に、火薬蔵が爆ぜる」

 老浪人は苦く笑った。

「理に合わぬ男だと聞いたが、存外、理で動く」

「そう見えますか」

「ただし、理が長い」

「先生のせいです」

「鷹見先生か」

「黒川玄斎です」

 老浪人は少し考えた。

「黒川殿へ会えるか」

「戻れば」

「問いがある」

「何を」

「十五年前、なぜ来なかったか」

「本人も同じ問いを持っています」

「答えは」

「まだ分かりません」

「便利な言葉だな」

「腹が立つでしょう」

「ああ」

「皆そう申します」

 ◇

 新之介は駕籠へ乗る前に、火薬蔵を振り返った。

 屋根は大きく剥がれ、庭は掘り返されている。

 水野の松は根を露出していた。

 美しく整えられていた役宅は、見る影もない。

 だが誰も死ななかった。

 形を守るために人を失うより、形を壊して人を残す。

 それだけで全てが正しくなるわけではない。

 壊した庭を直す者も必要だ。

 使った砂を戻す者。

 濡れた火薬を処分する者。

 腕を斬られた同心を治す者。

 偽の声を信じて刀を抜いた者の話を聞く者。

 火を消した後にこそ、長い仕事が残る。

「出ます」

 駕籠かきが声をかけた。

 新之介は頷いた。

 水野は駕籠の横を歩く。

「水野様も来るのですか」

「私を討つ者が、地下から出てくるかもしれぬ」

「危険です」

「そなたに言われたくない」

「役宅へ残れば」

「そなた一人を外へ出したと疑われる」

「見張りですか」

「半分は」

「残りは」

「鷹見宗山へ聞く」

「何を」

「兄の声を使い、何を守ろうとしたのか」

「答えを聞けると思いますか」

「聞くことと、答えることは別だ」

「先生のようなことを」

「腹が立つか」

「少し」

 駕籠が夜明け前の江戸を進む。

 空がわずかに白み始めている。

 不忍池の水面には、まだ朝の光はない。

 地下道から誰が現れるかも分からない。

 玄斎たちか。

 宗山か。

 鈴を持つお澄か。

 あるいは、死者の声を作った別の者か。

 その時、先を走っていた高梨が馬を止めた。

「水野様!」

「何だ」

「不忍池の弁天堂から煙が!」

 新之介は駕籠の戸を開けた。

 池の向こう。

 夜明け前の暗がりに、細い煙が上がっている。

 火ではない。

 白い煙。

 岩瀬の瀬で、鉄箱から漏れたものと同じ色だった。

「毒煙か」

 水野の顔が変わる。

「なぜここに」

 第三冊の箱は盤洲で確保された。

 煙の箱は岩瀬の瀬へ沈めたまま。

 だが同じ仕掛けが、弁天堂の地下に置かれている。

 宗山は帳面だけでなく、異国の薬まで手にしていたのか。

 高梨が池へ向かおうとする。

「待て!」

 水野が止めた。

「風下へ入るな!」

 煙は池の水面を這い、岸へ広がり始めている。

 そして弁天堂の方角から、四度の鐘の音が響いた。

 一度。

 二度。

 三度。

 四度。

 引き上げを求める合図。

 地下にいる誰かが、助けを求めている。

 新之介は駕籠から降りた。

 縫いかけの肩から、再び血が流れた。

 だが今度は、誰も「立てるか」とは問わなかった。

 全員が同じ白い煙を見ていた。

(第四十五章へ続く)

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