上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第四十七章

目次

第四十七章 声を持たぬ舟

 小名木川の水門を抜けると、流れが急に速くなった。

 潮が引き始めている。

 文吉の早舟は、その流れへ乗って東へ逃げていた。

 新之介たちの舟との距離は、二十間ほど。

 遠くはない。

 だが追いつける距離でもなかった。

「もっと速く!」

 半九郎が叫ぶ。

「口で舟が速くなるなら、船頭はいらねえ!」

 老船頭が櫂を押す。

「人が一人増えりゃ、その分だけ重くなる!」

「誰が降ります」

「怪我人だ!」

「降りません!」

「なら黙って座れ!」

 新之介は船首へ立ったまま、前方を見た。

 腰には刀がない。

 水門の手前で、鞘ごと川へ投げた。

 いずれ拾えるかもしれない。

 拾えないかもしれない。

 だが今は、刀より文吉の舟を見失わない方が先だった。

 早舟の中央には、二人の子どもが縛られている。

 兄は十ほど。

 妹は七つほどか。

 二人とも口へ布を噛まされ、舟底へ座らされている。

 船首には、左耳のない音次。

 黒い筒をいくつも腰へ下げていた。

 文吉は船尾に立ち、時折振り返っている。

 焦っている様子はない。

 追われることまで、計算へ入れているようだった。

「この先は」

 新之介が老船頭へ問う。

「中川へ出る」

「分かれ道は」

「幾つもある。横十間川。六間堀。材木屋の掘割」

「どこへ逃げると思う」

「海へ出るなら中川。人へ紛れるなら材木場だ」

「文吉はどちらを」

「俺が知るか」

 老船頭は文吉の舟を見た。

「だが、あの舟は海向きじゃねえ」

「なぜ」

「舳先が浅い。波を受けりゃ沈む」

「ならば途中で乗り換える」

「ああ」

 材木場か。

 深川の奥には、筏と荷舟が無数にある。

 その中へ入れば、一艘を見失うのは容易い。

「追いつく前に止める方法は」

 半九郎が問う。

「沈めるならある」

「駄目です」

「聞く前に否定するな」

「子どもがいます」

「だから申しただけだ」

 老船頭は舌打ちした。

「助けたい物が多いほど、舟は遅くなる」

「捨てれば速くなるのでしょうか」

「なる」

「では、そなたは何を捨ててきた」

 新之介が問う。

 老船頭の櫂が一瞬止まった。

「余計なことを聞く侍だ」

「先生のせいです」

「何の先生だ」

「説明すると長い」

「黙って前を見ろ」

 ◇

 前方の早舟から、再び声が響いた。

「川並役人の命である!」

 今度の声は、年老いた男。

「前方の材木止めを外せ!」

 川の先に、太い丸太を連ねた浮き止めが見えた。

 材木が勝手に下流へ流れないよう、川幅へ横たえた柵である。

 その脇には、材木問屋の番小屋。

 声を聞いた番人たちが走り出した。

「外すな!」

 新之介が叫ぶ。

 番人が振り返る。

「川並役人の命だぞ!」

「姿を見たか!」

「声がした!」

「声だけで外すな!」

「そなたは誰だ!」

「榊原新之介!」

 番人たちの顔が変わった。

「異国船を入れた侍だ!」

「帳面へ書かれている!」

「そいつの命を聞くな!」

 新之介は歯を食いしばった。

 続帳へ書かれた偽りが、すでに川筋の者へまで広がっている。

 どこから漏れたのか。

 文吉の手の者が、先に噂を撒いていたのだろう。

 声だけでなく、帳面も使う。

 人が何を見るか。

 何を先に信じるか。

 すべてを整えてから偽の命を出している。

「浮き止めを外せ!」

 音次の筒から、もう一度川並役人の声。

「開けろ!」

 番人の一人が縄を解き始めた。

 もう一人が止める。

「待て。本当に役人か」

「役人の声だ!」

「俺は役人の顔を知らねえ」

「命へ逆らえば、店が潰される!」

「外せば、後ろの舟も通るぞ!」

「それが何だ!」

 二人が言い争う。

 その間に文吉の早舟は、浮き止めへ近づく。

「外させる気はない」

 老船頭が言った。

「何」

「間に合わせるつもりがねえ」

 文吉の舟の男が、船首から何かを投げた。

 小さな火壺。

 浮き止めへ落ちる。

 油が広がり、丸太へ火がついた。

「燃やす気か!」

 半九郎が立ち上がる。

「舟を止めろ!」

「止めたら追いつけねえ!」

 早舟は、燃え始めた丸太へ真っ直ぐ向かう。

 衝突する寸前、音次が鉤縄を投げた。

 先端が丸太へ絡む。

 早舟の水主たちが一斉に縄を引く。

 浮き止めの端が持ち上がった。

 舟がその下へ滑り込む。

 人一人分ほどの隙間。

 文吉たちの舟だけが通り抜けた。

 縄が離される。

 燃える丸太が再び水面へ落ちた。

 新之介たちの前に、炎の浮き止めが横たわる。

「回れ!」

 半九郎が叫ぶ。

「回れば見失う!」

 老船頭は舟を止めない。

「突っ込むぞ!」

「燃えます!」

「水の上だ!」

「舟は木です!」

「知ってる!」

 新之介は船首にあった長い竿を取った。

「何をする」

「浮き止めを押す」

「一人で動くか!」

「一人ではない」

 半九郎も竿を持つ。

 二人で燃える丸太の継ぎ目を突く。

 炎が顔へ近づく。

 熱。

 煙。

 新之介の肩へ痛みが走る。

「傷が」

「今は言うな!」

「先生と同じことを」

「今は言うな!」

 丸太が少しずれた。

 だが舟が通れるほどではない。

「もっと右です!」

 半九郎が言う。

「そなたの右か、私の右か!」

「川の右です!」

「川に右は二つある!」

「下流を向いて右です!」

「先に申せ!」

 老船頭が二人へ怒鳴った。

「喧嘩してる間に焼け死ぬぞ!」

 舟の横腹が燃える丸太へ触れた。

 火が船縁へ移る。

 老船頭が足元の水桶を蹴る。

「水をかけろ!」

 半九郎が桶の水を浴びせる。

 白煙。

 視界が消える。

 新之介は煙の中で竿を押した。

 丸太が大きく動く。

「今だ!」

 老船頭が櫂を突く。

 舟が隙間へ入る。

 左右から燃えた丸太が船腹を擦る。

 火の粉が着物へ飛ぶ。

 船尾が引っかかった。

「押せ!」

 新之介と半九郎が竿を舟底へ突き立てる。

 一度。

 二度。

 船尾が外れた。

 舟は炎の浮き止めを抜ける。

 番人たちが岸から水をかけ、火を消し始めた。

「後で戻って手伝え!」

 番人の一人が叫ぶ。

「戻る!」

 新之介が答える。

「できぬ約束をするな!」

 半九郎が言う。

「戻れなければ、別の者へ頼む!」

「それは戻るとは言いません!」

「今は文吉を見ろ!」

 早舟との距離は少し広がった。

 それでも姿は見える。

 文吉は逃げながら、新之介たちが炎を抜けたことを確かめていた。

 口元に笑みはない。

 今度は少し焦っている。

 ◇

 川幅が狭くなった。

 両岸へ材木問屋の蔵が並ぶ。

 水面には、筏や荷舟が浮いている。

 文吉の早舟が一つの筏を回り込む。

 その先で姿が消えた。

「どこだ!」

 半九郎が立ち上がる。

「座れ!」

 老船頭が頭を叩く。

「揺らすな!」

「見失います!」

「立っても見えねえ!」

 筏の間には、三本の狭い水路がある。

 右。

 中央。

 左。

 どれへ入ったか分からない。

「音を聞け」

 老船頭が櫂を止めた。

「音?」

「櫂の音だ」

 全員が黙る。

 川の水。

 材木の軋み。

 遠くの掛け声。

 そして左の水路から、かすかな水音。

「左です」

 半九郎が言う。

「違う」

 老船頭が首を振る。

「何が」

「あれは一艘じゃねえ」

「では」

「囮だ」

 中央からは音がない。

 右からもない。

「どちらへ」

 老船頭は水面を見た。

 浮いている木屑。

 油。

 小さな白い紙。

「右だ」

「なぜ」

「流れが乱れてる」

 右の水路へ入る。

 筏の陰。

 早舟がいた。

 水主たちは櫂を上げ、音を消している。

 文吉が振り返った。

 初めて驚いた顔を見せる。

「よく分かりましたね」

 川面を越えて声が届く。

「舟は声より正直だ!」

 老船頭が返した。

 文吉は笑った。

「舟も人が動かす」

「だから癖が出る!」

 距離は十間。

 老船頭が舟を速める。

「追いつくぞ!」

 音次が黒い筒を手に取った。

 今度の声は、玄斎だった。

「新之介!」

 新之介の身体が反応する。

 あまりにもよく似ている。

「半九郎を斬れ!」

 半九郎が新之介を見る。

 新之介は何も言わない。

「半九郎は文吉の手の者だ!」

 玄斎の声。

「父の帳面を売った!」

「新之介殿」

 半九郎が低く呼ぶ。

「分かっている」

「何を」

「先生は、斬れと命じない」

 音次が筒を替える。

 次は志乃の声だった。

「新之介様!」

 悲鳴に近い。

「再起館が燃えています!」

「戻ってください!」

 新之介の胸が揺れる。

 志乃。

 宗次郎。

 清太郎。

 吉松。

 兵馬。

 再起館にいる者たちの顔が浮かぶ。

「戻りますか」

 半九郎が問う。

「戻らぬ」

「本当に火事なら」

「煙が見えぬ」

「距離があります」

「知らせが来るはずだ」

「来る前かもしれません」

「それでも今は文吉を追う」

 新之介は自分へ言い聞かせるように答えた。

 正しいかは分からない。

 再起館が本当に襲われている可能性も、まったくないとは言えない。

 だが声だけで動けば、文吉の思うままだ。

「疑っているのですね」

 半九郎が言う。

「ああ」

「決めつけてはいない」

「ああ」

「では、後で確かめる」

「ああ」

 音次はさらに筒を替えた。

 次に響いたのは、新之介自身の声だった。

「半九郎!」

 新之介の声。

「舟から飛べ!」

 半九郎の顔が変わる。

「私の声」

 新之介も驚いた。

 自分の声を外から聞くのは、不気味だった。

「子どもを救うためだ!」

 偽の新之介が命じる。

「今すぐ飛び移れ!」

 半九郎は立ち上がりかける。

「待て!」

 本物の新之介が腕を掴んだ。

 偽声が続く。

「私を信じろ!」

「どちらです!」

 半九郎が新之介を見る。

「こちらだ!」

「声は同じです!」

「顔を見ろ!」

 新之介は半九郎の正面へ立った。

「先生の教えだ!」

 刀を見るな。

 人を見よ。

 声だけを見るな。

 今ここにいる人を見る。

 半九郎の身体から力が抜けた。

「危ないところでした」

「私も、自分の声を信じそうになった」

「ご自分なのに」

「声だけなら別人だ」

 音次の顔に苛立ちが浮かんだ。

 筒を川へ投げようとする。

「捨てるな!」

 新之介が叫ぶ。

「証だ!」

 音次は笑い、筒を一つずつ水へ放った。

 玄斎の声。

 志乃の声。

 新之介の声。

 黒い筒が水へ沈んでいく。

「止めろ!」

「拾えません!」

 半九郎が言う。

「一つでも!」

「舟を止めれば文吉が!」

 また選ばされる。

 証を拾うか。

 文吉を追うか。

「印をつけろ!」

 新之介は腰の手拭いを裂き、木片へ結ぶ。

 筒が沈んだ場所へ投げた。

「後で探す」

「後が多すぎます」

「分かっている!」

 ◇

 文吉の早舟は、材木場の最も狭い掘割へ入った。

 両側は高く積まれた丸太。

 舟一艘がようやく通れる。

 追う側は並べない。

「罠だ」

 老船頭が言う。

「分かっています」

「なら入るな」

「ほかに道は」

「回れば出口へ先に行ける」

「どのくらい」

「半刻」

「逃げられる」

「入れば上から潰される」

 新之介は丸太の山を見る。

 結んだ縄を一本切れば、川へ崩れる仕掛け。

 文吉なら用意している。

「進む」

「死ぬぞ」

「文吉も中にいる」

「先に抜ける」

「追いつけば、崩せない」

「追いつければな」

 老船頭は新之介を睨んだ。

「俺の舟だ」

「借りた舟では」

「今は俺が漕いでる」

「なら決めてください」

「何を」

「入るか、回るか」

「侍が決めねえのか」

「舟を知る者が決める」

 老船頭は前方を見た。

「責を押しつける気か」

「一緒に負います」

「口だけなら誰でも言える」

「名を残します」

「何の」

「今日、そなたが何を選んだか」

「帳面へか」

「ああ」

「死ねば読めねえ」

「生きて戻るために書く」

 老船頭は長く息を吐いた。

「入る」

「よいのですか」

 半九郎が問う。

「回って逃がせば、寝覚めが悪い」

「名は」

「何だ」

「記録する名です」

「今聞くのか」

「今まで聞いていません」

「権八だ!」

「権八殿」

「殿をつけるな! 舟が重くなる!」

 権八は櫂を強く押した。

 舟が狭い掘割へ入る。

 丸太の壁。

 頭上には、何本もの縄が渡されている。

 文吉の舟との距離は五間。

「追いつく!」

 半九郎が言う。

 音次が後方の縄へ短刀を当てた。

「切る気だ!」

 新之介が船首へ出る。

 武器はない。

 手にあるのは長い竿だけ。

「半九郎殿、舟を寄せたら子どもを!」

「文吉は」

「私が」

「刀がありません」

「知っている!」

 音次が縄を切った。

 上で木の軋む音。

「来るぞ!」

 丸太が一本、川へ落ちる。

 権八が舟を傾ける。

 丸太が船縁を掠める。

 二本目。

 三本目。

「伏せろ!」

 新之介は竿を頭上へ上げた。

 落ちた丸太を横へ逸らす。

 肩へ衝撃。

 膝をつく。

「新之介殿!」

「前を見ろ!」

 文吉の早舟も、落下する丸太に揺れている。

 子どもたちが舟底へ倒れた。

 音次は自分で切った縄のせいで、足場を失う。

 半九郎が立ち上がった。

「今です!」

 両舟の距離、二間。

 一間半。

「まだだ!」

 新之介が止める。

「届きます!」

「舟が離れる!」

 音次が櫂で水を押す。

 距離が再び開き始める。

 半九郎が迷う。

 跳べば届くかもしれない。

 届かなければ、丸太の間へ落ちる。

「飛びます!」

「待て!」

「今しかありません!」

「子どもを先に見ろ!」

 早舟の兄が、縛られた手を舟縁へかけている。

 妹を庇うように身体を寄せていた。

 文吉が兄の髪を掴み、立たせる。

「近づけば落とす!」

「子どもを離せ!」

 新之介が叫ぶ。

「船を止めろ!」

 文吉は兄を川側へ押し出した。

 半分ほど身体が舟の外へ出る。

「追うな」

「その子に何の関係がある!」

「関係がないから使える」

「名は」

「何」

「その子の名を知っているのか」

「知る必要はない」

「だから使えるのか」

「人質へ情を持てば商いにならぬ」

「名を申せ!」

「黙れ!」

 文吉の顔から余裕が消える。

 新之介は兄へ呼びかけた。

「名は!」

 少年は口へ布を噛まされている。

 声を出せない。

 それでも必死に何かを言おうとする。

「聞こえぬ!」

 少年は足で舟板を叩いた。

 二度。

 少し間を置き、一度。

 また二度。

「何だ」

 半九郎が問う。

 妹が兄を見て、同じように足を動かす。

「文字か」

 新之介は叩く回数を見た。

 二。

 一。

 二。

「仁?」

 少年が強く頷いた。

「仁太か!」

 もう一度頷く。

「妹は」

 少年が足で三度。

 一度。

「みい?」

 首を振る。

 三度。

 二度。

「三つ……二つ」

「みつ」

 半九郎が言う。

 少年が頷いた。

「妹はお光か」

 さらに強く頷く。

「仁太! お光!」

 名を呼ばれ、二人の目が変わった。

 ただの人質ではない。

 自分の名を見ている者がいる。

「文吉!」

 新之介が叫ぶ。

「仁太を落とせば、その名を背負うのはそなただ!」

「名など帳面から消せる!」

「人の口からは消えぬ!」

「人も消せる!」

「ならば私たち全員を消せ!」

 権八が叫んだ。

「俺は権八だ!」

 半九郎も続く。

「真崎半九郎!」

「榊原新之介!」

 名を告げる。

 証人として。

 生き残る者として。

 文吉の手がわずかに緩んだ。

「名を並べて何になる」

「そなたが何をしたかを残す!」

「帳面へか」

「人へだ!」

 その時、仁太が文吉の腕へ噛みついた。

「うっ!」

 文吉が手を離す。

 仁太の身体が舟外へ落ちる。

「仁太!」

 半九郎が飛んだ。

 早舟へではない。

 川へ落ちた仁太へ。

 水しぶき。

 半九郎の手が、少年の着物を掴む。

 二人が丸太の間へ沈む。

「半九郎殿!」

「舟を止めるな!」

 水中から声。

「お光を!」

 新之介は早舟へ竿を伸ばした。

 鉤はない。

 それでも船縁へ引っかけ、両舟を近づける。

 音次が竿を斬ろうと短刀を振る。

 新之介は手を離さない。

 刃が竿へ食い込む。

「権八!」

「今寄せる!」

 舟と舟がぶつかった。

 新之介は武器を持たず、早舟へ飛び移った。

 着地と同時に音次の短刀が来る。

 身体を捻る。

 刃が肩の布を裂いた。

 傷口へ再び熱。

 新之介は音次の手首を両手で掴んだ。

「声がなければ何もできぬか!」

「声だけで人は死ぬ!」

「だから、自分の声で申せ!」

 音次が新之介の腹を蹴る。

 二人が舟底へ倒れる。

 お光がすぐ脇で縛られている。

 音次が短刀を振り上げる。

 新之介は腕で受けた。

 刃先が袖を裂く。

 手首を捻る。

 短刀が落ちた。

 音次は腰の筒を一つ掴む。

 筒から響いたのは、幼い子どもの泣き声だった。

「父ちゃん!」

「助けて!」

 お光が顔を上げる。

「兄ちゃん!」

 偽物だ。

 だが子どもには分からない。

 お光が声の方へ身を寄せる。

 音次はその首へ手を伸ばした。

「見るな!」

 新之介が叫ぶ。

「声ではなく、兄を見ろ!」

 お光は川を見た。

 半九郎が仁太を抱え、浮いた丸太へ掴まっている。

 兄は生きている。

「兄ちゃん!」

 今度は、お光自身の声だった。

 口の布がずれている。

 その声に半九郎が答える。

「生きている!」

 音次の手が止まる。

 新之介はその胸へ肩を入れ、舟底へ押し倒した。

 落ちた縄を拾い、音次の腕へ巻く。

「離せ!」

「自分の声で申せるではないか!」

「離せ!」

「聞こえている!」

 音次を縛る。

 ◇

 文吉は船尾へ逃げていた。

 権八の舟が早舟へ横づけされる。

 新之介はお光の縄を切った。

「兄のところへ」

 お光を権八へ渡す。

「新之介殿!」

 半九郎が川から叫ぶ。

「仁太は無事です!」

「引き上げろ!」

 権八とお光が縄を投げる。

 半九郎は仁太の身体へ結んだ。

 先に少年を引き上げる。

 続いて半九郎。

 水に濡れ、息を切らしている。

「飛ぶなと申したでしょう!」

 新之介が怒鳴る。

「舟へは飛んでいません!」

「同じだ!」

「子どもが落ちました!」

「分かっている!」

「ならば後で叱ってください!」

 文吉が船尾の板を外した。

 下から細い縄梯子。

「逃げ道だ!」

 半九郎が立ち上がる。

 船尾の下には、小型の一人舟が隠されていた。

 文吉が飛び降りる。

「止まれ!」

 新之介が追おうとする。

 音次が縄を打たれたまま、足へしがみついた。

「文吉様!」

「離せ!」

 音次を蹴れば追える。

 だが傷つければ、証言を失う。

 その一瞬で文吉は小舟へ移った。

 手には黒い箱。

 最後に残った声筒。

「次は誰の声だ!」

 新之介が叫ぶ。

 文吉は櫂を取り、笑った。

「江戸中の声だ」

「何」

「一人の声だから偽物と分かる」

 小舟が狭い水路へ入る。

「ならば千人に同じことを言わせればよい」

「何を言わせる!」

 文吉は答えなかった。

 代わりに、黒い箱の蓋を開いた。

 中から複数の声が重なって響く。

 男。

 女。

 老人。

 子ども。

「米を出せ!」

「蔵を開けろ!」

「米を隠す者を討て!」

「これは民の命だ!」

 何十人もの声。

 一つの命令。

 文吉が向かう先を、新之介は理解した。

「蔵前だ」

 幕府の米蔵。

 江戸の米が集まる場所。

 偽の上意で海を開き。

 偽の帳面で役人を疑わせ。

 次は民の声で、米蔵を襲わせる。

 米価に苦しむ者が、その声を聞けば動く。

 声が偽物でも、怒りは本物だ。

「追うぞ!」

 新之介が言った。

 権八が仁太とお光を見る。

「子どもを乗せたままか」

「安全な場所へ」

「戻れば見失う!」

 半九郎が言う。

 また二つ。

 文吉を追う。

 子どもを守る。

 どちらも小事ではない。

「材木番へ預ける」

 新之介が岸を見た。

 近くの番小屋から、火を消し終えた者たちがこちらを見ている。

「信用できますか」

「聞く」

 早舟を岸へ寄せる。

「この子たちを頼めるか!」

 番人たちは戸惑った。

「さっき俺たちを疑った侍だろ!」

「疑ったのはそっちだ!」

 権八が怒鳴る。

「今は子どもの話だ!」

 年長の番人が前へ出る。

「預かる」

「名は」

「久七だ」

「久七殿」

「殿はいらねえ」

「仁太とお光を頼む」

「そっちの男は」

 縄を打たれた音次。

「南町奉行所へ渡してくれ」

「俺たちがか」

「逃げれば、そなたたちの名も記す」

「脅しか」

「頼みだ」

「頼み方が悪い」

 それでも久七は音次の縄を受け取った。

「追え」

「よいのか」

「米蔵が襲われりゃ、俺たちも困る」

「火をつけられた材木は」

「自分たちで消した」

「後で」

「戻るんだろ」

「ああ」

「できぬ約束はするな」

「できる者へ頼んででも戻る」

「それでいい」

 仁太が新之介の袖を掴んだ。

「お侍さん」

「何だ」

「刀、ないのか」

「川へ落とした」

「弱いのか」

「今は少し」

「文吉を捕まえられるか」

「分からぬ」

 仁太の顔に不安が浮かぶ。

「だが追う」

「何で」

「そなたの名を知ったからだ」

 仁太はしばらく新之介を見た。

「妹の名も」

「お光」

「忘れるな」

「ああ」

 新之介、半九郎、権八は舟へ戻った。

 文吉の小舟は、すでに見えない。

 だが向かう先は分かった。

 蔵前。

 米蔵。

 人の腹と怒りが集まる場所。

 偽の声は、空から降るのではない。

 本物の不満へ入り込み、誰かの答えへ変える。

「急げるか」

 新之介が権八へ問う。

「舟は急げる」

「人は」

「怪我人次第だ」

「急ぎます」

「なら座れ」

「なぜ」

「立ってりゃ重心が揺れる!」

 新之介は座った。

 半九郎も隣へ。

 権八が櫂を押す。

 舟は掘割を抜け、蔵前へ向かう流れへ入った。

 遠くから、鐘の音が聞こえ始めていた。

 一か所ではない。

 二か所。

 三か所。

 町の辻々で、誰かが人を集めている。

 そして風に乗り、無数の声が届く。

「米を出せ!」

「蔵を開けろ!」

「榊原新之介の命である!」

 新之介は顔を上げた。

 今度は将軍でも、役人でもない。

 自分の名で、江戸の民が動かされようとしている。

 帳面へ書かれた未来の罪が、声によって現実になり始めていた。

(第四十八章へ続く)

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