上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第六章

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第六章 夜襲

 笛の音は、川風に乗って長く尾を引いた。

 高くもなく、低くもない。

 耳に残る、不気味な響きである。

 柳原土手は闇に沈み、先ほどまで辺りを照らしていた提灯の灯も、矢に射抜かれて消えていた。

 新之介は文を懐へ収めると、静かに刀の柄へ手を添えた。

 玄斎は半歩前へ出る。

 木刀を肩に担いだまま、闇の向こうを見据えている。

 源太郎は短く息を吐いた。

「囲まれておりますな」

「そうらしい」

 新之介は耳を澄ませた。

 足音は一つではない。

 左から二人。

 右にも二人。

 背後の河岸にも気配がある。

 逃げ道を塞ぐ布陣だった。

 やがて闇の中から黒装束が姿を現した。

 一人。

 二人。

 三人。

 六人まで数えたところで、新之介は数えるのをやめた。

 まだ潜んでいる者がいる。

「狙いは文か」

 新之介が問いかける。

 答えはない。

 代わりに、一人がゆっくりと前へ出た。

 顔は覆面で隠されている。

 しかし腰に差した刀は上等な拵えであった。

 浪人には過ぎた品である。

「その文を渡していただこう」

 低い声だった。

「断る」

「ならば力づくだ」

 その瞬間だった。

 玄斎が笑った。

「年寄り相手にずいぶん大勢で来たものよ」

 男は玄斎を見た。

「黒川玄斎」

「名を知っておるか」

「江戸で知らぬ者は少ない」

「ならば帰ることだ」

「いや」

 男は静かに刀を抜いた。

「今宵は先生にも退いていただく」

 刃が月明かりを受けて白く光る。

 玄斎は木刀を握り直した。

「新之介」

「はい」

「文は何があっても渡すな」

「承知」

 その返事を聞いた瞬間、黒装束たちが一斉に動いた。

 ◇

 最初に斬り込んできた男は速かった。

 だが、新之介は迎え撃たない。

 半身になって間合いを外す。

 刃が袖をかすめる。

 そのまま相手の手首を峰で打った。

 男の刀が揺らぐ。

 そこへ源太郎が体当たりを食らわせた。

 一人目が倒れる。

 右から二人目。

 今度は玄斎が動いた。

 木刀が唸る。

 肩口。

 肘。

 膝。

 無駄な力がない。

 三打で男は地へ伏した。

「まだまだ鈍ってはおらん」

 玄斎は笑う。

 だが敵も容易ではない。

 後方から二人が同時に斬り込んできた。

 新之介は一人を受け、もう一人を足で払う。

 しかし、その隙を狙って別の男が懐へ飛び込んできた。

 短刀。

「若様!」

 源太郎が叫ぶ。

 新之介は咄嗟に左腕で受けた。

 鋭い痛み。

 傷口が開く。

 それでも刀は離さなかった。

 柄頭で男の顎を打ち抜く。

 男は後ろへ転がった。

 戦いは長く続かなかった。

 黒装束たちは互いに目配せすると、一斉に距離を取った。

 追おうとする新之介を、玄斎が制した。

「待て」

「逃げます」

「追えば誘われる」

 新之介は歯を食いしばった。

 確かに敵は退き際が鮮やかだった。

 最初から勝つつもりではない。

 文を奪えぬと知るや、迷わず退いている。

「時間稼ぎか……」

 源太郎が呟いた。

 玄斎は頷いた。

「そう考える方が自然だ」

 ◇

 三人は近くの小さな堂へ身を寄せた。

 傷を確かめる。

 新之介の腕は浅手だった。

 源太郎が手早く布を巻く。

「慣れているな」

「奉行所では怪我人ばかり見ますから」

 玄斎が懐から文を取り出した。

「読め」

 新之介は慎重に封を解いた。

 中には一枚の紙。

 文字は乱れている。

 急いで書いたものらしい。

 > 榊原様。
 >
 > 私はまだ生きています。
 > 父はもはや矢代殿を止められません。
 > 登城の日に事は起こります。
 > どうか一人で来ないでください。
 >
 > ただ一人、信じられる方がおります。
 > その方は――

 そこで紙は終わっていた。

 下半分が破り取られている。

「途中で奪われたか」

 源太郎が言う。

 新之介は破れ目を見つめた。

「いや」

 玄斎が首を振る。

「最初からこうだったのだろう」

「なぜです」

「続きを別にした」

 老人は紙を裏返した。

 何もない。

 しかし指でなぞる。

「紙が厚い」

 新之介も触れた。

 たしかに不自然だった。

 和紙が二枚重ねになっている。

 慎重に剥がす。

 内側から小さな紙片が現れた。

 そこには一文字だけ記されていた。

 「鷹」

 源太郎が首を傾げる。

「鷹?」

「根付も鷹だった」

 新之介は懐から木彫りの根付を出した。

 玄斎は二つを見比べる。

「偶然ではあるまい」

 ◇

 翌朝。

 三人は日本橋近くの古道具商を訪ねた。

 玄斎の知己である。

 名を半兵衛という。

 元は細工師で、古い武具や根付にも詳しかった。

 老人は鷹の根付を受け取ると、目を細めた。

「懐かしい品ですな」

「知っているのか」

「ええ」

 半兵衛は頷いた。

「これはただの根付ではございません」

「何だ」

「同門の印です」

「同門」

「二十年ほど前、剣術だけでなく兵法や学問も教える私塾がございました」

 新之介は息を呑む。

「名は」

「鷹見塾」

 玄斎の表情が変わった。

「鷹見静山……」

「ご存じですか」

「一度だけ会った」

 玄斎は遠くを見るような目になった。

「剣ではなく、人を育てる男だった」

 半兵衛は続ける。

「その門人たちは皆、この鷹を持っておりました」

「矢代も」

「ええ」

「他には」

 半兵衛は少し考えた。

「確か……榊原様のお父上も」

 新之介は思わず立ち上がった。

「父が?」

「若い頃、半年ほど学ばれたと聞いております」

 新之介は言葉を失った。

 父。

 矢代。

 同じ塾。

 これまで別々だった糸が、また一本繋がった。

 ◇

 屋敷へ戻ると、忠左衛門は縁側で庭を眺めていた。

「戻ったか」

「父上、お尋ねしたいことがあります」

「何だ」

 新之介は鷹の根付を差し出した。

 忠左衛門の目が、わずかに揺れた。

「どこでこれを」

「ご存じなのですね」

 父はしばらく黙っていた。

 やがて深く息をつく。

「……若い頃のものだ」

「鷹見塾へ通われたと」

「ああ」

「矢代左馬之助も」

 忠左衛門は静かに頷いた。

「同門だった」

 新之介は拳を握る。

「では父上は、矢代を知っている」

「知っている」

「どんな男でした」

 忠左衛門は庭の松を見つめた。

「あれは誰よりも真っ直ぐだった」

「ではなぜ」

「真っ直ぐ過ぎた」

 静かな声だった。

「世の曲がりを許せぬ男だった。曲がったものを見れば、折ろうとする」

「……」

「武士も、役人も、人も」

 新之介は父の横顔を見つめた。

「父上」

「何だ」

「矢代はなぜ、このようになったのです」

 忠左衛門は首を横に振る。

「それを話すには、まだ早い」

「早いとは」

「お前はまだ、師・鷹見静山が何者であったかを知らぬ」

 その時だった。

 門の方から馬の蹄が響いた。

 早馬である。

 門番が駆け込んでくる。

「旦那様!」

「何事だ」

「江戸城より急使!」

 使者は息も絶え絶えに座敷へ上がると、忠左衛門へ書状を差し出した。

 忠左衛門は封を切り、一読した。

 その表情が険しく変わる。

「どうされました」

 新之介が尋ねる。

 忠左衛門は静かに書状を畳んだ。

「登城の日が繰り上がった」

「何ですと」

「五日後ではない」

 父は新之介を真っ直ぐ見た。

「明後日だ」

 座敷に重い沈黙が落ちた。

 矢代の計画。

 志乃の救出。

 真相の究明。

 すべてを成すには、あまりにも時間が足りなかった。

(第七章へ続く)

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