上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第九十九章

目次

第九十九章 死んだ名

 一番船。

 朝。

 新之介が。

 甲板へ上がると。

 竹吉が。

 待っていた。

 その隣。

 一人の男。

 四十を。

 少し越えている。

 身体は大きい。

 役名。

 大名。

 だが。

 着ているものは。

 粗末な。

 異国風の仕事着。

 腰に。

 刀はない。

「この方です」

 竹吉が言った。

「二十八人の」

「最後?」

「最後まで」

「意思を話さなかった人です」

 男が。

 新之介を見る。

「榊原新之介殿?」

「今は」

「そう名乗っています」

「よかった」

「何が」

「『本物です』と」

「言われたら」

「帰ろうと思わなかった」

 新之介が。

 少し笑った。

「では」

「話せますか」

「はい」

 ◇

「今の呼び名は」

「ありません」

「役名は」

「大名」

「それは」

「使いたくない?」

「二度と」

「では」

「何と」

「呼べば」

 男は。

 海を見る。

「おい」

「何」

「それで」

「『おい』?」

「名前を」

「呼ばれなければ」

「何でもいい」

「では」

 新之介は。

 少し考える。

「そなた」

「それなら」

「我慢します」

「我慢?」

「武家に」

「『そなた』と呼ばれるのも」

「好きではない」

「すみません」

「謝らなくていい」

 ◇

「では」

 新之介が問う。

「日本へ」

「戻りたいですか」

 男は。

 すぐ答えた。

「戻りたい」

「役なしで?」

「はい」

「今のところ」

「大名役を」

「降りる?」

「はい」

「どこへ」

「戻りたい」

「江戸」

「家族が?」

「いた」

「今も?」

「分からない」

「連絡は」

「二十一年」

「ない」

 ◇

「では」

 新之介が。

 少し間を置く。

「なぜ」

「名前を」

「呼ばれると」

「戻れなくなる」

 男の顔から。

 表情が消える。

「私の名前は」

「死んだからです」

「そなたではなく」

「名前が?」

「はい」

「処刑済み?」

「はい」

「何年前」

「二十二年前」

「そなたが」

「国外へ出る前?」

「一年前」

「では」

「処刑された時」

「そなたは」

「日本にいた?」

「いました」

 竹吉が。

 男を見る。

 初めて聞く話らしい。

 ◇

「処刑されたのは」

「誰です」

 新之介が問う。

「分からない」

「何」

「私ではない」

「それだけは」

「分かる」

「では」

「別の人が」

「そなたの名で」

「処刑された?」

「はい」

「なぜ」

 男は。

 両手を。

 強く握る。

「私が」

「逃げたからです」

 ◇

 風。

 帆。

 異国語。

 遠い。

 その間。

 男の声だけが。

 低く。

 残る。

「私の」

「生まれた名は」

 一度。

 口が止まる。

 だが。

 言わない。

「まだ」

「言えない」

「分かりました」

「聞かない?」

「今は」

「はい」

「では」

「話せることだけ」

「話します」

 ◇

「二十二年前」

「私は」

「十九でした」

「江戸?」

「はい」

「父は」

「小間物商」

「私は」

「店を継ぐはずだった」

「何をした」

「人を」

「刺しました」

 新之介の目が。

 僅かに動く。

「誰」

「武士」

「死んだ?」

「はい」

「なぜ」

「妹を」

「連れて行こうとした」

「誰が」

「その武士?」

「はい」

「何のため」

「分からなかった」

「当時は」

「ただ」

「さらわれると」

「思った」

「後で」

「何が」

「妹は」

「声を」

「買われていた」

 ◇

「声?」

「代替?」

「はい」

「誰の」

「分からない」

「妹は」

「十四」

「声が」

「ある女に」

「よく似ていた」

「それで」

「連れて行かれるところを」

「そなたが」

「止めた」

「はい」

「武士を」

「刺した」

「はい」

「必要だった?」

「分かりません」

「今でも?」

「はい」

「殺すつもりは」

「なかった」

「でも」

「刃物を持って」

「追いかけた」

「それは」

「私がした」

「はい」

 ◇

「その後」

「捕まった」

「はい」

「罪」

「武士殺し」

「それだけ?」

「違います」

「何が」

「放火」

「三人殺し」

「御用金盗み」

「全部」

「私になった」

「実際は」

「していない?」

「刺した一人以外は」

「していない」

「なぜ」

「他の罪まで」

「分からない」

「便利だったんでしょう」

「何が」

「一人」

「死刑にする者がいれば」

「他の未解決の罪を」

「一緒に終わらせられる」

 新之介は。

 何も言わない。

 ある。

 そういうことは。

 記録の上で。

 一人へ。

 全部。

 まとめる。

 ◇

「処刑は」

「いつ」

「捕まって」

「三月後」

「でも」

「そなたは」

「逃げた」

「はい」

「どうやって」

「そこは」

 男が。

 新之介を見る。

「細かく聞かない?」

「今」

「必要ありません」

「なぜ」

「逃げ方より」

「逃げた後に」

「誰が」

「そなたとして」

「死んだかが」

「大事です」

「……はい」

 ◇

「逃げた翌朝」

「私は」

「御影の者に」

「拾われた」

「なぜ」

「向こうは」

「私を知っていた」

「妹の件?」

「はい」

「妹は」

「どこへ」

 男の顔が。

 硬くなる。

「分かりません」

「それから」

「ずっと?」

「はい」

「探した?」

「二十一年」

「今も」

「はい」

 ◇

「御影は」

「そなたを」

「国外へ?」

「すぐではない」

「一年」

「江戸に」

「隠れた」

「その間」

「私の処刑が」

「行われた」

「どうして知った」

「役人の書き付け」

「町の噂」

「寺」

「全部」

「私の名」

「享年十九」

「罪状」

「打首」

「獄門」

「……」

「そして」

「私は」

「その日に」

「死んだことになった」

 ◇

「では」

 新之介が問う。

「処刑されたのは」

「誰」

「分からない」

「調べなかった?」

「調べた」

「分からなかった」

「顔は」

「刑場で」

「確認されなかった?」

「顔を」

「隠していたと」

「聞いた」

「なぜ」

「病で」

「顔が崩れていると」

「説明されたらしい」

 新之介の。

 肩の古傷が。

 僅かに疼く。

 沢渡。

 死の証明。

 顔。

 役。

「沢渡玄隆が」

「関係」

「分かりません」

 男が答える。

「名前は」

「一度」

「見た」

「どこ」

「死亡確認」

「医師」

「沢渡玄隆」

 ◇

「では」

 新之介が。

 竹吉を見る。

「日本側へ」

「戻ったら」

「城の沢渡殿へ」

「聞きます」

「はい」

「ただし」

 男が。

 急に。

 声を強くする。

「私の名を」

「言わないでください」

「なぜ」

「その名前を」

「城で」

「言えば」

「私は」

「生き返る」

「はい」

「同時に」

「処刑された誰かが」

「死ぬ場所を」

「失う」

 新之介が。

 男を見る。

 ◇

「どういう」

「私の名で」

「誰かが」

「死んだ」

「はい」

「もし」

「私が」

「『その名は私だ』と」

「戻れば」

「では」

「処刑された男は」

「誰になる?」

「不明」

「はい」

「墓は」

「私の名」

「寺の帳面も」

「私の名」

「刑場の記録も」

「全部」

「私」

「では」

「私は」

「生き返る代わりに」

「その男から」

「墓まで」

「奪う」

 ◇

 竹吉が。

 低く言う。

「だから」

「名前を」

「呼ばせない?」

「はい」

「でも」

 新之介が言う。

「そなたが」

「名を使わなくても」

「処刑された方の」

「本当の名が」

「戻るわけではない」

「分かっています」

「では」

「何を恐れている」

「私が」

「自分を取り戻した瞬間」

「その人を」

「二度目に消すことです」

 ◇

 新之介は。

 すぐに。

 答えなかった。

「そなた」

「はい」

「一つ」

「違うと思います」

 男が。

 顔を上げる。

「何が」

「そなたが」

「自分の名を」

「取り戻すことと」

「処刑された方の名を」

「探すこと」

「二つです」

「でも」

「同じ記録の上に」

「重なっている」

「だから」

「分けます」

「どうやって」

「そなたの生存」

「はい」

「処刑された人物」

「はい」

「処刑記録」

「はい」

「誰が」

「すり替えたか」

「はい」

「全部」

「別に」

「……」

「そなたが」

「生きていることで」

「その人が」

「消えるのではない」

「その人を」

「そなたの名前だけで」

「済ませた記録が」

「間違っていた」

「そこを」

「直す」

 ◇

「でも」

 男が言う。

「もし」

「処刑された人が」

「私の代わりに」

「死なされたなら」

「はい」

「私が」

「逃げたせい?」

「そこも」

「分けます」

「また」

「はい」

「そなたが」

「逃げた」

「その後」

「別人を」

「そなたとして」

「処刑した人がいる」

「はい」

「そなたが」

「その人へ」

「死ねと」

「命じた?」

「いいえ」

「では」

「逃げたことと」

「すり替えたことは」

「別の行いです」

「でも」

「私が逃げなければ」

「その人は」

「死ななかったかもしれない」

「かもしれない」

「はい」

「そこは」

「消しません」

「でも」

「だから全部」

「そなたの責任には」

「しません」

 ◇

 男は。

 長いこと。

 海を見ていた。

「それを」

「二十一年前」

「誰かに」

「言ってほしかった」

「はい」

「でも」

「今」

「聞いた」

「はい」

「遅い」

「はい」

「……」

「でも」

「聞いた」

 ◇

「では」

 新之介が問う。

「日本へ」

「戻る時」

「どうします」

「名を」

「使わない?」

「最初は」

「はい」

「それで」

「よいと思います」

「逃げでは」

「ない?」

「未定にすることと」

「捨てることは」

「違います」

「はい」

「そなたには」

「名がある」

「でも」

「今」

「使わない」

「それで」

「記録できます」

「名」

「非公開?」

「本人希望により」

「一時非公開」

「期間」

「期間?」

「永遠に」

「役所が」

「隠すのも」

「危ない」

 男が。

 少し考える。

「日本へ」

「上陸して」

「処刑記録の」

「見分が」

「始まるまで」

「分かりました」

 ◇

「その後」

「使うか」

「捨てるか」

「また」

「聞く?」

「はい」

「面倒だな」

「よく言われます」

「でも」

 男が。

 少し笑う。

「大名よりは」

「ましだ」

「大名役は」

「どうして」

「そなたへ」

「海外で」

「土地の管理を」

「していた」

「どこ」

「日本人の集落」

「人数」

「三百ほど」

「そのまとめ役を」

「誰かが」

「大名と呼んだ」

「海の新之助殿?」

「はい」

「本人は」

「冗談だったと」

「言った」

「でも」

「記録へ」

「入った」

「はい」

「それで」

「帰国役まで」

「大名」

「はい」

 新之介が。

 ため息をつく。

「冗談でも」

「役は残りますね」

「笑えません」

 ◇

「二十八人の」

「役は」

 竹吉が言う。

「これで」

「全員」

「改めて聞けることになります」

「はい」

「でも」

「聞いたから」

「終わりではない」

「はい」

「戻った後」

「変わる人も」

「います」

「はい」

「役を」

「やりたい人も」

「辞めたい人も」

「はい」

「帰国したくなくなる人も」

「はい」

「だから」

 新之介が。

「一度の答えを」

「永遠の答えにしない」

 ◇

 日本側へ。

 戻る。

 男は。

 その日は。

 船に残った。

 名前を。

 呼ばせないまま。

 新之介。

 竹吉。

 清太郎。

 家定。

 阿部。

 宗太。

 伊三郎。

 仮交渉会議。

「まず」

 新之介が言う。

「二十二年前」

「江戸で」

「処刑された人物の」

「見分」

「名は」

 阿部が問う。

「非公開」

「私たちにも?」

「本人が」

「今は」

「望んでいない」

「それで」

「調べられるか」

「日付」

「年齢」

「罪状」

「処刑場所」

「店」

「妹」

「それだけでも」

「絞れます」

「沢渡へ」

「聞く?」

「先に」

「聞きます」

「ただし」

「名前を」

「言わずに」

 ◇

 牢。

 城の沢渡玄隆。

「二十二年前」

 新之介が問う。

「江戸」

「十九歳」

「町人」

「武士一名殺害」

「さらに」

「放火」

「三人殺害」

「御用金盗み」

「まとめて」

「死罪」

 沢渡の目が。

 僅かに動く。

「覚えている?」

「ああ」

「医師として」

「死亡確認」

「した?」

「した」

「処刑されたのは」

「本人?」

 沢渡は。

 黙る。

「沢渡殿」

「本人ではない」

 ◇

 新之介は。

 声を変えない。

「誰です」

「知らぬ」

「知らない人を」

「本人として」

「死なせた?」

「私が」

「処刑したのではない」

「はい」

「では」

「何をした」

「本人確認書へ」

「印を押した」

「何を見て」

「顔」

「見ていない」

「なぜ」

「病で」

「包帯」

「声」

「聞いていない」

「なぜ」

「口が利けぬと」

「誰に」

「役人」

「名」

「覚えていない」

「では」

「何を確認した」

 沢渡は。

 長く。

 黙る。

「何も」

 ◇

「それでも」

「印を」

「押した」

「はい」

「なぜ」

「その者を」

「死んだことにすれば」

「一つ」

「終わると」

「言われた」

「誰に」

「御影」

「名前」

「宗太郎」

「本人?」

「分からぬ」

「何が終わる」

「五つの事件」

「一人の罪人へ」

「集めれば」

「町方は」

「未解決を」

「終わらせられる」

「はい」

「私は」

「その時」

「それが」

「町のためだと」

「思った」

 ◇

「処刑された人は」

「誰」

「本当に」

「知らぬ」

「囚人?」

「おそらく」

「罪人?」

「それも」

「知らぬ」

「名前」

「聞かなかった?」

「聞いた」

「何と」

「言った」

「自分の名は」

「違うと」

「何」

「本人は」

「違う名前を」

「言った?」

「はい」

「覚えている?」

 沢渡が。

 目を閉じる。

「覚えている」

「何」

 新之介は。

 一瞬。

 躊躇する。

「その名を」

「記録してよいですか」

 沢渡が。

 目を開く。

「本人は」

「死んでいる」

「だからこそ」

「そなたが」

「覚えている名を」

「勝手に」

「表へ出すか」

「考えたい」

「……」

「まず」

「私へ」

「非公開で」

「教えてください」

 ◇

 沢渡は。

 新之介だけを。

 近くへ呼ぶ。

 耳元。

 一つ。

 名前。

 新之介の顔が。

 変わる。

「本当に?」

「ああ」

「何度」

「聞いた」

「三度」

「『俺は』」

「『その男ではない』」

「『俺は――だ』」

「そう申した」

 新之介は。

 清太郎へ。

 紙。

 ただし。

 折る。

 ――処刑者。

 ――本人申告名あり。

 ――現時点非公開。

 ――沢渡玄隆証言。

 ◇

「もう一つ」

 沢渡が言う。

「何です」

「その男は」

「処刑の前夜」

「妹に」

「会わせろと」

「申した」

 新之介が止まる。

「妹?」

「はい」

「誰の」

「処刑された男の」

「つまり」

「その人にも」

「妹が」

「いた?」

「そうだ」

「名前」

「それも」

「覚えている」

「言ってください」

 沢渡が。

 今度は。

 普通の声で。

 一つの名を。

 言った。

 新之介の顔から。

 血の気が引く。

 ◇

「もう一度」

「何と」

 沢渡が。

 繰り返す。

 その名は。

 新之介が。

 何度も。

 聞いたことのある名だった。

「お久」

 宗太が。

 入口で。

 顔を上げた。

「お久?」

「久殿の母?」

 新之介が問う。

「分かりません」

「同じ名の人は」

「多い」

「でも」

「二十二年前」

「年齢は」

「妹は」

「十六ほど」

「なら」

「久殿の母としては」

「若すぎる?」

「時期によります」

 新之介が。

 すぐ止める。

「先に」

「同一人物と」

「しません」

 ◇

「処刑された男は」

 沢渡が言う。

「最後まで」

「その妹を」

「探していた」

「なぜ」

「自分が」

「死ねば」

「妹も」

「消されると思った」

「何から」

「役から」

「何」

 新之介が。

 顔を上げる。

「妹も」

「代替へ?」

「そう申した」

「誰の」

「知らぬ」

「男は」

「『あいつは』」

「『声だけで』」

「『人にされる』」

「そう言った」

 ◇

 新之介の中。

 二十二年前。

 二人の男。

 一人。

 妹を。

 声の代替へ。

 連れて行かれそうになり。

 武士を刺した。

 一人。

 別の場所で。

 その男の名を。

 着せられ。

 処刑され。

 自分の妹。

 お久を。

 心配していた。

 二人とも。

 妹を。

 守ろうとしていた。

 その二人を。

 一つの名前に。

 まとめた。

「沢渡殿」

「何だ」

「そなたは」

「その時」

「何も」

「感じなかった?」

 沢渡は。

 長く。

 答えない。

「感じた」

「何を」

「面倒だと」

 新之介の目が。

 硬くなる。

「二人の男が」

「それぞれ」

「妹を」

「探していた」

「はい」

「それを」

「面倒と?」

「はい」

「だから」

「一人へ」

「まとめた」

「はい」

「今は」

 沢渡が。

 顔を伏せる。

「面倒だったのは」

「人ではない」

「私だった」

 ◇

 新之介は。

 何も。

 慰めなかった。

「清太郎殿」

「はい」

「書いてください」

 ――二十二年前。

 ――逃亡者一名。

 ――処刑者一名。

 ――別人。

 ――双方に妹あり。

 ――双方とも妹が代替制度へ関与した可能性を示す。

 ――逃亡者の名は本人希望により一時非公開。

 ――処刑者の本人申告名も、遺族確認まで非公開。

「二つの名を」

 清太郎が言う。

「隠す?」

「はい」

「記録外に」

「しない?」

「はい」

「存在は」

「書く」

「はい」

「名だけ」

「今は」

「伏せる」

「はい」

 ◇

「それで」

 宗太が問う。

「妹を」

「探す?」

「はい」

「どちらの」

「両方」

「またか」

「はい」

「逃亡した方の妹」

「声を買われた十四歳」

「処刑された方の妹」

「お久」

「まず」

「同じ人か」

「別か」

「確認」

「はい」

 ◇

 その日の夕刻。

 再起館。

 久。

 新之介。

 新三郎。

 志乃。

 清太郎。

「お久」

 久が。

 その名を聞き。

 顔を上げる。

「母?」

「分かりません」

「二十二年前」

「十六ほど」

「それなら」

「母ではない」

「なぜ」

「母は」

「私を産んだ時」

「二十六」

「私の年から」

「合わない」

「では」

「別人?」

「可能性が高い」

「ただし」

 久が。

 少し考える。

「母には」

「妹がいた」

 新之介の目が。

 動く。

「名前」

「お久」

「母も」

「お久では?」

「母の名は」

「お久」

「妹も?」

「違う」

 久が。

 首を振る。

「母は」

「お久」

「妹は」

「久乃」

「では」

「処刑者が」

「妹を」

「お久と」

「呼んだのは」

「違う人かもしれない」

「でも」

「母が」

「若い頃」

「家を出た時」

「『お久』を」

「妹へ」

「使わせたことがある」

 ◇

「なぜ」

 志乃が問う。

「追っ手から」

「逃がすため」

「母が?」

「はい」

「では」

「名を」

「妹へ」

「預けた?」

「一時だけ」

「本人の同意は」

 久が。

 少し苦く笑う。

「そこは」

「知りません」

 新之介が。

 深く息を吐く。

 また。

 善意。

 安全。

 役。

 名。

「久殿」

「妹君は」

「今」

「生きていますか」

「分からない」

「母は」

「五年前」

「探していた」

「その理由も」

「自分の子だけでは」

「なかった?」

「おそらく」

 ◇

「久乃殿」

 新之介が。

 清太郎へ。

「別項目」

「はい」

 ――お久の妹。

 ――久乃。

 ――一時、お久名を使用した可能性。

 ――二十二年前の処刑者が探した「お久」との同一性未確認。

「また」

 久が。

 帳面を見る。

「名前が」

「増える」

「はい」

「でも」

「増やすためでは」

「ありません」

「一人へ」

「戻しすぎないため」

「そう思います」

 ◇

 その夜。

 米利堅船から。

 一通。

 竹吉。

 そして。

 名を伏せた男。

 二人の連名。

 ――日本上陸を。

 ――明朝希望。

 ――ただし。

 ――名を呼ばないこと。

 ――役を与えないこと。

 ――罪人として即時拘束しないこと。

 阿部が。

 紙を見る。

「最後は」

「難しい」

「はい」

「本人が」

「武士一人を」

「殺したと」

「認めている」

「はい」

「では」

「罪の見分は」

「必要」

「はい」

「帰国と」

「混ぜない」

「はい」

「でも」

「逃亡罪は」

「どうする」

「それも」

「別に見ます」

「帰った瞬間」

「捕らえれば」

「帰る道が」

「事実上」

「なくなる」

「では」

「放免?」

「それも」

「違います」

 ◇

「仮の」

 家定が言う。

「留め置き?」

「拘束?」

「それでは」

 志乃が言う。

「帰った人へ」

「最初に」

「縄をかける」

「でも」

 阿部。

「殺人を」

「本人が」

「認めている」

「なら」

 新之介が言う。

「本人に」

「選ばせる余地を」

「残した」

「見分場所への」

「自主出頭」

「何」

「上陸後」

「再起館へ」

「滞在」

「翌日」

「町方」

「被害者側」

「本人」

「複数立会い」

「そこで」

「罪の見分を始める」

「逃げたら」

「その時」

「拘束」

「期限」

「上陸から」

「一日」

「短い?」

「本人が」

「望んでいるなら」

「聞きましょう」

 ◇

 返答。

 一番船。

 男から。

 ――承知。

 ――逃げない。

 ――ただし。

 ――名を明かすのは。

 ――処刑された人の。

 ――名を確認してからにしたい。

「なぜ」

 家定が問う。

 新之介が。

 最後を読む。

 ――私は。

 ――自分の名前だけを。

 ――先に。

 ――生き返らせたくない。

 ◇

 翌朝。

 品川。

 小舟。

 竹吉。

 喜兵衛。

 梅。

 そして。

 名を伏せた男。

 役名。

 なし。

 帰国意思。

 あり。

 名前。

 一時非公開。

 男が。

 日本の地へ。

 一歩。

 足を置く。

 止まる。

 土。

 ただ。

 見る。

 二十一年。

「どうです」

 新之介が問う。

「分からない」

「何が」

「帰った気が」

「しない」

「はい」

「でも」

「足は」

「日本に」

「あります」

「はい」

 男は。

 しゃがむ。

 土へ。

 手を置く。

「名前が」

「なくても」

「帰れるんですね」

「はい」

「役が」

「なくても」

「はい」

「罪が」

「消えていなくても」

 新之介は。

 そこで。

 少し間を置いた。

「はい」

「戻ることと」

「罪を見分することは」

「別です」

 男の目から。

 涙が落ちる。

 ◇

 だが。

 その直後。

 町方から。

 一人。

 老人が。

 走ってきた。

「待て!」

 阿部の者が。

 止める。

「誰だ」

「刑場番!」

「二十二年前の!」

 新之介の目が。

 鋭くなる。

「何を」

 老人は。

 息を切らしながら。

 男を。

 見る。

 そして。

 震える。

「お前」

「……」

「お前は」

「死んだはずだ」

 男の顔が。

 真っ白になる。

「名前を」

 新之介が。

 止める。

「言わないでください」

 老人が。

 新之介を見る。

「なぜ!」

「今は」

「本人が」

「望んでいません」

「だが!」

「私は」

 老人の手が。

 震える。

「私は!」

「二十二年前!」

「この男の首を!」

「見た!」

 ◇

「顔は」

 新之介が問う。

「見た?」

「見た!」

 全員が。

 止まる。

「包帯では」

「なかった?」

「何の話だ!」

 沢渡の証言と。

 違う。

「処刑された男の」

「顔を」

「見た?」

「ああ!」

「この男と」

「同じ?」

 老人は。

 目の前の男を。

 まじまじ見る。

「……」

「違う」

 男が。

 息を呑む。

「では」

「誰でした」

 老人が。

 顔を歪める。

「それを」

「言いに来た」

「何」

「処刑された男は」

「最後に」

「自分の名を」

「叫んだ」

 新之介が。

 胸の奥で。

 何かが。

 つながる。

「何と」

 老人が。

 言う。

「――新八」

 今度は。

 新之介が。

 完全に。

 動きを止めた。

 新八。

 榊原新之介の。

 代替の一人。

 姓不明。

 これまで。

 生い立ちの多くが。

 分からなかった男。

 だが。

 今。

 再起館には。

 生きた新八がいる。

「新八?」

 竹吉が言う。

「また」

「同じ名?」

 新之介は。

 首を振った。

「まだ」

「決めません」

 だが。

 刑場番の老人が。

 もう一つ。

 言った。

「違う!」

「何が」

「処刑された男は」

「こう叫んだ!」

 老人は。

 二十二年前の声を。

 思い出す。

「『新八は』」

「『俺の名じゃない!』」

「『俺が守った子の名だ!』」

 沈黙。

 新之介の背中を。

 冷たいものが。

 走る。

「では」

「本人の名は」

 老人が。

 震えながら。

 答えた。

「その後」

「もう一つ」

「叫んだ」

「何と」

 ――俺は。

 ――弥市の子だ。

 伊三郎が。

 その場にいなかったのが。

 不思議なほど。

 古い名が。

 また。

 戻ってきた。

 弥市。

 海送り零号を拒んだ男。

 伊三郎の父。

 役より。

 人を先へ。

 そう言った男。

 処刑された者は。

 その弥市の。

「子」だと。

 叫んだ。

 新之介は。

 ゆっくり。

 目を閉じた。

 死んだ名を。

 生き返らせる前に。

 死んだ人を。

 人へ戻す。

 その仕事が。

 まだ。

 残っていた。

(第百章へ続く)

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