上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第四十九章

目次

第四十九章 四つの鐘

 鐘は、江戸の四方から響いていた。

 一つ目は西。

 西徳寺。

 第一冊を置いた土蔵の方角。

 二つ目は北。

 戸田家の下屋敷。

 街道寺から移した第二冊を、五者の封で預けた場所。

 三つ目は南。

 海防掛の御用蔵。

 盤洲から運ばれた第三冊の鉄箱がある。

 そして四つ目は東。

 南町奉行所の御用蔵。

 杉屋の火事から救い出した第四冊が封じられている。

「全部だ」

 文吉が、濡れた地面へ横たわったまま言った。

「戸田の者は、四冊すべてへ向かった」

 新之介は文吉の襟を掴んだ。

「何人だ」

「知らぬ」

「誰の命で」

「声を聞いただろう」

「声だけでは決めぬ」

「ならば、間に合わぬ」

 文吉は咳き込んだ。

 口から川の水が流れる。

「人は……声の真偽を確かめるより、先に動く」

「誰が戸田殿の声を使った」

「本人かもしれぬ」

「違うかもしれぬ」

「そうだ」

 文吉は薄く笑った。

「便利だろう」

 新之介は襟を離した。

 怒りで締め上げても、答えが出るとは限らない。

 文吉が真実を話すとも限らない。

 だが四冊が襲われていることだけは、鐘が証している。

「半九郎殿」

「はい」

「西徳寺へ」

「第一冊ですね」

「了順殿と藤吉殿を守れ。帳面はその後だ」

「分かりました」

「篠田殿を連れていけ」

 南町奉行所同心の篠田弥兵衛が頷く。

「承知した」

「文吉の言葉は戸田の者です。町方の者を連れていけば、戸田家との争いになります」

 半九郎が言った。

「争いへ行くのではない」

「では」

「確かめに行く」

「斬りかかられたら」

「斬るなとは申さぬ」

「どこまで」

「生きて話せるところまでだ」

「難しい命です」

「分かっている」

 半九郎は脇腹の傷を押さえた。

「そなたも傷人だ」

「浅いです」

「皆、同じことを申す」

「今は行かせてください」

 新之介は頷いた。

「戻れ」

「できぬ約束は」

「今日はしろ」

 半九郎は一瞬驚き、それから答えた。

「戻ります」

 篠田とともに走り出す。

「志乃殿」

「はい」

「伊助の舟で海防掛の御用蔵へ」

「第三冊ですね」

「鉄箱を開けさせるな」

「私が行って、海防掛の者が聞くでしょうか」

「大場殿の名を使え」

「偽の声と同じでは」

「命を作るのではない。誰へ聞けばよいかを示す」

 新之介は文吉のそばに落ちた黒い箱を指した。

「戸田殿の声も持っていけ」

「証としてですか」

「ああ。だが一人で開けるな」

「誰と」

「海防掛、町方、伊助、そなた。四人で聞け」

 志乃は黒い箱を布へ包んだ。

「新之介様は」

「戸田家へ行く」

「第二冊ですか」

「それだけではない」

 戸田備前守本人へ、声の真偽を問わねばならない。

「第四冊は」

 志乃が問う。

「源太郎殿へ知らせる」

「御船蔵にいます」

「権八」

 新之介が船頭を呼ぶ。

「何だ」

「御船蔵へ走れるか」

「舟ならな」

「源太郎殿へ伝えろ。南町奉行所の御用蔵を守れと」

「俺が役人へ命じるのか」

「頼むだけだ」

「頼み方が命みてえだな」

「急いでいる」

「文吉はどうする」

 濡れた男を全員が見る。

 文吉はまだ意識がある。

 逃げる力はなさそうだ。

 だが声筒を作り、偽りを重ねた男である。

 僅かな隙でも、何をするか分からない。

「御蔵前の者へ預ける」

 新之介が答えた。

「誰へ」

「一人では駄目です」

 清太郎が米蔵の方から来た。

 手には記録帳。

 後ろに吉松。

「なぜ来た」

「鐘を聞きました」

「米の配分は」

「大月様、三吉様、おきよ様、徳松様、篠田様の代わりの同心で続けています」

「そなたが抜けてよいのか」

「吉松が読み上げる役を引き継ぎました」

「今、ここにいます」

 吉松が言った。

「では誰が」

「徳松様の手代です」

「字は」

「あまり上手くありません」

「それを選ぶ決まりなのか」

「間違いを見つけやすいので」

「本当か」

「半分は」

「誰の真似だ」

 清太郎は文吉を見た。

「この人を、役人だけへ預けるのですか」

「ほかに誰がいる」

「米を受け取る者たち」

「民へ罪人を見張らせるのか」

「この人は民の声を使いました」

 清太郎は続けた。

「使われた者も、顔を知るべきです」

 新之介は御蔵前を見た。

 三吉。

 おきよ。

 米問屋の徳松。

 蔵役人の大月。

 町方同心。

 それぞれ違う立場の者がいる。

「文吉を御蔵前へ運べ」

「私たちが記録します」

「逃がすな」

「一人で見ません」

 清太郎と吉松が文吉の両側へ立つ。

 文吉が目を開けた。

「子どもへ……私を預けるか」

「子どもだけではない」

 新之介が答えた。

「そなたが一つにした民へ、一人ずつ会え」

「何が変わる」

「名を覚えろ」

「必要ない」

 三吉が近づいてきた。

「俺は三吉だ」

 文吉を見下ろす。

「女房と子が三人いる」

 おきよも来る。

「私は、おきよ。娘のお春を押し潰されかけた」

 徳松。

「播磨屋手代、徳松。米を量る」

 大月孫兵衛。

「御蔵を守る役人だ」

 文吉は目を閉じた。

「聞きたくない」

「だから聞け」

 新之介は立ち上がった。

「行くぞ」

 ◇

 蔵前から戸田家下屋敷までは、歩けば半刻以上かかる。

 新之介は川舟を使った。

 櫂を握るのは伊助の弟分で、若い船頭の与市。

 舟には新之介と、戸田家から米の見分へ来ていた家臣・宮坂孫六。

「宮坂殿」

「何だ」

「戸田殿は、四冊を焼くと申したことがあるか」

「ある」

 予想していなかった答えだった。

「いつ」

「井戸端見分が始まる前だ」

「何と」

「家の恥を残すくらいなら、全て焼いた方がよいとな」

「本気で」

「酒の席だ」

「誰といた」

「家老の北見帯刀。用人の井沢敬之助。それと私」

「声筒を置ける場所か」

「普通の座敷だ」

「ほかに誰かいたか」

「給仕の者」

「戸田殿は、四冊を集めよとも」

「申した」

「いつ」

「四冊の所在が分かり始めた頃だ」

「全て焼却せよ、とは」

「続けては申していない」

 文吉の黒い箱から聞こえた声。

 ――四冊を集めよ。

 ――集めた後、全て焼却せよ。

 違う日に発した言葉を、つなぎ合わせた可能性。

「焼却せよとは、何について申した」

 新之介が問う。

「三宅主膳の作った偽の借財証文だ」

 宮坂が答えた。

「戸田様は、偽証文を全て焼却せよと命じた」

「では声は」

「どちらも殿のものだ」

「言葉をつないだ」

「だが、四冊を焼きたいと思ったことも事実だ」

「今は」

「分からぬ」

「本人に聞かなかったのか」

「家臣が主君へ、帳面を焼きたいかと問えると思うか」

「問え」

「簡単に申すな」

「家を守るためなら、問わずに四冊を焼くのか」

 宮坂の顔が険しくなる。

「我らは家から禄を受けている」

「禄を受ければ、考えることも預けるのか」

「町人へは分かるまい」

「私は武士だ」

「ならば家の重さは分かるだろう」

「分かる」

「では」

「分かることと、従うことは違う」

 宮坂は川面へ目を向けた。

「帳面へ戸田家の借財が出れば、多くの家臣が禄を失う」

「だから隠す」

「妻子がいる」

「帳面を焼けば、借財は消えるのか」

「世へ出なければ、藩は保つ」

「借りた米や金を返さぬままか」

「家が潰れれば、返す者もいなくなる」

「だから誰かへ押しつける」

「それが家を持つということだ」

「違う」

「何が」

「家は、生きる者を守るためにある」

 新之介は言った。

「生きる者を使って、家という名だけを残すものではない」

 宮坂は答えなかった。

 ◇

 戸田家下屋敷の門前には、同じ紋の羽織を着た者たちが二つに分かれていた。

 一方は門を守る者。

 もう一方は門を開けようとする者。

 刀は抜かれている。

 だが、まだ血は流れていない。

「止まれ!」

 宮坂が舟から上がり、叫ぶ。

「同じ家中で何をしている!」

 門を開けようとしていた侍が振り返る。

「宮坂殿」

「誰の命だ」

「殿の御声を聞いた」

「どこで」

「上屋敷にて、北見様から」

「北見帯刀か」

「四冊を集め、焼却せよとの上意だ」

「上意ではない。戸田家の命だ」

「殿の御命は、我らにとって上意も同じ」

 新之介が前へ出た。

「声を直接聞いたのか」

「榊原新之介」

 侍たちの目が厳しくなる。

「異国人から百両を受け取った者を、屋敷へ入れるな!」

「受け取っていない」

「帳面へある!」

「その帳面を焼けば、私の名も消える」

「ならば、なぜ止める」

 侍の問いに、周囲の者も新之介を見る。

 自分へ不利な記録。

 消した方が都合はよい。

「偽りだと証すためだ」

「焼けば、疑いも消える」

「消えぬ」

「なぜ」

「私が焼かせたと残る」

「誰が残す」

「ここにいる者だ」

 新之介は一人ずつ顔を見た。

「宮坂孫六殿」

「門番の者」

「帳面を焼きに来た者」

「皆が見る」

「我らも戸田家だ!」

 侍が叫ぶ。

「家の恥を外へ出すな!」

「ならば、まず家の中で確かめろ!」

「殿の命へ逆らうのか!」

「殿へ聞く!」

「殿は病で臥せっている!」

「いつから」

「今朝だ」

 宮坂が驚く。

「昨夜まで御無事だった」

「今朝、声を失われた」

 新之介は息を呑んだ。

「声を失った」

「ああ」

「誰にも会えぬ」

「医師の命だ」

 声を失った戸田備前守。

 その一方で、戸田の声が江戸中を動いている。

「殿へ会わせろ」

「断る」

「ならば、声を出した北見帯刀へ会わせろ」

 侍の一人が答えた。

「北見様は、第二冊を移すため中にいる」

「どこへ移す」

「申せぬ」

「焼くのではないか」

「家を守る」

「答えになっていない」

 屋敷の奥から、煙が上がった。

「火だ!」

 宮坂が叫ぶ。

 門を守っていた者たちが振り返る。

「文庫の方角だ!」

「第二冊が!」

 門を開けようとしていた侍たちも動揺する。

 彼らは本当に、移すだけだと思っていたのかもしれない。

「開けろ!」

 新之介が門へ走る。

「罠かもしれぬ!」

 宮坂が止める。

「火は待たぬ!」

「殿の命は」

「今、燃えているのは帳面だけか!」

 屋敷には使用人がいる。

 病床の戸田もいる。

 妻子のいる家臣たちも。

「門を開けろ!」

 今度は宮坂も叫んだ。

 門番が閂を外す。

 ◇

 文庫は、すでに半分が煙へ包まれていた。

 火は屋根ではなく、床下から出ている。

 油の臭い。

「第二冊はどこだ!」

 新之介が問う。

 文庫番の老人が咳き込みながら指した。

「奥の鉄櫃!」

「北見帯刀は」

「中です!」

「まだいるのか」

「帳面を持って出ると」

「誰か助けに」

「近づくなと斬られました!」

 宮坂が刀を抜く。

「北見様が」

「そなたは外の者を避難させろ」

 新之介が言った。

「私は家臣だ!」

「だから人を出せ!」

「第二冊は」

「私が行く」

「一人では」

「ならば、文庫番を頼む!」

 宮坂は迷った。

 帳面。

 主君の家。

 目の前の老人。

「宮坂殿!」

 新之介が怒鳴る。

「家を守れ!」

「今、それを」

「家とは人だ!」

 宮坂は文庫番を背負った。

「必ず出ろ!」

「できぬ約束は」

「しろ!」

「今日は皆、それを申す」

 新之介は濡れた筵を頭からかぶり、文庫へ入った。

 ◇

 煙の向こうに、人影があった。

 北見帯刀。

 六十近い痩身の侍。

 足元に鉄櫃。

 手には松明。

「北見殿」

「榊原新之介か」

「火を消せ」

「遅い」

「第二冊を焼くのか」

「家を守る」

「戸田殿の命か」

「殿の御心だ」

「声を聞いたか」

「長年お仕えしている」

「聞いていないのだな」

「言葉にされずとも分かる」

「それは、そなたの答えだ」

「家臣が主君の心を察して何が悪い!」

「察した心を、主君の命にするな!」

 北見が松明を鉄櫃へ近づける。

 櫃の周囲には油が撒かれている。

「止まれ!」

 新之介は武器を持っていない。

 刀は小名木川へ沈んだまま。

「そなたも、この帳面が消えれば助かる」

 北見が言う。

「続帳へ名があるそうだな」

「だから残す」

「愚かな」

「そなたも名を残せ」

「何」

「北見帯刀が、戸田家を守るため第二冊を焼いたと」

「望むところだ」

「本当に」

「ああ」

「この帳面には、家臣が何人、禄を削られたかも記されている」

「家のためだ」

「飢えた家族も」

「耐えねばならぬ」

「そなたの家族は」

 北見の顔が動く。

「何」

「同じだけ耐えたか」

「私も禄を返した」

「何石だ」

「五十石」

「元の禄は」

「四百石」

「五十を返し、三百五十を残した」

「役に必要だ」

「下士は何石から削られた」

「……」

「三十石の者から十石を取ったのではないか」

「家を保つためだ!」

「腹を見たか!」

 第一冊にあった鷹見静山の言葉。

 米を数えるな。

 腹を見よ。

「家の数字だけを見て、人を見なかった」

「黙れ!」

 北見が松明を落とした。

 新之介は飛び込んだ。

 松明を足で踏む。

 油へ火が走る。

 北見が刀を抜く。

「退け!」

「帳面を出せ!」

「家を売る気か!」

 刃が来る。

 新之介は鉄櫃の蓋を盾にした。

 刀が鉄へ当たり、火花が散る。

「火花を出すな!」

「そなたが受けたのだ!」

「では斬るな!」

「退け!」

 二撃目。

 新之介は櫃の陰へ身を入れる。

 肩の傷が開く。

 煙で目が痛む。

 北見も咳き込んでいる。

「北見殿!」

 新之介が叫ぶ。

「このままでは、そなたも死ぬ!」

「家のためなら」

「死ぬ方へ逃げるな!」

「何」

「生きて、なぜ焼こうとしたか申せ!」

「誰へ」

「禄を削られた者へ!」

「町人へ!」

「戸田殿へ!」

「殿は分かっておられる!」

「ならば本人の口から聞け!」

「声が出ぬ!」

「声がなくても問える!」

「主君へ責を負わせるのか!」

「そなた一人で背負ったふりをするな!」

 北見の刀が止まった。

「殿を守る」

「殿へ選ばせていない」

「……」

「そなたが殿のために決め、殿の名で焼く」

「それは忠義か」

「それとも、そなたが正しい家臣でいたいだけか」

 北見の刀先が震える。

 炎は鉄櫃の周囲へ広がっている。

 話す時間は残っていない。

「櫃を運ぶ!」

 新之介が取っ手を掴む。

「一人では動かぬ!」

 北見は動かない。

「北見殿!」

「私は」

「迷うなら、持て!」

「何」

「迷ったまま運べ!」

 新之介は取っ手の一方を持った。

 北見は刀を見た。

 鉄櫃。

 炎。

 文庫の外。

 長年守ってきた家。

「刀を置け!」

 新之介が叫ぶ。

 北見は刀を落とした。

 もう一方の取っ手を持つ。

「上げるぞ!」

 二人で鉄櫃を持ち上げる。

 重い。

 第二冊一冊だけではない。

 封を破られた形跡を残さぬため、外櫃ごと運ぶ。

「前が見えぬ!」

「声を出せ!」

「誰へ!」

「互いにだ!」

「右へ!」

「そなたの右か!」

「出口を向いて右だ!」

「先に申せ!」

 煙の中を進む。

 梁が燃えている。

 出口まで、あと数歩。

 天井から板が落ちた。

 北見の肩へ当たる。

「うっ!」

 鉄櫃が傾く。

「離すな!」

「腕が」

「持て!」

「傷人へ」

「今は申すな!」

 二人は櫃を引きずるように運んだ。

 出口。

 外から宮坂たちが手を伸ばす。

「北見様!」

「櫃を先に!」

「人が先だ!」

 新之介が怒鳴る。

「北見殿を引け!」

 宮坂が北見の腕を掴む。

 別の家臣が新之介を引く。

 最後に鉄櫃。

 全員が外へ出た直後、文庫の屋根が崩れた。

 火の粉が空へ舞う。

 ◇

 北見帯刀は庭へ横たわり、咳き込んでいた。

 右肩を火傷している。

 だが生きている。

 鉄櫃の封は、一つ破れていた。

 戸田家の封。

 ほかの四つは残っている。

「誰が破った」

 新之介が問う。

 北見が答えた。

「私だ」

「中を見たか」

「見ていない」

「なぜ」

「開ける前に……火をつけた」

「自分でも読むのが怖かったか」

「……ああ」

 北見は認めた。

「殿の名がある」

「あるだろう」

「自分の名も」

「分からぬ」

「あるはずだ」

「なぜ」

「三宅の借財を、私も隠した」

 北見は目を閉じた。

「家を守るためだった」

「今も、そう思うか」

「分からぬ」

「便利だろう」

「腹が立つ」

「皆そう申す」

 宮坂が屋敷の奥から走ってきた。

「榊原殿!」

「戸田殿は」

「病間におられません!」

「何」

「布団だけです!」

「いつ消えた」

「火事の混乱の中で」

「連れ去られたのか」

「違います」

 宮坂は手に一枚の紙を持っていた。

「枕元に、殿の書が」

 新之介が受け取る。

 震える文字。

 声を失った者が、自分の手で書いたらしい。

 ――四冊を焼こうと思ったことはある。

 ――家を守るためである。

 ――それを恥じぬ自分を、私は恐れた。

 ――ゆえに、声を文吉へ渡した者を探す。

「戸田殿は自分で出た」

 新之介が言った。

「どこへ」

 紙の裏に、もう一行。

 ――上屋敷、声の間。

「声の間」

 宮坂が呟く。

 北見の顔色が変わった。

「何か知っているか」

「上屋敷には、殿が家臣の訴えを聞く小座敷がある」

「声を録られた場所か」

「給仕も入れぬ。殿と重臣だけの部屋だ」

「では、声筒を置けるのは」

「重臣の誰か」

 北見。

 宮坂。

 井沢敬之助。

 そして、今ここにいない者。

「三宅主膳は死んだのでは」

 新之介が問う。

 北見が首を振った。

「死体は確認されていない」

「何」

「失踪した後、川で着物だけが見つかった」

 また死者。

 鷹見静山。

 お澄。

 今度は三宅主膳。

 死んだことにされ、生きた者の名と声を使う者たち。

「三宅が文吉と」

「分からぬ」

「上屋敷へ行く」

 新之介が立ち上がる。

 足元が揺れた。

 煙を吸った。

 肩から血も流れている。

 宮坂が支える。

「立てますか」

「立てる」

「傷人は皆」

「今は言うな」

 第二冊は救われた。

 だが四冊すべてが無事かは、まだ分からない。

 その時、屋敷の門から三人の使者が同時に駆け込んできた。

 一人は西徳寺から。

 一人は海防掛から。

 一人は南町奉行所から。

「第一冊、無事!」

「第三冊の鉄箱、奪われました!」

「第四冊――」

 三人目の使者が息を整える。

「第四冊は無事です。ですが、保管記録と立会人の名簿が持ち去られました!」

 帳面ではない。

 帳面を守る者の名。

 どこに保管され。

 誰が鍵を持ち。

 誰が内容を読んだか。

 そのすべてを記した名簿。

 文吉が言っていた。

 黒い箱に入っているのは、声ではなく名前だと。

「第三冊を誰が」

 新之介が問う。

「戸田家の印を持つ者です!」

「顔は」

「井沢敬之助殿」

 戸田家の用人。

 偽の続帳へ、火薬を受け取ったと記されていた男。

 戸田の側近。

「どちらへ逃げた」

「上屋敷の方角です!」

 すべてが戸田家上屋敷へ集まっている。

 戸田備前守。

 井沢敬之助。

 奪われた第三冊。

 立会人名簿。

 声を記録した「声の間」。

 そして、生きているかもしれない三宅主膳。

 新之介は焼けた文庫を振り返った。

 四冊を襲った目的は、すべてを焼くことではなかった。

 守る者を散らし。

 一冊を奪い。

 誰が真を知るか、その名を手に入れること。

 帳面だけを消しても、読んだ者が残る。

 ならば次に消されるのは、紙ではない。

「名簿には、誰が載っている」

 宮坂が問う。

 新之介は答えた。

「私たち全員だ」

 その名の中には、清太郎と吉松もある。

 志乃。

 玄斎。

 半九郎。

 源太郎。

 辰蔵。

 お志津。

 伊助。

 米を数えた町人たちまで、これから加えられる。

「上屋敷へ急ぐ」

 新之介が言った。

 北見が焼けた肩を押さえながら起き上がる。

「私も行く」

「傷人だ」

「今は家臣だ」

「同じことを申すな」

「殿を止める」

「戸田殿を疑うのか」

「疑う」

「主君を」

「家臣だからだ」

 北見は自分の口で、初めてそう言った。

「殿が間違っているなら、止める」

「間違っていなければ」

「ともに井沢を止める」

「三宅がいたら」

「生きて話させる」

「焼こうとした帳面も」

「読む」

 北見は鉄櫃を見た。

「怖くても読む」

 新之介は頷いた。

 戸田家上屋敷の方角から、一筋の黒煙が上がり始めていた。

 今度の煙は白くない。

 火の煙。

 声を残した部屋が、燃やされようとしている。

 そして煙の下には、名簿に記された者たちの命を狙う者がいる。

 帳面を守る戦いは、帳面の外へ出た。

(第五十章へ続く)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次