上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第百四章ー完ー

目次

第百四章 刀影

 子替帳を。

 どうするか。

 最後の見分は。

 江戸城ではなく。

 再起館で。

 行われた。

 大広間でも。

 評定所でもない。

 人が。

 飯を食い。

 眠り。

 怒り。

 迷い。

 名前を。

 選び直してきた場所。

 そこへ。

 帳面を。

 一冊。

 置いた。

 新之介。

 清太郎。

 新三郎。

 久。

 新八。

 半九郎。

 お久。

 お滝。

 志乃。

 さらに。

 自分の記録が。

 そこにあると。

 分かっている者たち。

 来ない者もいた。

 それも。

 記録した。

「始めます」

 清太郎が言う。

「何を」

 玄斎が。

 後ろで。

 膝を押さえながら言う。

「帳面を」

「人へ返す見分です」

「燃やさぬのか」

「燃やしません」

「全部残す?」

「残しません」

「では」

「何をする」

 清太郎が。

 帳面を見る。

「一人ずつ」

「聞きます」

 玄斎が。

 ため息。

「最後まで」

「面倒だな」

「はい」

 新之介が答えた。

「それで終わらせます」

 ◇

 最初。

 新八。

「顔」

「消してください」

「はい」

「声の特徴も」

「はい」

「歩き方も」

「はい」

「榊原新之介へ」

「似せるための」

「訓練内容も」

「消す」

「では」

「何を残す」

 新八は。

 胸の。

 木彫りの鳥へ触れた。

「八郎として」

「生まれたらしいこと」

「弥之助殿に」

「新八と」

「呼ばれたこと」

「榊原新之介の」

「代替にされたこと」

「その役を」

「今は」

「自分の意思で」

「降りていること」

「はい」

「それから」

「何です」

「私は」

「新八を」

「自分の名として」

「選んだ」

「それは」

「残してください」

 清太郎。

 筆。

「分かりました」

 ◇

 久。

「私の」

「生まれ名は」

「分からない」

「はい」

「だから」

「不明と」

「書く?」

「嫌です」

「では」

「何と」

「今は」

「探さない」

 清太郎が。

 顔を上げる。

「不明ではなく?」

「探していない」

「はい」

「違いますね」

「違います」

 久は。

 お久を見る。

 母かもしれない。

 いや。

 今では。

 かなり。

 確かめられている。

 それでも。

 母と子。

 その一言で。

 二十年余りを。

 埋めることは。

 しなかった。

「母上」

 久が。

 初めて。

 そう呼んだ。

 お久の。

 肩が。

 震えた。

「はい」

「会うのが」

「怖かった」

「はい」

「今も」

「少し」

「怖いです」

「私も」

「では」

「一緒ですね」

 お久は。

 泣きながら。

 笑った。

「はい」

 久が。

 一歩。

 近づく。

 抱き合わない。

 まだ。

 その距離。

 それでよかった。

「明日」

 久が言う。

「飯を」

「食べませんか」

「はい」

「それだけ?」

「まず」

「それだけ」

「はい」

 ◇

 半九郎。

 父。

 真崎玄十郎も。

 同席した。

「私の記録は」

 半九郎が言う。

「残してください」

 玄十郎の顔が。

 僅かに歪む。

「全部か」

「いいえ」

「父上が」

「私の名を」

「盾に使ったこと」

「はい」

「私が」

「それを知って」

「父上を」

「殴ったこと」

「それも?」

「はい」

「必要か」

「私には」

「必要です」

「なぜ」

 半九郎が。

 父を見る。

「許したことに」

「されたくない」

 玄十郎は。

 長く黙った。

「分かった」

「でも」

 半九郎。

「父上が」

「後で」

「私を」

「探したことも」

「残してください」

「それも?」

「はい」

「なぜ」

「憎むために」

「都合の悪いことまで」

「消したくない」

 玄十郎が。

 顔を伏せた。

 ◇

 新三郎。

「私の頁は」

「前に」

「決めました」

「はい」

「一つ」

「足します」

「何を」

「榊原を」

「どうするか」

 新之介が。

 兄を見る。

「決めた?」

「はい」

「私は」

「榊原新三郎とは」

「名乗らない」

 宗次郎が。

 後ろで。

 目を閉じる。

 海の兵庫も。

 何も言わない。

「では」

「榊?」

「それも」

「使わない」

「なら」

「新三郎」

「はい」

「姓は」

「なし?」

 新三郎が。

 少し考えた。

「未定では」

「なく」

「今は」

「持たない」

 清太郎が。

 ゆっくり。

 書く。

 ――名、新三郎。

 ――姓、本人意思により現在用いず。

「家を」

 宗次郎が。

 低く言う。

「捨てるのか」

 新三郎が。

 父を見る。

「違います」

「では」

「家へ」

「戻るのか」

「それも」

「違います」

「何だ」

「父上の子であることと」

「榊家へ」

「戻ることは」

「別です」

 宗次郎。

 苦く笑う。

「そうだったな」

「はい」

「私は」

「何度も」

「同じところへ」

「戻る」

「人は」

「そういうものだと」

「思います」

 新之介が言った。

 ◇

 宗太。

 海送り第一号。

 かつて。

 松平左京。

 沢渡玄隆。

 今。

 宗太。

「私の頁は」

「ほとんど」

「残せ」

 新之介が。

 少し驚く。

「身体の特徴も?」

「それは消せ」

「声は」

「消せ」

「では」

「何を」

「海へ送られたこと」

「左京という」

「役名を」

「生まれる前から」

「入れられたこと」

「沢渡を」

「自分で」

「使ったこと」

「四人へ」

「その名を」

「使わせたこと」

「はい」

「それで」

「傷ついた人が」

「いたこと」

「はい」

「全部」

「残せ」

「なぜ」

 宗太は。

 少し。

 笑った。

「私は」

「被害者だけでは」

「ないからだ」

 ◇

 最後。

 新之介。

 清太郎が。

 子替帳の。

 自分の頁を。

 前へ置いた。

 ――榊原新之介。

 ――別用途。

 ――疑う癖。

 ――観察継続。

 ――将来。

 ――六人目候補。

「どうします」

 清太郎が問う。

「消しますか」

 新之介は。

 長く。

 紙を見る。

「残します」

「全部?」

「はい」

「なぜ」

「私が」

「そうされるはずだった」

「それを」

「忘れたくない」

「でも」

 新三郎が言う。

「そなたが」

「六人目だったと」

「後世に」

「思われる」

「違います」

「だから」

「その下へ」

「書きます」

「何を」

 新之介は。

 自分で。

 筆を取った。

 ――本人。

 ――六人目を受けず。

 ――榊原新之介を。

 ――本人の名として選ぶ。

 さらに。

 一行。

 ――六人目は。

 ――以後、置かず。

 ◇

「決めてよいのか」

 玄斎が問う。

「何を」

「六人目を」

「置かぬこと」

「そなた一人で」

 新之介は。

 筆を止めた。

 そして。

 笑った。

「危ないところでした」

「馬鹿者」

「では」

 家定。

 帰国者。

 子替帳の関係者。

 町。

 海。

 それぞれ。

 聞いた。

 六人目を。

 残すべきか。

 将来。

 非常時に。

 誰かが。

 代わりになる仕組みを。

 用意しておくべきか。

 意見は。

 割れた。

「必要」

 という者も。

 いた。

「人が死ぬより」

「代替がいた方が」

「よい」

「役だけなら」

「使える」

 反対も。

 あった。

「また」

「子どもが」

「作られる」

「名が」

「人を食う」

 ◇

 最後。

 決定。

 ――恒久の代替人は置かない。

 ――非常時。

 ――必要な役の代行は。

 ――その時。

 ――本人の同意。

 ――範囲。

 ――期限。

 ――終了条件を定める。

 ――代行者へ。

 ――元の人物の名を強制しない。

 家定が。

 紙を読む。

「これなら」

「代わりは」

「いても」

「代替人には」

「ならない」

「はい」

 新之介。

「人を」

「人の代わりに」

「するのではなく」

「仕事だけ」

「代わる」

「そうです」

 ◇

 子替帳。

 最後の頁。

 清太郎。

 新しい。

 表題。

 ――子替帳。

 ――閉帳。

「閉帳?」

 お久が問う。

「燃やさない」

「はい」

「使わない」

「はい」

「本人確認なしの」

「新規追記も」

「しない」

「はい」

「では」

「誰が」

「保管」

 新之介が。

 答える。

「一か所では」

「置きません」

「また分ける?」

「はい」

 だが。

 今度は。

 人を。

 分けない。

 帳面を。

 三つに。

 制度経過。

 個人記録。

 抹消記録。

 制度経過は。

 御記録所。

 個人記録は。

 本人または。

 本人が選んだ保管者。

 抹消した部分については。

 内容を残さず。

 何を消したかという。

 種類だけ。

 残す。

「完璧?」

 家定が問う。

「いいえ」

「なら」

「よいですね」

 新之介が。

 少し笑う。

「はい」

 ◇

 沢渡玄隆。

 城の牢。

 最後の。

 見分。

 新之介。

 宗太。

 新八。

 新三郎。

 半九郎。

 お藤。

 沢渡が。

 関わった者たち。

「私を」

 沢渡が言う。

「斬る?」

「私が」

「決めません」

「役人らしく」

「ないな」

「裁きは」

「裁きの場へ」

「では」

「ここは」

「何を」

「そなたが」

「何をしたか」

「最後に」

「確認します」

 ◇

 沢渡は。

 死亡を。

 偽った。

 人を。

 生かすためにも。

 消すためにも。

 名を。

 使った。

 子どもへ。

 声。

 歩き方。

 記憶。

 癖。

 教えた。

 迷いを。

 病と。

 呼んだ。

 記録を。

 燃やした。

 命令されたこと。

 自分で。

 したこと。

 それぞれ。

 分けた。

「後悔しているか」

 新八が。

 問う。

 沢渡は。

 すぐには。

 答えない。

「全部を」

「後悔したと」

「言えば」

「嘘になる」

「では」

「何を」

「助けた人も」

「いた」

「はい」

「死んだことに」

「しなければ」

「殺された人も」

「いた」

「はい」

「だから」

「必要だったことも」

「あると」

「今も思う」

「はい」

「でも」

「必要だったから」

「正しかったと」

「思った」

「そこは」

「間違えた」

 新之介が。

 何も言わない。

 沢渡自身の。

 言葉として。

 残す。

 ◇

「新之介」

 沢渡が。

 初めて。

 敬称なく。

 呼ぶ。

「何です」

「私は」

「そなたを」

「六人目に」

「したかった」

「知っています」

「なぜだと思う」

「疑うから」

「そうだ」

「疑う人間を」

「役へ入れれば」

「制度そのものが」

「自分を疑うと」

「思った」

「でも」

「役にした瞬間」

「疑いまで」

「役になります」

「そうだ」

 沢渡が。

 笑う。

「それを」

「お澄に」

「言われた」

「母上に?」

「ああ」

「『疑う子を』」

「『疑う役にするな』」

「そう申した」

 新之介は。

 目を閉じた。

「母上らしい」

「ああ」

 ◇

「では」

 沢渡が。

 最後に。

「私の名は」

「どうなる」

「沢渡玄隆?」

「はい」

「宗太殿も」

「使っていた」

「他にも」

「使った」

「では」

「私は」

「何者として」

「裁かれる」

 新之介は。

 答えた。

「沢渡玄隆という名を」

「使っていた」

「そなた自身として」

「名より」

「行い?」

「はい」

「便利だな」

「逃げにくいです」

 沢渡は。

 声を出して。

 笑った。

「そうだな」

 ◇

 裁きは。

 この日。

 終わらなかった。

 沢渡を。

 一人の。

 悪の源として。

 処刑して。

 終わりには。

 しなかった。

 沢渡が。

 したこと。

 命じた者。

 利用した者。

 黙った者。

 助けられた者。

 傷つけられた者。

 一つずつ。

 見分は。

 続く。

 新之介は。

 それを。

 終わらないことだとは。

 思わなくなっていた。

 終わらないのではない。

 続けるべきことが。

 残る。

 それだけだった。

 ◇

 半年。

 経った。

 黒船は。

 二隻。

 江戸湾を。

 離れた。

 一隻は。

 約定により。

 遠くへ。

 一隻は。

 連絡のため。

 沖へ。

 残った。

 大砲は。

 鳴らなかった。

 戦も。

 起きなかった。

 だが。

 すべてが。

 平穏に。

 なったわけではない。

 米の値は。

 一度。

 上がった。

 港では。

 喧嘩も。

 起きた。

 異国人を。

 恐れる声。

 もっと。

 商いをしたい声。

 両方。

 出た。

 ◇

 家定。

 半年後。

 約束通り。

 将軍権限の。

 再見分へ。

 立った。

「続けたいですか」

 清太郎が問う。

「一部」

「何を」

「外交窓口」

「ただし」

「固定ではなく」

「海防は」

「水野殿たちへ」

「財政は」

「勘定方へ」

「救済は」

「町と」

「藩と」

「寺」

「複数」

「では」

「将軍として」

「何を」

 家定が。

 少し考える。

「調整」

「最後の印」

「それだけ?」

「それだけでも」

「重いです」

「期限」

「また半年」

「はい」

 ◇

 将軍は。

 消えなかった。

 だが。

 以前と。

 同じでも。

 なくなった。

 それが。

 よい制度か。

 後世が。

 どう見るか。

 誰にも。

 分からない。

 家定自身。

「正解」とは。

 言わなかった。

 ただ。

 半年後も。

 もう一度。

 見分する日だけは。

 決めた。

 ◇

 喜兵衛。

 故郷へ。

 いきなり。

 帰らなかった。

 先に。

 手紙。

 返事。

 来た。

 妻は。

 すでに。

 亡くなっていた。

 息子は。

 父を。

 ほとんど。

 覚えていない。

 それでも。

 ――会うことは。

 ――拒まない。

 そう。

 書いてあった。

「よかったですね」

 新之介が言うと。

「まだ」

 喜兵衛は。

 答えた。

「何が」

「会ってからだ」

「はい」

「帰るというのは」

「本当に」

「面倒だな」

「はい」

 ◇

 梅。

 医者とは。

 まだ。

 名乗れなかった。

 だが。

 再起館の一室で。

 薬草。

 傷。

 熱。

 診た。

 御典医の。

 一人が。

 時々。

 見に来た。

 最初は。

 監視。

 そのうち。

 質問。

 最後には。

 二人で。

 喧嘩しながら。

 薬を。

 煎じていた。

「役は」

 清太郎が聞く。

「未定」

 梅。

「でも」

「仕事は」

「ある」

 ◇

 竹吉。

 被害者の。

 兄へ。

 自分が。

 黒川玄斎の名で。

 その人を。

 斬ったことを。

 伝えた。

 許されなかった。

「当然です」

 竹吉は。

 玄斎へ。

 そう言った。

「儂の名を」

「使ったことは」

「何と言われた」

「それも」

「許さないと」

「そうか」

「はい」

「それで」

「そなたは」

「どうする」

「竹吉として」

「生きます」

「それだけ?」

「はい」

「十分だな」

 ◇

 佐吉。

 罪の見分。

 続いた。

 武士を。

 刺したこと。

 逃げたこと。

 その二つは。

 本人の。

 行いとして。

 残った。

 放火。

 三人殺害。

 御用金盗み。

 それは。

 佐吉の罪から。

 外された。

 すぐに。

 自由には。

 ならなかった。

 だが。

 一人へ。

 五つの罪を。

 まとめることも。

 なくなった。

 お藤とは。

 月に。

 一度。

 手紙。

 時々。

 会う。

 同じ家には。

 暮らさない。

 それでも。

 兄妹だった。

 ◇

 久。

 お久。

 最初の。

 飯。

 ほとんど。

 話さなかった。

 二度目。

 少し。

 三度目。

 喧嘩した。

 志乃が。

 後で聞き。

「家族らしく」

「なりましたね」

 そう言うと。

 久が。

「それを」

「決めないでください」

 即座に。

 返した。

 お久が。

 腹を抱えて。

 笑った。

 ◇

 宗次郎。

 榊家。

 当主。

 続けた。

 ただし。

 家の記録。

 ――当主名、榊兵庫。

 ――本人名、宗次郎。

 二つ。

 分けた。

 最初。

 家臣たちは。

 混乱した。

「どちらで」

「お呼びすれば」

「宗次郎でよい」

「では」

「公文は」

「榊兵庫」

「面倒です」

「知っている」

 宗次郎は。

 少し。

 嬉しそうだった。

 ◇

 海から戻った。

 本来の。

 榊兵庫。

 家督は。

 取らなかった。

 だが。

 榊の名も。

 捨てなかった。

 時々。

 榊家へ。

 来る。

 宗次郎と。

 酒を飲む。

 二人とも。

 まだ。

 完全には。

 仲良くない。

 それで。

 よかった。

 新三郎は。

 その二人を。

 父上と。

 呼ぶ時もある。

 呼ばない時もある。

「どちらが」

「父か」

 誰かに。

 問われた時。

 新三郎は。

 答えた。

「聞きたいことによる」

 ◇

 そして。

 新之介。

 役は。

 減った。

 見分役。

 常設には。

 しなかった。

「なぜ」

 家定が問う。

「必要では」

「あります」

「なら」

「続ければ」

「私が」

「ずっと」

「見分役になれば」

「また」

「榊原新之介という」

「役が」

「できます」

「では」

「どうする」

「必要な時」

「呼んでください」

「来る?」

「都合がよければ」

「何」

 家定が。

 笑った。

「それで」

「よいのですか」

「はい」

「では」

「普段」

「何を」

 新之介は。

 少し。

 考えた。

「まだ」

「未定です」

 ◇

 ある朝。

 小名木川。

 新之介は。

 一人。

 歩いた。

 あの日。

 投げた。

 刀。

 伊三郎が。

 拾い。

 戻した。

 刀は。

 腰にある。

 抜かない。

 捨てもしない。

 川面。

 朝日。

 刀の。

 影。

 細く。

 土へ。

 伸びる。

「新之介」

 後ろ。

 新三郎。

「兄上」

「ここに」

「いたか」

「はい」

「何を」

「見ていた」

 新之介が。

 地面を。

 指す。

「刀の影」

 新三郎。

 少し笑う。

「影を」

「斬る?」

「いいえ」

「昔なら」

「斬ったか」

「斬ろうとしたかも」

 ◇

「影は」

 新三郎が言う。

「偽物か」

 新之介は。

 少し考える。

「違います」

「本物?」

「それも」

「違う」

「では」

「何」

「刀が」

「光の中に」

「ある時」

「生まれるもの」

「役と」

「同じ?」

「少し」

 ◇

 影を。

 消すには。

 刀を。

 なくすか。

 光を。

 なくすか。

 どちらか。

 だが。

 そんなことを。

 する必要はない。

 影は。

 影。

 刀は。

 刀。

 人は。

 人。

 それぞれを。

 一つに。

 しなければよい。

「弟」

 新三郎が言う。

「はい」

「今日」

「何をする」

「何も」

「本当に?」

「昼までは」

「何も」

「午後は」

「志乃殿から」

「再起館の屋根を」

「直せと」

「言われています」

「そなたが?」

「人手が」

「足りないそうです」

「剣は」

「使える?」

「屋根には」

「使いません」

 ◇

 二人。

 歩き出す。

 川。

 町。

 魚売り。

 桶。

 子ども。

 荷車。

 怒鳴る声。

 笑う声。

 誰も。

 一つの声では。

 ない。

 江戸は。

 相変わらず。

 面倒だった。

 国も。

 人も。

 家族も。

 名前も。

 簡単には。

 ならなかった。

 それで。

 よかった。

 ◇

 橋の手前。

 新之介が。

 一度だけ。

 振り返る。

 地面の。

 刀影。

 もう。

 そこには。

 ない。

 朝日が。

 高くなり。

 影の向きが。

 変わっただけ。

 消えたのではない。

 場所が。

 変わった。

 人も。

 同じなのかもしれない。

 戻るとは。

 昔の場所へ。

 戻ることではない。

 昔の名へ。

 戻ることでもない。

 誰かが。

 用意した役へ。

 戻ることでもない。

 今。

 自分が。

 立っている場所から。

 次に。

 どこへ行くか。

 選べること。

 それを。

 戻ると。

 呼んでも。

 よいのかもしれない。

 ◇

「新之介」

「はい」

「遅い」

「何が」

「屋根」

「まだ」

「昼前です」

「志乃殿が」

「朝から来いと」

「聞いていません」

「聞かなかったのか」

「聞いていません」

「それは」

「そなたの責任だな」

 新之介が。

 笑った。

「はい」

「そこは」

「分けなくてよい?」

「今回は」

「私の責任です」

 二人。

 笑う。

 ◇

 遠く。

 江戸城。

 その向こう。

 海。

 さらに。

 黒船。

 その先には。

 まだ。

 知らない国。

 知らない人。

 知らない争い。

 知らない役。

 あるだろう。

 同じ過ちも。

 また。

 起こるかもしれない。

 だから。

 帳面を。

 一冊。

 閉じたからと。

 すべてが。

 終わるわけではない。

 だが。

 一つだけ。

 変わった。

 誰かが。

 「国のため」

 「家のため」

 「多くの人のため」

 そう言った時。

 以前より。

 一人多く。

 こう問う者が。

 いる。

 ――誰に。

 ――聞いた。

 その問いが。

 残る限り。

 役が。

 人より。

 先になることを。

 少しは。

 遅らせられる。

 ◇

 再起館。

 入口。

 志乃。

 腕組み。

「遅い」

「まだ」

「昼前です」

「朝からと」

「言いました」

「聞いていません」

「清太郎さん」

「記録は」

 清太郎。

 帳面を見る。

「昨日」

「志乃殿」

「『朝から』と」

「榊原様へ」

「申しています」

「私の返事は」

「『分かりました』」

「と」

「記録されています」

 新之介。

 止まる。

 新三郎が。

 笑う。

「弟」

「はい」

「記録は」

「大事だな」

 新之介が。

 深く。

 ため息。

「はい」

 そして。

 刀を。

 玄関へ。

 置く。

 屋根へ。

 上がった。

 刀がなくても。

 できる仕事だった。

 朝の光の中。

 榊原新之介の。

 影が。

 屋根の上へ。

 伸びた。

 それは。

 刀の影ではなく。

 一人の人間の。

 ただの。

 影だった。

完

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