上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第四十二章

目次

第四十二章 死者の筆跡

 伊助の舟は、夜の大横川をゆっくり進んだ。

 松波屋から遠ざかるにつれ、崩れた蔵の音も、水へ落ちる材木の音も聞こえなくなった。

 それでも誰も口を開かなかった。

 お志津の膝には、濡れた『花仕入』の主帳。

 開かれた頁には、新之介の名が残っている。

 ――榊原新之介。

 ――金百両。

 ――異国船入津の便宜。

 ――受取済。

 墨は水を吸い、輪郭を失い始めていた。

 だが文字そのものは、まだ読める。

「この筆跡は、鷹見先生のものか」

 兵庫が問う。

 お志津は答えなかった。

「見れば分かるのではないのか」

「似ています」

「同じではないのか」

「分かりません」

「先ほどは、書き方を教えたのが鷹見先生だと」

「書き方です。筆跡ではございません」

 お志津は帳面へ顔を近づけた。

「ただ、この『榊』の木偏の止め方は」

「先生の癖か」

「父が申しておりました。鷹見様は、木偏の最後を少し跳ねると」

 兵庫が帳面を覗く。

「確かに跳ねている」

「真似できるか」

 新之介が問う。

「筆跡を長く見た者なら」

 半九郎が答えた。

「父も鷹見先生の書を写していました」

「では玄十郎殿にも」

「できます」

「兵庫殿は」

「できぬ」

「本当に」

「疑うのか」

「今は皆を疑う」

「自分もか」

「ああ」

 新之介は帳面の自分の名を見た。

 書いた覚えのない罪。

 受け取っていない金。

 していない取引。

 だが紙に残れば、それだけで疑われる。

 自分が身に覚えのない者だと知っているからこそ、帳面へ名のある者を簡単に罪人と決めてはならない。

「この一行だけで、私を捕えることはできるか」

 新之介が源太郎へ問う。

「証としては弱いです」

「弱いだけか」

「帳面の出所、書いた者、金を渡した者、受け取った者。確かめる必要があります」

「だが役所へ持ち込まれれば」

「事情は聞かれます」

「縄も」

「場合によります」

「海防掛なら」

 兵庫が言う。

「すぐ捕える者もいる」

「水野様か」

「水野だけではない」

「では、この帳面を誰へ渡す」

 誰もすぐには答えなかった。

 役所へ渡せば、新之介が捕えられる可能性がある。

 隠せば、帳面を都合よく処分したと疑われる。

 自分の名があるからこそ、新之介は扱いを決める立場から外れるべきなのかもしれない。

「再起館へは持ち帰らぬ」

 新之介が言った。

「なぜです」

 半九郎が問う。

「私の名がある。私の手元へ置けば、消したいと思う者が保管していることになる」

「消したいのですか」

「消したい」

 新之介は正直に答えた。

 自分の名。

 金百両。

 異国船への便宜。

 そんな記録が残れば、これまでの働きも、言葉も、すべて疑われる。

「だが消さぬ」

「それなら再起館でも」

「私が守ったと言えば、誰が信じる」

 お志津が帳面を閉じた。

「私が預かります」

「そなたも駄目だ」

「なぜ」

「帳面の見分け方を知っている。書き換えられると思われる」

「では誰が」

 辰蔵が言った。

「さっき助けた手代はどうです」

 舟の後方に、松波屋から救出した若い手代が寝かされている。

 水を飲み、ようやく意識を取り戻しつつあった。

「名は」

 源太郎が問う。

「庄助……」

 手代は咳き込みながら答えた。

「松波屋で何をしていた」

「帳場……」

「続帳を知っているか」

 庄助の顔が強張る。

「知りません」

「嘘だな」

 兵庫が言う。

「責めるな」

 新之介が止めた。

「今は命を救ったばかりだ」

「だから正直に話すとは限らぬ」

「分かっている」

「庄助」

 お志津が呼ぶ。

 手代が彼女を見る。

「私を知っていますね」

「相模屋の……」

「花仕入の主帳を見たことは」

 庄助は黙った。

「文吉殿から、何を命じられていました」

「帳面を……水へ」

「流すようにか」

「はい」

「なぜ助けを呼んだ」

「棚が倒れて」

「帳面を守る役ではなかったのか」

「俺は……」

 庄助の目に涙が浮かぶ。

「死ぬとは聞いてなかった」

「誰のことだ」

「俺たちです」

 地下蔵へいた手代たちは、水門を開けば逃げられないようにされていた。

 帳面と一緒に沈めるつもりだったらしい。

「文吉殿は、俺たちが中にいると知っていた」

「それでも水を入れた」

「はい」

「ならば、知っていることを話せ」

 庄助はしばらく震えていた。

「書いたのは、文吉様じゃありません」

「この新しい頁をか」

「はい」

「誰だ」

「白い髪の老人です」

 全員の目が庄助へ向いた。

「名は」

「知りません」

「いつ来た」

「三日前」

 帳面の日付と同じ。

「どのような老人だ」

「背は高くありません。右手の指が二本、動きません」

 玄十郎の負傷。

 右手が震え、筆を持てなかった。

 だが玄十郎は亡くなっている。

「顔は」

「深い笠をかぶっていました」

「声は」

「低くて……少し咳を」

「ほかに特徴は」

 庄助は考えた。

「左足を引きずっていました」

 鷹見静山。

 無音寺を下った時、片足を引きずっていたという。

 だが十五年前に亡くなったはずだ。

「死者が帳面を書いたと申すのか」

 兵庫が低く言った。

「俺は名を知りません!」

「その老人が新之介の名を書いたのを見たか」

 源太郎が問う。

「直接は」

「ではなぜ、その者が書いたと」

「文吉様が申したんです」

「何と」

「先生が、次の罪を書いてくださる、と」

 先生。

 鷹見静山を指すのか。

 それとも別の者か。

「老人は何を受け取った」

「銀の包みを」

「いくらだ」

「分かりません」

「どこへ行った」

「船で」

「どちらへ」

「北へ」

 大横川から北。

 本所。

 浅草。

 あるいはさらに川を上り、陸路へ。

「船の印は」

「花でした」

「何の花」

「白い菊」

 帳面で真を示す符号。

 白菊。

 新之介の名にも白菊の印がある。

「お志津殿」

 新之介が問う。

「白菊は本当に真なのか」

「父の決まりでは」

「その決まりを知る者が、嘘を真に見せている」

「はい」

「ならば、これからは花だけで判断できぬ」

 お志津は帳面を強く抱いた。

「父の鍵が壊されました」

「鍵が壊れたのではない」

 新之介は言った。

「最初から、一人だけが真偽を決める仕組みが危うかった」

「父を責めるのですか」

「責める」

「父は帳面を守るために」

「自分だけが価値を決められるようにした」

「それが商いです」

「だから人が死んだ」

 お志津の顔が固くなる。

「父だけが悪いと」

「申していない」

「では」

「父上の選びを、父上の罪として見る。仕組みのせいだけにしない」

 お志津は目を伏せた。

「私も書きました」

「何を」

「偽りの名を」

「知っていてか」

「はい」

「誰の」

「役人。商人。船頭」

「その者たちは捕えられたか」

「分かりません」

「調べなかった」

「はい」

「ならば、そなたにも責がある」

 舟の中が静かになる。

 半九郎が新之介を見る。

 言葉が強すぎると思ったのかもしれない。

 だが新之介は目を逸らさなかった。

 お志津も逃げなかった。

「ございます」

 やがて彼女は答えた。

「夫を失った後も、私は書き続けました」

「なぜ」

「生きるためです」

「そうか」

「それでも罪ですか」

「生きるためにしたことが、罪でなくなるとは限らぬ」

 お志津の目に涙が浮かんだ。

「では私は、どうすれば」

「話せ」

「誰へ」

「名を書かれた者へ」

「全員へは」

「できるところからだ」

「許されません」

「許されるために話すのではない」

 兵庫が佐平へ言った言葉と同じだった。

 お志津は帳面へ額をつけた。

「父と同じことをしていたのですね」

「何が」

「知らぬ者を、紙の上で使っていた」

 ◇

 舟は西徳寺の船着き場へ着けられた。

 再起館ではない。

 新之介の名が記された主帳を、彼の拠点へ持ち込まないためである。

 了順が寺の一室を用意した。

 主帳は濡れた頁の間へ薄紙を挟み、風を通して乾かす。

 火へ近づければ、墨が変色する。

 陽に当てすぎれば、紙が縮む。

 慎重な作業が必要だった。

「米と同じですね」

 清太郎が言った。

 知らせを受け、吉松とともに寺へ来ていた。

「何がだ」

 新之介が問う。

「濡れた物を、使えるところと使えないところに分ける」

「帳面は食べられぬ」

「でも、急いで乾かせば駄目になります」

「確かにな」

 清太郎は主帳の状態を記録する。

 どの頁が濡れたか。

 どの文字が読めるか。

 誰が触れたか。

 新之介の名がある頁は、了順、お志津、源太郎、清太郎の四人が立ち会って封をした。

「新之介様は」

 清太郎が問う。

「触れぬ」

「なぜ」

「私の名があるからだ」

「自分の名だから、確かめたいのでは」

「だから触れぬ」

 清太郎は少し考えた。

「では、私たちが間違って読んだら」

「異議を申す」

「見るのですか」

「読む時は立ち会う。だが一人では開かぬ」

「分かりました」

 源太郎は庄助の聞き取りを続けていた。

「白菊の船は、どこから来た」

「松波屋の奥船着き場です」

「船頭は」

「顔を見ていません」

「老人は一人か」

「若い女がついていました」

「どのような」

「顔を布で隠していました」

「背は」

「お志津様と同じくらい」

 全員がお志津を見る。

「私ではありません」

「分かっている」

 新之介が言う。

「ほかに特徴は」

「歩く時、鈴が鳴りました」

「鈴?」

「小さい音です。懐か、帯か」

 お志津の顔が変わる。

「心当たりがあるか」

「母が持っていた鈴です」

「母上は」

「十年前に亡くなりました」

「本当にか」

 お志津が新之介を睨む。

「墓もございます」

「遺体を見たか」

「病床で看取りました」

「では鈴は」

「棺へ入れました」

「墓を開ければ」

「何を申すのです!」

 お志津が立ち上がった。

 了順が静かに言う。

「死者を疑うのは、死者を侮ることではない」

「ですが」

「死者の名を使う者がいるなら、確かめる必要がある」

 お志津は震えながら座り直した。

「母の墓は、谷中です」

「今夜は行かぬ」

 新之介が言う。

「なぜ」

「暗闇で墓を開く必要はない」

「急がなくてよいのですか」

「急げば、大事なところを見落とす」

 半九郎が藤吉の言葉だと気づき、小さく息を吐いた。

「明朝、寺へ話を通す」

「私も行きます」

「ああ」

 ◇

 その夜、井戸端見分の者たちが西徳寺へ集められた。

 水野隼人正。

 坂崎修理。

 戸田備前守。

 了順。

 新之介。

 玄斎。

 兵庫。

 源太郎。

 お志津。

 さらに町人代表として播磨屋庄六。

 火消しの辰蔵。

 記録役の清太郎と吉松。

「なぜ私の名がある」

 新之介は濡れた頁を前に、全員へ問うた。

「そなたを動けなくするためだろう」

 水野が答える。

「捕えますか」

「証が帳面だけなら、今は捕えぬ」

「今は」

「聞き取りはする」

「何を」

「七月二十三日、どこにいた」

「品川沖から戻った後、再起館です」

「証人は」

「大勢いる」

「金百両を見た者は」

「いない。受け取っていないからだ」

「それを確認する」

「水野様」

 戸田が口を挟む。

「新之介だけを詮議するのか」

「帳面へ名がある者すべてだ」

「そなたの名もあるかもしれぬ」

「その時は、私も受ける」

「本当に」

「書付へ残す」

 水野は清太郎へ言った。

「書け。帳面に名のある者は、役職にかかわらず聞き取りを受ける。ただし帳面のみを理由に捕縛しない」

「偽造の可能性があるため、ですか」

「ああ」

「真の記録も混じっています」

 お志津が言う。

「だから聞き取りは必要だ」

「誰が真偽を決める」

「一人では決めぬ」

 坂崎が答えた。

「名を書かれた者本人。金を渡したとされる側。日付。場所。印。証人。別の帳面。すべてを合わせる」

「時間がかかる」

 兵庫が言う。

「かける」

 新之介が答えた。

「異国船は待たぬ」

「だから急ぐ箇所と、急いで決めぬ箇所を分ける」

「海防の情報は私が先に見る」

 水野が言う。

「一人では駄目です」

 清太郎がすぐに返した。

「私を信用せぬか」

「はい」

 高梨が顔をしかめる。

「清太郎」

 新之介がたしなめる。

「ですが、一人では駄目だと」

「言い方がある」

「では、信用しすぎません」

「同じだ」

 水野は怒らず、わずかに笑った。

「よい。海防掛から私と青山。町方から坂崎。民間から船を知る者を一人」

「伊助がよい」

 新之介が言う。

「船頭を秘密へ入れるのか」

 高梨が問う。

「海を知らぬ者だけで海防を読む方が危険だ」

 水野は頷いた。

「伊助へも責を負わせることになる」

「本人へ選ばせる」

「断れば」

「別の者を探す」

「よい」

 ◇

 主帳の最初の見分が始まった。

 新之介の名がある頁だけではない。

 その前後を読む。

 七月二十一日。

 異国製短銃三十挺。

 受取人――南町奉行所同心、庄司源太郎。

 源太郎が目を見開く。

「私まで」

 七月二十二日。

 銀五十枚。

 受取人――海防掛、青山新六郎。

 七月二十三日。

 金百両。

 受取人――榊原新之介。

 七月二十四日。

 火薬二十樽。

 受取人――戸田家用人、井沢敬之助。

「並べられている」

 坂崎が言う。

「今回の件へ関わった者ばかりだ」

「全員を疑わせるためか」

 戸田が問う。

「それだけではありません」

 お志津が頁の端を指した。

 それぞれに花印。

 源太郎は梅。

 青山は桜。

 新之介は白菊。

 井沢は牡丹。

「意味は」

「梅は町方。桜は幕府役人。菊は鷹見塾。牡丹は大名家」

「花で所属を分けた」

「はい」

「では白菊は真の印ではなかったのか」

「父の決まりを変えています」

「誰が」

「分かりません」

 清太郎が一行ずつ読み上げ、吉松が元の文字と照らす。

「榊原様の名だけ、墨が少し違います」

「なぜ分かる」

「光に当てると、黒の中に青があります」

 了順が帳面を傾けた。

「確かに」

「ほかは」

「茶色が混じっている」

 お志津が息を呑む。

「青墨は、父が使いません」

「誰が使う」

 兵庫が答えた。

「鷹見先生だ」

「なぜ」

「先生は煙草を嫌い、煤の墨を嫌った。藍を少し混ぜた墨を使っていた」

「では本当に鷹見先生の墨」

「十五年前の墨が残っていれば使える」

「筆跡も真似、墨も合わせた」

 新之介の名だけが、鷹見静山の書いたものに見えるよう作られている。

「なぜ私だけ」

「鷹見塾の後継に見せるためだ」

 玄斎が言った。

「後継は先生では」

「わしは逃げた老人だ」

「兵庫殿は」

「佐平を使った」

「半九郎は」

「玄十郎の子だが、まだ名が知られていない」

「ならば、私を」

「鷹見静山の意思を継ぎ、異国と通じて幕府を倒そうとした者へ仕立てる」

 水野が結論を言った。

「帳面が公になれば、そなたの言葉も行いも、すべてそのためだったと見られる」

 米を救ったこと。

 役人を疑ったこと。

 帳面を複数へ分けようとしたこと。

 すべてが幕府を弱める企てだと書き換えられる。

「誰が得をする」

 辰蔵が問う。

「鷹見塾を潰したい者」

 坂崎が答える。

「元帳を偽物にしたい者」

 戸田が続ける。

「四冊そのものの信用を壊す」

 お志津が顔を上げた。

「そうです」

「何が」

「偽の続帳へ、四冊と同じ筆跡を混ぜる。偽りが見つかれば、四冊も偽物だと言える」

「すべての記録を無価値にするためか」

「はい」

「では、老人の目的は帳面を売ることではない」

 新之介が言った。

「帳面を信じられなくすること」

「真も偽りも同じにする」

 半九郎が呟く。

 長兵衛が最初に言った。

 真は見る側で変わる。

 誰もが嘘をつく。

 何も信じられない。

 そう思わせれば、罪を問うこと自体ができなくなる。

「老人を見つける」

 新之介が言った。

「その前に」

 水野が止める。

「そなたは役宅へ来い」

「捕えるのか」

「保護する」

「同じに聞こえる」

「帳面へ名がある以上、自由に動けば逃亡と見られる」

「今、老人を追わねば」

「そなた自身が追えば、証を消すために動いたと言われる」

 新之介は反論できなかった。

「では誰が追う」

「町方と海防掛」

「内通者がいる」

「だから井戸端見分からも人を出す」

「誰を」

 玄斎が立ち上がった。

「わしが行く」

「先生」

「鷹見先生の筆跡を最も知る」

「膝は」

「休んだ」

「いつ」

「夕餉の間」

「足りません」

「兵庫も来い」

「命じるな」

「昔の先生を知る者が二人必要だ」

 兵庫は少し考え、頷いた。

「半九郎も」

「なぜ私が」

「玄十郎の遺した書を知る」

「私も行きます」

「新之介は残れ」

 玄斎が言った。

「先生に命じられる筋は」

「今はある」

「何です」

「疑われる者が動かぬことも、真を守るためだ」

 新之介は拳を握った。

 動けない。

 老人を追えない。

 自分の名があるために。

 宗次郎が再起館で感じたことを、今度は新之介が味わっていた。

 何もしないことが役目になる。

 それは刀を振るうより難しい。

「分かりました」

 新之介は答えた。

「役宅へ行く」

「素直だな」

「腹が立っています」

「それでよい」

「ただし条件があります」

 水野が眉を上げる。

「申せ」

「牢へは入らぬ」

「保護だ」

「部屋の外へ、海防掛、町方、戸田家、寺から一人ずつ見張りを置く」

「私を見張るのか」

「全員をです」

「よい」

「帳面の見分は続ける」

「新之介様なしで」

 清太郎が問う。

「私の名がある頁こそ、私なしで先に確かめろ」

「後で異議を」

「ああ」

「記録します」

 ◇

 散会の直前、庄助が一つ思い出した。

「老人が、帰り際に申していました」

「何と」

 源太郎が問う。

「次は、筆ではなく声を使う、と」

「声」

「はい」

「誰の声だ」

「分かりません」

「ほかには」

「鈴の女へ、『先生の声はまだ残っている』と」

 兵庫と玄斎が顔を見合わせた。

「鷹見先生の声を知る者は」

 新之介が問う。

「当時の門人」

 玄斎が答える。

「ほとんど死んだ」

「残っている者は」

「わし。兵庫。玄十郎は亡くなった。水野は詮議で聞いた」

「ほかに」

 兵庫が低く言った。

「一人いる」

「誰だ」

「鷹見先生の弟だ」

 誰もその存在を知らなかった。

「名は」

「鷹見宗山」

「生きているのか」

「十五年前、兄と縁を切ったと聞いた」

「どこにいる」

「谷中で寺の住職をしていた」

 お志津が立ち上がる。

「母の墓がある寺です」

 鈴を持つ女。

 白髪の老人。

 鷹見静山の弟。

 相模屋の妻の墓。

 点が同じ場所へ集まる。

「寺の名は」

 新之介が問う。

「長泉寺」

「明朝まで待つと申したな」

 玄斎が言う。

「待たぬ」

「夜に墓を開くのですか」

 お志津が問う。

「墓を開くとは限らぬ」

「では」

「先生の声を確かめる」

 玄斎は木刀を手にした。

「新之介」

「何です」

「お前は水野の役宅へ行け」

「自分だけ残るのは」

「嫌か」

「嫌です」

「それが今の役目だ」

「役目だけでは人を失う」

「だから、わしらが行く」

 玄斎。

 兵庫。

 半九郎。

 源太郎。

 お志津。

 複数の者が同じ場所へ向かう。

 一人へ任せない。

「戻ってください」

 新之介が言った。

「できぬ約束はせぬ」

「戻る場所を」

「間違えぬ」

 玄斎は答えた。

 新之介は水野の役宅へ。

 玄斎たちは谷中の長泉寺へ。

 二つの道へ分かれる。

 その夜、江戸のどこかで、死んだはずの鷹見静山の声が使われようとしていた。

 筆で罪を作り。

 次は声で、人を動かす。

 新之介は濡れた主帳へ記された自分の名を、最後にもう一度見た。

 文字は滲んでいる。

 だが消えてはいない。

 偽りもまた、放っておけば真のように残る。

 ならば消すのではなく、偽りだと証明しなければならない。

 それが今、新之介に与えられた戦いだった。

(第四十三章へ続く)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次