第十七章 狭い場所
床下から、爪を立てる音がした。
カリ。
カリ。
カリ。
古い木を引っかく音ではない。
もっと硬いもの。
陶器か、コンクリートか、あるいは錆びた鉄の内側を、爪で削っているような音だった。
悠真はペンを握ったまま、動けなかった。
秩父の小さな宿。
畳の部屋。
窓の外には、雨上がりの山が黒く沈んでいる。
部屋に水はない。
天井の染みもない。
だが、床下だけが鳴っている。
カリ。
カリ。
カリ。
そして、男の声。
「ここじゃない」
悠真は息を止めた。
その声は、苦しそうだった。
喉を押し潰されたような、狭い場所から絞り出す声。
「ここじゃない……ここじゃない……」
スマートフォンが震えた。
佐伯からの着信。
出ると、向こうでも同じ音がしていた。
『聞こえますか』
「ああ」
『こっちの部屋でも鳴っています』
「ファイルを開いたのか」
『開いていません。ただ、兄のHDDが勝手に読み込みを始めました』
「タイトルは」
『FUKUSHIMA_TOILET_1989』
悠真は目を閉じた。
福島女性教員宅便槽内怪死事件。
成人男性が、教員住宅の汲み取り式トイレの便槽内から発見された不可解な事件。
狭い入口。
上半身裸。
服を抱えた姿勢。
事故死とされたが、どうやって入ったのか分からない。
以前、題材として調べた時には、「怪談化しやすい」と思った。
今は違う。
その“怪談化しやすさ”の奥に、また誰かの声が沈んでいる。
『映像ではないみたいです』
佐伯が言った。
「何だ」
『音声ファイルです。便槽の中から録音したような音』
「そんなもの、存在するのか」
『普通はしません』
通話の向こうで、佐伯がキーボードを叩く音がする。
『ファイルが勝手に開きます』
「止めろ」
『無理です』
次の瞬間、悠真の部屋のテレビが勝手についた。
砂嵐。
音だけが流れる。
カリ。
カリ。
カリ。
そして、男の荒い息。
『出してくれ……』
悠真の背筋が冷えた。
声は若い。
二十代くらい。
『ここじゃない。俺は、ここに入ってない』
ノイズ。
粘つくような湿った音。
狭い空間で体を動かす音。
『上じゃない……下でもない……押された……』
佐伯が電話の向こうで言った。
『岸本さん、今の聞きましたか』
「ああ」
『“押された”と言いました』
テレビの砂嵐が乱れた。
一瞬だけ、映像が映る。
暗い管の内側。
丸く歪んだ視界。
便器の穴を下から見上げているような映像。
その向こうに、白い光。
誰かの靴。
そして、女の悲鳴。
映像はすぐ消えた。
悠真はノートに書いた。
ここじゃない。
入ってない。
押された。
上じゃない。
下でもない。
書いた瞬間、畳が湿った。
床下から、今度は別の音がした。
ドン。
狭い場所で膝をぶつけるような音。
ドン。
ドン。
「佐伯。明日、福島へ行く」
『分かっています』
「今回は何を返せばいい」
佐伯は少し黙った。
『場所、でしょうね』
「場所?」
『彼は便槽で見つかった。でも“ここじゃない”と言っている。死んだ場所、入れられた場所、あるいは真相の場所が違う』
悠真はテレビを見た。
砂嵐の中に、何かが浮かぶ。
狭い円形の影。
その奥に、男の顔。
目だけがこちらを見ている。
口が動く。
「見てたのは、俺じゃない」
画面が消えた。
部屋は暗くなった。
音も止まった。
だが、悠真は眠れなかった。
翌朝、佐伯はひどい顔をしていた。
目の下に隈がある。
手にはノートパソコンと、兄のHDD。
「夜中、ずっと音が鳴っていました」
「こっちもだ」
「兄のメモを見つけました」
佐伯はプリントを差し出した。
《福島便槽事件。最も重要なのは“どう入ったか”ではなく、“なぜそこに出たか”》
悠真はその一文を読み返した。
「なぜそこに出たか……」
「兄は、便槽を入口ではなく出口と考えていたようです」
「出口?」
「別の場所から押し込まれたものが、便槽に“出た”」
「物理的に無理だろ」
「現実では、です」
悠真は黙った。
白蘭の十三階。
秩父の貯水槽。
どちらも現実だけでは説明できない場所だった。
水や井戸や貯水槽は、記憶をつなぐ。
では便槽は何をつなぐのか。
排泄。
隠すもの。
人に見せないもの。
汚物と一緒に、なかったことにする場所。
二人は福島へ向かった。
電車とレンタカーを乗り継ぎ、山間の集落へ入る。
道は狭く、家はまばらだった。
春先のような薄曇り。
山の斜面には、古い杉林。
集落には、人の気配が少ない。
事件のあった教員住宅は、もう残っていないと聞いていた。
だが佐伯の兄のメモには、古い地図が添えられていた。
その地図を頼りに進むと、空き地に出た。
草が生えている。
基礎の跡だけが残っている。
ここに、教員住宅があった。
悠真は車を降りた。
空気が冷たい。
水の匂いではない。
土と、古い木と、かすかな腐敗臭。
佐伯が地図を確認する。
「便槽は撤去されているはずです」
「でも、何か残ってる」
空き地の隅に、コンクリートの小さな蓋があった。
草に隠れている。
佐伯が手で払う。
蓋には、爪で引っかいたような跡が残っていた。
カリ。
カリ。
カリ。
悠真は息を呑んだ。
夜に聞いた音と同じ。
蓋は開かなかった。
錆びついている。
だが、隙間から冷たい空気が漏れている。
中は空洞だ。
佐伯が工具を取り出す。
「開けます」
二人で蓋をこじ開ける。
中は暗い。
便槽ではなかった。
細い縦穴。
古い排水管か、点検口のようなもの。
底は見えない。
そこから、男の声がした。
「ここじゃない」
佐伯が顔を上げる。
悠真は穴を覗き込んだ。
暗闇の底に、光が見えた。
便器の穴のような丸い光。
だが、それは下ではない。
横にある。
空間がねじれている。
悠真の視界に、映像が流れ込んできた。
夜。
雪。
若い男が歩いている。
名前は、片桐修一。
村の青年会に所属する男。
彼は一軒の家へ向かっている。
教員住宅ではない。
別の家。
大きな農家。
玄関の前に、二人の男が立っている。
修一は何かを問い詰めている。
「先生を脅すのはやめろ」
その言葉だけが聞こえた。
次の瞬間、映像が乱れる。
殴打。
倒れる修一。
雪の上に血。
誰かが言う。
「見られた」
別の男が言う。
「事故にしろ」
場面が飛ぶ。
納屋。
古い便槽用の汲み取り管。
細い土管。
男たちは修一の服を脱がせている。
上半身裸。
服を胸に押し込む。
まるで、後からそう発見されるように。
修一はまだ生きている。
目を開けている。
声にならない声を出している。
「やめ……」
誰かが言う。
「覗きに見せろ」
悠真は穴から飛び退いた。
息が荒い。
佐伯が肩を掴む。
「何を見ました」
「他殺だ」
「誰に?」
「村の男たち。先生を脅していた。修一はそれを止めようとして……」
その時、背後で声がした。
「そんなことはなかった」
二人は振り返った。
空き地の入口に、老人が立っていた。
杖をついている。
顔色は悪い。
だが目だけは鋭い。
「ここは私有地だ。出ていきなさい」
佐伯が静かに言った。
「あなたは?」
「昔、ここの区長をしていた者だ」
老人は穴を見た。
顔がわずかに歪む。
「余計なことを掘り返すな」
悠真は老人を見た。
映像の中の男の一人。
若かった男。
今は老いているが、目が同じだった。
「片桐修一さんを知っていますね」
老人の手が震えた。
「知らん」
「先生を脅していたのは、誰ですか」
「知らんと言っている!」
その瞬間、穴の中から音がした。
カリ。
カリ。
カリ。
老人の顔が青ざめる。
「まだ……」
「まだ聞こえるんですか」
悠真が問うと、老人は後退した。
「違う。あれは事故だった。警察もそう言った」
「あなたたちがそう言わせた」
「違う!」
穴の中から、修一の声がした。
「見てたのは、俺じゃない」
老人は膝から崩れた。
「やめろ……」
佐伯が録音機を出す。
「話してください」
老人は首を振る。
だが穴の音が強くなる。
カリカリカリカリ。
爪が剥がれるほど激しい音。
老人は耳を塞いだ。
「先生は……村の有力者の一人に言い寄られていた。断ったら、学校にいられなくすると脅された。片桐はそれを知って……」
悠真は黙って聞いた。
「殴ったのは私じゃない。私は止めようとした」
よく聞く言葉だ。
自分はやっていない。
止めようとした。
ただ見ていた。
「でも、あなたは隠した」
老人は泣きそうな顔で悠真を見た。
「村が壊れると思った。先生も、もう村にいられなくなる。だから……覗きの事故にすれば、全部収まると」
「収まってない」
穴から、冷たい風が吹いた。
草が揺れる。
空き地全体が、狭い便槽の中のように息苦しくなる。
修一の声。
「ここじゃない」
悠真は穴へ向かって言った。
「片桐修一さん。あなたは便槽に入ったんじゃない。別の場所で暴行され、事件を隠すためにそこへ移された」
穴の奥が震えた。
老人が呻く。
「言うな……」
悠真は続けた。
「あなたは覗き犯ではない。女性教員を守ろうとして殺された」
その瞬間、穴の底から白い手が伸びた。
汚れていない手。
若い男の手。
その手は悠真を掴まなかった。
代わりに、何かを差し出した。
小さな布袋。
悠真は受け取った。
中には、古いカセットテープ。
ラベルに文字。
《先生へ》
老人が悲鳴を上げた。
「それは……!」
佐伯がテープを見た。
「遺書ではない。告発だ」
悠真は頷いた。
修一は死ぬ前に、何かを残していた。
それが隠された。
いや、排泄物と一緒に、なかったことにされた。
佐伯が持っていた小型再生機にテープを入れる。
ノイズ。
そして、修一の声。
『先生。これを聞いているなら、俺はたぶん村を出た後だと思います。あの人たちがあなたにしていることを、俺は黙っていません。教育委員会にも、新聞にも話します。あなたが悪いんじゃない。悪いのは、脅している連中です』
老人は地面に手をついて泣き出した。
テープの声は続く。
『もし俺に何かあったら、このテープを出してください。俺は、覗きなんかしていません』
風が止まった。
空き地に沈黙が落ちる。
修一の名が、ようやく本人の声で戻ってきた。
老人は震えながら言った。
「すまなかった……」
穴の奥から、修一の声がした。
「先生は」
老人は顔を上げた。
「先生はどうなった」
老人は唇を震わせた。
「村を出た。すぐに。何も言わずに」
「生きているのか」
悠真が訊く。
老人は頷いた。
「たぶん……会津の方に嫁いだと聞いた」
佐伯がすぐにメモする。
「探しましょう」
その時、穴の中の暗闇が薄くなった。
丸い光が遠ざかる。
便器の穴のような光ではなく、朝の空のような明るさに変わっていく。
蓋の裏に文字が浮かんだ。
《そこではない》
そして下に、もう一行。
《声を届けて》
悠真はテープを握った。
今回、返すべきものは名前だけではない。
場所だけでもない。
声だ。
片桐修一の声を、あの女性教員へ届けること。
彼が最後まで、彼女を貶めるためではなく、守るために動いていたと伝えること。
空き地を出る時、老人はもう立てなかった。
佐伯が救急車を呼んだ。
老人は運ばれる直前、悠真の手を掴んだ。
「本当の名前を……出すのか」
「出します」
「村が……」
「もう壊れています」
老人は目を閉じた。
何も言わなかった。
夕方、二人は車に戻った。
佐伯はテープをデジタル化する準備をしている。
悠真はノートを開いた。
片桐修一。
女性教員を守ろうとした。
村の有力者。
脅迫。
暴行。
偽装。
便槽は入口ではなく出口。
返すものは声。
書き終えた時、スマートフォンが震えた。
非通知。
悠真は出た。
女性の声だった。
年老いている。
だが、どこか凛としている。
『あなたたち、修一さんのことを調べているのね』
悠真は佐伯を見た。
「あなたは……」
『昔、あの教員住宅に住んでいた者です』
悠真は息を止めた。
女性は静かに言った。
『昨夜から、ずっとトイレの奥で男の人が泣いているの。もう、終わらせてあげたい』
通話の向こうで、かすかに音がした。
カリ。
カリ。
カリ。
(第18章につづく)

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