上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第四十三章

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第四十三章 死者の声

 水野隼人正の役宅へ入った時、新之介は刀を取り上げられなかった。

 玄関には海防掛の高梨勘兵衛。

 廊下には南町奉行所の同心。

 部屋の前には戸田家の家臣。

 さらに西徳寺から来た若い僧が一人、数珠を手に座っている。

 四者の見張り。

 誰か一人だけの命では、新之介を外へ出すことも、別の場所へ移すこともできない。

「牢より窮屈だな」

 新之介が言った。

 向かいに座る水野は、濡れた続帳の写しを読んでいた。

「牢なら、見張る者は一つで済む」

「保護だと申したのは水野様です」

「そなたが条件を増やした」

「一人へ任せないためです」

「自分で決めた仕組みへ文句を申すな」

 水野は写しを畳んだ。

 そこには、新之介が異国船入津の便宜を図り、金百両を受け取ったと記されている。

「心当たりは本当にないのだな」

「何度目です」

「聞くたびに答えが変わる者もいる」

「変わりません」

「七月二十三日、再起館から一度も出なかったか」

「夕刻、品川の長屋へ米を届けました」

「先ほどは再起館にいたと申した」

「一日中いたとは申していません」

 水野の目が鋭くなる。

「証人は」

「長屋の者。辰蔵。兵馬」

「その帰りは」

「再起館へ」

「誰かと会ったか」

「覚えていません」

「覚えていないことを、会っていないとは申せぬ」

「その通りです」

「認めるのか」

「覚えていないことを認めました」

 水野がため息をついた。

「そなたの詮議は疲れる」

「私も疲れています」

「眠ればよい」

「疑われている者が、役宅でよく眠れると思いますか」

「眠らぬ方が怪しく見えるぞ」

「眠っても怪しいのでしょう」

「そうだ」

「便利ですね」

「役人には便利な言葉が多い」

 水野は自嘲するように言った。

 新之介は障子の向こうを見た。

 玄斎たちは谷中の長泉寺へ向かっている。

 死んだはずの鷹見静山と同じ筆跡。

 同じ墨。

 そして次は、声を使うという老人の言葉。

 何が起きているか分からない。

 その時に、自分だけが座敷へ留められている。

 動かぬことが役目。

 そう言われても、身体は動こうとする。

「宗次郎の気持ちが分かったか」

 水野が突然言った。

「なぜ宗次郎の名を」

「再起館には耳がある」

「海防掛の耳でしょう」

「今はどちらでもよい」

「よくありません」

「傷を負い、置いていかれる者の気持ちだ」

 新之介は答えなかった。

「動けば迷惑をかける。残れば、自分だけが役に立っていないと感じる」

「水野様にも経験が」

「ある」

「いつ」

「鷹見静山を捕えた後だ」

 水野は庭へ目を向けた。

「あの男が詮議で身体を壊した時、私は役目を外された」

「なぜ」

「やりすぎたと見られたのではない。何も吐かせられなかったからだ」

「失敗した役人として」

「ああ」

「その間、何を」

「何もできなかった」

「悔いたのでは」

「最初は、自分の役目を失ったことだけを悔いた」

 水野は静かに続けた。

「鷹見の身体より、自分の出世を見ていた」

「今は違うと」

「違うと思いたい」

「思うだけですか」

「人は自分へ最も上手く嘘をつく」

 水野は続帳の写しを指で押さえた。

「だから帳面へ残す。誰かに見せる。そなたたちがしていることは間違っておらぬ」

「珍しく褒めますね」

「ただし、帳面が正しいと思うな」

「今、学んだところです」

 ◇

 同じ頃、谷中の長泉寺では、閉ざされた本堂から男の声が流れていた。

「……問いを捨てるな」

 玄斎の足が止まる。

 兵庫も顔を上げた。

 半九郎と源太郎には聞き覚えのない声。

 だが二人の老人にとっては、十五年前まで何度も聞いた声だった。

「鷹見先生」

 兵庫が呟いた。

 本堂の障子は閉じている。

 内側に灯りは見えない。

 声だけが、暗闇から響く。

「役目に従うな」

 低く、少しかすれた声。

「家に縛られるな」

 玄斎の顔から血の気が引く。

「人を見よ」

 無音寺の箱に残されていた言葉。

 鷹見静山の教え。

「先生なのですか」

 半九郎が問う。

「声は同じだ」

 玄斎が答える。

「だが、言葉が違う」

「何が」

「先生は、役目に従うなとは申さぬ」

 兵庫が頷く。

「役目を疑え、と申した」

 本堂の声が続く。

「水野隼人正は帳面を奪う」

「戸田備前守は家の罪を隠す」

「南町奉行所は真を葬る」

「榊原新之介を救い出せ」

 源太郎の手が十手へ伸びる。

「新之介様の名が」

「仕掛けだ」

 玄斎が言った。

「続帳へ書いた偽りを、本当にするつもりだ」

 新之介が捕えられ、鷹見塾の者が救い出す。

 そうなれば、続帳の記録は真実らしく見える。

 新之介は鷹見静山の意思を継ぎ、役人を倒す者。

 その物語を作ろうとしている。

「本堂を開けます」

 源太郎が前へ出る。

「待て」

 兵庫が止めた。

「声は本堂の奥からではない」

「では」

「上だ」

 兵庫は屋根を見上げた。

 声は本堂の天井裏で反響し、四方から聞こえるように作られている。

「伝声の筒か」

 玄斎が柱へ耳を当てる。

「中が空洞だ」

 柱の中へ細い管を通し、離れた場所の声を本堂へ響かせている。

 長崎の異国人が船内の命令に使う管を、兵庫は見たことがあった。

「声の主は別の部屋です」

 半九郎が境内を見回す。

 本堂。

 庫裏。

 鐘楼。

 墓地。

「墓だ」

 お志津が言った。

 彼女の腰に、小さな鈴が揺れている。

「母の墓の方から、同じ音がします」

 鈴ではない。

 細い管の中を、声が通る時の震え。

 一行は墓地へ向かった。

 お志津の母の墓は、最も奥にあった。

 相模屋長兵衛妻・お澄。

 十年前に没したと刻まれている。

 墓石の前に、白髪の僧が一人座っていた。

 右手の指が二本、曲がったまま動かない。

 左脚を崩している。

 松波屋の庄助が見た老人と同じ姿。

「鷹見宗山か」

 兵庫が問う。

 僧は振り返った。

 顔立ちは、玄斎が記憶する鷹見静山とよく似ている。

 だが目が違う。

 静山の目は、相手の答えを待った。

 この男の目は、すでに答えを決めている。

「久しいな、兵庫」

 声まで似ていた。

 ほんの少し高いだけ。

「兄の声を使ったか」

「同じ腹から生まれた」

「同じ人ではない」

「死者は言葉を残す」

「そなたが都合よく変えた言葉だ」

 玄斎が前へ出た。

「玄斎」

 宗山は懐かしそうに名を呼んだ。

「老いたな」

「皆、それを申す」

「兄の弟子でありながら、兄を見捨てた」

「知っておる」

「ならば、兄の遺志を継げ」

「そなたから聞く気はない」

「なぜ」

「先生は問いを渡した。そなたは答えを押しつけている」

 宗山は笑った。

「兄も最後には答えを得た」

「何だ」

「幕府は変わらぬ」

「それを先生が申したのか」

「私へ申した」

「いつ」

「死ぬ前だ」

「わしは聞いておらぬ」

「お前は逃げたからだ」

 玄斎の手が木刀へ伸びる。

 半九郎がそっと腕を押さえた。

「先生」

「分かっておる」

「怒っています」

「分かっておる」

 宗山の背後にある墓から、かすかな鈴の音がした。

 お志津が息を呑む。

「母の鈴」

 墓石の横。

 土が新しい。

「墓を開けたのですか」

 お志津が宗山へ詰め寄る。

「死者の物を借りただけだ」

「母の棺を」

「棺はない」

「何」

 宗山は墓石を指した。

「ここへ、お澄は入っておらぬ」

「私は看取りました」

「見たのは顔か」

「病で、顔へ布が」

「誰の顔も見ていない」

 お志津の身体が揺れた。

「母は」

「生きている」

「どこに」

 宗山は答えず、墓石の裏へ目を向けた。

「出てこい」

 墓地の木陰から、女が一人現れた。

 顔を白い布で隠している。

 歩くたびに、小さな鈴が鳴る。

 松波屋で老人についていた女。

「母上」

 お志津が声を漏らす。

 女は布を外した。

 年を重ねている。

 頬は痩せ、髪には白いものが混じる。

 それでも、お志津には分かった。

「お志津」

 女が名を呼んだ。

 お志津は一歩進み、そこで止まった。

「なぜ」

「守るためだった」

「何を」

「お前を」

「十年も」

「長兵衛から離すために」

「私は父のところに残されました」

「……」

「守られていません」

 お澄の顔が歪んだ。

「私は母が死んだと思って、父の帳面を書き続けました」

「知らなかった」

「知ろうとしなかったのではありませんか」

 お志津の言葉に、お澄は答えられなかった。

「宗山様から、父が私を遠ざけたと聞きましたか」

「長兵衛は、お前を商いへ使うと」

「実際に使いました」

「だから」

「だから死んだことにしたのですか」

「お前を連れ出せば、長兵衛が追う」

「一度でも、私へ会おうとしましたか」

 お澄は鈴を握った。

「墓へ来れば、お前を見られた」

「隠れて見ていた」

「そうです」

「それを守ると申すのですか」

 お志津の声は震えていた。

 母を抱きたいのか。

 責めたいのか。

 自分でも分からないのだろう。

「お志津殿」

 新之介はいない。

 止める者もいない。

 玄斎は何も言わなかった。

 今は、お志津自身が言葉を選ぶ時だった。

「母上」

 お志津は言った。

「生きていてくださったことは嬉しい」

 お澄の目から涙が落ちた。

「ですが、許しません」

 その言葉に、お澄の肩が震えた。

「二つとも、本当です」

 お志津は母の前へ立った。

「嬉しいことと、許せないことは、同時にあります」

 玄斎が新之介の言葉を思い出した。

 感謝しながら責めてもよい。

 人の心は、一つの裁きではない。

 ◇

「感動の再会は後にしろ」

 宗山が冷たく言った。

 お志津が振り返る。

「母を使ったのですか」

「お澄は自分で選んだ」

「何を」

「兄の遺志を世へ出すことを」

「偽の帳面を作ることがですか」

「偽ではない」

「榊原様は金を受け取っていません」

「今はな」

「今は?」

 宗山は墓石へ手を置いた。

「記録は、起きたことだけを書く物ではない」

「何を申す」

 半九郎が問う。

「起こすべきことを書く」

「未来の罪を作るのか」

「罪ではない。道だ」

「新之介殿へ、幕府を倒させる」

 兵庫が言った。

「榊原新之介は、人を集める」

「本人は望んでいない」

「人は、自分の役目を自分だけで決められぬ」

「そなたが決めるのか」

「歴史が決める」

「歴史に口はない」

 玄斎が言った。

「今、喋っているのはそなただ」

 宗山の顔から笑みが消えた。

「兄は甘かった」

「先生を使うな」

「問いを残し、人へ選ばせた。その結果が何だ」

 宗山は兵庫を指す。

「長崎へ逃げた」

 玄斎を指す。

「道場へ隠れた」

 半九郎へ目を向ける。

「玄十郎は帳面を埋めた」

 お志津を見る。

「長兵衛は真を売った」

「だから答えを一つにするのですか」

 半九郎が問う。

「ああ」

「誰の答えへ」

「私のではない」

「では」

「兄の声だ」

 宗山が手を上げた。

 墓地の外から、同じ声が響く。

 鷹見静山の声。

「榊原新之介を救え」

「水野隼人正を討て」

「四冊を民へ渡せ」

 木々の向こうから、人の気配。

 一人ではない。

 十人。

 二十人。

 墓地の外には、旧鷹見塾の門人や、その子弟たちが集まっていた。

 皆、死者の声へ呼ばれた者たち。

「すでに役宅へ向かった者もいる」

 宗山が言った。

「何人だ」

 源太郎が問う。

「十分な数だ」

「止めろ」

「遅い」

 ◇

 水野の役宅では、夜半を過ぎた頃、門前へ人が集まり始めていた。

 最初は三人。

 次に五人。

 やがて二十を越えた。

 浪人。

 町人。

 元武士。

 年齢も身なりも違う。

 だが全員が、白い布を腕へ巻いている。

 鷹の印。

「何者だ!」

 門番が槍を構える。

 群衆の中から声がした。

「鷹見静山の門下である!」

 水野が座敷から立ち上がる。

「門下は残っていたのか」

「門人の子も混じっております」

 高梨が答えた。

「目的は」

 門外から叫び声。

「榊原新之介を解き放て!」

 新之介は障子を開けた。

「私の名を」

「出るな」

 水野が止める。

「誰かが私を旗にしている」

「だから出れば、相手の望みどおりになる」

「門番が殺される」

「兵がいる」

「斬り合いになる」

「そなたは保護されている」

「保護される者のために、人が死ぬのですか」

「出れば帳面の記録を真にする」

「残れば門前の者が死ぬ」

 新之介は部屋の外へ出た。

 四者の見張りが立ち上がる。

「どちらへ」

 南町奉行所の同心が問う。

「門へ」

「許可できません」

「逃げぬ」

「しかし」

「四人ともついてこい」

 戸田家の家臣が驚く。

「我らも」

「私一人で動けば逃亡になる。全員で出れば見分だ」

「そのような理屈が」

「今作った」

 水野が後ろから言う。

「私も行く」

「狙われているのは水野様です」

「私の役宅だ」

「役目を盾に」

「今は人もいる」

 水野は刀を腰へ差した。

「門を開ける前に、話す」

「聞くでしょうか」

「聞かせる」

 門外から、低い声が響いた。

 玄斎や兵庫が聞けば、すぐに偽物と分かる。

 だが水野は、その声を知っていた。

 十五年前。

 詮議場で、何度も問いを返した男の声。

「水野隼人正」

 水野の足が止まる。

「鷹見静山……」

 死者の声が門の外から命じる。

「榊原新之介を、我らの旗印とせよ」

 群衆が一斉に唱えた。

「榊原新之介を!」

「榊原新之介を!」

 新之介は門の閂へ手をかけた。

「開けるな」

 高梨が叫ぶ。

「開ければ斬り込まれます!」

「閉じたままでは、声だけが真になる」

「何をするおつもりです」

「本人が出る」

「それこそ相手の望みです!」

「旗にはならぬと、自分の口で申す」

「届きません!」

「届かなくても申す」

 新之介は閂を外した。

 水野が横へ立つ。

 町方。

 戸田家。

 寺の僧。

 海防掛。

 四者の見張りも後ろへ並んだ。

 一人で逃げるのではない。

 皆の目の前で、門を開く。

 木戸がゆっくり開いた。

 白布を巻いた群衆。

 抜かれた刀。

 松明。

 その中央に、顔を黒布で隠した男が立っている。

 男の口から、鷹見静山の声が出た。

「新之介」

 会ったことのない死者が、新之介の名を呼ぶ。

「私の問いを継げ」

 新之介は一歩、門外へ出た。

「断る」

 群衆が静まった。

「私は鷹見静山殿の声を知らぬ」

 新之介は男を見た。

「だが、問いを残した人が、答えを命じるとは思わぬ」

 黒布の男の目が揺れた。

「水野を討て」

「断る」

「帳面を奪え」

「断る」

「幕府は真を隠す」

「それを確かめる」

「時間がない」

「その言葉で、人を殺すな」

 群衆の一人が叫ぶ。

「お前は水野へ買われた!」

「帳面に書かれている!」

「金百両を受け取った!」

 新之介は腰の刀へ手を置かなかった。

「書かれている」

「ならば!」

「だから確かめている」

「嘘だ!」

「嘘か真か、今ここで決めるな」

「役人に時間を与えるのか!」

「時間がないと言う者ほど、他人の命を使う」

 松明が揺れる。

 刀を持つ手にも迷いが生まれる。

 だが黒布の男は声を強めた。

 鷹見静山の声で。

「迷うな!」

 その一言で、玄関に立つ水野の顔が変わった。

「違う」

 水野が呟く。

「何が」

 新之介が問う。

「鷹見は、迷うなとは申さなかった」

 詮議の最中。

 水野が答えを迫った時。

 鷹見静山は何度も言った。

 ――迷うことを恐れるな。

「その声は偽物だ!」

 水野が群衆へ叫んだ。

 黒布の男が刀を抜く。

「水野を討て!」

 群衆の後方で、火矢が上がった。

 一本。

 役宅の屋根を越える。

 奥の蔵へ落ちた。

 火薬を保管する蔵。

 高梨の顔色が変わる。

「火薬蔵だ!」

 火が上がれば、役宅だけでは済まない。

 周囲の町家も吹き飛ぶ。

 門前の群衆も。

 役人も。

 新之介も。

 偽の声を信じた者たちまで、全員が巻き込まれる。

「辰蔵はいない」

 新之介が屋根を見た。

 火矢の先で、小さな炎が燃え始める。

 群衆が混乱する。

 黒布の男だけが後退した。

 最初から、門人たちも焼くつもりだったのか。

 新之介は刀を抜かず、火薬蔵へ走った。

「榊原!」

 水野が叫ぶ。

「逃げるな!」

「逃げていません!」

「どこへ行く!」

「火を消す!」

「そなたを斬ろうとした者たちだぞ!」

「それでも人です!」

 背後で、死者の声が再び響いた。

「新之介を追え!」

 だが今度、その声に従う者は少なかった。

 松明を捨てる者。

 刀を収める者。

 新之介とともに火薬蔵へ走る者。

 命令より、目の前の火を見た者たちが動き始める。

 問いは声の中にはない。

 今、何を守るか。

 その選びの中にある。

 新之介は燃える屋根を見上げた。

 火は、まだ小さい。

 だが消せる時間も、残り少なかった。

(第四十四章へ続く)

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