第五十章 声の間
戸田家上屋敷から上がる黒煙は、近づくほど太く見えた。
火の手は屋敷全体へ回ってはいない。
燃えているのは、北西の一角。
主屋から渡り廊下で隔てられた、小さな平屋だった。
「あれが声の間です」
宮坂孫六が言った。
新之介と北見帯刀は、戸田家の早駕籠で下屋敷から移動してきた。
北見の右肩には火傷の布。
新之介の肩には、幾度も巻き直された血染めの布。
二人とも、まともに刀を振れる状態ではない。
それでも北見は刀を腰へ差し、新之介は途中で借りた木の棒を持っていた。
「声の間とは、何をする部屋だ」
新之介が問う。
「殿が家臣の訴えを聞かれる場所です」
「なぜ、そのような名が」
「声の大きさで身分を決めぬためです」
北見が答えた。
「広間では、重臣の声ほど通る。小身の者は、声を上げることすら恐れる」
「だから狭い部屋で、一人ずつ聞く」
「ああ」
「戸田殿が作ったのか」
「三宅主膳の勧めだ」
新之介は北見を見る。
「三宅が」
「十五年前だ」
北見の声に苦味が混じった。
「あの頃の三宅は、まだ家を立て直す知恵者と思われていた」
「借財を隠し始める前か」
「隠していると、我らが気づく前だ」
声を聞くための部屋。
だが、その部屋で発された声が盗まれ、切り分けられ、偽の命令へ作り直された。
人の訴えを聞く場所が、人を操る声を集める場所になっていた。
「門を開けろ!」
宮坂が叫んだ。
上屋敷の表門は閉ざされている。
内側から戸田家の家臣が答えた。
「何者だ!」
「宮坂孫六! 北見帯刀様と榊原新之介殿をお連れした!」
「榊原殿を入れる命はない!」
「誰の命だ!」
「井沢様だ!」
北見の顔が険しくなる。
「井沢敬之助は、いつからこの家の主になった」
「殿は御不例である!」
「殿は屋敷を出られた!」
門内が静まった。
「そのような話は聞いておらぬ!」
「ならば門を開けて確かめろ!」
「井沢様の命により、誰も入れるなと」
「火が出ている!」
「声の間だけである!」
「中に人はいないのか!」
返事がない。
新之介が門へ近づいた。
「門番の名は」
「何」
「名を申せ」
「今は、そのような」
「このまま声の間が焼け、誰かが死ねば、そなたは何と記されたい」
「……」
「命に従って門を閉ざした者か」
「火を見ながら何もしなかった者か」
内側から低い声が返る。
「平岡作之丞」
「平岡殿」
「殿はやめろ」
「では平岡。そなたは、井沢の声を直接聞いたか」
「ああ」
「姿も見たか」
「……障子の向こうだった」
「顔は」
「見ていない」
「また声だけか」
閂の動く音がした。
だが門は開かない。
「平岡!」
宮坂が叫ぶ。
「自分の目で確かめろ!」
「もし井沢様の命が本物なら」
「後で私がともに詫びる!」
「北見様は」
「わしもだ!」
北見が門へ怒鳴った。
「命へ逆らった責は、わしが負う! だが火の前で動かなかった責は、そなたが負え!」
しばらくして、重い閂が外された。
門がわずかに開く。
平岡作之丞は、まだ若い侍だった。
刀を構えている。
だが切っ先は震えていた。
「井沢様は、声の間におられる」
「第三冊もか」
「鉄櫃を運び込まれた」
「戸田殿は」
「お姿を見ていない」
「医師は」
「御病間にいるはずです」
「病間は空だった」
平岡の顔色が変わる。
「そんな」
「誰から、殿が病であると聞いた」
「井沢様から」
「医師の顔を見たか」
「……見ていない」
声。
命令。
障子。
閉ざされた部屋。
誰も相手の姿を確かめていない。
「門を開けろ」
新之介が言った。
平岡は刀を収めた。
「開門!」
◇
声の間の周囲では、家臣や小者が消火に当たっていた。
だが、戸口には槍を持った者が四人立ち、誰も中へ入れない。
「水をかければ証が損なわれる」
槍持ちの一人が言った。
「井沢様の命だ」
「焼ければ、もっと損なわれる!」
宮坂が怒鳴った。
「井沢様は中で、必要な物を運び出している」
「一人でか」
「供が二人」
「戸田家の者か」
「顔を隠している」
「なぜ顔を」
「煙を避けるためだ」
「濡れ布ではなく、黒い覆面か」
槍持ちは答えなかった。
新之介は平屋を見た。
煙は床下から出ている。
下屋敷の文庫と同じ。
火を屋根へ回す前に、床下の仕掛けや記録を焼こうとしている。
「裏へ回る」
新之介が言った。
「正面からは」
「槍を持つ者を斬ることになる」
「裏口はない」
北見が答える。
「壁は」
「土壁だ」
宮坂が火消しの鳶口を一本取った。
「壊します」
「家を壊すのか」
平岡が驚く。
「人を聞くための部屋だ」
宮坂は鳶口を構えた。
「人を失ってまで壁を守る必要はない」
土壁へ鳶口を突き立てる。
一度。
二度。
壁土が崩れる。
家臣たちも加わった。
それまで井沢の命へ従っていた者も、槍を置き、鍬や棒を手にする。
「穴が開くぞ!」
壁の内側から、白い煙が噴き出した。
「伏せろ!」
新之介たちは地面へ身を落とす。
白煙。
不忍池の毒煙と同じものか。
だが草は枯れない。
目と喉を強く刺激するだけだ。
「石灰だ!」
宮坂が叫ぶ。
「火を隠すために撒いたのか」
「違う」
北見が目を細める。
「人を近づけぬためだ」
濡れた布を顔へ巻く。
壁の穴を広げる。
「私が先に入る」
宮坂が言った。
「声の間を知るのは私だ」
「わしもだ」
北見が続く。
「北見殿は肩を」
「傷人は皆」
「今は申すな」
新之介は木の棒を握った。
「三人で入る」
「榊原殿には刀がない」
「そなたたちには片腕がない」
「私たちは二人だ」
「ならば三本の腕と一本の棒だ」
「数え方がおかしい」
「清太郎に後で直させる」
三人は壁穴から声の間へ入った。
◇
室内は、火と煙の中に無数の声が流れていた。
「米を出せ」
「家を守れ」
「帳面を焼け」
「異国船を入れよ」
「水野を討て」
「役目を疑え」
男。
女。
老人。
若者。
途切れた言葉が重なり、どれが誰の声か分からない。
「壁が喋っている」
宮坂が呟く。
柱の内側。
床下。
天井裏。
細い銅の管が何本も張り巡らされている。
部屋で話した声は管へ入り、床下の小部屋へ送られる仕掛けだった。
火の熱で、床下に残された声筒が次々と動き出している。
「三宅が作ったのか」
新之介が問う。
「声が外へ漏れない部屋だと説明していた」
北見が答えた。
「逆だ」
「ああ」
「声を集める部屋だった」
座敷の中央には鉄櫃。
第三冊が入っているはずの箱。
その前に井沢敬之助が立っていた。
濡れ布で口を覆い、右手に刀。
左手には一冊の名簿。
背後には黒覆面の男が二人いる。
「遅かったな」
井沢が言った。
「第三冊を返せ」
新之介が答える。
「戸田家の物だ」
「鷹見静山の帳面だ」
「そこに戸田家の名がある」
「だから、そなたの物になるのか」
「家の生死が書かれている!」
「帳面が家を滅ぼすのではない」
「世へ出れば同じだ!」
「借りた金を隠し、家臣へ負わせたことが滅ぼすのだ!」
井沢が刀を向けた。
「外の者には分からぬ」
「またそれか」
「家には家の理がある」
「理の外で腹を減らした者は、人ではないのか」
「家が潰れれば、さらに多くが路頭へ迷う!」
「だから誰かの米を奪ってよい」
「返すつもりだった!」
「いつ」
「家が立ち直れば」
「立ち直るまで、何人が倒れる」
「必要な犠牲だ」
新之介の顔から表情が消えた。
「その言葉を、佐平も使った」
「私は人を殺していない」
その時、床下から咳が聞こえた。
一人ではない。
何人かいる。
「誰がいる」
宮坂が床へ耳を当てる。
「訴えへ来た家臣たちだ」
井沢が言った。
「何」
「名簿に載った者を呼んだ」
「なぜ床下へ」
「声を残すためだ」
北見が井沢を睨む。
「生きた者の声を、また盗むのか」
「違う」
「では」
「証言を消す」
井沢が鉄櫃の脇へ置かれた油壺を蹴った。
油が床へ広がる。
「この部屋とともに」
「人がいる!」
「戸田家を裏切った者だ」
「帳面を読んだだけでか」
「家の恥を知った者だ!」
新之介が一歩出た。
「名簿へある者を、すべて殺すつもりか」
「全てではない」
「誰を残す」
「家へ忠義を尽くす者」
「誰が決める」
「私だ」
声の間に、戸田備前守の声が流れた。
「家臣の腹を見よ」
全員が一瞬、声の方向を見る。
井沢も。
続いて、別の言葉。
「偽証文を全て焼却せよ」
少し間が空き。
「四冊を集めよ」
三つの声が、同じ声色で続く。
だが息が違う。
間が違う。
それぞれ別の時に発された言葉。
「これが、そなたの命か」
新之介が問う。
「殿の御心だ」
「つなぎ合わせた声を、主君の心にするな」
「私は長年お仕えした!」
「だから、本人へ問わずに決めたのか!」
「殿は弱くなられた!」
「弱い主君は、家臣が好きな声を与えてよいのか!」
井沢の刀が震えた。
「殿は帳面を恐れておられる」
「本人も認めた」
「ならば」
「恐れながら読むと決めた!」
「違う!」
「そなたは、変わる前の戸田殿だけを主君にしたいのだ!」
「黙れ!」
井沢が踏み込む。
北見が刀で受けた。
片腕同然の二人。
刃が絡む。
黒覆面の男たちも動いた。
一人が宮坂へ。
もう一人が新之介へ。
新之介は木の棒で刃を受ける。
一撃で棒の半分が割れた。
「刀もなしに!」
男が横薙ぎに斬る。
新之介は床へ身を落とした。
刃が頭上を通る。
割れた棒を男の足へ差し込む。
払う。
男が倒れる。
その胸へ膝を置き、刀の柄を押さえた。
「覆面を取れ!」
宮坂が叫ぶ。
新之介が布を剥ぐ。
顔を見て、北見が息を呑んだ。
「三宅家の家人だ」
「三宅は生きているのか!」
男は答えない。
懐へ手を入れる。
「止めろ!」
手に小さな火薬玉。
新之介は手首を掴む。
男が歯で火縄を噛もうとする。
「死ぬな!」
「主膳様のためだ!」
「三宅はどこにいる!」
「主膳様は、戸田家を救われる!」
「どこだ!」
男は笑った。
「声の下だ」
その言葉と同時に、床下で大きな音がした。
ごとり。
鉄櫃が動く。
「第三冊が!」
宮坂が振り返る。
座敷中央の鉄櫃が、ゆっくり床へ沈み始めている。
昇降の仕掛け。
声筒を置いた地下室へ下ろされている。
「井沢!」
北見が叫ぶ。
「そなたも囮か!」
井沢自身も驚いていた。
「私は命じていない!」
「三宅に使われたのだ!」
「違う!」
「ならば止めろ!」
井沢が鉄櫃へ向かう。
北見も続く。
だが黒覆面の男が油へ火を落とした。
炎が床を走る。
「床下の者を出せ!」
新之介が叫ぶ。
「第三冊は!」
宮坂が問う。
「人が先だ!」
「櫃が沈む!」
「役を分けろ!」
新之介は倒した男の帯を抜き、両手を縛った。
「宮坂殿、床下の者を!」
「入口は」
北見が柱の裏を指す。
「違い棚を動かせ!」
「北見殿と井沢は櫃を止めろ!」
「榊原殿は」
「火を消す!」
「一人でか!」
「外へ声を出す!」
新之介は壁穴へ向かって叫んだ。
「水を運べ! 床下に人がいる! 壁をもう一面壊せ!」
外から返事。
平岡作之丞。
「承知した!」
命令ではない。
声の主を見た者の返事。
◇
宮坂が違い棚を横へ動かすと、床下へ続く階段が現れた。
白煙が噴き出す。
「誰かいるか!」
「助けてくれ!」
男たちの声。
宮坂が下りる。
新之介は火の広がる床へ水桶を投げた。
一つでは足りない。
外から壁が壊される。
家臣たちが水と砂を持って入る。
「人を先に!」
新之介が繰り返す。
北見と井沢は、沈み続ける鉄櫃の取っ手を掴んでいた。
「上げろ!」
北見が叫ぶ。
「重すぎる!」
「そなたが運び込んだのだろう!」
「四人で運んだ!」
「その四人は」
「三宅の者だった!」
「顔を見なかったのか!」
「戸田家の羽織を着ていた!」
「声と羽織だけで信じたか!」
「今それを申すな!」
鉄櫃は半分以上、床の下へ沈んでいる。
新之介も取っ手へ手を伸ばした。
「榊原殿は火を!」
北見が言う。
「人は宮坂殿たちが出している!」
「手を離すな!」
三人で引く。
新之介の肩から血が流れる。
井沢の顔が歪む。
「なぜ、そなたが助ける」
「何を」
「この帳面が残れば、そなたの罪も」
「第三冊には私の名はない」
「続帳にはある!」
「だから帳面を混ぜるな!」
「全て焼けば、そなたの疑いも」
「私は自分を助けるために来たのではない!」
「ならば何のためだ!」
「読まれるべきものを、読める形で残すためだ!」
「家が潰れる!」
「読む前から決めるな!」
鉄櫃が止まった。
外から平岡たちも加わる。
四人。
五人。
六人。
鉄櫃が少しずつ持ち上がる。
「上げろ!」
昇降台が軋む。
床下で何かが外れる音。
次の瞬間、櫃が急に軽くなった。
全員が後ろへ倒れる。
「何だ」
北見が立ち上がる。
鉄櫃は上へ戻った。
だが底板が開いている。
中は空だった。
「第三冊がない」
井沢が呟く。
櫃の底には、濡れた白紙の束だけ。
「いつ入れ替えた」
新之介が問う。
「私は知らぬ!」
「御用蔵から運び出した時は」
「封があった!」
「確かめたか」
「五つの封が」
「中身を見たか!」
「開ければ、私が破ったと」
井沢は言葉を失った。
封を守った。
形を守った。
中身を確かめなかった。
三宅は、封ごと偽の鉄櫃を作ったのか。
あるいは御用蔵へ入る前に入れ替えたのか。
「声の下だ」
新之介は、縛った男の言葉を思い出した。
「地下だ!」
宮坂が床下から人々を連れ出してくる。
帳面を読んだ家臣。
記録係。
声筒を作らされた職人。
全部で七人。
「地下の奥に道は」
新之介が問う。
職人の一人が咳き込みながら答えた。
「あります」
「どこへ」
「屋敷裏の船着き場へ」
「誰か通ったか」
「鉄の箱ではなく……油紙の包みを持つ老人が」
「顔は」
「暗くて」
「声は」
「三宅主膳様でした」
北見の顔色が変わる。
「確かか」
「私は昔、三宅様の屋敷で働いていました」
「何と申した」
「戸田家の者は、声ばかり聞いて中身を見ぬ――と」
新之介は地下階段へ向かった。
「追う」
「待て!」
井沢が呼び止める。
「私も行く」
「そなたはここへ残れ」
「なぜ!」
「人を閉じ込め、火を放った」
「三宅の者が火を!」
「そなたが名簿で呼び出した」
「殺すつもりはなかった!」
「文吉も同じことを申すかもしれぬ」
「私は家を」
「だから生きて話せ!」
井沢が黙る。
「戸田殿へ、自分の口で申せ」
「殿は声を」
「そなたには声がある!」
井沢はその場へ膝をついた。
自分が主君の声を使った。
だが、自分の行いを語る声は失っていない。
「宮坂殿」
新之介が言う。
「井沢を一人へ預けるな」
「誰と」
「北見殿、平岡、救い出された者から二人」
「私も残るのか」
北見が問う。
「肩を見ろ」
「そなたもだ」
「私は三宅の顔を知らぬ」
「だから、わしが」
「三宅を知る者は職人がいる」
新之介は助け出された男へ向く。
「名は」
「弥助です」
「歩けるか」
「足を打たれましたが」
「無理に連れていかぬ」
「行きます」
「なぜ」
「あの男へ、声筒を作らされました」
「仕返しか」
「確かめたい」
「何を」
「私が作った物で、誰が死んだのか」
弥助は逃げずに言った。
「知らなかったでは、済まないのでしょう」
「ああ」
「ならば行きます」
新之介は頷いた。
「平岡も来い」
「私が」
「門を開けた責を最後まで見ろ」
「はい」
「宮坂殿は消火と人の手当てを」
「承知した」
「戸田殿が戻れば」
「全てを伝える」
「井沢が逃げれば」
井沢自身が言った。
「逃げぬ」
新之介は彼を見る。
「信じろと申すのか」
「信じなくてよい」
「ならば見張られろ」
「……分かった」
◇
地下道は、人一人が身を屈めて通れるほどだった。
壁には銅の管が続いている。
声の間だけではない。
屋敷の病間。
家老の詰所。
主君の寝所。
さまざまな場所から声を集める管が、地下で一つになっていた。
「十五年間、すべてを聞いていたのか」
平岡が呟く。
「三宅が屋敷を去った後も」
弥助が管を見た。
「誰かが筒を替えていた」
「井沢か」
「違うでしょう」
「なぜ」
「仕掛けを知らなかった」
「では誰が」
「医師です」
「戸田殿の医師か」
「声を失わせた者も」
新之介は足を止めた。
「薬で声を奪ったのか」
「喉を腫らす異国の薬があります」
「死ぬか」
「量が多ければ」
戸田は、自ら声を失ったのではない。
声を奪われた。
その間に、過去の声が本人の代わりとして使われた。
「医師の名は」
「沢渡玄隆」
弥助が答える。
「三宅様が戸田家へ入れた医師です」
「今は」
「病間にいるはずです」
「空だった」
平岡が言う。
「ならば三宅とともに」
地下道の先から、鈴の音がした。
一度。
二度。
三度。
四度ではない。
救いを求める合図ではない。
「止まれ」
新之介が灯りを伏せる。
前方に人影。
白髪の老人。
片手に油紙の包み。
もう一方の手には、短銃。
その隣に医師姿の男。
「三宅主膳」
弥助が声を漏らした。
老人が振り返る。
「弥助か」
「生きて」
「死んだ方が都合がよかった」
三宅は微笑んだ。
穏やかな笑み。
人の借財を数字へ変え、家臣の声を筒へ残した男とは思えない。
「第三冊を置け」
新之介が言った。
「榊原新之介」
「私を知っているか」
「声は何度も聞いた」
「姿は初めてか」
「ああ」
「やはり、声より若い」
三宅は油紙の包みを軽く掲げた。
「これが第三冊だ」
「鉄箱から出したのか」
「鉄箱へ入れたのも私だ」
「盤洲で見つかった時から」
「その前だ」
「いつ」
「鷹見静山が海へ流す前だ」
新之介は息を呑んだ。
「では中身を」
「知っている」
「何が書かれている」
「国が異国へ売った物」
「誰が」
「それを知りたいのか」
「帳面へ書いてある」
「書かれている名が、真実とは限らぬ」
「そなたが変えたのか」
「鷹見が書き、私が整えた」
「整えたとは」
「国を動かす形へ」
また同じだ。
記録を、起きたことではなく、起こしたい未来のために使う。
「誰の名を加えた」
三宅は答えなかった。
代わりに短銃を平岡へ向ける。
「道を開けろ」
「逃げるのか」
「移すのだ」
「どこへ」
「海へ」
「異国船か」
「国の中に置けば、家と役目が奪い合う」
「異国へ渡せば」
「値がつく」
「文吉と同じか」
「文吉は金だけを見た」
「そなたは」
「私は国を値踏みする」
新之介は割れた木の棒を構えた。
短銃には敵わない。
だが後ろへ退けば、第三冊は海へ出る。
「撃てば、音が屋敷まで届く」
「その前に逃げる」
「平岡を撃つのか」
「誰でもよい」
「名を見ろ」
「何」
「平岡作之丞だ」
「だから何だ」
「弥助もいる」
「知っている」
「私は榊原新之介だ」
「それも知っている」
「ならば撃て」
平岡が新之介を見る。
「榊原殿」
「誰を撃ったか、残る」
「死者は喋らぬ」
「後ろにいる者が喋る」
「全員を撃てる」
「弾は何発だ」
三宅の目がわずかに動いた。
短銃は一発。
医師の沢渡も武器を持っているかもしれない。
だが全員は殺せない。
「一人を選べ」
新之介が言った。
「そなたが小事にする者を、名で選べ」
三宅の短銃が新之介へ向いた。
「では、そなたからだ」
引き金へ指がかかる。
その時、地下道の背後から、かすれた声が響いた。
「待て」
誰もが振り返った。
声を失ったはずの戸田備前守が立っていた。
喉へ布を巻き、北見帯刀に支えられている。
「殿!」
平岡が叫ぶ。
戸田は苦しげに息を吸った。
声は細い。
だが生きた者の声だった。
「三宅」
たった二文字。
過去の筒から出る声とは違う。
息がある。
痛みがある。
迷いがある。
三宅の短銃が、わずかに下がった。
「備前守殿」
「その……帳面を」
戸田は喉を押さえながら言葉を絞り出した。
「私へ……返せ」
「家を滅ぼすぞ」
「家が……間違ったなら」
戸田の声が途切れる。
北見が支える。
「殿、無理を」
戸田は首を振った。
「家臣へ……言わせぬ」
三宅が目を細める。
「何を」
「私が……読む」
自分の声で。
誰かにつなぎ合わされた声ではなく。
戸田備前守本人が選んだ言葉。
三宅は油紙の包みを抱え直した。
「遅すぎる」
短銃が再び上がる。
今度は戸田へ。
新之介が踏み出した。
銃声。
地下道へ轟音が反響した。
灯りが消える。
暗闇の中で、誰かが倒れた。
そして第三冊を包んだ油紙が、地面へ落ちる音がした。
(第五十一章へ続く)

コメント