上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第五十一章

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第五十一章 生きた声

 銃声は、狭い地下道の中で何度も跳ね返った。

 耳の奥が痺れる。

 火薬の臭い。

 消えた灯り。

 誰かが石床へ倒れる音。

「殿!」

 北見帯刀の声だった。

「動くな!」

 新之介は暗闇へ叫んだ。

「誰も動くな!」

 すぐ近くで、紙の擦れる音がする。

 第三冊を包んだ油紙。

 誰かが拾おうとしている。

 新之介は音のした方へ、割れた木の棒を突き出した。

 手応え。

「うっ!」

 沢渡玄隆の声。

「帳面から離れろ!」

「榊原殿!」

 平岡作之丞が叫ぶ。

「灯りを!」

「火をつけるな!」

 新之介は止めた。

 三宅主膳の短銃は一発だけとは限らない。

 沢渡が別の武器を持っている可能性もある。

 暗闇で灯りを持てば、狙われる。

「北見殿!」

 新之介が呼ぶ。

 返事がない。

「戸田殿は」

「生きて……いる」

 戸田備前守のかすれた声。

 その声の近くから、苦しげな息が聞こえた。

「北見が……私を庇った」

 倒れたのは北見だった。

「傷はどこだ」

「脇腹だ」

 戸田が答える。

「血が……多い」

「布で押さえろ!」

「片手では」

 戸田自身も身体が弱っている。

 北見を抱き起こす力がない。

「平岡、戸田殿のところへ!」

「はい!」

 平岡が壁を伝い、声の方へ進む。

 その足音に重なり、別の足音が奥へ走った。

「沢渡!」

 弥助が叫ぶ。

「逃げます!」

「第三冊は」

「持っています!」

 新之介は追おうとした。

 だが目の前の暗闇で、三宅の気配が動く。

 短銃を捨て、油紙の包みを追うのか。

 それとも別の武器を抜くのか。

「三宅」

 戸田が呼んだ。

 細い声。

 それでも三宅の足が止まった。

「動けば……北見が死ぬ」

「撃ったのは私ではない」

 三宅が答えた。

「そなたの銃だ」

「そなたを狙った」

「ならば、なお悪い」

 戸田は息を整えた。

「家臣を……主君の盾にした」

「北見が自分で入った」

「それを……私のせいではないと申す気か」

 三宅は黙った。

 新之介は暗闇の中で、三宅の位置を探った。

 声は前方、五歩ほど。

「弥助」

「はい」

「沢渡を追えるか」

「足は動きます」

「一人では行くな」

「第三冊が」

「道を知る者は」

「私です」

 平岡が答えた。

「北見様のところには、戸田様がおられます」

「そなたは門番だ」

「今は地下道の案内ができます」

「武器は」

「刀があります」

「抜くな」

「なぜ」

「暗闇で抜けば、味方を斬る」

「では」

「鞘ごと使え」

「承知しました」

「弥助と追え。捕えられぬ時は、行き先だけ見ろ」

「第三冊は」

「取り返せるなら取り返せ。だが死ぬな」

「難しい命です」

「分かっている」

 平岡と弥助が奥へ走る。

 その足音が遠ざかる。

 残ったのは新之介、戸田、北見、三宅。

 そして暗闇。

「榊原新之介」

 三宅が言った。

「そなたは、また人と帳面を分けたな」

「何」

「第三冊を追う者を二人だけにした」

「北見殿を置いて全員で追う気はない」

「そのために帳面を失う」

「帳面を失っても、人が覚えている」

「第三冊を読んだ者は少ない」

「そなたがいる」

 三宅の呼吸がわずかに止まった。

「生きて話せ」

「私が真を話すと思うか」

「嘘も記録する」

「嘘を記録して何になる」

「後で確かめられる」

「何でも確かめる。時間をかける。そなたはそればかりだ」

「そなたは急ぎすぎた」

「国は待たぬ」

「家も待たぬ。腹も待たぬ。異国船も待たぬ」

 新之介は三宅が使おうとしている言葉を先に並べた。

「だから他人の時間を奪ったのか」

「何」

「声を盗み、名を変え、未来の罪を書いた」

「私は形を作っただけだ」

「何の形だ」

「人が動く形だ」

「誰の望む方へ」

「国が生き残る方へ」

「そなたが決めた国だ」

「決める者が必要なのだ!」

 三宅の声が強くなる。

「問いを皆へ渡せば、皆が迷う!」

「迷えばよい」

「船は沈む!」

「一人の答えで、何人沈めた」

「必要な損だ」

「名を申せ」

「またそれか」

「そなたの必要な損になった者の名だ」

「帳面へある」

「腹の数ではない。人の名だ」

 三宅は答えなかった。

 暗闇の中で、戸田の衣擦れがした。

「北見」

 戸田が呼びかける。

「聞こえるか」

「……殿」

 弱い返事。

「死ぬな」

「命……ですか」

「頼みだ」

 北見が、かすかに笑った。

「殿が……家臣へ頼むとは」

「今まで……命じすぎた」

「私も……察しすぎました」

「四冊を焼こうとしたか」

「はい」

「私のために」

「家のためと……思いました」

「違う」

 戸田は苦しげに言葉を続けた。

「私が……怖かったからだ」

「殿は」

「私が恐れた。そなたは、それを見た」

「ならば」

「だが、私へ問わずに焼こうとした」

「申し訳……ございません」

「詫びるな」

「しかし」

「生きて……私を責めろ」

 北見の息が乱れる。

「殿を……責めるなど」

「それができぬ家だから、三宅を使った」

 暗闇の中で、三宅が低く笑った。

「今になって美しい主従を作るか」

「美しくはない」

 戸田が答えた。

「遅く、醜い」

「ならば、もう間に合わぬ」

「間に合わぬと……誰が決めた」

「私だ」

「やはり……そなたか」

 戸田の声は弱い。

 だが筒から出る完璧な声より、地下道の全員へ届いていた。

 息が途切れる。

 喉が痛む。

 言葉の間に迷いがある。

 だからこそ、今の戸田が話していると分かる。

「三宅」

 戸田が言った。

「そなたを……用いたのは私だ」

「私は家を救った」

「一時は、そう思った」

「借財を隠さなければ、家は潰れていた」

「隠したことで……家臣が潰れた」

「家臣は家の一部だ」

「人だ」

「家がなければ、人も散る」

「散った者を……見たか」

「数字で見た」

「腹を……見なかった」

 三宅が苛立ったように足を動かした。

「鷹見静山の言葉か」

「今は……私の言葉だ」

 戸田は言い切った。

「借りた言葉でも、自分で選べば、自分の声になる」

「都合のよい話だ」

「そなたも……自分の声で話せ」

「話している」

「国の声ではない。家の声でもない」

「……」

「三宅主膳としてだ」

 三宅は沈黙した。

 ◇

 地下道の奥から、足音が戻ってきた。

 二人分。

「平岡か!」

 新之介が呼ぶ。

「はい!」

「灯りは」

「沢渡が落とした火打ちがございます!」

「つけろ!」

 先ほどは狙われる危険があった。

 今は三宅の銃が使われたことが分かっている。

 平岡が火打石を打つ。

 一度。

 二度。

 小さな火。

 携帯していた蝋燭へ移す。

 暗闇の中へ、ようやく人の姿が戻った。

 北見は戸田の膝へ頭を乗せている。

 着物の右脇が血で黒く染まっていた。

 三宅は壁際に立っている。

 短銃は足元。

 右手には小さな短刀。

「短刀を置け」

 新之介が言った。

「第三冊は沢渡が持った」

「知っている」

「追わなくてよいのか」

「そなたを残せば、また別の者を使う」

「私一人と帳面一冊。どちらが重い」

「比べぬ」

「選ばなければ、両方失う」

「役を分けた」

「二人で沢渡を捕えられると思うか」

「戻った二人へ聞く」

 平岡と弥助は息を切らしていた。

 弥助の左腕には血。

「沢渡は」

「逃げました」

「第三冊も」

「はい」

「どこへ」

「船着き場です」

「舟は」

「戸田家の印をつけた御用舟が待っていました」

「行き先は」

「隅田川を下りました」

「海か」

「おそらく」

「顔を見た者は」

「船頭が二人」

「名は」

 平岡が紙片を差し出した。

「一人は逃げる前に、自分で名を申しました」

「なぜ」

「沢渡が船頭の弟を川へ落とそうとしたからです」

「名は」

「千住の甚八」

「もう一人は」

「弟の新吉」

「生きているか」

「はい。甚八が沢渡に従うふりをして、弟を舟へ戻しました」

「ならば追える」

「別の舟を求めましたが、すぐ出せる舟がありませんでした」

「それで戻ったか」

「はい」

「よい」

 平岡の顔に悔しさが浮かぶ。

「第三冊を失いました」

「行き先と二人の名を得た」

「同じではありません」

「同じではない」

「では」

「失ったものと、残ったものを分けて記す」

 弥助が言った。

「沢渡は、第三冊を異国船へ渡すつもりです」

「本人が申したのか」

「舟へ乗る前に」

「何と」

「帳面の原本より、写しの方が先に国を動かす、と」

「写し」

「第三冊には写しがあるのか」

「三宅様が作らせました」

 全員の目が三宅へ向く。

「何冊だ」

 新之介が問う。

「冊ではない」

 三宅が答えた。

「では」

「第三冊を三つに分けた」

「何」

「異国へ売った物」

「異国から買った物」

「その取引へ関わった者」

「三つの写しか」

「それぞれ別の場所へ渡した」

「誰へ」

「文吉」

「沢渡」

「もう一つは」

 三宅は戸田を見た。

「備前守殿だ」

 戸田が目を見開く。

「私へ」

「十五年前、声の間へ置いた」

「見ていない」

「そなたが開かなかったからだ」

「どこに」

「壁の中」

 声の間は燃えている。

 だが消火は続いている。

「何の写しだ」

 新之介が問う。

 三宅は答えない。

「戸田殿へ渡したのは、三つのうちどれだ」

「関わった者の名だ」

「名簿」

「ああ」

「誰の名がある」

「幕府、大名、商人、船頭、通詞、僧」

「そなたも」

「ある」

「鷹見静山は」

 三宅の目がわずかに動いた。

「あるのか」

「ある」

「何をした」

「異国の薬を買った」

「毒か」

「違う」

「では」

「声を失った者へ、声を戻す薬だ」

 戸田が喉へ手を当てる。

「沢渡が使った薬と逆のものか」

「元は同じだ。量と調合が違う」

「鷹見先生は誰の声を戻そうとした」

 三宅は答えなかった。

「誰だ」

 新之介が一歩近づく。

「将軍だ」

 誰も言葉を出せなかった。

「何を申す」

 戸田がかすれた声で問う。

「十五年前、家慶公は一時、声を失われた」

「その記録は」

「表には残らぬ」

「鷹見静山が治療に関わったのか」

「薬を探した」

「異国との取引は、そのためか」

「一部は」

「ならば、第三冊へ鷹見先生の名があっても、国を売ったとは限らない」

「帳面だけを見れば、禁制の薬を異国から買った者だ」

 三宅は薄く笑った。

「真は、書き方で変わる」

「書き方だけではない」

 新之介が答えた。

「読む側が何を確かめるかでも変わる」

「だから私が整えた」

「自分の望む真へ」

「国を守るためだ」

「将軍の病を隠すためか」

「国の弱みになる」

「そのために鷹見先生を罪人へした」

「一人の名で国が保つなら」

「また一人を小事にする」

「国と一人を比べるなとでも」

「比べる前に、その一人の名を見ろ」

「鷹見静山だ」

 三宅は初めて、その名を自分の口で明確に言った。

「私は、鷹見静山を使った」

 戸田が目を閉じる。

「知っていたのか」

「後で知った」

「なぜ黙った」

「家を守るためだ」

「私と同じだ」

 三宅は言った。

「違う」

「何が」

「私は今、それを話している」

「遅い」

「遅くても、話す」

「話して国が変わるか」

「まず家が変わる」

 戸田は北見の傷口を押さえながら言った。

「変わらねば……家を残さぬ」

「殿!」

 北見が目を開ける。

「家を捨てるのですか」

「名だけの家なら」

「家臣は」

「選ばせる」

「散る者も」

「いる」

「禄を失う者も」

「いる」

「それでも」

「隠して保つことを、私が選ばぬ」

 北見は苦しげに息を吐いた。

「もっと早く……申していただきたかった」

「すまぬ」

 主君が家臣へ謝った。

 三宅の顔から、初めて余裕が消えた。

「謝れば済むと思うか」

「思わぬ」

「戸田家の借財で死んだ者が戻るか」

「戻らぬ」

「ならば」

「戻らぬから、残った者へ話す」

「何を」

「私が何を選んだか」

 戸田は三宅を見た。

「そなたも話せ」

「断る」

「ならば、縄を受けろ」

「私へ命じるか」

「違う」

 戸田は喉を押さえた。

 声を出すたびに痛む。

 それでも言った。

「戸田備前守としてではない」

「では」

「そなたを用いた者として頼む」

 三宅の短刀が下がった。

「今さら、私を人として扱うか」

「今までは、知恵として使った」

「……」

「それが私の罪だ」

 三宅はしばらく戸田を見た。

 やがて短刀を石床へ置いた。

「縄を打て」

 新之介が平岡へ命じた。

「一つでは駄目だ」

「では」

「戸田家と町方、二つの縄を」

「町方の縄はありません」

 新之介は自分の帯の端を裂いた。

「これを使え」

「榊原殿の帯では」

「今は町方の代わりだ」

「勝手に決めてよいのですか」

「後で源太郎殿へ叱られる」

「それでも」

「逃がすよりよい」

 三宅の腕へ、戸田家の捕縄と新之介の帯が巻かれる。

 完全な取り決めではない。

 だが一人の家の中だけで始末させない印にはなる。

 ◇

「北見殿を運ぶ」

 新之介が言った。

「先に第三冊を」

 北見が答える。

「そなたは撃たれた」

「家臣です」

「今は人だ」

「役目を」

「人でなければ役目を果たせぬ」

 戸田も頷いた。

「北見……生きろ」

「殿の命ですか」

「何度言わせる」

「声が……細いので」

 北見は笑おうとして咳き込んだ。

 平岡と弥助が左右から身体を支える。

 戸田は自分で歩こうとする。

 足元が揺れる。

 新之介が腕を貸した。

「私へ触れると、異国へ金を受け取ったと疑われるぞ」

 戸田が言う。

「今さらです」

「帳面を焼けば、そなたの名も」

「残します」

「怖くないか」

「怖い」

「ならば、なぜ」

「消せば、私以外の偽りも真も消える」

「自分の名より」

「人の名を守る、とは申しません」

「では」

「私の名も、その中の一つです」

 戸田はかすかに笑った。

「鷹見に、似てきたな」

「会ったことはありません」

「だから似られるのかもしれぬ」

 地下道の出口から、外の光が見えた。

 朝はすでに過ぎている。

 江戸の騒ぎは続いているだろう。

 御蔵前の米。

 湾へ入った異国船。

 逃げた沢渡。

 第三冊の原本。

 三つの写し。

 戸田家の声の間に隠された名簿。

 まだ何一つ終わっていない。

 地上へ出る直前、三宅が足を止めた。

「榊原新之介」

「何だ」

「沢渡が向かったのは、異国船ではない」

「先ほどは海へと」

「海へ出るが、渡す相手は異国人ではない」

「誰だ」

「朝風丸だ」

 水野たちが乗った海防船。

「なぜ」

「朝風丸には、第三冊の写しに名がある者がいる」

「誰だ」

 三宅は答えた。

「安西主税」

 偽の上意へ従い、朝風丸を出航させようとした船手頭。

「安西が第三冊を」

「自分の名を消すために、原本を欲しがっている」

「沢渡と安西は通じているのか」

「安西本人が知っているとは限らぬ」

「では」

「沢渡は、安西の声も持っている」

 本人の命か。

 偽の声か。

 船上では、それを確かめる者が少ない。

 朝風丸はすでに江戸湾へ出ている。

 沢渡の御用舟が追いつけば、第三冊は海防掛の船へ入る。

 そして異国船との対峙の中で、証拠ごと海へ沈めることもできる。

「舟を出せ」

 新之介が平岡へ言った。

「北見様の手当てが先です」

「分かっている」

「では」

「北見殿を医師へ運ぶ舟と、湾へ向かう舟を分ける」

「誰が朝風丸へ」

 新之介は答えようとした。

 その時、上屋敷の方角から馬の蹄が響いた。

 門をくぐり、一人の侍が地下道の出口へ走ってくる。

 青山新六郎だった。

 街道寺へ残してきたはずの男。

 傷を負いながら、馬を飛ばして戻ってきた。

「榊原殿!」

「青山殿、なぜ江戸に」

「第二冊の移送後、追って参りました!」

「朝風丸は」

「異国船と接触しました!」

「戦になったか」

「いいえ!」

 青山は息を整えた。

「異国船から、白旗が上がっています!」

「使者か」

「違います!」

「では」

「船上に、日本人が一人立っています!」

「誰だ」

 青山の顔には、驚きと恐れが混じっていた。

「鷹見静山を名乗っております」

 誰も言葉を出せなかった。

 死者の筆跡。

 死者の声。

 今度は、死者の姿。

 三宅でさえ、初めて知らないものを見る顔をした。

「偽物か」

 新之介が問う。

「玄斎殿と兵庫殿が見れば分かります」

「二人は」

「朝風丸へ向かいました!」

 新之介は江戸湾の方角を見た。

 第三冊を持つ沢渡。

 安西の偽声。

 白旗を上げた異国船。

 そして鷹見静山を名乗る男。

 帳面に記された過去が、海の上で人の姿を取り始めていた。

(第五十二章へ続く)

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