鈴木光司を模倣し、エリサ・ラム事件モチーフにした完全オリジナルホラー小説『水槽の女』第二十二章

目次

第二十二章 最初の母

 母からの着信だった。

 新潟港の待合室で、悠真はしばらく画面を見つめた。

 母。

 その文字が、やけに遠く感じられた。

 佐伯も気づいていた。

「出てください」

 悠真は通話ボタンを押した。

「母さん?」

 返事はなかった。

 代わりに聞こえてきたのは、水音だった。

 ポタ。

 ポタ。

 ポタ。

 白蘭の時と同じ。

 だが、今回は少し違う。

 水滴の音の奥に、赤ん坊の泣き声のようなものが混じっている。

 さらに遠くで、女が子守唄を歌っていた。

 古い歌。

 歌詞は聞き取れない。

 だが、旋律だけが妙に懐かしい。

「母さん!」

 悠真が叫ぶと、ようやく母の声がした。

『悠真……』

 声が震えている。

「どうした」

『家に、女の人がいるの』

 悠真の背筋が冷えた。

「どこに」

『仏間』

「見たのか」

『見たわ。おばあちゃんじゃない。蘭ちゃんでもない。もっと……年上の人』

 佐伯が小声で言った。

「最初の母」

 悠真は頷いた。

「母さん、すぐ家を出て」

『出られないの』

「なぜ」

『玄関の外が、水なの』

 悠真は息を呑んだ。

『庭も道路も、全部。海みたいになってる。でも波はないの。真っ暗な水が、家の周りを囲んでる』

「二階へ行って」

『だめ。上からも水音がする』

 母の声が遠くなる。

 そして、別の女の声が通話に混じった。

『返った子たちを、連れてきて』

 悠真はスマートフォンを握りしめた。

「誰だ」

『みんな、私から出ていった』

 声は穏やかだった。

 だが、穏やかすぎて恐ろしかった。

『井戸も、貯水槽も、便槽も、船も。ぜんぶ、私の水』

 通話が切れた。

 待合室のテレビが砂嵐になった。

 人々は誰も反応しない。

 画面に白い文字が浮かぶ。

《MOTHER_SOURCE》

 佐伯のHDDが勝手に起動した。

 ノートパソコンの画面に、最後のフォルダが開いている。

 中にはファイルが一つだけ。

《FIRST_MOTHER.wav》

 音声ファイル。

 佐伯が顔を強張らせる。

「開いていません」

 それでも再生が始まった。

 スピーカーから、水音が流れる。

 ポタ。

 ポタ。

 そして、女の声。

『最初に沈んだのは、母だった』

 ノイズ。

『名前は残っていない。子を産み、子を奪われ、井戸へ入れられた女。以後、すべての水は“母を返せ”と鳴る』

 悠真は息を止めた。

 女の声ではない。

 佐伯の兄の声だった。

 佐伯亮。

 生前に録音した調査メモ。

『白蘭の井戸は枝にすぎない。秩父の貯水槽も、福島の便槽も、フェリーのタンクも、同じ根につながっている。閉じた水に死者を隠す行為は、最初の母を呼ぶ』

 佐伯の手が震えている。

「兄貴……」

 音声は続く。

『彼女は怪異ではない。現象でもない。名前を奪われた母たちの集合だ。だが中心に、一人いる』

 ノイズ。

 水音が強くなる。

『名前を探せ。名前がなければ、彼女はすべての母を自分に戻そうとする』

 音声が途切れる。

 最後に、佐伯亮の声がかすかに言った。

『母の名は、水の下にある』

 再生が止まった。

 待合室のテレビが通常のニュースに戻る。

 速報は消えていた。

 だが、悠真の手元には相原真帆の濡れた手帳がある。

 佐伯のパソコンには、最後の音声が残っている。

 そして母は、東京の実家で水に囲まれている。

「戻るぞ」

 悠真は立ち上がった。

 佐伯も頷いた。

 新幹線に乗るまでの記憶は曖昧だった。

 移動中、悠真は母に何度も電話した。

 つながらない。

 メッセージも送れない。

 画面にはただ、黒い水面だけが映る。

 佐伯は兄の音声を解析していた。

「最後に一瞬、別の音が入っています」

「何の音だ」

「鐘です」

 佐伯はイヤホンを片方差し出した。

 悠真は耳に入れる。

 佐伯亮の声の背後。

 水音のさらに奥。

 確かに、鐘の音が聞こえる。

 ごおん。

 ごおん。

 寺の鐘ではない。

 もっと古い。

 集落に時刻を知らせる鐘のようだった。

 佐伯が言う。

「音響解析すると、屋外ではなく、洞窟か地下空間の反響に近い」

「水の下にあるって言ってたな」

「はい。白蘭の井戸より古い場所がある」

「どこだ」

 佐伯はHDD内の断片メモを表示した。

《母源。東京西部。水源地跡。明治以前、産女淵と呼ばれた場所。現在は住宅地の下》

「産女淵……」

 悠真はその文字を見つめた。

 産女。

 子を抱いた女の幽霊。

 出産で死んだ女。

 あるいは、子を奪われた母。

 佐伯が続ける。

「住所が一部だけ残っています」

 表示された地名を見て、悠真は凍りついた。

 中野区。

 母の家がある地域だった。

「実家の下か」

「可能性があります」

 悠真は窓の外を見た。

 流れる景色が水の中のように歪んで見える。

 母の家。

 祖母の箱。

 大槻悠子。

 白蘭女学院。

 すべてはあの家に戻ってきた。

 いや、最初からあの家の下にあったのかもしれない。

 夕方、東京へ着いた。

 実家のある住宅街は、普段通りに見えた。

 子どもが自転車で走っている。

 犬の散歩をする老人。

 買い物袋を下げた主婦。

 だが、悠真の実家だけが異様だった。

 家の周囲に、細い水路のようなものができている。

 道路に水はない。

 隣家の敷地にも水はない。

 ただ、悠真の家を囲むように、黒い水が流れている。

 堀のように。

 佐伯が低く言った。

「入るには、渡るしかない」

 悠真は水面を見た。

 黒い水の中に、今まで出会った者たちの顔が映る。

 蘭。

 三沢由美子。

 片桐修一。

 相原真帆。

 彼らは沈んでいない。

 こちらを見上げている。

 警告しているようにも、促しているようにも見えた。

 悠真は水をまたいだ。

 冷たさが足首に触れた瞬間、頭の中に声が流れ込んできた。

 女の声。

 何十人、何百人。

 子を返して。

 名前を返して。

 声を返して。

 見つけて。

 出して。

 忘れないで。

 悠真は歯を食いしばり、玄関へ向かった。

 鍵は開いていた。

 家の中は暗い。

 水の匂い。

 だが、ただの水ではない。

 母乳のような甘い匂い。

 血の匂い。

 土の匂い。

 仏間から、子守唄が聞こえる。

 悠真は靴のまま上がった。

「母さん!」

 返事はない。

 仏間の襖が開いている。

 中に母が座っていた。

 正座している。

 目を閉じている。

 その前に、女が立っていた。

 白い着物。

 髪は長く、濡れている。

 だが蘭とは違う。

 顔は大人の女。

 美しくも、恐ろしくもない。

 疲れ切った母の顔だった。

 腕の中に、何かを抱いている。

 赤ん坊ではない。

 水でできた空洞。

 子の形をした穴。

 女は悠真を見た。

「返った子を、連れてきた」

 声は静かだった。

 悠真は息を吸った。

「あなたは誰だ」

 女は答えない。

 代わりに、母の口が動いた。

 母の声ではない声で言う。

「母に名はない」

「あるはずだ」

「母は、母と呼ばれれば足りる」

「違う」

 悠真は一歩前へ出た。

「名前を奪われたから、ここまで戻ってきたんだろ」

 女の目が、わずかに揺れた。

 佐伯が資料を広げる。

「中野周辺の古い地名に、産女淵と呼ばれる場所がありました。明治初期に埋め立てられ、その後、井戸や水路が宅地化されています」

 女は佐伯を見た。

「記録する者の弟」

 佐伯の顔が強張る。

「兄を知っているのか」

「水に落ちた声は、みな聞いた」

 佐伯は唇を噛んだ。

「兄はどこにいる」

「戻した」

「どこへ」

「名前のある場所へ」

 佐伯の目に涙が浮かんだ。

 悠真は女から目を離さなかった。

「あなたの名前を探せば終わるのか」

「終わらない」

「なら何が必要だ」

 女は腕の中の空洞を見た。

「最初の子」

「子どもの名前?」

「母は、子を呼ぶ。子は、母を呼ぶ。どちらかが消えれば、水は鳴る」

 悠真は理解した。

 探すべきは母の名だけではない。

 最初に奪われた子の名。

 母と子、両方の名前。

 それが揃わなければ、水は戻り続ける。

 佐伯が兄のメモを開く。

「母源。産女淵。明治以前。出産直後に子を奪われた女。子は水神への供物とされた可能性……」

 悠真は佐伯を見た。

「供物?」

 佐伯は苦しそうに頷いた。

「飢饉や疫病の時代、地域伝承として残っていたようです。ただし、正式記録はありません。兄のメモには“子返しの儀”と」

 女の周囲の空気が震えた。

 仏壇の引き出しが勝手に開く。

 中から、古い布が落ちた。

 祖母の箱に入っていなかったもの。

 さらに古い布。

 泥で汚れた産着。

 そこに、かすかな刺繍がある。

 文字ではなく、模様。

 白い蘭ではない。

 丸い水紋。

 母が目を開けた。

 自分の声で囁く。

「その布……夢で見た」

「母さん?」

「女の人が、赤ちゃんを包んでいた。泣きながら、名前を呼んでた」

「何て?」

 母は額を押さえる。

「思い出せない……でも、おばあちゃんが昔、寝言で言ってた名前に似てる」

 悠真は母の手を握った。

「思い出して」

 仏間の水位が上がる。

 畳から黒い水が滲み出す。

 女が近づく。

「思い出さなくていい」

 その声は優しい。

 だからこそ危険だった。

「みんな、私に戻ればいい」

 水面に、今までの犠牲者たちが映る。

 蘭たち少女。

 由美子と澪。

 片桐修一。

 真帆。

 皆、女の周囲へ引き寄せられている。

 最初の母は、彼らを救おうとしているのではない。

 すべてを自分の喪失へ戻そうとしている。

 母の痛みへ。

 名のない悲しみへ。

 悠真は叫んだ。

「戻るな!」

 水面が止まる。

「名前を持って帰ったんだろ! 戻るな!」

 蘭の顔が水面に浮かぶ。

 小さく頷く。

 三沢由美子が、澪の産着を抱いている。

 片桐はテープを握っている。

 真帆は手帳を持っている。

 それぞれが、自分の記録を抱いている。

 女が初めて怒りを見せた。

「母より、名を選ぶのか」

 悠真は答えた。

「名があるから、母に会える」

 その言葉で、母が顔を上げた。

「……みな」

 悠真は母を見る。

「今、何て?」

 母は震えていた。

「みな……じゃない。みなも……」

 佐伯が兄のメモをめくる。

「水紋の産着……古語……水面……みなも……」

 女が後ずさる。

「やめて」

 母が涙を流しながら言う。

「水面。みなも。赤ちゃんの名前は、水面」

 仏間が激しく揺れた。

 女が叫ぶ。

「違う!」

 悠真は続けた。

「子の名は、水面」

 水が逆巻く。

 家の外の黒い水が、窓を叩く。

 だが、まだ足りない。

 母の名前。

 佐伯が叫ぶ。

「母の名が必要です!」

 悠真は女を見る。

「あなたの名前は?」

 女は首を振る。

「ない」

「違う。忘れただけだ」

「ない!」

 母が産着を握りしめた。

「おばあちゃんが言ってた……水面の母……」

 母の声が震える。

「千草」

 女の動きが止まった。

「千草……」

 悠真が復唱する。

「あなたの名前は、千草」

 水が静まる。

 女の顔が崩れた。

 恐怖ではない。

 長く忘れていたものを、突然返された人の顔。

 悠真ははっきりと言った。

「千草。あなたは水面の母だ」

 女の腕の中の空洞に、淡い光が満ちた。

 子の形をした穴が、少しずつ輪郭を持つ。

 赤ん坊ではない。

 小さな光。

 水面。

 千草はその光を見下ろした。

 口元が震える。

「みなも……」

 初めて、彼女の声が母の声になった。

 水面の光が、千草の胸に触れる。

 仏間の水が引いていく。

 家の周囲の黒い水も、音を立てずに地面へ沈んでいく。

 だが、完全には消えない。

 床下から、低い唸りが聞こえる。

 千草が顔を上げた。

「まだ、下にいる」

「誰が」

 佐伯が訊く。

 千草は家の床を見つめた。

「子を奪った者」

 悠真は息を呑んだ。

 やはり終わらない。

 名を返しただけでは足りない。

 最初に奪った者。

 最初に水へ沈めた者。

 その名も必要だ。

 千草は消えかけながら言った。

「祠の下」

「どこの祠だ」

「この家の下に、まだある」

 その瞬間、仏間の床板が一枚、音を立てて外れた。

 下に、暗い穴が開いていた。

 井戸ではない。

 地下へ続く石段。

 佐伯がライトを向ける。

 古い石段が、闇の底へ続いている。

 千草の声が遠くなる。

「そこで、母は母でなくされた」

 悠真は母を見た。

 母は頷いた。

「行って」

 悠真は佐伯とともに、石段の前に立った。

 下から、鐘の音が聞こえる。

 ごおん。

 ごおん。

 佐伯亮の音声に入っていた鐘。

 その音が、今、実家の床下から鳴っている。

 悠真はノートを開いた。

 書く。

 千草。
 水面。
 産女淵。
 最初の母。
 祠の下。
 子を奪った者。

 そして、石段を降り始めた。

(第23章につづく)

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