上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第三章

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第三章 誠の札

 矢文の紙は、夜風に震えていた。

 ――次は、お前だ。

 墨はまだ乾ききっていない。

 新之介はそれを見つめたまま、しばらく動かなかった。

 恐れではない。

 怒りでもない。

 胸の奥に生じたものは、もっと冷たい感覚だった。

 自分が狙われている。

 その事実が、刀の鞘を静かに鳴らすように心へ響いた。

「若様、すぐ門を閉めます」

 門番が声を震わせた。

「待て」

 新之介は矢を抜いた。

 矢羽を確かめる。

「これは武家の矢だ」

 玄斎が背後から言った。

「町人の悪戯ではない、ということですね」

「ああ。矢竹の削りが丁寧すぎる」

 源太郎も顔をしかめた。

「奉行所へ持ち帰ります」

「いや」

 新之介は紙を畳んだ。

「これは私が預かる」

「しかし」

「私宛てだ」

 源太郎は言葉を呑んだ。

 その時、玄斎が門の外へ歩み出た。

「先生」

「まだ近くにいるかもしれん」

 玄斎は暗がりを眺める。

 塀の向こうには、江戸の夜が広がっていた。

 犬の遠吠え。

 行灯の灯り。

 どこかの長屋から漏れる咳。

 しかし、人影はない。

「逃げ足も達者だ」

 老人は小さく笑った。

「敵は一人ではあるまい」

 新之介は答えなかった。

 代わりに、源太郎へ目を向けた。

「さきほど言いかけた剣術集団の名は」

 源太郎は唇を結んだ。

「誠心組です」

「誠心組……」

「十年ほど前、浪人や貧しい御家人を集め、剣術修行を名目に結束していた者たちです」

「何者が率いていた」

「名を、矢代左馬之助」

 玄斎の目がわずかに動いた。

 新之介は見逃さなかった。

「先生、ご存じなのですか」

「名だけはな」

「どのような男です」

「剣は立つ。だが、剣より口が立つ男だった」

「口?」

「世を斬る、などと申していた」

 源太郎が続ける。

「当時、誠心組は武士の再生を掲げていました。腐った幕府、堕落した旗本、金に頭を下げる武士を正す、と」

「それがなぜ解散に」

「ある夜、内輪揉めがあり、三人が死にました」

「斬り合いか」

「はい」

 夜風が吹いた。

 庭の松がざわめく。

「その後、矢代左馬之助は姿を消しました」

「死んだのではないのか」

「記録上は行方知れずです」

 新之介は懐の紙を握った。

 武士の世は終わる。

 武士は刀を捨てよ。

 そして、誠の木札。

 点と点が、ゆっくり線になっていく。

「十年前の亡霊が、いま江戸に戻ったということか」

 玄斎は低く言った。

「亡霊なら斬れぬ。だが人なら斬れる」

 その声には、老剣客の静かな覚悟があった。

 ◇

 翌朝、新之介は父・忠左衛門に呼ばれた。

 書院には、いつもより重い空気が漂っていた。

 忠左衛門は膝の前に一通の書状を置いている。

「昨日の騒ぎは聞いた」

「はい」

「矢文とは穏やかではない」

「ご心配をおかけしました」

「心配ではない」

 父は厳しい目を向けた。

「榊原家の問題だ」

 新之介は背筋を伸ばした。

「お前一人の命なら、お前の覚悟で済む。しかし家名に火の粉がかかれば、家中すべてが巻き込まれる」

「承知しております」

「ならば軽挙は慎め」

「はい」

「奉行所に任せよ」

 その言葉に、新之介は黙った。

 忠左衛門は眉を寄せる。

「不服か」

「奉行所が動けぬ相手かもしれません」

「何を知っている」

「まだ確証はありません」

「確証もなく動くな」

 父の声が鋭くなる。

「武士は勇むだけでは務まらぬ。家を守り、役を守り、己の立場を弁える。それもまた武士だ」

 新之介は頭を下げた。

「心得ました」

 だが、胸の内では別の思いが渦巻いていた。

 武士とは何か。

 刀を差す者か。

 家を守る者か。

 役目に従う者か。

 それとも、己の信じる義を貫く者か。

 答えはまだ見えなかった。

 ◇

 昼、新之介は勘定所へ出仕した。

 勘定所は相変わらず忙しい。

 諸国から届く年貢米の報告。

 蔵屋敷とのやり取り。

 普請費用の見積もり。

 刀ではなく筆と算盤が飛び交う場所である。

 だが新之介は、そこにも武士の文化を見ていた。

 武士は戦わぬ時代になった。

 ならば、民を飢えさせぬために数字と向き合う。

 米一俵の重みを知り、銭一文の流れを追う。

 それもまた、太平の世の武士の務めであった。

「榊原殿」

 隣席の小役人、松井弥十郎が声をかけた。

「顔色が悪いぞ」

「少し寝不足でな」

「若いのに情けない」

 弥十郎は笑った。

 気さくな男で、家禄は少ないが働き者だった。

「ところで聞いたか」

「何を」

「また妙な噂だ」

 新之介の筆が止まる。

「日本橋の古着屋に、刀を買い集める浪人が出入りしているらしい」

「刀を?」

「ああ。しかも折れた刀、錆びた刀まで買うそうだ」

「何に使う」

「知らん。屑鉄にでもするのではないか」

 弥十郎は笑ったが、新之介は笑えなかった。

 斬られた浪人の刀身が消えていた。

 そして、刀を買い集める者。

 偶然とは思えない。

「その古着屋はどこだ」

「本所の裏通りだ。たしか、伊勢屋とか申したか」

「伊勢屋」

 新之介はその名を胸に刻んだ。

 ◇

 夕刻。

 新之介は源太郎と落ち合い、本所へ向かった。

 表通りの賑わいから外れると、町の顔は一変する。

 狭い路地。

 傾いた長屋。

 湿った土の匂い。

 井戸端では女たちが噂話をし、子どもが裸足で走っている。

 武家屋敷から見える江戸とは違う。

 だが、これも江戸である。

「ここです」

 源太郎が小さく言った。

 古びた店があった。

 暖簾には「伊勢屋」と染め抜かれている。

 古着、古道具、質流れの品を扱う店らしい。

 新之介たちは客を装って中へ入った。

 店内には古い羽織、煙管、壊れた根付、錆びた小柄などが雑然と並ぶ。

「いらっしゃいませ」

 奥から痩せた男が出てきた。

 店主だろう。

 目が細く、商人らしい愛想笑いを浮かべている。

「刀を探している」

 新之介が言った。

「刀でございますか」

「実用でなくてよい。古いもので構わぬ」

 店主の目がわずかに光った。

「近頃、刀をお求めの方が多うございますな」

「ほう」

「泰平の世とは申せ、武士様はやはり刀がお好きで」

 源太郎が一歩前へ出た。

「誰が買いに来る」

「さあ、それは商いの道に反します」

「奉行所の者だ」

 源太郎が懐から証を見せた。

 店主の顔色が変わった。

「こ、これは失礼を」

「答えろ」

「名は存じませぬ。ただ、浪人風の方が何度か」

「顔は」

「面長で、左の頬に傷が」

 源太郎と新之介は目を合わせた。

「矢代左馬之助か」

「名は聞いておりませぬ」

「買った刀はどこへ運ばせた」

 店主はためらった。

 源太郎が低い声で言う。

「隠せば店を改める」

「深川でございます」

「深川のどこだ」

「木場の外れにある空き蔵へ」

 新之介の目が細くなる。

 刀を集め、空き蔵へ運ぶ。

 何を企んでいるのか。

 その時、店の奥で物音がした。

 新之介が振り返る。

 裏口が開いている。

「誰かいたな」

 源太郎が走った。

 新之介も続く。

 裏路地へ出た瞬間、黒い影が角を曲がった。

「待て!」

 源太郎が叫ぶ。

 影は逃げる。

 足は速い。

 路地を抜け、橋を渡り、夕暮れの本所を駆けていく。

 新之介は追った。

 草履が土を蹴る。

 袴の裾が風を切る。

 やがて影は行き止まりに入った。

 高い塀。

 逃げ場はない。

 黒装束の男が振り返った。

 顔は布で覆われている。

 手には短刀。

「誰の手の者だ」

 新之介が問う。

 男は答えず、短刀を構えた。

 次の瞬間、飛び込んでくる。

 速い。

 だが、新之介は半身でかわした。

 刀は抜かない。

 鞘ごと打つ。

 男の手首に当たった。

 短刀が落ちる。

 源太郎が取り押さえようとした。

 しかし男は懐から何かを取り出した。

「伏せろ!」

 新之介が叫んだ。

 小さな火花。

 煙。

 目つぶしだった。

 白い粉が散り、視界が塞がれる。

 咳き込む間に、男は塀をよじ登り、消えた。

「くそっ」

 源太郎が悔しげに拳を握る。

 新之介は地面に落ちた物を拾った。

 小さな木札。

 裏には、また一文字。

 誠。

「やはり繋がっている」

 新之介は呟いた。

 ◇

 その夜、深川木場の外れ。

 新之介、源太郎、そして玄斎の三人は、古い蔵の前に立っていた。

 周囲には材木が積まれ、川から湿った匂いが上がってくる。

 木場は昼こそ人足で賑わうが、夜は深い闇に沈む。

「奉行所の手勢を待った方がよいのでは」

 源太郎が言った。

「待てば逃げられる」

 玄斎が答える。

「だが三人では危うい」

「危ういから面白い」

「先生」

 新之介がたしなめると、老人は笑った。

 蔵の戸には鍵がかかっていない。

 そっと開ける。

 中は暗い。

 油の匂い。

 鉄の匂い。

 新之介は行灯に火を入れた。

 薄明かりに照らされたものを見て、三人は息を呑んだ。

 刀だった。

 折れた刀。

 錆びた刀。

 抜き身の刀身。

 数十、いや百を超える刃が、蔵の中に積まれている。

 その奥には、黒い布で覆われた大きな箱があった。

 源太郎が布を剥ぐ。

 中には鉄砲があった。

「火縄銃……」

 新之介は低く呟いた。

 それも一挺や二挺ではない。

 十数挺。

 さらに火薬袋もある。

「これはただの剣術集団ではない」

 源太郎の声が震えた。

「謀反か」

 玄斎が険しい顔になる。

「いや、これだけでは城は落とせぬ」

「では何を」

 その時だった。

 蔵の外で足音がした。

 一人ではない。

 複数。

 新之介は行灯の火を消した。

 暗闇。

 戸の隙間から声が聞こえる。

「中を確かめろ」

 低い男の声。

 新之介は息を殺した。

 戸が開く。

 黒装束の男たちが入ってくる。

 三人。

 いや五人。

 手には抜き身。

 新之介は刀の柄に手をかけた。

 玄斎が囁く。

「斬るな。まだ殺すな」

「承知」

 次の瞬間、玄斎が動いた。

 闇の中で木刀が唸る。

 一人の膝を砕く。

 新之介は鞘で別の男の顎を打った。

 源太郎が組み伏せる。

 だが残る二人は外へ逃げた。

「追う!」

 新之介が飛び出す。

 月明かりの下、男たちは材木置き場を駆けていた。

 その先に、ひときわ背の高い男が立っている。

 顔は見えない。

 だが、左頬に白い傷があった。

「矢代左馬之助か」

 新之介が叫んだ。

 男は振り返った。

 静かな目だった。

 憎しみも怒りもない。

 ただ、底の見えぬ闇がある。

「榊原新之介」

 男は名を呼んだ。

「やはりお前か」

「武士の皮をかぶった役人よ」

 新之介は刀を抜いた。

「何を企んでいる」

 矢代は笑った。

「企みではない」

「では何だ」

「祓いだ」

「祓い?」

「腐った武士を、この江戸から祓う」

 矢代は一歩下がった。

「刀を魂と呼びながら、銭に膝を折る者ども」

「民を守ると言いながら、民の米を食い潰す者ども」

「己を律することもできぬ者が、なぜ武士を名乗る」

 新之介は黙った。

 その言葉には、ただの狂気では済まされぬ響きがあった。

「だから人を斬るのか」

「斬らねば目を覚まさぬ」

「それは武士の道ではない」

 矢代の目が細くなった。

「ならば問う。お前の武士道とは何だ」

 新之介は答えられなかった。

 玄斎の言葉。

 父の言葉。

 源太郎の義務。

 町人の暮らし。

 すべてが胸の中でぶつかる。

 矢代は笑った。

「答えられぬか」

 その瞬間、川の方から火が上がった。

 轟音。

 蔵の一角が爆ぜた。

 火薬だ。

 炎が夜空を赤く染める。

「今宵は挨拶だ」

 矢代は闇へ身を引いた。

「次は、江戸そのものに問う」

「待て!」

 新之介は追おうとした。

 だが、背後で源太郎が叫ぶ。

「榊原様! 火が!」

 蔵には火薬と鉄砲がある。

 このままでは木場一帯に火が回る。

 江戸の町は火に弱い。

 一度燃えれば、長屋も橋も人も飲み込む。

 新之介は歯を食いしばった。

 矢代を追えば、火を止められない。

 火を止めれば、矢代を逃がす。

 武士とは何か。

 その問いが、炎の中で突きつけられた。

 新之介は刀を納めた。

「火を消す!」

 玄斎が頷いた。

「それでよい」

 矢代の姿は闇に消えた。

 残されたのは燃え上がる蔵と、刀の山と、江戸を揺るがす陰謀の匂いだった。

 新之介は水桶を掴み、炎へ向かった。

 その背に、矢代の声が残っていた。

 ――お前の武士道とは何だ。

 答えはまだない。

 だが、新之介は知った。

 答えを見つけるまで、この闇から逃げることはできぬのだと。

(第四章へ続く)

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