上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第百章

目次

第百章 死者を人へ戻す

「俺は」

「弥市の子だ」

 二十二年前。

 刑場で。

 処刑された男は。

 そう叫んだ。

 だが。

 記録には。

 残らなかった。

 残ったのは。

 別の男の名前。

 今。

 品川へ。

 二十一年ぶりに帰ってきた。

 名を伏せた男。

 その名で。

 死刑になったことだけ。

「榊原殿」

 刑場番だった老人が言う。

「私は」

「覚えている」

「何を」

「あの男が」

「何度も」

「自分は違うと」

「申した」

「はい」

「だが」

「誰も」

「聞かなかった」

「そなたは?」

 老人が。

 言葉を失う。

「私は」

「聞いた」

「でも」

「何もしなかった」

「なぜ」

「役目だからだ」

 老人が。

 顔を覆った。

「刑を」

「滞りなく」

「終わらせるのが」

「私の役目だった」

 ◇

「役目を盾にするな」

 宗太なら。

 そう言っただろう。

 新之介は。

 少し違う言葉を選んだ。

「では」

「今」

「聞いたことを」

「話してください」

「それで」

「償いになるか」

「分かりません」

「……」

「でも」

「二十二年前に」

「しなかったことを」

「今」

「することはできます」

 老人は。

 長く。

 頭を下げた。

「話す」

 ◇

 再起館。

 その日の午後。

 集まった者。

 新之介。

 清太郎。

 伊三郎。

 宗太。

 久。

 竹吉。

 そして。

 生きている。

 新八。

 榊原新之介の。

 代替として。

 育てられた男。

「私の名が」

 新八が。

 静かに言う。

「刑場で?」

「はい」

「処刑された男が」

「『新八は』」

「『俺が守った子の名だ』と」

「はい」

「その子が」

「私?」

「まだ」

「決めません」

 新八が。

 苦笑する。

「それを」

「聞くと」

「少し安心します」

「なぜ」

「いきなり」

「『そなたです』と」

「言われたら」

「また」

「誰かが」

「私を決めることになる」

 新之介が頷く。

「はい」

 ◇

 伊三郎は。

 刑場番の老人を見る。

「処刑された男は」

「弥市の子だと」

「申した?」

「ああ」

「父の」

「実子か」

「そこまでは」

「分からぬ」

「名は」

「聞いた?」

「最初」

「役人は」

「別の名を」

「呼んでいた」

「今」

「帰ってきた人の名?」

 老人が。

 頷く。

「本人は」

「何と」

「自分の名を」

「二度」

「申した」

「何と」

 老人が。

 新之介を見る。

「言ってよいか」

 新之介は。

 少し止まった。

「まず」

「清太郎殿だけへ」

「なぜ」

 伊三郎が問う。

「死んだ人の名でも」

「家族へ」

「影響します」

「はい」

「本人は」

「もう」

「許可できない」

「だから」

「最初に」

「必要最小限」

 伊三郎が。

 少し不満そうに。

「父の子かもしれぬ」

「だからこそ」

「急いで」

「自分のものにしないでください」

 伊三郎が。

 黙る。

「……そうだな」

 ◇

 老人が。

 清太郎の耳へ。

 一つ。

 名を言う。

 清太郎の筆が。

 止まる。

「知っている名?」

 新之介が問う。

「はい」

 全員。

 顔を上げる。

「どこで」

「弥市殿の」

「古い家族帳」

 伊三郎が。

 立ち上がった。

「何」

「父の帳面に?」

「はい」

「誰」

 清太郎が。

 新之介を見る。

 新之介が。

 伊三郎を見る。

「伊三郎殿」

「何だ」

「聞きたいですか」

「当たり前だ」

「聞いた後」

「その方を」

「兄弟だと」

「すぐ決めますか」

 伊三郎が。

 息を止める。

「……決めぬ」

「では」

 清太郎が読む。

「弥市殿の家族帳」

「長男」

「弥之助」

 伊三郎の顔から。

 色が消えた。

 ◇

「兄だ」

「知っていた?」

「ああ」

「亡くなったと」

「聞いていた」

「いつ」

「私が」

「十二の時」

「兄は」

「十七」

「理由」

「船の事故」

「遺体は」

「……ない」

 新之介。

 清太郎。

 宗太。

 皆。

 同じ顔になる。

 伊三郎が。

 自分で笑う。

「言うな」

「何も」

「言っていません」

「分かっている」

「今になれば」

「遺体がないと」

「聞いただけで」

「疑いたくなる」

「でも」

「船の事故だった可能性も」

「あります」

「はい」

「では」

「確認します」

 ◇

 弥市の。

 古い家族帳。

 伊三郎が。

 持ってきた。

 何十年も。

 包みに入れ。

 残していたもの。

 父。

 弥市。

 母。

 お辰。

 長男。

 弥之助。

 次男。

 伊三郎。

 ほか。

 幼くして亡くなった妹。

 一人。

「弥之助」

 清太郎が。

 指差す。

 横。

 ――十七歳。

 ――長崎へ。

「船の事故では」

「ない?」

 伊三郎の手が。

 震える。

「これは」

「父の字だ」

「続き」

 ――戻らず。

 ――死と聞く。

「死と聞く」

 新之介が。

 静かに言う。

「死を確認した、ではない」

「はい」

 伊三郎が。

 目を閉じる。

 ◇

「なぜ」

 宗太が問う。

「弥之助殿は」

「長崎へ」

「父と」

「一緒だった」

「弥市殿と?」

「ああ」

「いつ」

「父が」

「御影宗伯から」

「宗伯を降りたいと」

「相談された頃」

「では」

「六十七年前では」

「もっと後」

「はい」

「弥市殿は」

「役の仕組みを」

「追っていた?」

「そう思う」

「兄も」

「一緒に?」

「おそらく」

 ◇

 新八が。

 長い間。

 黙っていた。

「一つ」

「何です」

 新之介。

「私に」

「古い記憶があります」

「何歳の」

「分かりません」

「何を」

「男の人が」

「私を」

「背負っている」

「はい」

「雨」

「はい」

「その人が」

「何度も」

「『新八』と」

「呼ぶ」

「はい」

「私は」

「その人を」

「何と」

 新八は。

 目を閉じる。

「……兄ちゃん」

 伊三郎が。

 新八を見る。

「年齢は」

 声が掠れる。

「その人?」

「二十代」

「たぶん」

「兄が」

「生きていれば」

「合う」

 ◇

「でも」

 新之介が言う。

「まだ」

「弥之助殿とは」

「決めません」

「分かっています」

 新八が答える。

「ほかに」

「覚えていること」

「左手」

「何か」

「小指が」

「曲がっていた」

 伊三郎が。

 立ち上がる。

「兄だ」

「なぜ」

「子どもの頃」

「井戸の蓋で」

「左の小指を」

「潰した」

「ずっと」

「曲がっていた」

 清太郎が。

 刑場番を見る。

「処刑された男の」

「左手」

「覚えていますか」

 老人は。

 考える。

「小指」

「……」

「そうだ」

「縄を」

「外す時」

「曲がっていた」

 伊三郎が。

 座り込んだ。

 ◇

「兄だ」

 今度は。

 誰も。

 すぐ否定しなかった。

 だが。

 新之介が言う。

「可能性は」

「非常に高い」

 伊三郎が。

 顔を上げる。

「今くらい」

「兄と言わせろ」

 新之介は。

 少し黙り。

「はい」

 伊三郎は。

 両手で。

 顔を覆った。

「兄貴」

 四十年以上。

 死んだと。

 思っていた。

 だが。

 本当には。

 二十二年前まで。

 生きていた。

 そして。

 別人の名で。

 処刑された。

「兄貴」

 伊三郎は。

 もう一度。

 呼んだ。

 ◇

 新八が。

 伊三郎の。

 向かいに座る。

「私を」

「守った人が」

「あなたの兄上?」

「おそらく」

「では」

「私と」

「あなたは」

「何になる」

 伊三郎が。

 顔を上げる。

 答えかけ。

 止まる。

「分からぬ」

 新八が。

 少し笑う。

「よかった」

「何が」

「すぐ」

「家族だと言われなくて」

「嫌か」

「分かりません」

「でも」

「今まで」

「何度も」

「誰かが」

「『そなたはこれだ』と」

「決めました」

「はい」

「だから」

「もし」

「弥之助殿が」

「私を」

「守ったとしても」

「あなたと」

「どういう関係になるかは」

「私も」

「決めたい」

 伊三郎が。

 長く。

 新八を見る。

「そうだな」

 ◇

「では」

 新之介が。

「弥之助殿が」

「なぜ」

「新八殿を」

「守ったのか」

「そこを」

「追います」

「沢渡」

「はい」

「処刑記録」

「はい」

「御影」

「はい」

「そして」

「新八殿自身の記憶」

「はい」

「でも」

「無理に」

「思い出さなくてよい」

 新八が。

 少し驚く。

「記憶は」

「大事では」

「大事です」

「でも」

「思い出すことを」

「役にしません」

「……」

「ありがとうございます」

 ◇

 刑場番の老人が。

 もう一つ。

 思い出した。

「弥之助殿」

「処刑前」

「何か」

「持っていました?」

「持ち物は」

「全部」

「取り上げられた」

「何」

「布袋」

「紙」

「小さな木彫り」

「何の」

「鳥」

 新八の顔が。

 動く。

「鳥?」

「知っている?」

 新八が。

 懐へ手を入れる。

 古い。

 木。

 一羽。

 翼。

 片方だけ。

 欠けている。

「これですか」

 老人が。

 目を見開く。

「それだ」

 伊三郎が。

 木彫りを見る。

「兄が」

「作った」

「本当に」

「子どもの頃から」

「木を削るのが」

「好きだった」

 ◇

「なぜ」

 新之介が。

 新八を見る。

「そなたが」

「持っている」

「分かりません」

「いつから」

「覚えている限り」

「ずっと」

「では」

「処刑された弥之助殿から」

「誰かが」

「新八殿へ」

「戻した?」

「可能性があります」

「誰が」

 老人が。

 低く言う。

「私だ」

 全員が。

 振り向く。

 ◇

「そなたが?」

 新八。

「ああ」

「覚えているか」

「いいえ」

「当然だ」

「何歳」

「七つか」

「八つ」

「その頃?」

「はい」

 老人の顔が。

 苦しそうに。

 歪む。

「処刑の後」

「私は」

「持ち物を」

「焼く役も」

「していた」

「はい」

「布袋の中に」

「紙」

「木彫り」

「そして」

「子どもの居場所」

「何」

 新八の身体が。

 硬くなる。

「どこ」

「浅草」

「寺」

「名は」

「延命寺」

「そこで」

「新八という子へ」

「木彫りを」

「渡せ」

「そう」

「弥之助殿が」

「書いていた」

 ◇

「そなた」

 伊三郎が。

 老人を見る。

「行った?」

「ああ」

「なぜ」

「処刑の時」

「何もしなかった」

「はい」

「せめて」

「最後の頼みだけは」

「と思った」

「新八殿へ」

「会った?」

「会った」

 老人が。

 新八を見る。

「小さかった」

「痩せて」

「ずっと」

「戸口を」

「見ていた」

「何を」

「待っていた?」

「兄ちゃん」

 新八の目が。

 閉じる。

「……」

「私は」

「そう言った?」

「ああ」

「『兄ちゃんが』」

「『迎えに来る』と」

「何度も」

 ◇

「私は」

 新八の声が。

 震える。

「待っていた」

「はい」

「覚えている」

「寺の戸」

「雨」

「鐘」

「毎日」

「誰かが来ると」

「兄ちゃんだと」

「思った」

「でも」

「来なかった」

「はい」

「来られなかった」

「はい」

「死んでいた」

 老人が。

 頭を下げる。

「私が」

「言えなかった」

「なぜ」

「七つの子へ」

「兄が」

「首を斬られたと」

「言えなかった」

「だから」

「木彫りだけ」

「渡した」

 ◇

「その後」

 新八が問う。

「私は」

「どうして」

「榊原新之介に」

「なった」

「そこまでは」

「知らない」

「寺から」

「誰かが」

「連れて行った?」

「はい」

「誰」

「沢渡」

 新之介の目が。

 鋭くなる。

「どの沢渡」

「分かりません」

「顔」

 老人が。

 城の沢渡玄隆の。

 特徴を。

 話す。

 痩せ。

 目。

 指。

「おそらく」

 新之介が。

「城の沢渡殿です」

 ◇

 牢。

 再び。

 沢渡。

「延命寺」

 新之介が言う。

「新八」

 沢渡の顔が。

 変わった。

「覚えている?」

「ああ」

「連れて行った?」

「ああ」

「なぜ」

「声が」

「そなたに」

「似ていた」

「顔は」

「当時は」

「似ていなかった」

「何」

「成長すれば」

「近づくと」

「見込んだ」

「それで」

「連れて行った」

「本人へ」

「聞いた?」

「子どもだ」

「また」

 沢渡が。

 目を閉じる。

「……ああ」

「聞かなかった」

 ◇

「弥之助殿を」

「知っていましたか」

「はい」

「何者として」

「弥市の子」

「それだけ?」

「御影に」

「反対する者」

「何をした」

「子どもを」

「逃がした」

「新八殿?」

「その一人」

「では」

「弥之助殿は」

「新八殿を」

「代替制度から」

「逃がそうとした?」

「はい」

「どこから」

「御影の」

「子替所」

 新之介が。

 息を止める。

 子替帳。

 新三郎。

 久。

 半九郎。

 そして。

 新八。

 全部。

 つながるのではない。

 同じ場所を。

 通った人が。

 いた。

「新八殿の」

「生まれ名は」

「知っている?」

 沢渡が。

 黙る。

「沢渡殿」

「知っている」

「何」

「言ってよいか」

 新之介が。

 少し驚く。

「そなたが」

「それを聞く?」

「今は」

「聞く」

 ◇

 新之介は。

 新八本人を。

 牢へ。

 呼んだ。

「私の」

「生まれ名?」

「沢渡殿は」

「知っていると」

「はい」

「聞きたいですか」

 新八は。

 長く。

 考える。

「怖いです」

「はい」

「でも」

「聞きたい」

「分かりました」

 沢渡が。

 新八を見る。

「昔」

「私は」

「そなたから」

「名を取った」

「はい」

「今」

「返すとは」

「言わない」

「なぜ」

「もう」

「そなたの名を」

「私が」

「返せる立場ではない」

 新之介が。

 沢渡を見る。

 少し。

 変わった。

「なら」

「何を」

「私は」

「知っている名を」

「伝えるだけだ」

「はい」

 ◇

 沢渡が。

 新八へ。

「そなたは」

「新八ではない」

 新八の肩が。

 揺れる。

「生まれた時」

「呼ばれていた名は」

 一呼吸。

「八郎」

 新八が。

 目を閉じる。

「八郎」

「はい」

「姓は」

「ない」

「父母は」

「不明」

「弥之助殿は」

「何」

「兄では」

「ない?」

「血の兄ではない」

「では」

「なぜ」

「兄ちゃんと」

「弥之助が」

「そう呼ばせた」

 ◇

「弥之助殿は」

「そなたを」

「子替所から」

「逃がした」

「はい」

「その時」

「名を」

「変えた」

「八郎から」

「新八?」

「はい」

「なぜ」

 沢渡が。

 少し。

 苦く笑う。

「『新しく』」

「『八郎を始める』」

「そう言った」

 新八の。

 目から。

 涙。

「新八は」

「役名では」

「なかった?」

「最初は」

「違う」

「弥之助殿が」

「そなたへ」

「新しく」

「生きるため」

「付けた名」

「はい」

「それを」

「後で」

「そなたたちが」

「榊原新之介の」

「代替名として?」

「……」

「使った」

「はい」

 ◇

 新八は。

 笑った。

 泣きながら。

「本当に」

「ひどいですね」

「はい」

「逃げるために」

「もらった名前まで」

「役にされた」

「はい」

「では」

「私は」

「八郎へ」

「戻るべき?」

 新之介が。

 すぐに。

「いいえ」

 新八が。

 新之介を見る。

「なぜ」

「八郎が」

「生まれ名」

「新八が」

「弥之助殿から」

「与えられた名」

「どちらも」

「そなたの過去」

「はい」

「今」

「どちらを」

「使うかは」

「そなたが」

「決める」

 ◇

「新八」

 伊三郎が。

 牢の外から。

 呼ぶ。

 新八が。

 振り返る。

「その名は」

「兄が」

「付けたんだな」

「はい」

「なら」

「私は」

「好きだ」

 新八が。

 少しだけ。

 笑う。

「私も」

「好きです」

「では」

「新八?」

 新之介が問う。

 長い。

 沈黙。

「はい」

「私は」

「新八で」

「いたい」

「八郎は」

「捨てる?」

「捨てません」

「では」

「どう」

「八郎として」

「生まれた」

「弥之助殿に」

「新八と」

「呼ばれた」

「今」

「自分でも」

「新八を」

「選ぶ」

 清太郎の筆。

 ――出生時呼称。

 ――八郎。

 ――姓、不明。

 ――幼少時。

 ――弥之助により新八と呼称。

 ――本人。

 ――現在、新八を選択。

 ――八郎の記録は消さず。

 ◇

「これで」

 新八が。

 紙を見る。

「初めて」

「新八が」

「私の名に」

「なった気がします」

 新之介が。

 頷く。

「はい」

 ◇

 次。

 弥之助。

 死者。

 伊三郎の兄。

 弥市の長男。

 新八を。

 子替所から。

 逃がした。

 その後。

 別人の罪を。

 着せられ。

 別人の名で。

 処刑された。

「弥之助殿の」

 新之介が言う。

「記録を」

「戻します」

「どうやって」

 伊三郎。

「まず」

「処刑記録」

「別人」

「訂正」

「ただし」

「帰ってきた方の名は」

「まだ非公開」

「はい」

「処刑された人物」

「弥之助」

「ただし」

「本人確認」

「証言」

「家族帳」

「身体特徴」

「木彫り」

「複数で」

「一致」

「完全では」

「ない?」

「はい」

「それでも」

「現時点で」

「弥之助と判断する根拠は」

「十分に強い」

 ◇

「墓は」

 伊三郎が問う。

「どうする」

「今の墓には」

「帰国した方の名が」

「あります」

「変える?」

「本人へ」

「まず聞きます」

「なぜ」

「自分の名で」

「二十二年」

「誰かが葬られていた」

「はい」

「その墓を」

「どうするか」

「本人にも」

「関係がある」

「死者だけでは」

「ない?」

「はい」

 ◇

 名を伏せた。

 帰国した男。

 再起館。

 事情を。

 聞く。

 男は。

 長い間。

 黙る。

「墓を」

「私の名から」

「弥之助殿へ」

「変える?」

「はい」

「私は」

「賛成です」

「よい?」

「はい」

「なぜ」

「私は」

「その墓へ」

「一度」

「行ったことがある」

 全員が。

 顔を上げる。

「いつ」

「国外へ出る前」

「夜」

「自分の墓を」

「見た」

「どう思いました」

「怖かった」

「はい」

「でも」

「少し」

「嬉しかった」

「なぜ」

「死んだ私には」

「墓がある」

「生きて逃げた私には」

「何もない」

 ◇

「だから」

「その墓を」

「失うのが」

「少し怖い」

「はい」

「でも」

「本当は」

「弥之助殿の墓だった」

「そう見えます」

「なら」

「返したい」

「では」

「そなたの」

「生きている記録を」

「別に作る」

「名前を」

「まだ非公開でも?」

「はい」

 男が。

 目を閉じる。

「分かりました」

 ◇

 寺。

 二十二年間。

 間違った名前が。

 刻まれていた。

 墓石。

 新しい石へ。

 すぐ。

 替えなかった。

 まず。

 木札。

 一枚。

 伊三郎。

 新八。

 帰国した男。

 清太郎。

 寺僧。

 刑場番だった老人。

 六人。

 立会い。

 清太郎が。

 書く。

 ――ここに。

 ――弥之助という人物が。

 ――別人の名で葬られていた可能性が。

 ――極めて高い。

 新之介が。

 見る。

「『弥之助之墓』とは」

「まだ」

「書かない?」

「はい」

「なぜ」

「確かめられない部分を」

「死者だからと」

「埋めません」

「では」

「長いな」

 伊三郎が。

 紙を見る。

「でも」

「それでよい」

 ◇

 新八が。

 墓前へ。

 木彫りの鳥を。

 置こうとする。

 手が。

 止まる。

「置かない?」

 伊三郎が問う。

「これは」

「私が」

「もらったものです」

「はい」

「弥之助殿のものでも」

「あった」

「でも」

「最後に」

「私へ」

「渡された」

「なら」

「持っていろ」

「はい」

 新八は。

 鳥を。

 胸へ戻す。

「代わりに」

 小さな。

 木片。

 そこへ。

 二文字。

 ――新八。

 墓前へ。

「なぜ」

 伊三郎が問う。

「兄ちゃんが」

「新八という名前を」

「作ってくれた」

「はい」

「だから」

「その名で」

「生きていますと」

「知らせたい」

 ◇

 伊三郎は。

 墓へ。

「兄貴」

 声。

 低い。

「遅れた」

「何が」

 新八が。

 隣で問う。

「全部だ」

「……」

「兄が」

「死んで」

「二十二年」

「私は」

「近くを」

「何度も」

「通った」

「はい」

「知らなかった」

「はい」

「今」

「何をすれば」

「よいのか」

「分からん」

 新八が。

 少し考える。

「ここに」

「いれば」

「いいのでは」

「何」

「今日は」

「はい」

「明日は」

「明日」

「考える」

 伊三郎が。

 少し笑った。

「そなた」

「榊原に」

「似てきたな」

「嫌です」

「聞こえています」

 後ろで。

 新之介が言った。

 ◇

 その日の夕刻。

 もう一つ。

 見分。

 帰国した。

 名を伏せた男。

「処刑された方の」

「名前を」

「確認しました」

 新之介が言う。

「はい」

「弥之助殿」

「はい」

「では」

「そなたの名を」

「今」

「どうします」

 男は。

 長く。

 静かに。

 考えた。

「墓は」

「弥之助殿へ」

「返す」

「はい」

「処刑記録も」

「弥之助殿が」

「私の名で」

「処刑されたと」

「訂正する」

「はい」

「なら」

「もう」

「私の名を」

「隠す理由は」

「一つ減った」

「一つ?」

「妹」

「はい」

「妹を」

「見つけるまで」

「名を」

「出したくない?」

「いや」

 男が。

 首を振る。

「逆です」

「何」

「名を」

「出したい」

「なぜ」

「妹が」

「どこかで」

「その名前を」

「見れば」

「私が生きていると」

「分かるかもしれない」

 ◇

「危険も」

「あります」

 阿部が言う。

「昔の罪」

「武士殺し」

「逃亡」

「はい」

 男が答える。

「分かっています」

「それでも」

「出す?」

「はい」

「本人が」

「今」

「選ぶ?」

「はい」

 新之介が。

 清太郎を見る。

「記録してください」

「名」

 男が。

 初めて。

 日本へ戻ってから。

 自分の名前を。

 口にした。

「佐吉」

 ◇

 新之介は。

 聞き返さない。

 男が。

 続ける。

「姓は」

「ありません」

「父」

「小間物商」

「又兵衛」

「母」

「お千代」

「妹」

「さよ」

 サラ――小夜とは。

 別。

「妹の名」

「平仮名で?」

「家では」

「さよ」

「正式な字は」

「分かりません」

「では」

「さよ」

「そのまま」

「はい」

 清太郎。

 筆。

 ――現名。

 ――佐吉。

 ――本人、本日より公開を希望。

 ――帰国済。

 ――罪の見分継続。

 ――妹さよを捜索希望。

 ◇

「佐吉殿」

 新之介が。

 初めて。

 その名で呼ぶ。

 男の。

 肩が。

 震える。

「もう一度」

「佐吉殿」

 目から。

 涙。

「はい」

「帰ってきましたね」

 佐吉は。

 首を振った。

「まだ」

「何が」

「妹に」

「会っていない」

「では」

「戻る途中?」

「はい」

「それで」

「よいと思います」

 ◇

 その夜。

 再起館の入口。

 新しい板。

 清太郎。

 志乃。

 辰蔵。

 相談。

 帰国者の。

 仮記録。

 これまで。

 名。

 役。

 帰国意思。

 居所。

 だった。

 そこへ。

 志乃が。

 一行。

 加える。

 ――今、本人が望んでいること。

「必要ですか」

 清太郎が問う。

「必要です」

「なぜ」

「名前も」

「役も」

「帰国も」

「全部」

「今の希望を」

「忘れると」

「また」

「帳面が」

「人より先になる」

 清太郎が。

 頷く。

 ◇

 宗太。

 ――父の墓を探す。

 御影宗一。

 ――宗伯でも家斉でもない時間を持つ。

 新八。

 ――新八として生きる。

 伊三郎。

 ――弥之助の死を見分し直す。

 佐吉。

 ――妹さよを探す。

 竹吉。

 ――自分が斬った相手の家族へ、事実を伝える方法を考える。

 梅。

 ――薬を学んだ者として働く道を探す。

 喜兵衛。

 ――家族へ直接帰らず、まず手紙を出す。

 ◇

「家定殿は」

 志乃が。

 少し笑う。

「私も?」

「はい」

「今」

「望むこと」

 家定は。

 長く。

 考えた。

「将軍を」

「終わらせる」

 以前なら。

 そう言った。

 だが。

 今は。

「皆が」

「将軍を」

「必要とする理由を」

「一つずつ」

「減らしたい」

「違いは」

 志乃が問う。

「前は」

「私が」

「終わらせようとした」

「はい」

「今は」

「私がいなくても」

「決められる場所を」

「増やしたい」

「はい」

「ただし」

「私が」

「責任から逃げるためではなく」

 清太郎が。

 そのまま。

 書く。

 ◇

「榊原殿は」

「私も?」

 志乃。

「はい」

「今」

「望むこと」

 新之介は。

 少し。

 困った。

「ないのですか」

「あります」

「何」

 小名木川。

 刀。

 兄。

 父。

 母。

 新八。

 宗太。

 名未定。

 海。

 黒船。

 帳面。

 数え切れない。

 人。

「一日」

「何も」

「決めたくない」

 志乃が。

 笑った。

「それ」

「書きます?」

「やめてください」

 清太郎は。

 もう。

 書いていた。

「清太郎殿」

「記録です」

「消してください」

「本人希望?」

「はい」

「では」

 清太郎。

 一本。

 線。

 文字は。

 読めるように。

 残る。

「消えていません」

「消したことを」

「残しました」

「本当に」

「面倒ですね」

「榊原様に」

「言われたくありません」

 ◇

 夜。

 城から。

 使者。

「榊原様」

「何です」

「米利堅側より」

「次回交渉について」

「はい」

「港」

「通商」

「帰国」

「漂流民」

「正式な」

「議題を」

「決めたいと」

「分かりました」

「それと」

「もう一つ」

「何」

「米利堅側は」

「日本側へ」

「確認したいことがあると」

「何を」

 使者が。

 書状を読む。

 ――日本側は。

 ――今後。

 ――誰を。

 ――国の代表とするのか。

 家定。

 阿部。

 水野。

 新之介。

 皆。

 少し。

 黙った。

「また」

 水野が言う。

「代表か」

「はい」

「今度は」

 家定が。

 新之介を見る。

「誰を」

 新之介は。

 首を振った。

「先に」

「誰ではなく」

「何を代表させるか」

「決めましょう」

「国を」

「一人が?」

「そこから」

「疑います」

 ◇

 佐吉が。

 入口で。

 その話を。

 聞いていた。

「榊原殿」

「何です」

「一つ」

「はい」

「国にも」

「一つの名前しか」

「ないのですか」

 全員が。

 佐吉を見る。

「どういう意味です」

「私は」

「自分の名前が」

「一つだから」

「二十二年」

「苦しんだ」

「はい」

「その一つに」

「罪」

「墓」

「処刑」

「全部」

「載せられた」

「はい」

「国も」

「同じでは」

 ◇

 家定が。

 ゆっくり。

 座り直す。

「日本という」

「一つの名へ」

「将軍」

「大名」

「町人」

「農民」

「海の者」

「帰国者」

「全部を」

「一つの声として」

「外国へ」

「出す」

「はい」

「それは」

「誰かを」

「消す?」

「消すかもしれません」

 志乃が言う。

「民に」

「一つの声は」

「ありません」

 家定が。

 頷く。

「なら」

「次の交渉は」

「一人の代表を」

「決めるのではなく」

「複数の声が」

「どう決定へ」

「入ったかを」

「見せる?」

「はい」

 ◇

 阿部が。

 少し困った顔。

「外国は」

「そんな面倒な国と」

「交渉するか」

「向こうにも」

 源七が。

 入口から。

 声をかける。

「一つの声しか」

「ないわけではありません」

 全員が。

 振り返る。

「米利堅にも」

「商人」

「軍人」

「大統領」

「議会」

「船員」

「それぞれ」

「利害が違う」

「では」

 家定が。

「向こうも」

「一人ではない?」

「はい」

「なら」

 新之介が言う。

「互いに」

「一人の国を」

「作って見せる必要は」

「ないのかもしれません」

 ◇

 その言葉で。

 第百章の。

 夜は。

 静かに。

 次へ。

 つながった。

 名前を。

 取り戻した人。

 名前を。

 選び直した人。

 名前を。

 まだ決めない人。

 役を。

 降りた人。

 役を。

 自分で選んだ人。

 死者。

 生者。

 海の者。

 陸の者。

 誰か一人を。

 「本物」にして。

 残りを。

 偽物にする。

 その方法だけでは。

 もう。

 前へ進めない。

 だから。

 次に問うべきは。

 誰が。

 日本なのか。

 ではない。

 日本という名の中へ。

 誰の声を。

 入れるのか。

 そして。

 入らない者の声を。

 どう消さずに。

 残すのか。

 だった。

(第百一章へ続く)

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