上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第一章

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第一章 朝霧の剣

 夜明け前の江戸は静かである。

 百万都市と呼ばれようとも、人々が眠る刻には、町は獣のように息を潜める。

 東の空が白み始めた頃、神田川にかかる小橋の上を一人の武士が渡っていた。

 名を榊原新之介という。

 二十七歳。

 旗本三百石取り、榊原家の嫡男であった。

 背は高く、無駄な肉のない体つきである。顔立ちは端正だが、どこか冷ややかな印象を与える。

 新之介は足を止めた。

 橋の欄干越しに川面を見る。

 薄い朝霧が漂っている。

 その向こうでは舟が一艘、静かに進んでいた。

「今日も始まるか」

 呟きは白い息となって消えた。

 江戸は平和だった。

 戦国の乱世は遠くなり、刀を抜く機会など滅多にない。

 しかし武士は武士である。

 戦がなくなったからといって、その務めが消えるわけではなかった。

 新之介は橋を渡り終え、本所の屋敷へ向かった。

 榊原家は代々、幕府の勘定方に仕えている。

 武辺より算術。

 剣より帳面。

 それが家風だった。

 だが新之介は違った。

 幼い頃から剣に魅せられていたのである。

 屋敷へ戻ると、門番が頭を下げた。

「お戻りでございますか」

「ああ」

 新之介は短く答えた。

 裏庭へ回る。

 そこには小さな道場があった。

 まだ朝も早いというのに、一人の老人が座している。

「遅いぞ」

 老人が言った。

「まだ卯の刻前です」

「武士の朝に遅いも早いもない」

 老人は鼻を鳴らした。

 名を黒川玄斎という。

 六十を越えた剣術師範である。

 榊原家に二十年以上仕えていた。

「木刀を取れ」

 新之介は無言で従った。

 二人の距離が詰まる。

 静寂。

 鳥の声さえ聞こえない。

 その刹那だった。

 玄斎の木刀が閃いた。

 速い。

 老いた体から放たれたとは思えぬ一撃だった。

 新之介は受け流す。

 続けざまに二撃、三撃。

 激しい音が庭に響いた。

 やがて玄斎が下がる。

「まだだな」

「どこがです」

「お前は勝とうとする」

「当然でしょう」

「違う」

 老人は首を振った。

「勝とうとする者は死ぬ」

「……」

「生きようとする者だけが勝つ」

 新之介は答えなかった。

 何度も聞かされた言葉だった。

 だが意味が分からない。

 戦のない世で、生死を語る理由が見えないのである。

 玄斎はそんな弟子の表情を見て苦笑した。

「いずれ分かる」

「いつです」

「死にかけた時だ」

 新之介は思わず笑った。

 老人も笑う。

 それで朝稽古は終わった。

 朝餉の席には父・榊原忠左衛門がいた。

 五十を過ぎた実直な武士である。

「勘定所へ行く前に話がある」

 珍しく父が切り出した。

「何でしょう」

「お前に縁談が来ている」

 新之介は箸を止めた。

「またですか」

「またとは何だ」

「これで何度目です」

「六度目だ」

「すべて断っています」

「だから困る」

 忠左衛門は眉を寄せた。

 旗本の家にとって縁組は重要な仕事である。

 個人の好みではない。

 家と家を結ぶものだ。

「相手は」

「三河以来の譜代。大久保家だ」

 新之介はため息をついた。

「考えておきます」

「本当に考えるのだな」

「はい」

 父は怪しそうな顔をした。

 過去にも同じ返事をして断ったからである。

 しかし今回は違った。

 新之介も二十七歳。

 周囲の友人はすでに妻子を持っている。

 そろそろ覚悟を決めるべきかもしれない。

 辰の刻。

 日本橋は賑わい始めていた。

 魚河岸には威勢の良い声が飛び交う。

 商人。

 職人。

 飛脚。

 旅人。

 様々な人々が行き交っていた。

 新之介は勘定所へ向かいながら、その様子を眺めていた。

 江戸という町は不思議だ。

 武士が支配している。

 だが町を動かしているのは町人である。

 魚を売る者。

 米を運ぶ者。

 酒を造る者。

 紙を漉く者。

 誰一人欠けても江戸は成り立たない。

 それを理解している武士は少ない。

 多くは刀だけを誇る。

 だが新之介は違った。

 江戸の力は人々の営みにある。

 そう考えていた。

 だからこそ町歩きが好きだった。

「おや」

 ふと足が止まった。

 橋のたもとに人だかりができている。

 何事か。

 近寄る。

 すると町人が騒いでいた。

「侍が斬られたらしい」

「朝方だとよ」

「怖えな」

 新之介の表情が変わった。

 平和な江戸で斬殺。

 珍しい事件だった。

 奉行所の同心たちが縄を張っている。

 だが遺体はすでに運ばれた後らしい。

 新之介は近くにいた老人へ声をかけた。

「誰が斬られたのです」

「さあな。浪人らしい」

 浪人。

 主家を失った武士。

 江戸にはそうした者が溢れている。

 新之介は何となく胸騒ぎを覚えた。

 その時だった。

「榊原様」

 後ろから声がした。

 振り返る。

 若い同心が立っていた。

「庄司か」

「はい」

 庄司源太郎。

 幼なじみである。

 今は南町奉行所の同心見習いを務めていた。

「珍しいな」

「実は少し妙な話がありまして」

「妙な話?」

 庄司は周囲を見回した。

 そして声を潜める。

「斬られた浪人ですが」

「ああ」

「懐に奇妙な紙を持っていました」

「紙?」

「はい」

「何が書かれていた」

 庄司はさらに声を落とした。

「武士は刀を捨てよ――と」

 新之介は眉をひそめた。

「何だそれは」

「分かりません」

「いたずらではないのか」

「私もそう思いました」

 だが庄司の顔は真剣だった。

「ところが同じ文言を書いた紙が、先月から各所で見つかっているそうです」

「誰が」

「分からない」

 江戸には怪文書が絶えない。

 だが武士に向けたものは珍しい。

「奉行所はどう見る」

「まだ調べている段階です」

 新之介は腕を組んだ。

 奇妙な話だった。

 武士の世において、刀を捨てよとは。

 それは幕府そのものへの挑戦にも聞こえる。

「気を付けてください」

 庄司が言った。

「何をだ」

「嫌な予感がします」

 そう言って去っていった。

 新之介はその背中を見送りながら、胸のざわめきを抑えられなかった。

 その夜。

 江戸城の方角から風が吹いていた。

 新之介は書院で一冊の兵法書を読んでいた。

 蝋燭の炎が揺れる。

 静かな夜である。

 だが心は落ち着かなかった。

 朝の事件。

 怪文書。

 そして玄斎の言葉。

 ――生きようとする者だけが勝つ。

 ふと庭に気配が走った。

 新之介は顔を上げる。

 風ではない。

 誰かいる。

 武士の勘だった。

 すぐに刀を掴む。

 音もなく縁側へ出た。

 月明かりが庭を照らしている。

 その奥。

 松の木の陰に黒い影が立っていた。

「何者だ」

 問いかける。

 返事はない。

 次の瞬間。

 影が紙を投げた。

 白い紙が風に舞う。

 新之介は反射的に掴んだ。

 顔を上げた時には、影は消えていた。

 庭にも塀の外にも人影はない。

 新之介は紙へ目を落とした。

 そこには墨で一行だけ記されていた。

 ――武士の世は終わる。

 蝋燭の炎が揺れた。

 遠くで夜鷹の鳴く声が聞こえる。

 江戸の平和の下で、何かが動き始めていた。

 新之介は紙を握り締めた。

 まだ知らない。

 この一枚の紙が、自らの運命を大きく変えることを。

 そして徳川の世を揺るがす闇へと繋がっていることを。

【第二章へ続く】

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