第二十五章 水の底の名前
題名を変えた朝から、水音は遠くなった。
消えたわけではない。
蛇口をひねれば水は出る。
雨が降れば屋根を打つ。
風呂場では排水口が鳴る。
だが、あの呼ぶような音はしなくなった。
ポタ。
ポタ。
誰かが暗い場所から爪を立てるような音。
それが、少しずつ日常の音へ戻っていく。
悠真は、原稿の表紙を見つめた。
《水の底の名前》
その題名の下に、自分の名前を書くべきか迷った。
岸本悠真。
この記録を書いた者。
だが、それは自分一人の名前では足りない気がした。
佐伯律。
岸本の母。
宮原佳代子。
黒川千尋の姉。
三沢由美子の資料を探した職員。
相原真帆の手帳を読んだ記者。
安西の息子。
そして、名前を返された者たち。
この記録は、ひとりの著者のものではない。
しかし、誰かが責任を持って書かなければならない。
悠真はしばらく考え、表紙の下に小さく書いた。
《記録者 岸本悠真》
著者ではなく、記録者。
それなら、少しだけ正しい気がした。
昼過ぎ、佐伯が来た。
彼は完成した第一稿を読み終えていた。
目の下には相変わらず隈がある。
だが、以前のような追い詰められた暗さは薄れていた。
「読みました」
「どうだった」
「怖いです」
佐伯は正直に言った。
「でも、怖がらせるための文章ではない」
悠真は息を吐いた。
「それならよかった」
「ただ、一箇所だけ」
佐伯は原稿の束を開いた。
白蘭の章。
榊水紀の記述。
「ここです。『水紀は最後に救われた』とあります」
「違うか」
「分かりません」
佐伯は静かに言った。
「救われた、という言葉は、こちら側が簡単に使っていいものじゃない気がします」
悠真はその一文を見た。
水紀は最後に救われた。
書いた時は、そう思った。
白いワンピースの彼女は消え、恐怖は薄れた。
だが、それを救いと決めるのは、確かに違う。
死者が何をもって救いとするのか、生者には分からない。
悠真は赤ペンを取り、その一文を消した。
代わりに書く。
《水紀の名前は、恐怖の映像から切り離され、彼女自身のものとして残された。》
佐伯は頷いた。
「その方がいいと思います」
次に母が読んだ。
彼女は産女淵の章で長く手を止めた。
千草と水面。
祖母、悠子。
大槻家の沈黙。
読み終えた母は、原稿を閉じ、しばらく黙っていた。
「私は、おばあちゃんを悪く書かれるのが怖かった」
母は言った。
「でも、読んでみたら、悪く書いてはいないのね」
「悪いことをした部分も書いた」
「うん。でも、人として書いてある」
人として。
その言葉に、悠真は少し救われた。
怪談に出てくる人間は、ときに役割だけになる。
被害者。
加害者。
霊。
目撃者。
だが、実際には誰も役割だけではない。
逃げた者にも恐怖があり、沈黙した者にも理由があり、しかしそれは罪を消す理由にはならない。
その曖昧さごと書くこと。
それが、記録なのだと思った。
数日後、貸し会議室で二度目の記録会が開かれた。
前回よりも人が多かった。
黒川千尋の姉。
三沢由美子の親族だという女性。
宮原佳代子。
安西の息子。
相原真帆の記事を書いた記者。
郷土資料館の職員。
そして、佐伯の母。
佐伯の母は、会場の端に静かに座っていた。
彼女は以前、息子の亮の記憶を失いかけていたという。
今は違った。
胸元に、亮の写真を抱いている。
若い男が笑っている写真。
佐伯律に少し似ている。
記録会では、悠真が原稿を読み上げた。
すべてではない。
各章の要点だけ。
名前を読む時は、ゆっくり読んだ。
蘭。
美代。
ハル。
静子。
文。
千代。
雪。
大槻悠子。
黒川千尋。
榊水紀。
三沢由美子。
三沢澪。
片桐修一。
相原真帆。
千草。
水面。
そして、名の分からない者たち。
名前の分からない者たちのために、悠真はこう読んだ。
「名を記録できなかった人々がいた。その存在を、名の欠落としてではなく、欠落させられた事実として残す」
その時、会場の隅で水音がした。
参加者たちは一斉に顔を上げた。
天井に染みはない。
床も濡れていない。
だが、確かに音がした。
ポタ。
一度だけ。
誰も悲鳴を上げなかった。
黒川千尋の姉が、小さく手を合わせた。
宮原佳代子は目を閉じた。
佐伯の母は、亮の写真を胸に抱いた。
悠真は原稿を読み続けた。
読み終えた時、会場は静まり返っていた。
最初に口を開いたのは、三沢由美子の親族だった。
「由美子のこと、家ではあまり話されませんでした」
彼女は膝の上で手を握りしめた。
「恥ずかしいことだと言われていたんです。未婚で妊娠して、事件に巻き込まれて……だから、親戚の集まりでも名前を出さなかった」
彼女の声は震えていた。
「でも、澪という名前があったなら、その子も親戚だったんですね」
悠真は頷いた。
「はい」
女性は涙をこぼした。
「じゃあ、家の過去帳に書きます。三沢由美子と、三沢澪」
その瞬間、会場の窓に水滴が一つついた。
外は晴れている。
水滴はすぐに消えた。
次に、安西の息子が立ち上がった。
彼は顔色が悪く、何度も言葉に詰まった。
それでも、父の罪を話した。
納屋のこと。
片桐修一を見たこと。
黙っていたこと。
宮原佳代子は、最後まで彼を見ていた。
責めるでもなく、許すでもなく。
ただ、聞いていた。
話し終えた安西の息子は、佳代子に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
佳代子はすぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「私が許すかどうかで、修一さんの苦しみが消えるわけではありません」
男は顔を上げなかった。
「でも、あなたが話したことで、修一さんの声は少し遠くへ届きました」
その言葉で、男は泣いた。
会議室には、誰も彼を慰める者はいなかった。
それでよかった。
涙は、罰の代わりにはならない。
ただ、沈黙が崩れた証としてそこにあった。
最後に、佐伯の母が話した。
「私は、亮のことを忘れかけました」
その声は、とても小さかった。
「自分の息子なのに。写真を見ても、名前を聞いても、どこか遠い人のように感じる日がありました。自分がおかしくなったのだと思っていました」
佐伯律は俯いていた。
「でも、今日ここで名前を聞いて、思い出しました。亮は小さい頃、風呂が嫌いで、水に顔をつけられなかったんです」
会場に、かすかな笑いが起きた。
佐伯の母も泣きながら笑った。
「そんな子が、水の事件を追っていたなんて、変ですね」
佐伯律の肩が震えた。
悠真は原稿に、その話を書き足そうと思った。
死者を戻すとは、こういうことなのだ。
事件の中だけでなく、日常の中へ。
水底から、風呂嫌いの少年へ。
恐怖から、人間へ。
記録会の終わりに、参加者全員で原稿のコピーを持ち帰ることにした。
データも複数の媒体に保存した。
公開時期は慎重に決める。
実名をどこまで出すか、遺族や関係者と確認する。
怪談として広がらないよう、事実と証言を分ける。
悠真は、以前の自分なら考えなかったことを、一つずつ確認していった。
その帰り道、佐伯が言った。
「兄は、これを望んでいたんだと思います」
「そうだな」
「でも、兄だけでは無理だった」
「俺一人でも無理だった」
二人は駅前の横断歩道で立ち止まった。
雨上がりでもないのに、アスファルトの隅に小さな水たまりがあった。
そこに、空が映っている。
水たまりの中に、誰かの顔は映っていない。
ただ、普通の夕方の空だけがあった。
佐伯が言った。
「水が、ただの水に戻っていきますね」
悠真は頷いた。
「忘れなければ、ただ流れる」
その夜、悠真は最後の章を書いた。
題は「流れる水」。
そこには、怪異の結末を書かなかった。
代わりに、こう書いた。
《水は、死者を運ぶのではない。生者が沈めたものを、いつか岸へ戻す。戻ってきたものを再び沈めるのか、名前を呼んで迎えるのか。それは、生きている者の側に委ねられている。》
書き終えた時、深夜二時十三分だった。
時計を見ても、もう胸はざわつかなかった。
ポタ。
台所で水音がした。
悠真は立ち上がり、蛇口を閉めた。
水は止まった。
それだけだった。
机に戻ると、原稿の最後のページに、水滴が一つ落ちていた。
どこから落ちたのか分からない。
水滴の中に、文字が浮かんでいる。
《ありがとう》
誰の言葉かは分からなかった。
分からなくてよかった。
悠真はその水滴が乾くまで、ページを閉じずに待った。
朝が来る頃、文字は消えていた。
だが、紙には薄い跡が残っていた。
消えたのではない。
残ったのだ。
翌週、原稿は小冊子になった。
表紙は白。
題名は黒い文字。
《水の底の名前》
裏表紙には、一文だけ。
《忘れなければ、水はただ流れる。》
悠真は最初の一冊を、仏壇の前に置いた。
祖母、悠子の写真。
父の写真。
そして、その横に置かれた小さな産着。
《みなも》
母が線香を上げた。
煙が細く立ちのぼる。
その向こうで、産着の白い布が少しだけ揺れた。
風はなかった。
けれど、悠真は怖くなかった。
ただ、誰かが読みに来たのだと思った。
窓の外では、夕立が降り始めていた。
雨は屋根を打ち、樋を流れ、地面へ落ちる。
水は流れている。
どこにも留まらず。
何も隠さず。
ただ、流れている。
(完)

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