上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第九十六章

目次

第九十六章 四十三年遅れの返事

 小名木川。

 夜。

 川面には。

 月。

 細い。

 風。

 冷たい。

 その岸に。

 伊三郎はいた。

 以前と同じ。

 痩せた身体。

 片目だけが。

 よく見える。

 古い笠。

 杖。

 そして。

 川を見ていた。

 新之介。

 宗太。

 水野。

 清太郎。

 少し離れて。

 辰蔵。

 志乃。

「伊三郎殿」

 新之介が呼ぶ。

 老人は。

 振り向く。

「来たか」

「はい」

「そなたではない」

「失礼しました」

 伊三郎は。

 宗太を見る。

 その目が。

 少しだけ。

 揺れた。

「宗太」

 宗太は。

 返事ができなかった。

 四十三年前。

 十五歳。

 自分を。

 人として。

 長持から出した男。

 その男が。

 今。

 自分の名を。

 昔のまま。

 呼んでいる。

「……なぜ」

 やっと。

 それだけ。

「何が」

「なぜ」

「私の名を」

「知っていた」

 伊三郎は。

 杖を。

 川岸へ置く。

「そなたが」

「呼んだからだ」

「何」

「長持の中から」

 宗太の顔が変わる。

「私は」

「覚えていない」

「そうだろう」

「何を」

「蓋を」

「少し開けた時」

「そなた」

「最初に申した」

「何と」

 伊三郎は。

 ゆっくり。

 四十三年前の声を。

 拾う。

「『左京ではない』」

「『宗太だ』」

 ◇

 宗太の手が。

 震える。

「私は」

「そんなことを」

「申した?」

「ああ」

「次に」

「『父へ』」

「『宗太は生きていると』」

「『言ってくれ』」

 宗太が。

 目を閉じた。

「父へ」

「伝えた?」

 伊三郎は。

 答えない。

「伊三郎殿」

 新之介が言う。

「そこを」

「聞きに来ました」

「……」

「伝えましたか」

「伝えられなかった」

 宗太の顔が。

 ゆっくり。

 硬くなる。

「なぜ」

 ◇

「私が」

 伊三郎は言う。

「そなたを」

「受け取った時」

「ただの荷だと」

「思っていた」

「病人一人」

「それだけ」

「はい」

「長崎へ着く前」

「蓋の中から」

「音がした」

「叩いていた?」

「最初は」

「鼠かと思った」

「開けた」

「そなたがいた」

「はい」

「青い顔」

「唇」

「切れて」

「それでも」

「左京ではない」

「宗太だと」

「申した」

「はい」

「私は」

「そこで」

「荷ではなく」

「人を運んでいたと」

「知った」

 ◇

「なら」

 宗太が。

 声を強くする。

「なぜ」

「父へ」

「伝えなかった!」

「伝えようとした」

「いつ」

「江戸へ」

「戻った時」

「どこへ」

「松平宗右衛門家」

「何と」

「門前で」

「追い返された」

「誰に」

「家臣」

「名は」

「知らぬ」

「何と」

「宗太様は」

「病死」

「その話を」

「繰り返すな」

「家を乱すな」

「そう言われた」

「それで」

「諦めた?」

 伊三郎が。

 目を伏せる。

「ああ」

 宗太の手が。

 拳になる。

「一度で?」

「ああ」

「一度で」

「私は」

「四十三年!」

 宗太の声が。

 川へ。

 響く。

「四十三年!」

「自分が」

「なぜ消えたか」

「探した!」

「そなたは」

「一度門で」

「断られただけで!」

 伊三郎は。

 逃げない。

「ああ」

「その通りだ」

 ◇

「宗太殿」

 新之介が。

 声をかける。

「止めるな」

「止めません」

「では」

「何だ」

「言ってください」

「何を」

「伊三郎殿へ」

「今」

「何を思うか」

 宗太は。

 老人を見る。

「腹が立つ」

「はい」

「殺したいほどではない」

「はい」

「だが」

「許せない」

「はい」

「一度で」

「諦めたことを」

「はい」

 伊三郎が。

 深く頭を下げる。

「すまなかった」

 宗太が。

 顔を歪める。

「謝るな」

「何」

「今」

「謝られると」

「私が」

「許すか」

「許さないかを」

「決めねばならぬ」

「……」

「まだ」

「決めたくない」

 新之介が。

 静かに頷く。

「それで」

「よいと思います」

 伊三郎も。

 頭を上げた。

「では」

「待つ」

「何年」

 宗太が言う。

 伊三郎は。

 少し笑った。

「四十三年よりは」

「短い方がよい」

 宗太も。

 ほんの僅か。

 笑った。

 ◇

「それで」

 新之介が問う。

「戻すものとは」

「木札だけでは」

「ない?」

「違う」

 伊三郎は。

 川岸。

 大きな石の下から。

 油紙を。

 一つ。

 取り出した。

「いつから」

「ここに」

「今日」

「普段は」

「別の場所」

「何」

 宗太が問う。

「そなたが」

「海へ送られた時の」

「荷札」

 全員が。

 息を止める。

 伊三郎が。

 油紙を開く。

 木札。

 三枚。

 一枚目。

 ――病者。

 ――松平左京。

 二枚目。

 ――長崎送り。

 ――沢渡玄隆へ。

 三枚目。

 ――帰還不可。

 宗太の顔が。

 強張る。

「帰還不可」

「最初から」

「はい」

「では」

「病が治っても」

「戻す気は」

「なかった」

「そう見えます」

 清太郎が言う。

「でも」

「誰が書いたか」

「まだ」

「分からない」

 ◇

「裏を」

 伊三郎が言う。

「見ろ」

 新之介。

 木札を返す。

 裏。

 小さな。

 傷。

 文字ではない。

 三本。

 円。

 一本。

「海の御影」

 水野が言う。

「当時も」

「この印が」

「いや」

 伊三郎が。

 首を振る。

「それは」

「後から」

「私が付けた」

「何」

 サラがいれば。

 驚いただろう。

「なぜ」

「長崎で」

「同じ印を」

「持つ男を見た」

「誰」

「御影宗伯」

「本人?」

 新之介が問う。

「分からぬ」

「顔を」

「知らなかった?」

「名前だけ」

「では」

「その男が」

「自分で」

「宗伯と名乗った?」

「そうだ」

「何を」

「そなたを」

 宗太を見る。

「引き取りに来た」

 ◇

 宗太の顔が。

 完全に止まる。

「私を?」

「ああ」

「沢渡ではなく」

「宗伯が?」

「最初は」

「沢渡玄隆へ渡せと」

「荷札に」

「あった」

「はい」

「だが」

「長崎で」

「沢渡は」

「来なかった」

「代わりに」

「宗伯を名乗る男」

「その男が」

「『予定変更』と」

「申した」

「どこへ」

「海へ」

「さらに」

「外へ」

「それで」

「私は」

「船へ?」

「ああ」

 ◇

「伊三郎殿」

 新之介が言う。

「そなたは」

「その時」

「何をしていた」

「荷運び」

「誰の」

「長崎商人」

「名」

「栄屋弥兵衛」

「海送りと」

「知っていた?」

「知らぬ」

「では」

「宗太殿を」

「外国へ出すと」

「知った時」

「止めなかった?」

 伊三郎は。

 新之介を見る。

「止められなかった」

「止めようとは」

「した?」

「……少し」

 宗太の眉が。

 動く。

「少し?」

「宗伯へ」

「『病人だ』」

「『江戸へ返すべきでは』」

「そう申した」

「それだけ」

「ああ」

「また」

 宗太が笑う。

 怒りの笑い。

「そなたは」

「いつも」

「一度言って」

「終わるのだな」

 伊三郎が。

 黙る。

 ◇

「なぜ」

 新之介が問う。

「深く関わらなかった」

「怖かった」

「何が」

「御影」

「幕府」

「長崎奉行」

「商人」

「皆」

「つながっているように」

「見えた」

「一人の荷運びが」

「何を言っても」

「消されると思った」

「実際」

「宗太殿が」

「消されたのを」

「見たから?」

「ああ」

「だから」

「黙った」

「はい」

「それで」

「生き残った?」

「はい」

 ◇

 伊三郎が。

 片目で。

 宗太を見る。

「私は」

「卑怯だった」

「はい」

 宗太。

「だが」

「その卑怯で」

「四十三年」

「生きた」

「はい」

「だから」

 伊三郎は言う。

「今」

「話せる」

 宗太は。

 すぐに否定しなかった。

「それを」

「救いにするな」

「しない」

「黙ったことは」

「黙ったこと」

「今話すことは」

「今話すこと」

「分ける」

 新之介が。

 伊三郎を見る。

「学びました?」

「長いこと」

「そなたらを」

「見ていた」

「どこから」

「川」

「寺」

「船」

「再起館」

「かなり」

「いましたね」

「見届け役だ」

「その役は」

「誰に」

「自分で」

「決めた」

「それも」

「危ないですね」

 伊三郎が。

 少し笑う。

「だから」

「今」

「降りる」

 ◇

「何から」

 宗太が問う。

「見届け役」

「なぜ」

「見ているだけでは」

「足りなかった」

「今さら」

「ああ」

「遅い」

「ああ」

「なら」

「今」

「何をする」

「話す」

「全部?」

 新之介が。

 思わず言う。

 伊三郎が。

 睨む。

「見つかった範囲」

「よいですね」

「腹が立つ」

 ◇

「御影宗伯を名乗る男は」

「どんな」

 清太郎。

 筆。

「年」

「四十前後」

「背」

「高くない」

「左耳」

「欠け」

「傷?」

「生まれつきか」

「分からぬ」

「声」

「低い」

「言葉」

「長崎訛りなし」

「江戸」

「おそらく」

「印」

「海の印」

「持っていた」

「他に」

「右手」

「何」

「親指」

「爪」

「半分」

 宗太が。

 顔を上げる。

「それ」

「覚えている」

「本人を?」

「船へ」

「乗せられる前」

「一度」

「顔を近くで見た」

「何を言われた」

 宗太の目が。

 遠くなる。

「『左京』と」

「呼ばれた」

「私は」

「『宗太だ』と」

「答えた」

「男は」

 宗太の声が。

 掠れる。

「笑った」

「何と」

「『海へ出れば』」

「『どちらでもなくなる』」

 ◇

 新之介の顔が。

 険しくなる。

「その男が」

「海送りを」

「消去と」

「考えていた?」

「そうかもしれぬ」

「でも」

 清太郎が言う。

「その男が」

「宗伯本人とは」

「まだ」

「はい」

 新之介が頷く。

「決めません」

 ◇

「もう一つ」

 伊三郎が。

 言う。

「何です」

「船へ」

「宗太を渡した後」

「私は」

「男を追った」

 宗太が。

 顔を上げる。

「今度は」

「追った?」

「ああ」

「なぜ」

「そなたが」

「私を見た」

「何」

「船へ上がる直前」

「そなた」

「振り返った」

「それだけ?」

「それだけだ」

 伊三郎は。

 声を落とす。

「だが」

「私は」

「その時」

「思った」

「この子は」

「私を」

「覚えると」

「そして」

「いつか」

「戻ってくると」

「なぜ」

「分からぬ」

「だから」

「男を追った」

「どこまで」

「長崎の寺」

「名」

「海雲寺」

「そこで」

「何を」

「男は」

「誰かへ」

「文を渡した」

「誰」

「若い武士」

「顔」

「覚えている?」

「だいたい」

「名は」

「呼ばれた」

「何と」

 伊三郎は。

 一息。

「久松平蔵」

 宗太の顔が。

 変わる。

 新之介も。

 ◇

「久松右近殿の」

「父」

「可能性があります」

「平蔵は」

「後に」

「救小屋の」

「選別役へ」

「関わった」

 新之介が言う。

「つまり」

「四十三年前」

「海送り」

「その後」

「救小屋」

「さらに」

「見捨役」

「つながる?」

「待て」

 水野が止める。

「一本へ」

「つなぐな」

 新之介が。

 少し笑う。

「水野様」

「何だ」

「かなり」

「慣れましたね」

「嬉しくない!」

 ◇

「でも」

 清太郎が言う。

「久松平蔵が」

「同一人物なら」

「重要です」

「はい」

「ただし」

「何をしたか」

「確認」

「文を」

「受け取った」

「それだけ?」

「伊三郎殿の証言では」

「はい」

「内容は」

「見ていない」

「なら」

「海送りへ」

「加担したとは」

「まだ言えない」

「はい」

 ◇

「伊三郎殿」

 新之介が問う。

「その後」

「久松平蔵を」

「追った?」

「少し」

 宗太が。

 眉を上げる。

「また少しか」

「今度は」

「三日」

「十分ではない」

「分かっておる」

「で」

「何が」

「平蔵は」

「別の男と」

「会った」

「誰」

「松平左京」

 宗太が。

 目を閉じる。

「どの」

「それが」

「分からぬ」

「年齢」

「五十ほど」

「では」

「宗太殿ではない」

「当たり前だ」

「名を」

「役として」

「使う者」

「はい」

「会話」

「聞いた?」

「一部」

「何と」

 伊三郎が。

 記憶を。

 たどる。

「平蔵が」

「『子まで使うのか』」

「そう申した」

 全員が。

 静かになる。

「相手は」

「何と」

「『子だから使う』」

 宗太が。

 拳を握る。

「続き」

 ◇

「『大人は』」

「『自分の名を知りすぎている』」

「『子なら』」

「『名から人を作れる』」

 新之介の顔が。

 硬くなる。

 子替帳。

 役名を。

 子へ。

 預ける。

 その思想。

「平蔵は」

「反対?」

「少なくとも」

「その時は」

「『そんなことは』」

「『人のすることではない』」

「そう言った」

 宗太が。

 低く笑う。

「その男が」

「後に」

「救小屋で」

「人を」

「中と外へ」

「分けた?」

「人は」

 新之介が言う。

「同じままでは」

「ありません」

「はい」

「昔」

「反対した人が」

「後に」

「似たことをする」

「逆も」

「あります」

 ◇

「松平左京を」

「名乗った男は」

「何と返した」

 伊三郎が。

 ゆっくり。

「『人のすることではないから』」

「『役がする』」

 新之介の目が。

 鋭くなる。

「役目を」

「人から」

「切り離す?」

「そうだ」

「責任も?」

「おそらく」

 水野が。

 低く呻く。

「最悪だな」

「何が」

 家定なら。

 そう聞いたかもしれない。

 新之介が代わりに。

「人が」

「『役がした』と」

「言えるようになる」

「はい」

「だから」

「誰も」

「自分が決めたと」

「言わなくて済む」

「それが」

 宗太が。

 四十三年の怒りを。

 言葉へ。

「海送りの」

「根か」

 新之介は。

 首を振る。

「根と」

「決めません」

 宗太が。

 苦笑する。

「分かっている」

「ただ」

「初期の考え方の」

「一つかもしれません」

「それでよい」

 ◇

「その左京を」

 新之介が問う。

「伊三郎殿は」

「どこまで追った」

「江戸」

「何」

「戻った?」

「ああ」

「寺」

「屋敷」

「川」

「最後」

「御救小屋」

 宗太が。

 顔を上げる。

「四十三年前?」

「古い御救小屋」

「今の場所と」

「同じ?」

「近い」

「何を」

「左京は」

「そこで」

「誰かへ」

「帳面を渡した」

「誰」

 伊三郎が。

 長く。

 黙る。

「言ってください」

「私は」

「その男を」

「後に」

「もう一度見た」

「どこで」

「二十数年前」

「長崎」

「名は」

 ◇

「御影宗太郎」

 沈黙。

 新之介の中で。

 古い。

 御影。

 松平。

 左京。

 宗太郎。

 海送り。

 救小屋。

 子替。

 一本に。

 つなぎたくなる。

 だから。

 止める。

「同じ人物?」

「顔は」

「同じに見えた」

「二十年後」

「年齢は」

「合った?」

「合った」

「でも」

「代替の可能性」

「ある」

 伊三郎が言う。

 新之介が。

 少し驚く。

「そなたが」

「それを言う?」

「学んだ」

 ◇

「では」

 伊三郎が見たものを。

「一つずつ」

 清太郎。

 記録。

 ――四十三年前。

 ――松平左京を名乗る五十代ほどの男。

 ――久松平蔵と思われる若い武士と会話。

 ――子を役へ用いる趣旨の発言。

 ――その後。

 ――旧御救小屋近辺で帳面を他者へ渡す。

 ――受取人の顔。

 ――後年。

 ――御影宗太郎を名乗る人物と酷似。

 ――同一人物かは未確認。

「それで」

 伊三郎が言う。

「よい」

 ◇

「帳面は」

 新之介が問う。

「どんな」

「黒」

「大きさ」

「根帳と」

「同じくらい」

「題」

「見えた」

「何」

 伊三郎の顔が。

 僅かに強張る。

「捨帳」

 宗太。

 水野。

 清太郎。

 全員が。

 息を止める。

「今ある捨帳より」

「四十三年前?」

「いや」

「渡した帳面に」

「そう書いてあった」

「中身は」

「見ていない」

「では」

「今の捨帳と」

「同じものか」

「不明」

「はい」

 ◇

「ただし」

 伊三郎が続ける。

「その帳面の」

「裏」

「何か」

「文字」

「一つ」

「何」

「見捨てる者を」

「先に見捨てよ」

 宗太の顔が。

 青ざめる。

 現在の捨帳。

 ――見捨役が迷う時。

 ――見捨役を捨てよ。

 似ている。

 だが。

 同じではない。

「四十三年前から」

 清太郎が呟く。

「見捨役を」

「監視する考えが?」

「あるいは」

 新之介が言う。

「見捨役そのものを」

「消耗品にする考え」

 水野が。

 顔をしかめる。

「違いは」

「大きい」

「はい」

「監視なら」

「権力を止める」

「消耗品なら」

「人をまた捨てる」

「同じ文に」

「見えても」

「前と後ろが違う」

「はい」

 ◇

「宗太殿」

 新之介が言う。

「そなたが」

「海へ送られた理由」

「少し」

「見えてきました」

「何」

「将軍代替を」

「見たから」

「それも」

「あるかもしれません」

「でも」

「ほか」

「そなた自身が」

「松平左京という」

「役名の保管場所だった」

「……」

「何かの時」

「使う予定の人間」

「はい」

「でも」

「十五歳で」

「役の仕組みに」

「気づきかけた」

「だから」

「海へ」

「出された?」

「可能性」

「あります」

「なら」

「沢渡へ」

「渡すという」

「追記は」

「将来」

「別の役へ」

「使うため」

「はい」

 宗太が。

 木札を。

 強く握る。

「私は」

「最初から」

「名を入れる箱だった?」

 新之介は。

 すぐには答えない。

「そう扱おうとした人が」

「いた」

「でも」

「そなたは」

「箱ではない」

「……」

「十五歳で」

「『宗太だ』と」

「言った」

「それを」

「伊三郎殿が」

「覚えている」

「はい」

「だから」

「人の方が」

「先に残った」

 宗太の目が。

 赤くなる。

 ◇

「戻すもの」

 宗太が。

 伊三郎を見る。

「まだ」

「あるのか」

「ああ」

「何」

 伊三郎が。

 懐から。

 小さな。

 紙片。

「そなたの父から」

 宗太が。

 完全に動きを止める。

「父?」

「門前で」

「追い返された後」

「私は」

「三日」

「家の近くにいた」

「なぜ」

「一度では」

「足りないと」

「今度は」

「思った」

 宗太が。

 顔を歪める。

「四十三年」

「それを」

「先に言え」

「すまぬ」

「謝るな!」

「はい」

 ◇

「三日目」

 伊三郎が続ける。

「松平宗右衛門殿が」

「一人で」

「門から出た」

「父が?」

「ああ」

「私は」

「追った」

「声をかけた」

「何と」

「『宗太殿は』」

「『生きています』」

 宗太が。

 息を止める。

「父は」

「何と」

「最初」

「信じなかった」

「それから」

「そなたの木札のことを」

「話した」

「はい」

「父は」

「泣いた」

 宗太の目が。

 閉じる。

 ◇

「なら」

「なぜ」

「父は」

「私を」

「探さなかった」

「探した」

「何」

「私へ」

「金を」

「渡した」

「長崎へ戻れ」

「宗太を探せ」

「そう頼んだ」

「そなたは」

「行った?」

「ああ」

「見つけた?」

「船は」

「出た後」

「どこへ」

「分からなかった」

「それで」

「終わった?」

「違う」

「父から」

「半年ごとに」

「金が来た」

「三年」

「私は」

「探した」

 宗太の顔から。

 怒りが。

 少しだけ。

 別のものへ変わる。

「三年」

「ああ」

「では」

「父は」

「私を」

「諦めて」

「いなかった?」

「少なくとも」

「その三年は」

 ◇

「なぜ」

「それを」

「四十三年」

「伝えなかった!」

「そなたを」

「見つけられなかった」

「その後」

「私は」

「海へ」

「商い」

「蝦夷」

「琉球」

「唐」

「戻った時」

「父は」

「死んでいた」

「それでも」

「記録を」

「残せた!」

「ああ」

「なぜ」

「残さなかった」

 伊三郎が。

 深く。

 頭を下げる。

「私は」

「自分が」

「失敗したことを」

「残したくなかった」

 ◇

 宗太の顔が。

 完全に変わる。

「何」

「三年」

「探した」

「でも」

「見つけられなかった」

「父から」

「託された」

「それを」

「果たせなかった」

「だから」

「私は」

「この話を」

「誰にも」

「しなかった」

「自分の失敗を」

「消した?」

「ああ」

 新之介は。

 静かに。

 伊三郎を見る。

「記録を」

「嫌う人でも」

「自分に都合の悪いことを」

「残さないことはある」

「はい」

「帳面が」

「人を縛ることも」

「あります」

「でも」

「帳面がなければ」

「伊三郎殿が」

「黙った時」

「宗太殿は」

「父上に」

「探されていたことを」

「知れない」

「……ああ」

 ◇

「私は」

 伊三郎が。

 宗太へ。

「そなたから」

「父を」

「二度奪った」

「一度目は」

「伝えられなかった」

「二度目は」

「探していたことを」

「黙った」

「はい」

「許せとは」

「申さぬ」

「今は」

「聞きました」

「それで」

「よい」

「よくない」

 宗太が言う。

「何」

「これから」

「そなたが」

「何を知っていたか」

「全部」

「……」

「見つかった範囲」

 新之介が。

 小さく訂正する。

 宗太が。

 新之介を睨む。

「今は」

「黙れ」

「はい」

 ◇

 宗太は。

 伊三郎を見る。

「紙を」

「見せろ」

 小さな紙。

 父。

 松平宗右衛門の筆。

 ――伊三郎殿。

 ――宗太を。

 ――どうか。

 ――名ではなく。

 ――子として。

 ――連れ戻してほしい。

 宗太の肩が。

 震える。

 次。

 ――左京の名は。

 ――捨ててもよい。

 ――家も。

 ――役も。

 ――いらぬ。

 ――生きて。

 ――帰ればよい。

 宗太は。

 紙へ。

 額を当てた。

 四十三年。

 父を。

 自分を。

 捨てた側だと。

 思っていた。

 だが。

 違う部分も。

 あった。

 それで。

 失った時間が。

 戻るわけではない。

 海送りが。

 許されるわけでもない。

 ただ。

 一つの記憶が。

 書き換わる。

「父は」

 宗太が。

 泣きながら言う。

「私を」

「捨てなかった」

「少なくとも」

 新之介が。

 静かに。

「この手紙を書いた時は」

「はい」

「今は」

「それでよい」

 ◇

 夜明け前。

 小名木川。

 宗太。

 伊三郎。

 二人。

 川を見る。

「伊三郎」

「何だ」

「この木札」

「はい」

「返さなくてよい」

「何」

「そなたが」

「持て」

「なぜ」

「私は」

「宗太だと」

「もう」

「覚えた」

 伊三郎の顔が。

 崩れる。

「なら」

「これは」

「そなたが」

「忘れないために」

「何を」

「人を」

「荷にした日を」

 伊三郎が。

 木札を。

 両手で受ける。

「ああ」

「持つ」

 ◇

 その時。

 辰蔵が。

 走ってくる。

「榊原さん!」

「何です」

「江戸城から!」

「急ぎ!」

「誰が」

「家定様!」

「内容!」

 紙。

 ――仮交渉会議。

 ――米利堅側。

 ――新たな申し出。

 新之介が読む。

 ――海送り第一号。

 ――宗太の記録について。

 ――残る原本一冊を。

 ――日本側へ返還する用意あり。

「よい話では」

 水野が言う。

「続きがあります」

 ――ただし。

 ――交換条件。

 宗太が。

 顔を上げる。

「何を」

 新之介が。

 次を読む。

 ――日本側が保有する。

 ――徳川家斉代替記録。

 ――原本一冊。

 ――引き渡しを求む。

 水野が。

 眉をひそめる。

「なぜ家斉」

「まだ」

 次。

 ――理由。

 ――米利堅側に。

 ――現在。

 ――徳川家斉を名乗る人物が。

 ――一名いる。

 沈黙。

 宗太が。

 小さく笑う。

「海は」

「本当に」

「何でもいるな」

 新之介は。

 笑わなかった。

 さらに。

 一行。

 ――本人。

 ――日本への帰国を希望。

 そして。

 ――本人申告。

 ――出生名。

 紙を持つ手が。

 僅かに止まる。

「誰」

 宗太が問う。

 新之介は。

 読み上げた。

「御影宗伯」

 伊三郎の片目が。

 大きく開く。

 四十三年前。

 長崎で。

 宗太を。

 海へ送り出した男。

 御影宗伯。

 その名を。

 今度は。

 徳川家斉として。

 生きている男が。

 海から。

 戻ろうとしている。

「榊原」

 宗太が言う。

「はい」

「今度は」

「私は」

「その男へ」

「何を聞けばよい」

 新之介は。

 川面を見る。

 朝。

 最初の光。

「まず」

「そなたを」

「海へ送ったのか」

「それだけです」

「もし」

「はい」

「送ったと」

「言ったら」

「その次を」

「聞きましょう」

「なぜ」

「何を守ろうとした」

「誰を捨てた」

「誰へ聞かなかった」

 宗太が。

 ゆっくり頷く。

「今度は」

「名ではなく」

「行いを」

「はい」

 新之介は。

 刀の柄へ。

 触れなかった。

 斬るべき相手を。

 探すためではない。

 四十三年前。

 一人の少年を。

 海へ送った。

 その行いを。

 人のところへ。

 戻すために。

(第九十七章へ続く)

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