上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第八章

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第八章 用済みの刃

 火矢は、二本目、三本目と講堂へ突き刺さった。

 乾ききった柱が燃える。

 破れた障子が一瞬で赤く染まり、炎は天井へ駆け上がった。

 新之介は志乃の前に立ちはだかる男を斬った。

 迷いはなかった。

 だが、怒りに任せた刃でもなかった。

 守るために斬る。

 ただそれだけである。

「志乃殿、立てますか」

「はい……」

 志乃は咳き込みながら頷いた。

 新之介は彼女の腕を取り、炎の薄い方へ誘導した。

 その背後で玄斎が忠左衛門を支えている。

「旦那様、歩けますか」

「まだ死ぬつもりはない」

 忠左衛門は肩から血を流しながらも、どうにか立った。

 源太郎は入り口を塞ぐ黒装束と打ち合っていた。

「こちらは塞がれています!」

「裏へ回る!」

 新之介は叫んだ。

 だが裏戸もすでに火が回っている。

 そこへ矢代左馬之助が歩み出た。

 顔には怒りも驚きもない。

 ただ、深く冷えた目をしていた。

「裏切られたようですね」

 新之介が言う。

 矢代は小さく笑った。

「利用されていたことくらい、初めから分かっていた」

「ならばなぜ従った」

「刃は、使う者がいて初めて届く」

「そして捨てられる」

「ああ」

 矢代は燃える梁を見上げた。

「だが、捨てられる前に、誰を斬るかは刃が決める」

 その言葉と同時に、矢代は入り口の黒装束へ斬り込んだ。

 速かった。

 一人目の腕が飛び、二人目が倒れる。

 敵の囲みが一瞬崩れた。

「今だ!」

 玄斎が叫ぶ。

 新之介は志乃を抱えるようにして外へ走った。

 忠左衛門を支える玄斎、源太郎が続く。

 背後では矢代がなお戦っていた。

 炎の光の中で、左頬の傷が白く浮かんでいる。

 その姿は、狂人ではなかった。

 道を誤った一人の武士であった。

 ◇

 外へ出た瞬間、冷たい夜気が肺に入った。

 だが安堵する暇はない。

 鷹見塾の庭には、さらに十人ほどの武家の手勢がいた。

 いずれも黒装束。

 だが浪人ではない。

 動きに無駄がなく、命令系統も整っている。

「榊原新之介を討て」

 奥から声がした。

 新之介はその声に聞き覚えがあった。

 大久保主膳ではない。

 矢代でもない。

 顔を隠した男が、竹林の陰に立っている。

 新之介は目を細めた。

「誰だ」

 男は答えなかった。

 代わりに手を上げる。

 黒装束が動く。

 源太郎が前へ出た。

「ここから先は奉行所の役目です」

「下がれ」

 新之介は言った。

「いやです」

「源太郎」

「私は同心です。こういう時に前へ出ず、いつ出るのです」

 源太郎は刀を抜いた。

 いつもの軽さはない。

 町方としての覚悟が、その背にあった。

 玄斎は忠左衛門を志乃に預ける。

「年寄りにも働かせるとは、近頃の若侍は情が薄い」

 木刀を握り直す。

 敵が襲いかかった。

 庭はたちまち乱戦となった。

 竹が折れ、砂利が跳ね、刃が火の光を受けて閃く。

 新之介は前へ出た。

 一人を受け、二人目を斬り伏せる。

 源太郎は相手の懐へ潜り込み、肘を打つ。

 玄斎の木刀は相変わらず鋭く、刃を持つ相手を次々に倒していく。

 だが敵は退かない。

 目的は明らかだった。

 生かして帰さぬ。

 その時、燃える講堂の中から矢代が出てきた。

 血に染まっている。

 だが足取りは確かだった。

 その姿を見た黒装束たちが一瞬ひるむ。

「まだ死なぬか、矢代」

 竹林の男が初めて声を荒げた。

 矢代は笑った。

「死に場所を選んでいる」

「貴様はもう役目を終えた」

「ならば今度は、己の役目を果たす」

 矢代は新之介の隣へ並んだ。

 新之介は刀を構えたまま言う。

「味方になるつもりか」

「勘違いするな」

「では」

「斬る順番が変わっただけだ」

 新之介はわずかに笑った。

「それで十分です」

 ◇

 乱戦は長くは続かなかった。

 矢代が加わったことで形勢は一気に変わった。

 黒装束たちは次々に倒れ、残った者は竹林へ退いた。

 だが、顔を隠した男はまだ動かない。

 新之介は一歩前へ出た。

「逃げぬのか」

「逃げる必要はない」

 男はゆっくり覆面を取った。

 源太郎が息を呑む。

「戸田様の用人……」

 男の名は間宮作兵衛。

 若年寄・戸田備前守に仕える用人であった。

 つまり、狙われるはずの者の側近である。

「なぜあなたが」

 源太郎が問う。

 間宮は冷ややかに答えた。

「主を守るためだ」

「守る?」

「戸田様は清廉すぎる。借財整理を本気で進めようとしている」

「それがなぜ悪い」

 新之介が言った。

「悪いのではない。危ういのだ」

 間宮の声には奇妙な確信があった。

「旗本、御家人、札差、大名、勘定方。借財の糸は江戸中に絡んでいる。それを一気に断てば、幕府の土台が揺らぐ」

「だから暗殺を企てたのか」

「暗殺ではない」

 間宮は薄く笑った。

「矢代という狂った浪人が騒ぎを起こす。その混乱の中で評定は流れる。戸田様は一時、職を退く。それだけでよかった」

「人が死んでいる」

「大事の前の小事だ」

 その言葉に、新之介の目が冷えた。

「小事と申したか」

 間宮は答えない。

「浪人も、町人も、火事に巻かれる者も、小事か」

「幕府を守るとは、そういうことだ」

「違う」

 新之介は一歩踏み込んだ。

「それは幕府を守っているのではない。己の恐れを守っているだけだ」

 間宮の顔が歪んだ。

「若造が」

 矢代が低く笑う。

「痛いところを突かれたな」

「黙れ、用済みの犬が」

 間宮は手を振った。

 竹林の奥から、鉄砲が構えられた。

 火縄の赤が見える。

「伏せろ!」

 新之介が叫んだ。

 轟音。

 弾が庭石を砕いた。

 志乃の悲鳴。

 忠左衛門が彼女を庇うように倒れ込む。

 源太郎が鉄砲持ちへ走る。

 二発目を撃たせてはならない。

 だが火縄銃は一挺だけではなかった。

 三挺。

 四挺。

 竹林に潜んでいる。

 このままでは全員が撃たれる。

 その時、矢代が走った。

 まっすぐ竹林へ。

「矢代!」

 新之介が叫ぶ。

 矢代は振り返らなかった。

 火縄が光る。

 銃声。

 矢代の体が揺れた。

 それでも止まらない。

 一人を斬る。

 二人目の銃口を蹴り上げる。

 三人目へ刃を突き立てる。

 血が飛んだ。

 銃声がさらに響く。

 矢代は膝をついた。

 だが、その働きで鉄砲の列は崩れた。

 新之介はその隙に駆けた。

 間宮へ向かって。

 間宮も刀を抜く。

 剣は用人とは思えぬほど達者だった。

 一合目、新之介の刃が弾かれる。

 二合目、間宮の切っ先が頬をかすめる。

 三合目、新之介は踏み込んだ。

 相手は理で斬る。

 ならば理の外へ出る。

 玄斎の教えが身体を動かした。

 勝とうとする者は死ぬ。

 生きようとする者だけが勝つ。

 新之介は間宮の刃を受けず、身を寄せた。

 鍔が触れるほどの近さ。

 間宮の目が見開かれる。

 新之介の柄頭が間宮の胸を打つ。

 息が止まった一瞬、源太郎が背後から組み伏せた。

「捕えた!」

 源太郎の声が響いた。

 ◇

 火はようやく下火になり始めていた。

 講堂は半ば焼け落ち、鷹見塾の面影は炎の中に消えていった。

 間宮は縄を打たれた。

 生き残った黒装束も数名捕えられた。

 だが矢代は、竹林の根元に座り込んでいた。

 胸と腹に銃創。

 血は止まらない。

 新之介は膝をついた。

「矢代殿」

「殿はいらぬ」

 矢代は薄く笑った。

「私は外道だ」

「違います」

「違わぬ。多くを斬った。多くを利用した」

 矢代は燃え残った門を見た。

「ここで、すべて始まった」

 忠左衛門がよろめきながら近づいた。

「矢代」

「榊原……」

 二人はしばらく見つめ合った。

 若き日に同じ門をくぐった者同士。

 片方は家と役目に残り、片方は憎しみの道へ落ちた。

「すまなかった」

 忠左衛門が言った。

 矢代は目を閉じた。

「遅い」

「ああ」

「だが……聞けてよかった」

 その声は小さかった。

 新之介は尋ねた。

「志乃殿をなぜ生かしたのです」

「鷹見先生に似ていた」

「先生に?」

「人を止めようとする目だ」

 矢代は血を吐いた。

「榊原新之介」

「はい」

「武士を嫌うな」

 新之介は息を呑んだ。

「武士は腐る。役目も腐る。家も腐る」

 矢代は続けた。

「だが、それを正せるのもまた、人だ」

「……」

「お前は、私になるな」

 その言葉を最後に、矢代左馬之助は静かに息を引き取った。

 夜風が竹を鳴らした。

 誰もすぐには動けなかった。

 ◇

 夜明けが近づいていた。

 空の端が白み始める。

 捕縛された間宮は奉行所へ送られることになった。

 だが、源太郎の顔は晴れない。

「これで終わりでしょうか」

「終わらぬ」

 新之介は即座に答えた。

「間宮一人でここまでできるはずがない」

 忠左衛門も頷いた。

「背後には、借財整理を恐れる者たちがいる」

 大久保主膳。

 札差。

 旗本。

 そして幕府の中にも。

 闇はまだ深い。

 志乃は焼け落ちた講堂を見つめていた。

「父は裁かれるのでしょうか」

 新之介は少し迷った。

「逃れることは難しいでしょう」

「そうですか」

 志乃は静かに頷いた。

 涙は流さなかった。

 武家の娘として、すでに覚悟していたのだろう。

 新之介は鷹の根付を握った。

 鷹見塾は燃えた。

 矢代は死んだ。

 間宮は捕えた。

 だが、明日の登城はなくならない。

 戸田備前守は江戸城へ向かう。

 そして、矢代を使い捨てた者たちは、まだどこかで次の手を考えている。

 新之介は朝焼けの空を見上げた。

 武士とは何か。

 答えはまだ出ない。

 だが、矢代の最期の言葉だけは胸に残った。

 ――お前は、私になるな。

 新之介は刀を納めた。

 明日。

 江戸城へ向かう道で、また何かが起こる。

 そう確信していた。

(第九章へ続く)

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