上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第四十八章

目次

第四十八章 千人の声

 蔵前へ近づくにつれ、鐘の音は一つではなくなった。

 北から。

 西から。

 川沿いから。

 町の辻ごとに別々の鐘が鳴り、それぞれの場所で人の声が上がっている。

「米を出せ!」

「御蔵を開けろ!」

「隠した米を民へ返せ!」

 そして、その合間に新之介の声が混じった。

「榊原新之介の命である!」

「役人へ従うな!」

「米蔵を開け!」

 自分の声が、自分の口を離れ、町を走っている。

「よく似ています」

 半九郎が言った。

「褒めるな」

「似ていると申しただけです」

「気味が悪い」

「ご自分の声でも」

「自分が申していない言葉だからだ」

 権八が舟を漕ぎながら振り返った。

「俺には、そっくりには聞こえねえ」

「どこが違う」

「息がねえ」

「息?」

「喋る前も後も、息の音がしねえ。箱から声だけ出てる」

 舟を知る者は、水を見る。

 人の声を毎日聞く者は、息を聞く。

 偽物は言葉を似せられても、生きた身体までは持たない。

「群衆へ、それを申して止まるでしょうか」

 半九郎が問う。

「止まらぬ者もいる」

 新之介が答えた。

「声が偽物でも、腹が減っていることは本物です」

「ああ」

 文吉はそこを使う。

 偽りの声で、本物の怒りを動かす。

 米蔵を開けろという言葉そのものが、すべて間違っているわけではない。

 実際、米価は上がっている。

 蔵には米がある。

 それを買えずに空腹を抱える者もいる。

 だからこそ、止めるのが難しい。

「蔵を守れば、米を隠す役人に見える」

 半九郎が言った。

「開ければ、文吉の企てどおりになる」

「略奪が始まれば、弱い者ほど米を取れぬ」

 新之介は川岸に増えていく人影を見た。

 棒を持つ者。

 鍬を持つ者。

 空の俵を背負う者。

 ただ様子を見に来た者。

 子どもの手を引く母親。

 何が始まるか分からぬまま、周囲につられて歩く者。

 全員が同じ考えではない。

 だが群れになれば、一つの声へ見える。

「どこへ舟を着ける」

 権八が問う。

「御蔵の正面へ」

「無理だ。人で埋まってる」

「裏は」

「役人が固めてるだろう」

「では川の御蔵門」

「近づけば石が飛んでくるぞ」

「刀よりはよい」

「刀を持ってねえからだろ」

 新之介は腰を見た。

 空の帯。

「拾いに戻りますか」

 半九郎が問う。

「今はよい」

「先生が知れば怒ります」

「先生も木刀を投げる」

「銅片も投げました」

「必要だったそうだ」

「便利です」

 ◇

 舟が蔵前の川岸へ近づくと、群衆の姿がはっきり見えた。

 数百人。

 さらに周囲の道から続々と増えている。

 御蔵門の前には、蔵奉行配下の役人と警固の同心が並んでいた。

 槍を横へ構え、人々を押し返している。

「下がれ!」

「御蔵へ近づくな!」

「米は売り渡しの手続きを経て出される!」

「手続きで腹が膨れるか!」

「米を見せろ!」

「蔵には腐るほどあるんだろ!」

 誰かが石を投げた。

 門の板へ当たる。

 二つ目。

 三つ目。

 役人の一人が額を切った。

 槍が前へ出る。

「押すな!」

「斬るぞ!」

 その言葉で、群衆の怒りがさらに強くなる。

「斬れるものなら斬れ!」

「榊原様が、役人へ従うなと申された!」

「御蔵を開けるのは上意だ!」

 偽の声は、すでに別の言葉へ変わっていた。

 文吉が最初に流した声だけではない。

 聞いた者が自分の望む形へ伝えている。

 新之介の命。

 上意。

 鷹見静山の遺言。

 どれも同じ騒ぎの理由に使われる。

「船を寄せろ!」

 新之介が言った。

「ここでか!」

「門前へ行く」

「舟から降りた途端、殴られるぞ」

「顔を見せる」

「声の方が広く届く」

「だから顔を見せる」

 権八は舌打ちし、舟を石段へ寄せた。

 新之介が立ち上がる。

 肩に痛みが走る。

「転ぶなよ」

「転びません」

「傷人は皆」

「今は申すな」

 半九郎が先に岸へ飛び移った。

「先ほど飛ぶなと」

「舟から岸です」

「同じだ」

「今は申さないでください」

 新之介も岸へ上がった。

 群衆の端にいた者が気づく。

「榊原だ!」

「榊原新之介が来た!」

 声が波のように広がる。

「本物か!」

「帳面の侍だ!」

「異国から金を取った男だ!」

「米を開けると言った人だ!」

 すべてが一度に浴びせられる。

 新之介は両手を上げた。

 刀を持っていないことを見せる。

「私は、御蔵を開けろと命じていない!」

 すぐに罵声が返る。

「嘘をつくな!」

「声を聞いたぞ!」

「榊原新之介の命だと!」

「それは作られた声だ!」

「役人に捕まって、言葉を変えたか!」

「水野に買われた!」

 続帳の偽りがここでも使われる。

 新之介は声を張った。

「私は異国人から金を受け取っていない!」

「証は!」

 水門番と同じ問い。

「今、調べている!」

 笑いと怒号が起きた。

「自分のことも分からねえのか!」

「そんな侍を誰が信じる!」

「信じなくてよい!」

 一瞬だけ、群衆の声が弱くなった。

「私を信じるな!」

 新之介は続けた。

「ならば、なぜ米を取るのです!」

 半九郎が横から問うた。

 群衆へではない。

 一人ずつへ。

「誰に言われたのです!」

 前にいた男が棒を上げた。

「腹が減ってるからだ!」

「誰の腹です」

「俺だ!」

「名は」

「何だと」

「名を申してください!」

「そんなことが米と何の関係がある!」

「そなたが米を必要としていると知るためです!」

「俺は三吉だ!」

 男が怒鳴った。

「三吉殿の家には何人いる!」

「女房と子が三人だ!」

「今日は食べたか!」

「朝から何も!」

「では、五人分の米が必要だ!」

 群衆の別の場所から声が上がる。

「俺は七人だ!」

「うちは婆さまもいる!」

「子どもが病気だ!」

 怒号が、少しずつ別の形へ変わる。

 米を出せという一つの声から、それぞれの腹の話へ。

 新之介は御蔵門の役人へ向いた。

「聞いたか!」

 役人の中から、年配の侍が前へ出た。

 蔵奉行支配の与力・大月孫兵衛と名乗った。

「聞いた」

「米を出せるか」

「勝手には出せぬ」

「なぜ」

「御蔵の米は旗本、御家人へ渡す蔵米だ」

「町人の米ではない」

「そうだ」

 その答えで、群衆が再び荒れる。

「俺たちの年貢だろ!」

「百姓が作った米だ!」

「侍だけが食うのか!」

 大月が槍持ちへ合図する。

 新之介が止めた。

「槍を下げろ!」

「門を破られれば、責を負うのは私だ!」

「槍を出せば、最初に死ぬ者の責も負え!」

「この人数をどう止める!」

「米を数える」

「何」

「ここにいる者へ、必要な量を聞く!」

「数百人だぞ!」

「数えなければ、力の強い者が奪う!」

 群衆の後方で女の悲鳴がした。

 人が押し合い、子どもが倒れたらしい。

「押すな!」

 半九郎が走る。

 人の間へ入り、倒れた少女を抱き上げる。

「下がってください!」

「後ろから押されてる!」

「座れ!」

 権八が叫んだ。

「全員座れ!」

「誰だ、そいつは!」

「船頭の権八だ!」

「なぜ船頭の命を」

「立って押せば子どもが死ぬ! 座れば後ろも止まる!」

 前方の数人が座った。

 その後ろも、つられるように腰を下ろす。

 すべてではない。

 だが一部の流れが止まり、倒れた少女の周囲に空間ができた。

「息は」

 半九郎が少女の口元へ手を当てる。

「あります!」

 母親が泣きながら駆け寄る。

「お春!」

 少女の名。

 また一人、群衆ではなくなる。

「お春は風上へ!」

 新之介が言う。

「お光と仁太を預けた材木番へ知らせろ! 子どもを置ける場所を作ってもらえ!」

「ここから遠い!」

「近くの寺は」

 大月が答える。

「浅草御蔵裏の松寿庵なら」

「使えるか」

「寺へ勝手に」

「聞け!」

 大月は一瞬迷い、部下へ命じた。

「走れ! 松寿庵へ事情を申せ!」

 役人が初めて、門を守る以外へ動いた。

 ◇

 その時、御蔵の屋根から声が響いた。

「民の者よ!」

 新之介の声。

「役人は米を隠す!」

「門を破れ!」

 群衆が一斉に屋根を見上げる。

 米蔵の棟に黒い箱。

 その隣に文吉が立っていた。

 いつの間にか、川から別の水路を使って入り込んだらしい。

「文吉!」

 新之介が叫ぶ。

「本物が来たか」

 文吉の肉声。

「偽声を止めろ!」

「偽りかどうかは、聞いた者が決める」

「そなたが作った!」

「声は作った。怒りは作っていない」

 文吉は群衆を見下ろした。

「腹を減らしたのは私ではない」

「だから利用してよいのか」

「使わずに何が変わる」

「人を踏ませてか」

「変わる時には、誰かが倒れる」

「倒れる者を、そなたは見ていない!」

「見れば迷う」

「だから見ぬのか!」

「商いに一人ずつの顔はいらぬ」

 文吉は黒い箱の取っ手を回した。

 複数の声が重なる。

「蔵を開けろ!」

「米を奪え!」

「これは民の米だ!」

 今度は新之介の声だけではない。

 女。

 老人。

 子ども。

 町人。

 何十もの声。

 群衆自身の声に聞こえる。

「聞け!」

 文吉が叫ぶ。

「これが民の声だ!」

「違う!」

 新之介は叫び返した。

「民に一つの声はない!」

 文吉の笑みが消える。

「三吉には五人分の米が要る!」

「お春は押されて倒れた!」

「病人がいる家も、老人がいる家もある!」

「全員へ同じように門を破れと命じる声は、民の声ではない!」

「言葉を細かく分ければ、何も動かぬ!」

「動かすために、人を同じにするな!」

 群衆の一部が文吉を見る。

 別の一部は御蔵門を見る。

 まだ怒りは消えない。

 米が必要なことも変わらない。

「榊原!」

 大月が呼ぶ。

「話だけでは止まらぬ!」

「米を出せ」

「許可がない!」

「今ここで餓えた者へ貸し出す」

「御蔵米を町人へ貸す例など」

「作れ」

「そなたが責を負うのか!」

「私だけでは負わぬ!」

「何」

「大月殿、町方、町人、寺、皆で記録する!」

「役所の決まりを」

「破るのではない! 今、必要な決まりを作る!」

「後で罪に問われる!」

「問われる!」

 新之介は逃げなかった。

「私も立ち会う! 帳面へ名を残す!」

「続帳へ罪を書かれた者の名など」

「だから一人では決めぬ!」

 大月は群衆を見た。

 門。

 米蔵。

 役目。

 自分の家。

 目の前の人。

 無音寺の三つの箱と同じ問いを、大月も突きつけられている。

「どの蔵を開ける」

 大月が問う。

 新之介はすぐには答えなかった。

「一つだけだ」

「足りぬぞ!」

 群衆から声。

「まず一つを開け、人数を数える!」

「その間に米を隠す気だ!」

「ならば立会人を出せ!」

「誰を」

「今ここにいる者から選べ!」

 新之介は三吉を指した。

「三吉殿!」

「俺か」

「そなたは五人の家だ!」

 次に、倒れたお春の母。

「お春の母上!」

「おきよです」

「おきよ殿!」

 群衆の後ろにいた米問屋の手代。

「米を量れる者!」

 一人が手を上げる。

「播磨屋の徳松です!」

「役人から大月殿!」

「町方は」

 源太郎はいない。

 だが群衆整理へ来ていた南町奉行所同心が一人、前へ出た。

「篠田弥兵衛」

「寺は松寿庵から呼ぶ!」

「記録役は」

 半九郎が言う。

「私が書きます」

「清太郎ほど字は」

「今は申さないでください」

 六者。

 役人。

 町方。

 商人。

 町人。

 女。

 武士。

 一人だけで蔵を開けない。

「封を確認しろ!」

 大月が命じた。

 門の内側。

 御蔵の一つへ向かう。

 群衆が再び前へ動こうとする。

「座って待て!」

 権八が叫ぶ。

「逃げるかもしれねえぞ!」

「俺の舟を置いてる! 逃げりゃ舟を取れ!」

「ぼろ舟だろ!」

「うるせえ!」

 一部に笑いが起きた。

 怒りが消えたわけではない。

 だが笑いが入るだけで、押す力が少し弱まる。

 ◇

 文吉は屋根の上から、事態を見ていた。

 門が破られない。

 役人が斬られない。

 だが米蔵は開こうとしている。

 自分の望んだ混乱とは違う形で。

「無駄だ」

 文吉が言った。

「一蔵を開ければ、全てを求める!」

「ならば必要な量を見せる!」

 新之介が答える。

「数で人は止まらぬ!」

「帳面を使う!」

「帳面を信じるのか!」

「一冊を信じるのではない! 皆で見る!」

 文吉は黒い箱の蓋を開いた。

 中から、一本の太い筒を取り出す。

 これまでのものより大きい。

 札がついていた。

 ――榊原新之介。

「最後に聞け」

 文吉が取っ手を回す。

 新之介の声。

「御蔵へ火をつけろ!」

 群衆が凍りつく。

「米を役人へ渡すくらいなら、全て焼け!」

「火を放て!」

「私の命である!」

「違う!」

 本物の新之介が叫ぶ。

 だが偽声の方が高い場所から、広く響く。

「火をつけろ!」

 群衆の中に、すでに油壺を持つ男がいた。

 文吉の手の者。

 一人ではない。

 三人。

 五人。

 人々へ紛れ、蔵の壁へ近づく。

「油だ!」

 半九郎が気づく。

「止めろ!」

 役人が槍を構える。

「斬るな!」

 新之介が走った。

 油壺を持つ男の一人が火打石を出す。

 新之介は体当たりした。

 二人で地面へ倒れる。

 火打石が飛ぶ。

 別の男が油を壁へ撒く。

 三吉がその腕を掴んだ。

「何しやがる!」

「民のためだ!」

「俺の米を焼くな!」

 三吉が男を殴る。

 おきよも空の桶で別の男の手を打った。

「子どもが食べる米だ!」

 民の声を名乗った者たちが、民自身に止められていく。

 文吉が偽声を強める。

「火をつけろ!」

「火をつけろ!」

 同じ声。

 同じ息。

 同じ間。

 権八が屋根を見上げた。

「息がねえぞ!」

 大声で叫ぶ。

「生きた者の声じゃねえ!」

 三吉も続いた。

「榊原はここにいる!」

 おきよが叫ぶ。

「今、火を止めてる!」

 人々が声ではなく、姿を見る。

 新之介は油まみれになりながら、男の腕を押さえている。

 偽の声は火をつけろと命じる。

 本物の身体は火を止めている。

 どちらを見るか。

 群衆の中から、次々と人が動いた。

 油壺を奪う。

 火打石を踏む。

 蔵壁へ水をかける。

「火を消せ!」

 今度は誰か一人の命ではない。

 それぞれが、自分の目で見て発した声だった。

 ◇

 文吉は屋根の端へ下がった。

「待て!」

 半九郎が屋根へ上がる梯子へ向かう。

 文吉は黒い箱を抱え、隣の蔵へ渡した板の上を走る。

「逃がすな!」

 役人たちも動く。

 だが新之介は油壺の男を押さえたまま叫んだ。

「二人だけ追え!」

「またですか!」

 半九郎が返す。

「残りは米と火を!」

「分かっています!」

 半九郎と篠田同心が梯子を上る。

 文吉は隣の蔵へ。

 その先には川。

 川岸へ小舟が用意されている。

 いつでも逃げられるように。

「文吉!」

 半九郎が屋根へ出る。

 文吉は板の途中で立ち止まった。

「真崎玄十郎の子」

「父をご存じか」

「帳面でな」

「人としては」

「知らぬ」

「ならば父の名を使うな!」

「名は使うためにある」

「違う!」

「では何のためだ」

「その人が何を選んだか、残すためです!」

「残った記録が真とは限らぬ」

「だから確かめる!」

「いつまで」

「必要なだけ!」

「異国船は待たぬ。腹も待たぬ。国も待たぬ」

「だから急いで人を焼くのですか!」

 文吉は答えず、懐から小さな短銃を出した。

 半九郎へ向ける。

 篠田が刀を抜く。

「動くな!」

「箱を置け!」

「この箱には、まだ声がある」

「誰の」

「長兵衛だ」

 相模屋長兵衛。

 続帳の仕組みを作り、娘を使い、人の名を売った男。

「何を言わせる」

「四冊は全て偽物だと」

 文吉は笑った。

「長兵衛本人の声で申せば、誰が元帳を信じる」

「長兵衛は牢です」

「声は外へ出られる」

「その筒を」

「欲しいか」

「証として」

「ならば取れ」

 文吉が箱を川へ投げようとする。

 半九郎が一歩出た。

 短銃の引き金が動く。

 銃声。

 半九郎の身体がよろめいた。

「半九郎殿!」

 下から新之介の声。

 半九郎は倒れなかった。

 弾は脇腹を掠め、着物を裂いただけだった。

「傷人が増えた」

 半九郎が自分で呟く。

 文吉は板を渡り切り、隣の蔵へ飛び移る。

「待て!」

 半九郎が追う。

「傷を見ろ!」

 新之介が止める。

「浅いです!」

「傷人は皆、同じことを申す!」

「新之介殿に言われたくありません!」

 文吉は屋根から川岸へ下りる。

 小舟へ乗る。

 だが船頭はいない。

 舟を用意した者は、蔵前の騒ぎを見て逃げたのか。

 文吉は自ら櫂を持った。

 その時、川の上流から一艘の舟が現れた。

 伊助の舟だった。

 船首に立つのは、志乃。

 隣には清太郎と吉松。

「なぜ来た!」

 新之介が驚く。

 志乃が答える。

「榊原様の声で、再起館を開けろと命じる者が来ました!」

「無事か!」

「はい!」

「ならば、なぜここへ!」

「偽物の声を持った男を捕えました!」

 伊助の舟底に、縄を打たれた男がいる。

 その脇には、別の黒い箱。

「清太郎が、声の筒に書かれた印を見つけました!」

 清太郎が紙を掲げる。

「文吉の逃げ道が、蔵前だと書いてありました!」

 文吉の小舟と、伊助の舟が川上で向かい合う。

「退け!」

 文吉が短銃を志乃へ向ける。

 新之介の顔色が変わる。

「志乃殿!」

 文吉が引き金を引く。

 だが火は出なかった。

 先ほどの一発で、弾を使い切っている。

 文吉も気づいていなかった。

 志乃は怯まなかった。

 舟に積まれていた長い竿を取り、文吉の櫂を強く打った。

「女が!」

「米価が上がれば、最初に食べる量を減らすのは女です!」

 再起館で高梨へ向けた言葉。

 今度は文吉へ。

「民の声を、勝手に使わないでください!」

 櫂が川へ落ちる。

 文吉の小舟が流される。

 権八が自分の舟を押し出した。

「今度は逃がさねえ!」

 新之介も飛び乗ろうとする。

「榊原様は残ってください!」

 志乃が叫ぶ。

「なぜ!」

「米を出すと決めたのでしょう!」

「文吉が!」

「追う者はいます!」

 伊助。

 権八。

 半九郎。

 篠田。

 複数の者が文吉へ向かう。

「榊原様がいなくなれば、米の話が止まります!」

 新之介は動きを止めた。

 また残る。

 追いたい相手が目の前にいる。

 自分の名を書き。

 自分の声を使い。

 人々へ火をつけさせた男。

 それでも今、新之介が立つべき場所は、文吉の舟ではない。

 開こうとしている米蔵の前だった。

「……任せます!」

「はい!」

 志乃の舟が文吉を追う。

 新之介は御蔵門へ戻った。

 ◇

 大月孫兵衛が、一つ目の蔵の封を確認していた。

 幕府の印。

 蔵奉行の印。

 古い封紙。

「開けるぞ」

 大月が言う。

「本当に」

 三吉が問う。

「ああ」

「後で俺たちを捕えねえか」

「名を記す」

「捕えるためか」

「米を受け取った者としてだ」

「借りか」

「今は貸し出しとする」

「返せなければ」

 大月が答えに詰まる。

 新之介が言った。

「返し方も皆で決める」

「米で返せねえぞ」

「働きでもよい」

「誰のために」

「町のためだ」

「役人の庭を直すんじゃねえだろうな」

「水野様の松は、もう半分掘られた」

 三吉は意味が分からず顔をしかめた。

「何の話だ」

「説明すると長い」

 封が切られる。

 重い戸が開く。

 蔵の中。

 俵。

 俵。

 奥まで積まれた米俵。

 群衆から息を呑む音がした。

 これほどある。

 自分たちは腹を減らしているのに。

 怒りが再び膨らむ。

「全部出せ!」

「あるじゃねえか!」

「隠してた!」

「待て!」

 新之介が蔵の前へ立った。

「この米を、今日だけで使い切るのか!」

「皆へ分けろ!」

「何人いる!」

「知らねえ!」

「明日は!」

「明日は明日だ!」

「それで、また奪うのか!」

 声が止まる。

「数える!」

 新之介は言った。

「今日食べる者。病人。子ども。老人。働ける者。家に残っている者!」

「面倒だ!」

「面倒だから、力のある者だけが取ってきた!」

「早くしろ!」

「早くするために分ける!」

 大月へ。

 米問屋の徳松へ。

 三吉へ。

 おきよへ。

 篠田へ。

 半九郎の代わりに清太郎が到着し、筆を取る。

「どこから書きます」

「名と家族の人数」

「一人ずつですか」

「ああ」

「多いです」

「多いから書く」

 吉松が清太郎の横へ座る。

「私が読み上げます」

「字は」

「あまり上手くありません」

「だから間違いを」

「見つけます」

 井戸端見分で決めた役目が、御蔵前でも始まる。

 一つの帳面。

 だが一人で書かない。

 一人で読まない。

 一人で決めない。

 ◇

 米の配分が始まった頃、川の方角から大きな水音がした。

 誰かが落ちたらしい。

 続いて、伊助の怒声。

 権八の声。

 半九郎の叫び。

 新之介は振り返った。

 追いたい。

 だが目の前には米を待つ者たちがいる。

「新之介様」

 清太郎が言った。

「行ってください」

「何」

「ここは記録できます」

「役人だけでは」

「大月様。篠田様。徳松様。三吉様。おきよ様。私と吉松」

「そなたたちへ任せるのか」

「一人ではありません」

 新之介は清太郎を見る。

 少年は筆を持ち、逃げずに座っている。

「責を負えるか」

「全部は無理です」

「では」

「皆で分けます」

 新之介は頷いた。

「米を一人へ多く渡すな」

「必要な腹を見ます」

「明日の分も」

「残します」

「記録を」

「必ず」

 新之介は川へ走った。

 ◇

 川岸へ着くと、文吉の小舟は転覆していた。

 伊助の舟。

 権八の舟。

 二艘が周囲を回っている。

 半九郎が水中へ縄を投げている。

「文吉は!」

「沈みました!」

「どこで」

「箱を抱えたままです!」

「探せ!」

「流れが速い!」

 志乃が川面を指した。

 黒い箱が一度、水面へ浮かぶ。

 そのすぐ脇に人の手。

「いた!」

 新之介は川へ飛び込もうとする。

 半九郎が止めた。

「傷があります!」

「文吉が沈む!」

「箱を離さないのです!」

「ならば両方引く!」

「重すぎます!」

「人が先だ!」

 権八が舟から川へ飛び込んだ。

「権八!」

「俺は船頭だ!」

 文吉の髪を掴む。

 だが文吉は意識を失いながらも、黒い箱を抱いている。

 箱が水を吸い、二人を沈める。

「離せ!」

 権八が文吉の腕を叩く。

 離れない。

 新之介は岸から縄を投げた。

「権八、腰へ!」

 権八が縄を巻く。

 全員で引く。

 伊助。

 半九郎。

 志乃。

 篠田。

 新之介。

 一人。

 二人。

 三人。

 文吉と権八が水面へ出る。

 黒い箱も。

「引け!」

 岸へ引き上げる。

 文吉は息をしていない。

「生きているか」

 半九郎が首へ手を当てる。

「脈が弱い!」

「水を吐かせろ!」

 権八が文吉の腹を押す。

 一度。

 二度。

 文吉の口から水が出た。

 咳。

 かすかな呼吸。

「なぜ助けた」

 文吉が薄く目を開け、呟いた。

「話を聞くためだ」

 新之介が答える。

「許すのか」

「許さぬ」

「では」

「死ぬ方へ逃げるな」

 文吉は力なく笑った。

「皆……同じことを申す」

「聞く者が同じだからだ」

 文吉の腕から、黒い箱を外す。

 蓋には鍵。

 水に濡れているが、壊れてはいない。

「何の声が入っている」

 新之介が問う。

 文吉は目を閉じた。

「声ではない」

「では」

「名前だ」

「何」

「声筒を作らせた者の名」

「誰だ」

 文吉は答えようとした。

 だが再び咳き込み、意識を失う。

 黒い箱の内側から、小さな機械音がした。

 水に濡れた仕掛けが、勝手に動き始めている。

 皆が箱を見る。

 やがて中から、低い男の声が流れた。

 将軍でもない。

 水野でもない。

 鷹見静山でもない。

 新之介が一度だけ聞いたことのある声。

 海防掛の屋敷。

 四者の取り決めへ署名した男。

 戸田備前守だった。

「四冊を集めよ」

 箱の中の戸田の声が命じる。

「集めた後、全て焼却せよ」

 半九郎が息を呑む。

「戸田様が」

「偽物かもしれぬ」

 新之介が言う。

 だが声は続いた。

「我が家の借財と、三宅の行いが世へ出れば、藩は滅ぶ」

「帳面より家を守れ」

 無音寺の三つの箱とは逆の言葉。

 役目。

 家。

 人。

 その中から家だけを選ぶ声。

「録ったものか」

 志乃が問う。

「作られたものか」

「確かめる」

 新之介は黒い箱を見つめた。

 今度は、敵の声ではない。

 ともに帳面を守る取り決めへ署名した者の声。

 もし本物なら、井戸端見分の内側に、四冊を焼こうとする者がいる。

 偽物なら、文吉は最後まで互いを疑わせようとしている。

 蔵前では、人々が一人ずつ名を告げ、米を受け取っている。

 その一方で、黒い箱の中からは、名を持つ者を再び疑わせる声が流れていた。

 新之介は文吉の呼吸を確かめた。

「生かせ」

「何を聞くのです」

 半九郎が問う。

「この声を、誰がいつ、どこで録ったか」

「戸田様本人にも」

「ああ」

「否定したら」

「声だけでは決めぬ」

「認めたら」

 新之介は御蔵前を振り返った。

 米俵。

 役人。

 町人。

 同じ帳面を囲む者たち。

「家を守ることと、人を守ることを、もう一度問う」

 文吉が薄く目を開けた。

 その唇が、かすかに動く。

「遅い……」

「何が」

「戸田の者は……もう動いた」

「どこへ」

「四冊へ……」

 新之介の顔が変わる。

 第一冊。

 第二冊。

 第三冊。

 第四冊。

 それぞれ別の場所へ封をしている。

 一つへ集めないために。

 だが保管場所を知る者は、井戸端見分の内部にいる。

「どの冊だ!」

 文吉は息を整え、ようやく答えた。

「全部だ」

 遠くで鐘が鳴った。

 一度。

 二度。

 三度。

 御蔵前の鐘ではない。

 江戸の四方から、ほぼ同時に響く。

 四冊の保管場所で、危急を知らせる鐘が鳴っていた。

(第四十九章へ続く)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次