上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第四十六章

目次

第四十六章 偽りの上意

 御船蔵へ向かう舟は、川幅に似合わぬほど小さかった。

 池守から借りた舟を人足に担がせ、不忍池から東の水路へ下ろしたのである。

 舟に乗ったのは、新之介、半九郎、源太郎、矢倉勘蔵。

 櫂を握るのは、近くの船宿から呼び出した老船頭だった。

 新之介の肩には、若い僧が巻いた布が残っている。

 血は止まりかけていたが、櫂が水をかくたび、舟の揺れが傷へ響いた。

「顔色が悪いです」

 半九郎が言う。

「朝だからだ」

「朝は顔色が悪くなるのですか」

「眠っていない」

「昨夜も悪かったです」

「傷人は皆、顔色が悪い」

「ご自分で傷人と認めましたね」

「今は認める」

「では戻りますか」

「行く」

「皆、同じことを申します」

 半九郎は新之介の肩の布を確かめた。

 締め直そうとする手を、新之介が止める。

「今はよい」

「血が滲んでいます」

「舟が着いてからだ」

「その言葉で、何度傷を開きましたか」

「数えていない」

「清太郎に帳面へ書かせます」

「それだけはやめろ」

 川の下流から、三度目の砲声が響いた。

 先ほどまでの二発とは間が空いている。

 矢倉が顔を上げた。

「三発目は、御用船の出航を知らせる合図だ」

「もう出たのか」

 新之介が問う。

「少なくとも一艘は」

「何艘ある」

「今、御船蔵へ置かれている海防船は三艘。うち一艘は修理中だ」

「動けるのは二艘」

「ああ」

「偽の上意は、両方へ」

「おそらく」

 源太郎が懐から紙を取り出した。

 高梨が不忍池を発つ前に残した、海防掛の船名と役目。

 一艘は警固船・朝風丸。

 江戸湾へ入る船を監視し、必要なら浦賀へ知らせる。

 もう一艘は御用船・瑞光丸。

 荷の輸送と役人の移動に使われる。

「偽の命が、異国船を迎えることなら」

 半九郎が言う。

「朝風丸が先に出る」

「瑞光丸には何を積む」

 新之介が問う。

 矢倉が答える。

「兵。火薬。あるいは銀」

「船を護衛するためか」

「違うかもしれぬ」

「何が」

「異国船へ渡すためだ」

 舟の中が静かになった。

 幕府の船が、異国船を守る。

 幕府の火薬が、異国人へ渡る。

 将軍の声で命じられれば、それに従う役人たちは、自分が国を売っているとは思わない。

 忠義のつもりで、門を開く。

「命令に従った者の罪は」

 半九郎が問う。

「命じた者だけが負うのですか」

「従う者にも、見る責はある」

 新之介が答えた。

「だが、すべてを同じ罪にはできぬ」

「なぜ」

「断れば首が飛ぶ者もいる」

「それでも、異国船を」

「だから、命を出す者の責は重い」

 矢倉が櫂を持つ老船頭へ声をかける。

「速くできるか」

「舟を軽くすりゃな」

「誰を降ろす」

 老船頭は新之介を見た。

「そこの怪我人だ」

「降りません」

「なら舟に文句を言うな」

「言っていない」

「顔が言ってる」

 老船頭は荒い息を吐き、櫂を強く押した。

 ◇

 御船蔵の周囲には、すでに人が集まっていた。

 船大工。

 水主。

 海防掛の役人。

 荷を運ぶ人足。

 皆が走り回っている。

 岸壁から一艘の帆柱が遠ざかっていた。

 朝風丸。

 帆はまだ半分しか上がっていないが、潮へ乗り、隅田川を下り始めている。

 その後ろを、小型の曳き舟が二艘押していた。

「止まっていない」

 源太郎が言う。

 岸壁では水野隼人正と高梨勘兵衛が役人たちに囲まれていた。

 水野の前に立つのは、海防掛船手頭の安西主税。

 年は五十ほど。

 顔は日に焼け、左目の下へ深い傷がある。

「上意である!」

 安西は一枚の書付を掲げていた。

 黒印。

 老中の署名。

 さらに将軍家の命を示す朱の細紐。

「朝風丸は異国使節船を護衛する!」

「その上意は偽りだ!」

 水野が叫ぶ。

「隼人正殿」

 安西の声は落ち着いていた。

「上様御自らの声をお聞きになったでしょう」

「声が上意を証すものではない」

「何を申される」

「声は作られたものだ」

「上様の御声を偽物と申されるか!」

 周囲の役人たちがざわめいた。

 将軍の声が偽物だと言う。

 その言葉自体が、不敬と取られかねない。

「誰が、その声を上様と確かめた」

 水野が問う。

「御使番・久我伊勢守様である」

「本人を出せ」

「すでに朝風丸へお乗りだ」

「なぜ使番が船へ」

「上意を見届けるためだ」

「顔を見た者は」

 誰も答えない。

「駕籠から出られなかった」

 安西が言った。

「御不例であられる」

「病の者が船へ乗るのか」

「上意である!」

 安西の声が強くなる。

「隼人正殿こそ、なぜ出航を妨げる!」

「異国船を検めずに入れる命など、上様が出すはずがない」

「自らの考えを上意より上へ置くか!」

「考えぬ役人が国を売る」

 水野の言葉に、安西の手が刀へ近づく。

「今の言葉、聞き捨てならぬ」

「ならば聞け」

「水野様!」

 高梨が間へ入る。

「朝風丸が離れます!」

 水野が川を見る。

 すでに岸から十間以上。

 今から出航を止めるには、船蔵の水門へ張られた大鎖を上げるしかない。

 川底に沈められた鎖を巻き上げれば、船の進路を塞げる。

「鎖を上げろ!」

 水野が命じた。

 安西も叫ぶ。

「上げるな! 上意に逆らう者は斬る!」

 巻き枠の前で、水主たちが動きを止めた。

 どちらも上役。

 一方は海防掛の実務を預かる水野。

 一方は船を指揮する安西。

 その上に、真偽不明の上意。

「水野様!」

 新之介が舟から叫んだ。

 全員の目が向く。

「榊原」

「鎖を上げれば、朝風丸はどうなる」

「舳先を止められる」

 矢倉が岸へ飛び移った。

「だが、速さによっては船底を割る」

「乗っている者は」

「川へ投げ出される」

「何人だ」

「四十を越える」

 安西が新之介を指した。

「その男を捕えろ!」

「なぜ」

 源太郎が名札を見せる。

「南町奉行所の見分中だ」

「続帳へ異国船の手引きをしたとある者だ!」

 役人たちの視線が、新之介へ集まる。

「その男こそ、出航を止めるふりをして、別の船を逃がすつもりだ!」

「別の船?」

 新之介が岸へ上がった。

「瑞光丸だ!」

 安西が船蔵の奥を指す。

 大きな倉の陰。

 瑞光丸にも荷が積まれている。

 帆柱の上には、出航を示す旗。

「瑞光丸も出すのか」

「上意だ」

「何を積んだ」

「軍用の荷だ」

「中身は」

「海防掛の者以外に申す必要はない」

「水野様は海防掛だ」

「今は上意へ逆らう疑いがある」

 命令が一つ入っただけで、立場が逆転している。

 水野が責任者ではなく、謀反の疑いをかけられる側になる。

 新之介も同じ。

 偽の帳面へ名を書かれたことで、言葉の重さを奪われている。

「安西殿」

 新之介が言った。

「そなたは上様の声を直接聞いたことがあるのか」

「無礼な問いだ」

「ないのだな」

「声だけではない。黒印状がある」

「見せてくれ」

「触れさせぬ」

「触れずに見る」

「断る」

「なぜ」

「上意だからだ」

「答えになっていない」

 安西の顔が険しくなる。

「そなたは、問いを重ねれば上意まで覆せると思うか」

「覆したいのではない」

「では」

「確かめたい」

「その間に異国船が湾へ入る!」

「その言葉を、久世屋文吉も使った」

 安西の目が動いた。

 ほんのわずか。

 だが新之介は見た。

「文吉を知っているな」

「知らぬ」

「今、名を聞いて驚いた」

「決めつけるな」

「疑っている」

「役人を愚弄するか!」

 安西が刀を抜いた。

 高梨も刀へ手をかける。

 水主たちが後退する。

「安西殿!」

 水野が叫んだ。

「刀を収めろ!」

「隼人正殿は、この男を庇われるか」

「詮議中の者だ」

「だからこそ捕える」

「帳面だけでは捕えぬと決めた」

「その取り決めは、上意より下だ!」

 安西が新之介へ踏み込む。

 新之介は刀を抜かなかった。

 安西の刃が肩口へ来る。

 半九郎が横から峰を当てた。

 刃筋が逸れる。

「邪魔をするか!」

「新之介殿は傷人です」

「それが何だ!」

「斬るなら、元気な私からにしてください」

「半九郎!」

 新之介が止める。

「怒りで出るな」

「怒っています」

「分かっている」

「ならば止めてください」

 安西がもう一度刀を振る。

 今度は新之介が鞘で受けた。

 傷へ衝撃。

 肩に熱い痛みが走る。

「安西主税!」

 水野の怒声が船蔵へ響いた。

「上意を盾に、詮議中の者を勝手に斬るか!」

「謀反人を」

「まだ謀反人ではない!」

「帳面へ」

「帳面だけで人を決めるな!」

 安西の動きが止まった。

 水野は一歩ずつ近づく。

「そなたは船を知る男だ」

「……」

「海を見ず、紙だけで船を出すのか」

「御使番様が」

「顔も見ていない」

「黒印が」

「触れさせない書付を、なぜ信じる」

「上様の声を聞いた!」

「同じ言葉を、もう一度聞いたか」

「何」

「声は一度だけか」

「三度」

「三度とも同じ言葉だったか」

「上意は変わらぬ」

「息継ぎも、咳も、同じではなかったか」

 安西の顔から怒りが薄れる。

 代わりに戸惑い。

「……何を」

「声を残す筒がある」

「そのような物が」

「鷹見静山の声も作られた」

「上様の御声まで」

「そなたが聞いた三度の声は、本当に違っていたか」

 安西は答えられなかった。

 御使番を名乗る者は、駕籠の簾の内側。

 声は筒を通して流された。

 同じ節。

 同じ間。

 同じ咳。

 生きた人間なら、完全に同じにはならない。

「黒印状を見せろ」

 水野が言う。

 安西は書付を握ったまま動かない。

「今なら、確かめる側へ戻れる」

「偽りであれば」

「上意を偽った者を捕える」

「真であれば」

「私が縄を受ける」

 水野は両手を広げた。

「今ここでだ」

 安西は長く水野を見た。

 やがて刀を収める。

 書付を高梨へ渡した。

「触れるな。見るだけだ」

 高梨が紙を広げる。

 水野。

 源太郎。

 矢倉。

 それぞれが覗く。

「印は」

 高梨が呟く。

「本物に見えます」

「紙は」

 源太郎が端を見る。

「御用紙です」

「署名も」

「似ている」

「ならば真では」

 安西が言う。

 清太郎がいれば、紙の違いを細かく記録しただろう。

 お志津がいれば、わざと入れた間違いを探したかもしれない。

 だがここにはいない。

 新之介は文を読み上げた。

「朝風丸及び瑞光丸は、辰の上刻までに品川沖へ至り、薩摩船・天祐丸を迎えよ」

「何かあるか」

 安西が問う。

 矢倉が文へ顔を近づけた。

「天祐丸」

「それが何だ」

「薩摩船なら、天祐の祐は示す偏を使う」

 書付には、衣偏の「裕」が書かれている。

「ただの書き損じでは」

 安西が言う。

「上意の船名を書き損じるか」

 水野が問う。

「写した者の誤りかもしれぬ」

「ならば原本ではない」

「……」

「黒印を押した原本へ誤りがあるなら、誰が確かめた」

 安西の手が震えた。

「続帳と同じです」

 半九郎が言う。

「嘘へ、一つだけ間違いを混ぜる」

「なぜ嘘の側へ間違いを」

「作った者が、自分だけ真偽を見分けるためです」

 安西は川を見た。

 朝風丸はさらに遠ざかっている。

「鎖を上げる」

 水野が言った。

「今からでは船底が」

「完全には上げぬ」

「では」

「水面近くまで引き、旗をつける」

「旗」

「朝風丸へ見せる」

 海防掛の緊急停止旗。

 赤と黒の二色。

「旗だけで止まるか」

「止まらなければ」

 水野は答えなかった。

 朝風丸には、偽の御使番が乗っている。

 久我伊勢守を名乗る文吉。

 あるいは別の者。

 船上で上意を繰り返せば、船頭たちは岸の旗より声を選ぶかもしれない。

「小舟を出す」

 新之介が言った。

「そなたは乗るな」

 水野が即座に返す。

「朝風丸へ、偽りだと伝える者が要る」

「高梨を行かせる」

「水野様が行くべきです」

「瑞光丸を止める者がいなくなる」

「では高梨殿」

「私が行きます」

 高梨が答えた。

「一人では」

 矢倉が前へ出る。

「私も行く」

「元海防掛が二人」

 高梨が矢倉を見る。

「信用できません」

「私もそなたを信用せぬ」

「ではなぜ」

「舟は二人で漕いだ方が速い」

 新之介が言った。

「半九郎殿も」

「私もですか」

「偽の声と、鷹見宗山の仕掛けを見た」

「新之介殿は」

「ここに残る」

 半九郎は新之介の肩を見る。

「素直ですね」

「腹は立っている」

「それでよいです」

 ◇

 緊急停止旗が、大鎖の中央へ取りつけられた。

 巻き枠が回される。

 川底から太い鎖が上がる。

 水面の下で黒い影が伸びていく。

 完全には進路を塞がない。

 だが朝風丸から旗は見える。

 高梨、矢倉、半九郎の小舟が岸を離れた。

「止まれ!」

 高梨が叫ぶ。

「上意書は偽りだ!」

 朝風丸の船尾で、水主たちが振り返る。

 だが甲板中央から、低く威厳のある声が響いた。

「進め」

 将軍の声。

 誰も将軍本人を近くで知らない。

 それでも、その声だと教えられれば、そう聞こえる。

「岸の者は逆賊である」

「進め」

 一度。

 少し間を置き、また。

「岸の者は逆賊である」

「進め」

 同じ間。

 同じ低さ。

 同じ最後の息。

「同じだ!」

 半九郎が叫んだ。

「声が全く同じだ!」

 船上の水主たちが顔を見合わせる。

 だが御使番を名乗る男の側にいる侍が刀を抜いた。

「上意を疑う者は斬る!」

 船頭が舵を握ったまま動かない。

「進め!」

 侍が刀を向ける。

 船頭は歯を食いしばり、舵を切らなかった。

 朝風丸は真っ直ぐ鎖へ近づく。

「止まらぬ!」

 矢倉が言う。

「このままでは」

 水面下の鎖へ船底が当たる。

「鎖を下ろせ!」

 新之介が岸から叫んだ。

 水野が振り返る。

「何」

「船を壊す!」

「下ろせば逃げる!」

「乗っている四十人を沈める気ですか!」

「異国船を入れれば、四十人では済まぬ!」

「だから人を小事にするのですか!」

 巻き枠を持つ者たちが止まる。

 下ろすか。

 上げるか。

 どちらの命を取る。

「鎖を半分下ろせ!」

 新之介が叫ぶ。

「半分では」

「船底ではなく舵へ絡ませる!」

 矢倉が川面を見た。

「できるかもしれぬ!」

「潮の速さが」

「今なら船尾が流れる!」

「巻き枠を戻せ!」

 水野が命じた。

「少しずつだ! 一気に落とすな!」

 鎖がゆっくり沈む。

 朝風丸の舳先が通る。

 船底へは当たらない。

 船の中央。

 鎖はさらに下がる。

 船尾が来た瞬間、水野が叫ぶ。

「止めろ!」

 鎖が水中で張る。

 朝風丸の舵の下へ絡む。

 舵が強く引かれた。

 船体が横を向く。

「帆を下ろせ!」

 船頭が叫ぶ。

 水主たちが動く。

 偽の御使番の側にいた侍が、一人を斬ろうとした。

 半九郎の小舟が船腹へついた。

「上がります!」

「待て!」

 高梨が止めるより早く、半九郎は縄を掴んだ。

 片手。

 足を船腹へかける。

 甲板へ上がる。

 侍の刃が半九郎へ向く。

「逆賊!」

「どちらが逆賊か、今から確かめる!」

 半九郎は刀を抜く。

 だが相手を斬らず、声の出ている箱へ走った。

 甲板中央。

 黒い漆塗りの箱。

 正面に金の葵紋。

 その内側から、また声。

「進め」

「岸の者は逆賊である」

「進め」

 半九郎は箱へ刀を振り下ろした。

「何をする!」

 侍が叫ぶ。

 箱の蓋が割れる。

 中から現れたのは、人ではなかった。

 金属の筒。

 回転する小さな軸。

 薄い板。

 針が板の溝をなぞるたび、同じ声が繰り返される。

 甲板の全員が、その仕掛けを見た。

「上様は入っていない」

 半九郎が言った。

「声だけです」

 船頭が舵から手を離した。

 水主たちも動かない。

「騙された」

 誰かが呟く。

 偽の御使番を守っていた侍が後退する。

 高梨と矢倉も甲板へ上がった。

「久我伊勢守殿はどこだ」

 高梨が問う。

「駕籠の中だ」

「開けろ」

「不敬だ!」

「開けろ!」

 水主たちが駕籠を囲む。

 簾を上げる。

 中は空だった。

 座布団。

 香。

 そして、細い伝声管。

 声だけが、そこから出ていた。

「使番は最初からいない」

 矢倉が言う。

「では誰が命じた」

 高梨は偽声の箱を守っていた侍へ刀を向けた。

「名を申せ」

 侍は答えず、船縁へ走る。

「止まれ!」

 川へ飛び込む。

 矢倉が縄を投げた。

 だが男は掴まない。

 水へ潜り、岸とは反対側へ泳いでいく。

 その先に、小さな早舟が待っていた。

「文吉か!」

 半九郎が目を凝らす。

 早舟の船尾に、町人姿の男。

 久世屋文吉。

 手にはもう一つの黒い箱。

「止めろ!」

 高梨が弓を取る。

 だが早舟には、水主に交じって子どもが二人乗せられていた。

 縄で縛られている。

「人質だ」

 矢倉が言う。

 高梨の弓が止まる。

 文吉は遠ざかりながら、新之介のいる岸へ顔を向けた。

 笑っている。

 新之介には声は聞こえない。

 だが口の動きは読めた。

 ――次は、誰の声だ。

 ◇

 朝風丸は止まった。

 だが瑞光丸の方では、荷積みが終わりつつあった。

 安西主税は岸壁に立ち、偽の黒印状を見つめている。

「私は」

 安西が呟いた。

「上意へ従った」

「違う」

 水野が言った。

「上意だと思ったものへ従った」

「同じでは」

「同じにすれば、次も考えずに従う」

「私の罪か」

「そなたが確かめなかった責はある」

「隼人正殿も、最初は鷹見先生を」

「ああ」

 水野は逃げなかった。

「役目を信じ、人を見なかった」

「では私は」

「今から見る」

「何を」

「瑞光丸の荷だ」

 安西は荷船を振り返る。

「上意の荷へ触れれば」

「上意は偽りだ」

「すべてが偽りとは限らぬ」

「だから開ける」

 水野は人足へ命じた。

「荷を下ろせ」

 瑞光丸の船倉から、大きな砂糖樽が運び出される。

 一本目。

 普通の砂糖。

 二本目。

 同じ。

 三本目。

 底板を叩くと、音が違った。

「開けろ」

 樽の底に、二重の板。

 外す。

 中から異国製の短銃が現れた。

 十挺。

 二十挺。

 さらに奥には、銀貨。

 見慣れぬ異国文字が刻まれている。

「上意の荷ではない」

 高梨が朝風丸から戻り、言った。

 続いて、細長い木箱が運び出された。

 蓋には葵紋。

「また声か」

 新之介が問う。

 水野が蓋を開く。

 中には金属の筒が並んでいた。

 一つではない。

 札がついている。

 ――老中首座。

 ――浦賀奉行。

 ――長崎奉行。

 ――勘定奉行。

 ――南町奉行。

 それぞれの声を似せるための筒。

「こんなに」

 源太郎が息を呑む。

「命令を作るつもりだった」

 水野が言う。

「江戸だけではない」

 安西が筒の一本を手に取ろうとする。

「触るな」

 新之介が止めた。

「私が」

「今は証です」

「私も海防掛だ」

「だから一人で触れない」

 安西は手を引いた。

「私は、もう信用されぬか」

「今は誰も同じです」

「そなたもか」

「ああ」

 新之介は自分の名が書かれた続帳を思い出した。

「だから記録する」

 清太郎はいない。

 新之介は源太郎へ頼んだ。

「今、ここにいる者の名を書いてくれ」

「全員ですか」

「筒を開けた者。触れた者。荷を運んだ者」

「水主も」

「ああ」

「人数が多い」

「多いから書く」

 源太郎が紙を出した。

 安西主税。

 水野隼人正。

 高梨勘兵衛。

 榊原新之介。

 半九郎。

 矢倉勘蔵。

 船頭。

 水主。

 人足。

 一人ずつ名を聞く。

 役職のない者も。

 字を書けない者も。

 名だけは残す。

 ◇

 朝風丸の甲板から、火急の旗が上がった。

 湾口方面を見張っていた水主が、櫓へ上がっている。

「何が見える!」

 高梨が叫ぶ。

「品川沖に大船!」

「薩摩船か」

「違います!」

「旗は」

「異国旗!」

 御船蔵の空気が凍った。

 偽の上意が止まったからといって、異国船が消えるわけではない。

 すでに江戸湾へ入っている。

「何艘だ」

「一艘!」

「護衛船は」

「小舟が三!」

「浦賀は何をしている」

「狼煙がありません!」

 偽の上意は、御船蔵だけではなかった。

 浦賀にも、砲台にも届いている。

 海防掛へ届いた筒と同じ仕掛けで、門を開かせたのだ。

「朝風丸を出す」

 水野が言った。

 安西が驚く。

「今、止めたばかりです」

「異国船を迎えるためではない。止めるためだ」

「水主たちは混乱しています」

「だから命を選ばせる」

「選ばせる?」

 水野は朝風丸へ向かって叫んだ。

「聞け!」

 甲板の者たちが岸を見る。

「先の上意は偽りだった!」

 ざわめき。

「だが異国船は本当に湾へ入っている!」

「我らは、また命へ従うのか!」

 船頭が叫んだ。

「今度は声だけではない!」

「では何を信じる!」

「海を見ろ!」

 水野は品川沖を指した。

「自分の目で船を見ろ! 砲を見ろ! 積み荷を見ろ!」

「出れば戦になる!」

「出なくても、異国船は来る!」

「ならば」

「朝風丸へ乗るかは、それぞれが決めろ!」

 役人が、命令ではなく選びを渡す。

 それは責から逃げたようにも聞こえる。

 だが水野は続けた。

「出航の責は私が負う!」

「戦になった責も!」

「帰れぬ者が出た責も!」

「それでも、一人ずつ選べ!」

 水主たちは互いの顔を見た。

 一人が帆綱を取る。

 次に船頭。

 高梨。

 矢倉。

 全員ではない。

 岸へ降りる者もいた。

「逃げるのか!」

 残る者が叫ぶ。

 水野が止めた。

「責めるな!」

「ですが」

「偽の声で一度命を奪われた者だ。今度は自分で選ばせろ」

 岸へ降りた水主は、顔を伏せた。

 それでも逃げず、瑞光丸の荷の見張りへ加わった。

「海へ出ない者にも役目はある」

 新之介が言った。

「武器と声筒を守れ」

 水主は頷いた。

 ◇

 朝風丸が再び動き始める。

 今度は、偽の上意を信じてではない。

 目の前の異国船を確かめるため。

 水野と安西が乗る。

 高梨。

 矢倉。

 半九郎も乗ろうとした。

「そなたは残れ」

 新之介が言う。

「なぜ」

「藤吉殿と第四冊のことがある」

「新之介殿こそ」

「私は残る」

「傷のためですか」

「半分は」

「残りは」

「文吉を追う」

「人質がいます」

「だから海防船では追えぬ」

「小舟で」

「ああ」

 源太郎が新之介を見る。

「私も行きます」

「脚は」

「痛いです」

「残れ」

「町方として」

「証を守れ」

「そればかりですね」

「今、ここには将軍と老中の偽声がある」

 新之介は木箱を見た。

「これを奪われれば、また同じことが起きる」

「文吉は」

「私と半九郎殿で追う」

 半九郎が朝風丸から岸へ戻る。

「私もですか」

「人質を斬らずに助けるには、手が二つ要る」

「私の怒りは」

「まだあるか」

「あります」

「ならば私を止めろ。私もそなたを止める」

「分かりました」

 矢倉が朝風丸の船上から叫ぶ。

「文吉の早舟は深川へ向かった!」

「松波屋か」

「違う! 小名木川だ!」

 小名木川を東へ抜ければ、中川。

 さらに海へも、下総へも逃げられる。

「舟を!」

 新之介が言う。

 老船頭が、先ほどの小舟で岸へ着いた。

「また怪我人を乗せるのか」

「お願いします」

「今度は金を取るぞ」

「役宅へ」

「お前は金百両をもらったんだろ」

 老船頭が笑う。

「受け取っていません」

「なら借りにしとく」

「どこへ取り立てる」

「再起館だ」

「何の館か知っているのですか」

「説明すると長いんだろ」

 新之介と半九郎が舟へ乗る。

 老船頭が櫂を押した。

 背後では朝風丸が江戸湾へ向かう。

 前方では久世屋文吉の早舟が、人質と偽声の箱を乗せて逃げている。

 海と川。

 二つの追跡。

 新之介は肩の痛みを堪え、川面を見た。

「半九郎殿」

「何です」

「文吉の舟へ追いついても、すぐ乗り込むな」

「なぜ」

「人質がいる」

「分かっています」

「文吉は、私の名を帳面へ書いた」

「はい」

「私が怒りで動くように」

「分かっています」

「だから」

「新之介殿」

 半九郎が遮った。

「ご自分へ言っていますね」

「半分は」

「残りは私へ」

「ああ」

「便利な言葉です」

「腹が立つか」

「今は立ちません」

 老船頭が川の先を指した。

「見えたぞ!」

 細い早舟。

 船尾に文吉。

 中央に縛られた子ども二人。

 そして船首には、左耳のない男――音次が立っている。

 音次は黒い筒を口へ当てた。

 川面へ、よく通る声が響く。

「南町奉行所の命である!」

「前方の水門を閉じよ!」

 源太郎に似た声だった。

 小名木川の水門番たちが動き始める。

 新之介たちの前で、重い水門がゆっくり下りる。

 将軍だけではない。

 老中だけでもない。

 すでに源太郎の声まで作られている。

「いつの間に」

 半九郎が呟く。

 偽の声は、知っている者の口から命令を出す。

 仲間の声ほど、人は疑わない。

 水門が半分まで下がった。

 文吉の早舟は、その下を通り抜ける。

 新之介たちの舟は間に合わない。

「止まれ!」

 水門番が叫ぶ。

「南町奉行所の命だ!」

 新之介は立ち上がった。

「その声は偽物だ!」

「証は!」

 水門番が問い返す。

 答える間にも、門は下がる。

 新之介は腰の刀へ手を置いた。

 水門を斬ることはできない。

 命令へ従う番人を斬ることもできない。

 前方で、文吉が振り返った。

 その手には、さらに別の声筒がある。

 次に誰の声を出すのか。

 玄斎か。

 新之介自身か。

 あるいは、再起館の子どもたちの声か。

 老船頭が櫂を握り直した。

「どうする、侍」

 水門は、あと人の背丈ほどで閉じる。

 新之介は舟の先へ立った。

「通る」

「どうやって」

「声ではなく、姿を見せる」

 新之介は水門番へ向かい、刀を鞘ごと川へ投げた。

「武器は捨てた!」

 半九郎が目を見開く。

「また投げた!」

「今は必要です!」

 水門番たちの視線が、川へ落ちた刀へ向く。

「南町奉行所の庄司源太郎は、御船蔵にいる!」

 新之介は続けた。

「声の主を見たか!」

「見ていない!」

「ならば、声だけで門を閉じるな!」

 水門番の一人が巻き枠から手を離した。

 もう一人が迷う。

 門は止まらない。

 重みでゆっくり下がり続ける。

「上げろ!」

 一人が叫んだ。

「確かめてからだ!」

 巻き枠が逆へ回る。

 水門がわずかに上がる。

「今だ!」

 老船頭が櫂を全身で押した。

 舟が水門の下へ滑り込む。

 梁が新之介の頭上すれすれを通る。

 半九郎が身を伏せる。

 舟尾が門へ当たり、板が割れた。

 だが通り抜けた。

 前には文吉の早舟。

 距離は、まだ離れている。

 それでも新之介は追った。

 偽りの声へ追いつくために。

 声の主ではなく、その声で動かされる人々へ、姿を見せるために。

(第四十七章へ続く)

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