上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第四十五章

目次

第四十五章 白煙の弁天堂

 不忍池の水面を、白い煙が這っていた。

 霧に似ている。

 だが朝の冷気から生まれたものではない。

 水へ触れた草が黒ずみ、岸辺の小魚が腹を上へ向けて浮かんでいる。

 煙を吸った鴨が一羽、水面を激しく羽ばたいた。

 飛び上がることができず、そのまま葦の間へ倒れる。

「全員、口と鼻を覆え!」

 水野隼人正が叫んだ。

「濡らした布を使え! 煙の低い場所へ近づくな!」

 高梨勘兵衛たちが手拭いを池の水へ浸そうとする。

「池の水は使うな!」

 新之介が止めた。

「薬が混じっている!」

「では、どこから」

「井戸か、茶屋から水を!」

 近くの茶屋はまだ戸を閉じていた。

 海防掛の兵が戸を叩く。

「役目だ! 水を借りる!」

 中から怯えた声が返る。

「火事ですか!」

「煙だ! 戸を開けるな! 水桶だけ裏から出せ!」

 茶屋の者は事情を理解できていない。

 それでも裏口から水桶を押し出した。

 布を濡らし、口と鼻へ巻く。

 新之介も手拭いを受け取った。

 若い僧が肩の傷を押さえる。

「まだ血が止まっておりません」

「煙の方が先だ」

「どちらも先です」

「同時にしてください」

「無理を申さないでください」

 僧は新之介の肩へ新しい布を強く巻いた。

「これ以上動けば、本当に縫えなくなります」

「動かなければ、地下の者が」

「分かっています」

 僧は布の端を歯で引き締めた。

「だから死なない程度に動いてください」

「難しい注文だ」

「皆、同じことを申します」

 弁天堂の方角から、再び鐘が鳴った。

 一度。

 二度。

 三度。

 四度。

 引き上げろ。

 井戸の底で決めた合図と同じ。

「玄斎先生です」

 新之介が言った。

「なぜ分かる」

 水野が問う。

「四度鳴らすと決めたのは半九郎殿だ」

「宗山も聞いている可能性がある」

「それでも、中に誰かがいる」

 弁天堂へ通じる参道は、煙に半分包まれている。

 橋を渡れば風下へ入る。

 煙は地面近くを流れ、時折風に押し上げられていた。

「正面からは行けぬ」

 高梨が言う。

「舟を出す」

「水面にも煙があります」

「風上から回る」

 水野は池の北側を見た。

 風は北西から南東へ吹いている。

 弁天堂の北へ舟を回せば、煙の薄い側へ近づける。

「舟は」

「池守の小屋に二艘あります」

 矢倉勘蔵が答えた。

「知っているのか」

「昔、見回りで使った」

「また昔か」

「役に立つ昔もある」

 矢倉は池守の小屋へ走った。

 新之介も続こうとする。

 水野が前へ出た。

「そなたはここへ残れ」

「またですか」

「肩を見ろ」

「見えません」

「ならば触れ」

「痛いです」

「残れ」

「先生が地下にいる」

「私が行く」

「鷹見宗山に狙われています」

「そなたもだ」

「ならば二人で」

「傷人を舟へ乗せれば、助ける者が増える」

 新之介は言葉を失った。

 水野の言うとおりだった。

 舟の上で傷が開き、倒れれば、それだけ人手を使う。

「動かぬことも役目だ」

「それを申されると腹が立ちます」

「知っている」

「ですが」

「今度は本当に残れ」

 水野は新之介の前へ立った。

「玄斎たちは、そなたを助けるために地下へ入ったのではない」

「分かっています」

「ならば、助けられる者になるな」

 新之介は拳を握った。

 動きたい。

 煙の中へ入りたい。

 先生たちの声を確かめたい。

 だが今ここで必要なのは、自分の心を満たすことではない。

「……分かりました」

「素直だな」

「腹は立っています」

「それでよい」

 ◇

 舟には、水野、高梨、矢倉、海防掛の兵二人が乗った。

 もう一艘には町方の同心三人。

 戸田家の家臣一人。

 濡らした筵。

 縄。

 鉤。

 水桶。

 さらに火薬箱を扱うための長い挟み棒。

「煙を吸った者は、すぐ風上へ運べ」

 水野が命じる。

「箱を見つけても触れるな」

「地下の者が先ですね」

 高梨が確認する。

「ああ」

「帳面や箱より」

「人が先だ」

 矢倉が水野を見る。

「十五年前なら、同じことを申したか」

 水野は舟へ乗りながら答えた。

「申さなかった」

「今は」

「申す」

「それで昔が消えるか」

「消えぬ」

「ならばよい」

 矢倉は櫂を握った。

 舟が岸を離れる。

 煙の薄い北側へ大きく回る。

 新之介は岸から見送った。

 動かない代わりに、周囲を見た。

 池の東側。

 弁天堂の屋根。

 煙の流れ。

 岸辺の人影。

「高梨殿!」

 新之介が叫ぶ。

「屋根に人がいる!」

 弁天堂の背後。

 屋根の棟に、黒い影が立っている。

 顔は見えない。

 手に長い竿。

 竿の先から、細い煙が出ている。

「煙を動かしている!」

 高梨が見上げた。

 影は竿を屋根の穴へ差し込んだ。

 白煙がさらに噴き出す。

「弓を!」

 兵が弓を構える。

「殺すな!」

 新之介が叫ぶ。

「仕掛けを止めさせろ!」

「届きません!」

「竿を狙え!」

 矢が飛ぶ。

 一本目は瓦へ当たる。

 二本目が竿を弾いた。

 黒い影がよろめく。

 顔の布が外れた。

 左の耳がない。

 水野役宅で鷹見静山の声を使っていた男。

「同じ者だ!」

 男は竿を捨て、屋根の反対側へ逃げる。

 高梨が舟から岸へ飛び移ろうとする。

「待て!」

 水野が止めた。

「地下の者が先だ!」

「逃げます!」

「顔は見た!」

 新之介は水野の言葉に、思わず苦く笑った。

 自分が何度も使った言葉。

 今は水野が選んでいる。

「町方の舟を裏へ!」

 水野が命じる。

「二人だけで追え! 残りは地下口を探せ!」

 すべてを一方へ向けない。

 役目を分ける。

 黒布の男を追う者。

 地下の者を救う者。

 煙の箱を止める者。

 岸の人々を避難させる者。

 白煙が広がるほど、選ぶべきことも増えていく。

 ◇

 弁天堂の北側へ舟を着けると、石垣の下に小さな排水口があった。

 水野が身を屈める。

「ここだ」

 排水口の鉄格子が外されている。

 中から煙とともに、かすかな音。

 かん。

 かん。

 かん。

 かん。

 鐘ではない。

 金属を石へ打ちつける音。

「玄斎殿!」

 高梨が呼ぶ。

 返事はない。

 代わりに四度の音が繰り返される。

「入口が塞がっている」

 矢倉が排水口を覗く。

「石が落ちている」

「崩せるか」

「外から引く」

 鉤を石の隙間へ差し込む。

 縄を舟へ結び、全員で引く。

「せえの!」

 石は動かない。

「もう一度!」

 縄が軋む。

 石がわずかにずれる。

 隙間から白煙が噴き出した。

「伏せろ!」

 全員が舟底へ身を落とす。

 濡れた筵を排水口へかぶせる。

 煙の勢いが弱まる。

「中の者も吸っている」

 水野が言った。

「急げ」

 矢倉が鉤を掛け直す。

 三度目。

 大きな石が水中へ落ちた。

 排水口の奥に、人の手が見えた。

「誰だ!」

 高梨が腕を掴む。

 引き出されたのは源太郎だった。

 顔は青白い。

 口元を濡れた袖で覆っている。

「源太郎!」

 水野が支える。

「中に……まだ」

「誰がいる」

「玄斎先生……兵庫殿……半九郎殿……お志津殿……お澄殿」

「宗山は」

「奥です」

「なぜそなたが先に」

「脚が……役に立たぬので、外へ出ろと」

「傷人は皆」

 源太郎が苦しげに笑う。

「同じことを申します……」

 咳き込む。

 白い泡の混じった唾が出た。

「風上へ運べ!」

 高梨が兵へ命じる。

「私は戻ります」

「戻るな」

 水野が止める。

「中の道を知っています」

「話せ」

「排水路を真っ直ぐ。途中で二つに分かれます。右が墓地。左が弁天堂の地下」

「玄斎たちは」

「左です」

「宗山は」

「さらに奥の石室へ」

「煙の箱も」

「石室の手前」

 水野は排水口を見る。

「誰が行く」

「私が」

 高梨。

「私も」

 矢倉。

 海防掛の兵一人。

 町方同心一人。

「四人までだ」

 水野が言う。

「水野様は」

「ここで引き上げる」

「宗山へ聞くのでは」

「中へ入れば、救う者を増やす」

 水野は自ら残ることを選んだ。

 新之介と同じ。

 動きたい者が、動かぬ方を選ぶ。

「中で四度打てば引く」

「縄は」

「腰へ結べ」

 高梨たちは濡れた筵を身体へ巻き、排水路へ入った。

 ◇

 岸では、新之介が避難を指揮していた。

 弁天堂へ近づこうとする見物人を止める。

 煙を吸った者を風上へ運ぶ。

 倒れた鴨や魚へ子どもが近づかないよう、縄を張る。

「触るな!」

 少年が浮いた魚を拾おうとする。

「食えるかもしれない」

「毒がある」

「でも、家に飯が」

 新之介は少年の手を掴んだ。

「これは食うな」

「ならば何を食えばいい」

 答えられない。

 目の前の毒魚を奪うだけでは、少年の腹は満たされない。

「高梨殿の役宅へ行け」

 新之介が言う。

「何で」

「米を出させる」

 水野の役宅に備蓄している米。

 火薬蔵の火を消した者たちへ出すためのもの。

「本当に」

「ああ」

「役人の家だろ」

「私の名を申せ」

「誰だ」

「榊原新之介」

 少年の顔が変わる。

「異国人から金をもらった侍か」

 続帳の話が、もう広がっている。

「そう書かれた」

「本当か」

「今、確かめている」

「分からねえのか」

「ああ」

「自分のことなのに」

「受け取っていないことは分かる。誰がなぜ書いたかが分からぬ」

 少年は新之介をじっと見た。

「米は本当に出るのか」

「出なければ再起館へ来い」

「そこも侍の家か」

「何の家か、説明すると長い」

 少年は少し笑った。

「じゃあ先に役宅へ行く」

「ああ」

「魚は」

「置いていけ」

 少年は毒魚を水辺へ戻した。

 腹を空かせた者へ「食うな」と言うなら、別の食べ物を示さなければならない。

 禁止だけでは人は救えない。

 罪を暴くだけでも同じだ。

 帳面へ名を見つけ、罰を与えるだけでは、仕組みは変わらない。

 新之介は池の白煙を見つめた。

 煙は目に見える。

 だから人は逃げる。

 だが米価や借財や偽りの記録は、目に見えないまま人を弱らせる。

 鷹見静山は、それを見せるために帳面を残したのだろうか。

 それとも宗山の言うとおり、壊すためだったのか。

 答えは、まだない。

 ◇

 排水路の中は、腰まで水があった。

 高梨たちは縄で互いをつなぎ、壁を伝って進む。

 濡れた布越しでも、喉が焼ける。

 目が痛い。

「止まれ」

 矢倉が手を上げた。

 前方に人影。

 壁へ寄りかかっている。

「誰だ」

「……高梨か」

 玄斎の声。

「黒川殿!」

 高梨が駆け寄る。

 玄斎は兵庫を支えていた。

 兵庫の顔には布が巻かれている。

 半九郎は、お志津を背負っている。

 お澄は自分で歩いているが、目がほとんど開かない。

「宗山は」

 高梨が問う。

「奥だ」

 玄斎が答える。

「煙の箱を開けたのか」

「違う」

「では」

「開けられた」

「誰に」

「耳のない男だ」

 宗山の配下もまた、使い捨てにされたのか。

「宗山は止めようとした」

 半九郎が言う。

「何」

「煙を出すつもりはなかったと」

「信じるのか」

「分かりません」

「宗山は今どこだ」

「石室へ残った」

「なぜ」

「箱の仕掛けを閉じるためです」

「一人で」

「鷹見静山の声を残す器が、石室にある」

「器?」

 玄斎が咳き込んだ。

「声を刻んだ筒だ」

 異国の仕掛け。

 細い金属板や蝋へ振動を残し、同じ声を再び鳴らす器。

 完全な言葉を保存できるものではない。

 だが短い声や節回しなら、似せるための手本になる。

「宗山は兄の声を残していた」

「それを取りに」

「燃やすと申した」

「なぜ」

「自分が使ったからだ」

 宗山は兄の声を利用し、人を動かした。

 今になって、その声を消そうとしている。

 後悔か。

 証拠隠滅か。

 まだ分からない。

「先に出ろ」

 高梨が言う。

「宗山は我らが」

「わしも戻る」

 玄斎が答える。

「残れ」

「先生の弟だ」

「煙を吸っている」

「歩ける」

「傷人は皆」

「分かっておる」

「ならば」

「それでも行く」

 高梨は玄斎を見た。

「新之介殿なら、止めます」

「おらぬから行く」

「戻れば叱られます」

「戻らねば叱られぬ」

「死ぬ方へ逃げるな」

 兵庫が、かすれた声で言った。

 佐平へ自分が言った言葉。

 今度は玄斎へ向ける。

「宗山を一人で死なせれば、また十五年前と同じだ」

 玄斎が答える。

「だから私が行く」

 兵庫は立とうとした。

 脚に力が入らず、崩れる。

「そなたは無理だ」

「ならば」

「わしが行く」

「一人にするな」

 高梨が決めた。

「私が同行する」

「高梨殿!」

 海防掛の兵が止める。

「残りは全員を外へ運べ」

「水野様の命は救助です」

「宗山も人だ」

「罪人です」

「罪人は人ではないのか」

 兵は答えられなかった。

 玄斎と高梨が石室へ向かう。

 残った者たちは兵庫たちを排水口へ運ぶ。

 半九郎が玄斎の背へ叫んだ。

「先生!」

「何だ」

「四度です!」

「分かっておる」

「必ず鳴らしてください!」

「できぬ約束はせぬ」

「では」

 半九郎は言葉に詰まった。

「戻る場所を」

 玄斎が自分から答えた。

「間違えぬ」

 ◇

 石室の前には、割れた鉄箱があった。

 蓋の内側で、白い薬が水と混じり、煙を出している。

 宗山は濡れた僧衣をかぶせ、煙を抑えようとしていた。

 隣には、細長い木箱。

 蓋が開き、中に金属の筒が何本も並んでいる。

「宗山!」

 玄斎が呼ぶ。

 宗山が振り返る。

 目は赤く腫れ、顔色は青い。

「なぜ戻った」

「そなたを置いていけば、また先生へ叱られる」

「兄はもういない」

「だから都合よく使ったのか」

「……ああ」

 宗山は否定しなかった。

「兄の問いだけでは、人は動かなかった」

「動かぬ者を、無理に動かした」

「時間がなかった」

「皆それを申す」

「異国船は来る!」

「だから煙で江戸を焼くのか」

「これは私の命ではない!」

「では誰だ」

「久世屋文吉だ」

 松波屋から逃げた男。

「耳のない男は」

「文吉の手の者だ」

「名は」

「音次」

「声を使った者か」

「ああ」

「そなたと組んでいた」

「兄の声を広めるために」

「そして捨てられた」

「そうだ」

 宗山は煙の箱を見た。

「文吉は、帳面も声も信じられなくするつもりだ」

「何のために」

「真も偽りも分からぬ国へすれば、金だけが残る」

「国を変えるのではない」

「売るのだ」

「誰へ」

「最も高く買う者へ」

 長兵衛よりも徹底した商い。

 記録を売るのではない。

 記録への信を壊し、混乱そのものを売る。

「音次はどこへ」

「声の筒を一つ持って逃げた」

「誰の声だ」

「兄ではない」

「では」

 宗山が木箱を見る。

 一か所だけ、筒が抜かれている。

 その下の札に名があった。

 ――徳川家慶公。

 将軍の声。

 玄斎と高梨は息を呑んだ。

「本物か」

 高梨が問う。

「似せた声だ」

「何を言わせる」

「分からぬ」

「勅命でも作るつもりか」

「将軍の声で命を出せば、兵も役人も動く」

「筆の次は声」

 玄斎が呟く。

「偽の上意を作る」

 帳面へ罪を書き。

 死者の声で人を集め。

 次は将軍の声で役人を動かす。

「どこで使う」

「文吉は、今朝の辰の刻に船を出す」

「どこから」

「御船蔵」

 幕府の船を管理する場所。

「誰を動かす」

「海防掛だ」

 高梨の顔色が変わる。

「偽の上意で、異国船を江戸湾へ入れる」

「何のために」

「火薬と銀を運び込む」

「海防掛が自ら護衛する形にするのか」

「そうだ」

 辰の刻まで、時間は少ない。

「水野様へ知らせる」

 高梨が戻ろうとする。

 宗山が咳き込みながら叫ぶ。

「待て!」

「何だ」

「この箱を閉じねば、外へ出られぬ」

「どう閉じる」

「薬を水へ沈める」

「池の水は汚染される」

「ここで煙を出し続ければ、地下の者が死ぬ」

「どちらかを選ぶのか」

「ほかにない」

 玄斎は石室を見回した。

 鉄箱。

 排水溝。

 金属の筒。

 石床。

「水へ沈めぬ」

「では」

「石室を閉じる」

「我らも中だ」

「そなたは出ろ」

「玄斎!」

「高梨。将軍の偽声を知らせろ」

「そなたは」

「箱を止める」

「一人では」

「宗山がいる」

 宗山が玄斎を見る。

「私を信用するのか」

「せぬ」

「では」

「一人ではない方がましだ」

「逃げるかもしれぬ」

「足が動かぬだろう」

 宗山は苦く笑った。

「兄の弟子は、皆、口が悪い」

「先生のせいだ」

「私も弟だ」

「似なかったな」

「そうだな」

 短い沈黙。

 高梨は迷った。

 将軍の偽声を止めるには、一刻も早く水野へ知らせねばならない。

 だが玄斎と宗山を残せば、二人は煙の中で死ぬかもしれない。

「大事の前に小事にするな」

 玄斎が言った。

「両方を見ろ」

「どうすれば」

「外へ出て、人を呼べ」

「間に合わぬかもしれません」

「ならば戻れ」

「簡単に」

「行け」

 宗山も言った。

「私は、兄の声を使った始末をする」

「死んで終わらせるな」

 高梨が返す。

「生きて話せ」

 宗山の目が揺れた。

 兵庫が佐平へ。

 玄斎が宗山へ。

 同じ言葉がつながっていく。

「四度鳴らせ」

 高梨は鐘代わりの鉄筒を宗山へ渡した。

「必ず引く」

「できぬ約束は」

「します」

 高梨は断言した。

「引くまで何度でも戻る」

 そして排水路へ走った。

 ◇

 岸へ運び出された玄斎たちを見て、新之介は駕籠から立ち上がった。

「先生は」

「中です」

 半九郎が咳き込みながら答える。

「誰と」

「宗山と」

「なぜ置いてきた」

「高梨殿が戻っています」

「なぜ先生を」

「新之介様」

 半九郎が新之介の袖を掴んだ。

「私も戻りたかった」

「ならば」

「お志津殿と兵庫殿を、誰が運ぶのです」

 新之介は言葉を止めた。

 半九郎も選んだ。

 玄斎を追うことではなく、今腕の中にいる者を外へ運ぶことを。

「四度鳴らすと」

「ああ」

「まだです」

 全員が弁天堂を見た。

 白煙は少し薄くなっている。

 だが鐘の音はない。

 一度。

 二度。

 三度。

 四度。

 誰もが、その音を待つ。

 代わりに排水口から高梨が現れた。

「水野様!」

「玄斎殿は」

「中です!」

「なぜ」

「将軍の偽声が奪われました!」

 水野の顔が変わる。

「何」

「久世屋文吉は、偽の上意で海防掛を動かし、御船蔵から船を出すつもりです!」

「刻限は」

「辰の刻!」

 水野は空を見た。

 夜は明け始めている。

 残り一刻ほど。

「高梨、御船蔵へ走れ」

「玄斎殿が」

「人を残す」

「誰を」

「私だ」

 新之介が言った。

「そなたは傷人だ」

「舟へは乗らぬ。岸で引く」

「御船蔵は」

「水野様が止める」

「私を行かせるのか」

「海防掛を動かせるのは、そなたです」

「偽の上意があれば、私の命でも止まらぬ者がいる」

「ならば本人が行って、偽だと申せ」

「その間に玄斎殿が」

「こちらは私が見る」

 水野と新之介の目が合う。

 二つの危急。

 どちらも人命に関わる。

 一方を選び、一方を捨てるのではない。

 分かれる。

 任せる。

 疑いながらも、背中を預ける。

「必ず引き上げろ」

 水野が言った。

「できぬ約束は」

「しません」

「そこは、すると申せ」

「引き上げます」

 水野は頷き、高梨と兵を連れて御船蔵へ向かった。

 ◇

 新之介は排水口の前へ座った。

 肩の傷。

 白煙。

 喉の痛み。

 それでも縄を握る。

 矢倉。

 町方同心。

 戸田家臣。

 半九郎。

 源太郎。

 動ける者が縄へ並ぶ。

 お志津とお澄は風上で治療を受ける。

 兵庫は起きようとしたが、辰蔵の代わりに来た火消しへ押さえられた。

「私も引く」

「寝ていろ」

 新之介が言う。

「玄斎だけに始末させるな」

「そなたは佐平の始末を生きてする」

「宗山も」

「生きて話させる」

「できるか」

「引く」

 その時。

 排水路の奥から金属音が響いた。

 一度。

 二度。

 三度。

 間が空く。

 誰も息をしない。

 四度目。

 かん。

「引け!」

 新之介が叫んだ。

 全員が縄を引く。

 重い。

 途中で何かに引っかかっている。

「もう一度!」

 縄が軋む。

 排水口から白煙が噴き出す。

「手を離すな!」

 新之介の肩から血が流れる。

 半九郎が横で引く。

 源太郎は痛めた脚を踏ん張る。

 矢倉が腰へ縄を巻く。

「来るぞ!」

 暗い排水口の奥に、人影。

 一人ではない。

 玄斎が宗山を背負っている。

 宗山の腕には、例の声筒の箱。

「箱を捨てろ!」

 新之介が叫ぶ。

「証だ!」

 玄斎が返す。

「人が先です!」

「宗山も持っておる!」

「それでも重い!」

「ならば引け!」

「先生は無茶ばかりだ!」

「弟子に言われたくない!」

 排水口の縁まで来る。

 矢倉と半九郎が手を伸ばし、宗山を引き出す。

 続いて玄斎。

 地上へ出た玄斎は、膝をついた。

「立てますか」

 新之介が問う。

「立てる」

「傷人は皆」

「今は言うな」

 宗山は意識を失っている。

 だが息はある。

 声筒の箱も残った。

「煙の箱は」

 高梨の代わりに残った兵が問う。

「石室へ封じた」

 玄斎が答える。

「いつまで持つ」

「分からぬ」

「便利な」

「今は言うな」

 新之介は笑いそうになった。

 だがすぐに御船蔵の方角を見た。

 まだ終わっていない。

 将軍の偽声。

 久世屋文吉。

 異国の武器と銀。

 水野たちは間に合うのか。

 その時、江戸湾の方角から大きな砲声が響いた。

 一発。

 少し遅れて、二発目。

 海防掛が船を出す合図。

 通常なら、一発で出航。

 二発目は上意による緊急出動。

 偽の声が、すでに役人を動かした。

「間に合わなかったか」

 半九郎が呟く。

 不忍池の岸からは海が見えない。

 だが砲声だけが、朝の江戸へ広がっていく。

 玄斎が顔を上げた。

「新之介」

「はい」

「行け」

「先生は」

「戻った」

「宗山は」

「生きておる」

「煙は」

「今は止めた」

「ですが」

「戻る場所は、ここだけではない」

 新之介は御船蔵の方角を見た。

 水野へ任せた。

 だが任せることと、何もしないことは違う。

「舟を」

 新之介が言った。

「海へ出る」

 伊助はいない。

 それでも池守の舟を川へ運び、御船蔵へ向かう道はある。

「肩は」

 半九郎が問う。

「痛い」

「動けますか」

「動けることと、行けることは違う」

「では」

「今は行く」

 玄斎が呆れたように笑った。

「皆、同じことを申す」

 朝日が上野の山の向こうから差し始めた。

 白煙は薄れつつある。

 だが江戸湾では、偽の上意を受けた船が動き出している。

 死者の声の次は、将軍の声。

 命令が本物かどうかを確かめるより先に、船は潮へ乗る。

 一度動き始めた大きなものは、止めるほど多くの力を必要とする。

 新之介は血の滲む肩を押さえ、舟へ向かった。

 今度の敵は、一人の剣ではない。

 命令に従う多くの者たちだった。

(第四十六章へ続く)

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