第二十三章 祠の下
石段は、家の下へ続いていた。
悠真の実家は、どこにでもある古い二階建ての家だった。床下に地下室などない。まして、石段があるはずもない。
だが、仏間の床板の下には確かに暗い穴が開き、その奥へ苔むした石段が続いている。
佐伯が懐中電灯を向けた。
光は途中で飲まれた。
深い。
見た目よりずっと深い。
上では母が座っている。
千草の姿はもう薄れていた。彼女は水面という名の光を胸に抱き、仏間の隅に立っている。
消えたわけではない。
待っている。
自分を母でなくした場所が開かれるのを。
「行きます」
佐伯が言った。
悠真は頷いた。
石段を降りる。
一段目。
空気が変わった。
二段目。
家の生活音が遠ざかった。
三段目。
水の匂いが濃くなった。
だが、それは井戸の匂いでも、貯水槽の匂いでも、海の匂いでもなかった。
土。
血。
古い灰。
そして、乳のような甘い匂い。
佐伯が息を詰める。
「ここ……本当に住宅地の下なんでしょうか」
「そう見えないな」
壁は土ではなく、古い石で組まれていた。
ところどころに水が滲み、細い流れになって石段を下っている。
足元を流れる水は透明だった。
だが、光を当てると一瞬だけ赤く見えた。
ごおん。
鐘の音。
下から響く。
ごおん。
ごおん。
時刻を告げる音ではない。
何かを沈めるための合図。
あるいは、何かが沈んだことを知らせる音。
石段の途中に、小さな地蔵があった。
頭が欠けている。
胸元に、赤い糸が巻かれていた。
その下に、古い文字。
《子返し》
佐伯がライトを止める。
「子返しの儀……兄のメモにあった言葉です」
悠真は地蔵を見た。
子を返す。
誰に。
水に。
神に。
それとも、母から奪い、共同体へ返すという意味か。
胸の奥が重くなる。
さらに降りる。
石段は、途中から水に浸かっていた。
くるぶしまで。
冷たい。
だが、不思議と足を引き止めるような感じはない。
むしろ下へ導いている。
底に着くと、そこは広い地下空間だった。
天井は低く、石の柱が何本も立っている。
中央に、古い祠。
その前に、丸い淵があった。
井戸より広く、池より狭い。
黒い水面。
揺れていない。
水面の周囲には、無数の小さな石が置かれていた。
白い石。
秩父の貯水槽の脇にあったものと同じような石。
だが、そこに書かれているのは「おばけが出る」ではない。
名前だった。
千草。
水面。
蘭。
三沢由美子。
三沢澪。
片桐修一。
相原真帆。
まだ見知らぬ名前も多い。
何百とある。
佐伯が息を呑んだ。
「全部、つながってる……」
悠真は石に触れた。
冷たい。
しかし、石の内側からかすかな鼓動が伝わってくる。
名前を持つ者たちの鼓動。
水に隠されたが、完全には消えなかった者たち。
祠の扉は閉じていた。
古い木の扉。
中央に、水紋の印。
その下に、墨で書かれた文字。
《母を鎮めるため、子を返す》
悠真は拳を握った。
「鎮める?」
佐伯が言った。
「母の悲しみを鎮めるために、子を捧げたということか」
「逆だろ」
悠真の声が低くなる。
「母を黙らせるために、子を奪った」
その時、祠の奥から声がした。
「母は、災いを呼ぶ」
老人の声。
男。
乾いているのに、水底から響くような声。
佐伯が録音機を構える。
「誰ですか」
「名を呼ぶな」
声は答えた。
「名を呼べば、残る」
祠の扉がゆっくり開く。
中に、人影が座っていた。
白い装束。
痩せた老人。
顔は古い能面のように硬い。
目だけが黒く濡れている。
生きている人間ではない。
だが、幽霊とも違う。
記録そのものが人の形をしている。
「お前が、子を奪った者か」
悠真が言うと、老人は薄く笑った。
「奪ったのではない。返した」
「水面を?」
「名などない」
老人の声に、地下空間の水面がわずかに波打った。
「子は村のもの。母のものではない。飢饉の年、疫の年、井戸が涸れた年。水は子を求めた。ひとり返せば、百人が生きる」
「そう言って奪ったのか」
「母は泣く。だから目隠しをする。耳を塞ぐ。名をつける前なら、悲しみも軽い」
悠真は吐き気を覚えた。
名をつける前なら悲しみも軽い。
藤倉昭二と同じ言葉。
生まれていないものは人間ではない。
名前がなければ、なかったことにできる。
この老人の思想が、時代を変え、場所を変え、水に沈める者たちの口を借りて繰り返されてきたのだ。
佐伯が低く言った。
「あなたの名前は」
老人の顔が歪んだ。
「呼ぶな」
「記録するためです」
「記録などいらぬ。儀は済んだ。母は鎮まった」
その瞬間、淵の水面に千草の顔が映った。
彼女は水面を抱いている。
鎮まってなどいない。
ただ、長い間、名を奪われて動けなかっただけだ。
悠真は祠の前に進んだ。
「千草は鎮まっていない。水面も返っていない」
「返した」
「誰に」
「水へ」
「母に返していない」
老人の目が鋭くなる。
「母など、子に取り憑くだけのものだ。村を壊す。家を乱す。女に名を持たせるから、嘆きが残る」
悠真は理解した。
この老人は、最初の加害者であると同時に、仕組みそのものだ。
母から名を奪う。
子から名を奪う。
女の悲しみを「災い」と呼び、共同体のためという言葉で封じる。
その発想が、白蘭の大槻宗一にも、秩父の藤倉にも、福島の安西にも、フェリーの葛西にも流れ込んでいた。
水がつないだのは死者だけではない。
隠す側の言葉もまた、底でつながっていた。
佐伯が兄のメモを取り出す。
「ここに、古い地名の記録があります。産女淵を管理していた祠守の名」
老人が立ち上がった。
「読むな」
佐伯は震えながらも続けた。
「明治以前の口伝。水守、榊原玄斎」
老人の顔が大きく歪んだ。
地下空間の水が逆巻く。
名が戻った。
榊原玄斎。
悠真はその名を繰り返した。
「榊原玄斎。あなたが千草から水面を奪い、淵へ沈めた」
「違う!」
玄斎が叫ぶ。
「私は村を救った! 母一人の涙より、村の命だ!」
淵の水が盛り上がる。
その中から、無数の母たちの声がした。
「返して」
「返して」
「返して」
だが、千草の声だけは違った。
「水面」
たった一つの名前。
それだけを呼んでいる。
悠真は母の声を思い出した。
仏間で、震えながら思い出した名前。
水面。
母が子を呼ぶ声は、怪異ではなかった。
記録だった。
悠真は淵の前に立った。
水面に、自分の顔が映る。
その後ろに、母の顔。
祖母、悠子の顔。
千草の顔。
水面の光。
名を渡してきた者たちの連なり。
玄斎が叫ぶ。
「覗くな!」
悠真は覗いた。
淵の底に、過去が見えた。
雨の夜。
まだ家も道もない時代。
水辺の小屋。
千草が赤ん坊を抱いている。
周囲には村人たち。
榊原玄斎。
彼は白い装束で、鐘を鳴らしている。
ごおん。
ごおん。
水面という名の子は、産着に包まれている。
千草は泣き叫ぶ。
「水面を返して!」
玄斎は言う。
「名を呼ぶな。水に戻すのだ」
村人たちは目を逸らす。
誰も千草を見ない。
玄斎は赤ん坊を取り上げる。
水面の泣き声。
千草の絶叫。
そして、淵。
水面が閉じる。
千草はその場で気を失う。
数日後、彼女も淵へ身を投げる。
だが、水は彼女を死なせなかった。
母としての叫びだけを残した。
それが、すべての水音の始まり。
映像が消えた。
悠真は膝をつきそうになった。
佐伯が肩を支える。
玄斎は祠の前で震えている。
だが恐怖ではない。
怒りだ。
「なぜ今さら暴く。誰が覚えている。誰が困る。忘れたままで何が悪い」
悠真は静かに言った。
「忘れた側は困らない」
玄斎が黙る。
「でも、沈められた側はずっと鳴っていた」
佐伯が録音機を淵へ向ける。
悠真はノートを開いた。
ページは濡れている。
だが文字は書ける。
彼は声に出しながら書いた。
「千草。水面。榊原玄斎。産女淵。子返しの儀。飢饉と疫病を理由に、母から子を奪い、水へ沈めた。母は名を呼ぶことを禁じられた。これが、最初の水音である」
地下空間が揺れた。
玄斎の身体が、祠から引き剥がされる。
「やめろ! 私は守った! 村を守った!」
淵の水面から、千草が現れた。
水面を抱いている。
その顔は穏やかではなかった。
怒りでもなかった。
ただ、母だった。
玄斎は後ずさる。
「来るな」
千草は言った。
「水面を、抱きなさい」
玄斎の顔が凍る。
「何?」
「あなたが水へ返した子を、あなたの手で抱きなさい」
水面の光が、千草の腕から離れる。
小さな赤ん坊の形を取り、玄斎の前に浮かぶ。
玄斎は首を振った。
「やめろ……」
「軽いのでしょう」
千草の声が震える。
「名をつける前なら、悲しみは軽いのでしょう」
玄斎は後退した。
だが背後には祠。
逃げ場はない。
水面の光が、彼の腕の中へ収まる。
玄斎は絶叫した。
その瞬間、彼の身体に無数の水音が流れ込んだ。
白蘭の井戸。
秩父の貯水槽。
福島の便槽。
フェリーのタンク。
まだ見知らぬ水底。
すべての母と子の声が、彼の中へ戻った。
玄斎の顔が崩れる。
初めて、彼は重さを知ったのだ。
名のない子の重さ。
奪われた母の声の重さ。
「重い……」
玄斎が呻く。
「こんな……」
千草は言った。
「それが、ひとりです」
玄斎は膝をついた。
水面の光を抱えたまま。
祠の扉が砕ける。
中から、古い木札が何枚も落ちた。
そこには、名を奪われた母と子の痕跡が刻まれている。
読めるもの。
読めないもの。
消えたもの。
悠真は拾い上げた。
すべては戻せないかもしれない。
名のないまま失われた者もいる。
だが、名がない者がいたことは語れる。
それも記録だ。
千草が悠真を見た。
「すべての名は戻らない」
「分かってる」
「それでも、書く?」
「書く」
千草は初めて微笑んだ。
玄斎の身体が、木札へ変わっていく。
榊原玄斎。
その名が黒い文字となり、祠の床に刻まれる。
消えない。
逃げられない。
忘れられない。
罪とともに残る。
地下空間の水が引き始めた。
石に刻まれた名前が淡く光る。
蘭。
由美子。
澪。
片桐修一。
真帆。
千草。
水面。
それぞれが別々の水へ戻っていく。
集合としての母に飲み込まれるのではなく、名前を持った者として。
鐘の音が最後に一度鳴った。
ごおん。
それは沈める合図ではなかった。
終わりを知らせる音だった。
石段を上がる時、佐伯は何度も振り返った。
「兄の声がしました」
「何て?」
「ありがとう、と」
悠真は頷いた。
仏間へ戻ると、母が待っていた。
家を囲んでいた黒い水は消えている。
畳も乾いている。
千草の姿はもうない。
ただ、仏壇の前に、泥で汚れた産着が畳まれていた。
そこには、はっきりと刺繍が浮かんでいた。
《みなも》
母は涙を拭った。
「終わったの?」
悠真はしばらく考えた。
そして言った。
「終わらせるために、これから書く」
佐伯が頷いた。
「記録を作りましょう。白蘭、秩父、福島、フェリー、産女淵。全部を」
悠真はノートを開いた。
最後のページに、水滴が一つ落ちた。
だが、それは黒くなかった。
透明な水だった。
その水滴の中に、小さな文字が浮かぶ。
《底に着いた》
悠真は息を吐いた。
初めて、水音が怖くなかった。
ポタ。
それは、どこかで蛇口から落ちた普通の水の音だった。
その夜、悠真は眠った。
夢の中で、広い水面を見た。
千草が岸辺に立ち、水面を抱いている。
少し離れたところに、蘭たち少女がいる。
由美子が澪の産着を抱き、片桐が遠くで手を振り、真帆が海の方へ歩いていく。
誰も沈んでいない。
誰も呼んでいない。
ただ、それぞれの場所へ帰っていく。
目が覚めると、朝だった。
スマートフォンに通知が一件。
佐伯からだった。
《兄のHDD、最後に自動生成されたファイルがあります》
悠真は画面を開いた。
ファイル名。
《AFTER_WATER.txt》
中身は一行だけ。
《水は、忘れたものを返す。忘れなければ、ただ流れる》
悠真はそれをノートに写した。
そして、新しいページを開いた。
題名を書く。
《水槽の女 記録篇》
もう怪談ではない。
声を残すための物語だった。
(第24章につづく)

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