鈴木光司を模倣し、エリサ・ラム事件モチーフにした完全オリジナルホラー小説『水槽の女』第十六章

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第十六章 まだ生まれなかった名

 雨は、山道を静かに濡らしていた。

 悠真と佐伯は、貯水槽から少し離れた杉林の中で足を止めた。背後から、赤ん坊の泣き声がまだ聞こえる。

 かすかに。

 だが確かに。

 水の底から響くような声だった。

「三沢由美子……」

 悠真はその名を口にした。

 すると、泣き声が一瞬だけ弱まった。

 佐伯がスマートフォンのメモに名前を打ち込む。

「名前を呼ぶと反応する。白蘭と同じです」

「でも、子どもの名前が分からない」

「生まれていないなら、戸籍にもない」

「それでも、名前を返せと言ってる」

 佐伯は黙った。

 雨粒が資料のコピーに落ちる。文字が滲みそうになり、佐伯は慌てて鞄へしまった。

 山道の向こうに、古い木造家屋が見えた。

 さっき水面に映った家と似ている。

 赤い櫛。

 割れた鏡。

 妊娠した女。

 その光景が、悠真の脳裏に焼きついている。

「あの家だ」

「本当に?」

「水面に映ってた」

 二人は家へ向かった。

 空き家だった。

 窓は割れ、雨戸は半分外れている。玄関の戸には古い南京錠がぶら下がっていたが、錆びて壊れていた。

 佐伯が戸を押す。

 ぎい、と湿った音がした。

 中は暗い。

 畳は腐り、天井の一部が落ちている。だが、妙に生活の匂いが残っていた。

 誰かが、ついさっきまで座っていたような湿度。

 奥の部屋に、鏡台があった。

 割れた鏡。

 その前に、赤い櫛。

 悠真は息を止めた。

「ここだ」

 鏡の破片に、女の顔が映った。

 三沢由美子。

 写真の中の穏やかな顔ではない。

 濡れ、崩れ、何かを訴え続けた顔。

 彼女は鏡の中で、腹に手を当てていた。

「子どもの名前を教えてくれ」

 悠真が言うと、鏡の中の由美子は首を横に振った。

 声はない。

 ただ唇が動く。

 ――知らない。

 悠真は眉をひそめた。

「知らない?」

 佐伯が低く言った。

「名前をつける前に殺されたのかもしれない」

 その時、隣の押し入れが内側から叩かれた。

 トン。

 トン。

 軽い音。

 赤ん坊の手ではない。

 もっと大人の、だが弱った手の音。

 佐伯が押し入れを開ける。

 中には、古い布団と木箱があった。

 木箱の中には、手紙の束。

 宛名は、三沢由美子。

 差出人は、同じ男の名前だった。

 藤倉昭二。

 手紙は湿っていたが、読める部分が残っていた。

《子どもは俺の子ではない》

《村に知られたら終わりだ》

《お前が黙っていれば、何も起きなかった》

 悠真は奥歯を噛んだ。

 佐伯が別の手紙を広げる。

《名前などつけるな。生まれなかったことにしろ》

 その瞬間、家全体が軋んだ。

 床下から水音。

 ポタ。

 ポタ。

 いや、違う。

 それは天井から落ちる水ではない。

 床下から滴る音だった。

 水が、下から上へ染み出してくる。

「まただ」

 佐伯が呟く。

「水は下から戻る」

 悠真は部屋の隅を見た。

 畳の一枚だけが新しい。

 いや、周囲より不自然に色が違う。

 佐伯と二人で畳を持ち上げる。

 床板があった。

 その中央に、釘で打ちつけられた小さな板。

 板には、薄く文字が刻まれていた。

《なかったことにする》

 悠真は釘を抜いた。

 中には、古い布包みがあった。

 開く。

 小さな産着。

 白い布。

 未使用のまま黄ばんでいる。

 その端に、刺繍があった。

 ひらがなで一文字。

《み》

 佐伯が息を呑む。

「名前の頭文字……?」

 悠真は産着を手にした。

 その瞬間、鏡の中の由美子が泣いた。

 声はない。

 だが、涙だけが鏡面を伝って落ちた。

 赤ん坊の泣き声が近づく。

 床下から。

 畳の下から。

 貯水槽ではない。

 この家の下から聞こえている。

「ここで殺されたんじゃない」

 悠真は言った。

「ここで埋められたんだ」

 佐伯の顔が強張った。

「胎児を?」

「分からない。でも、由美子は子どもの存在をここに隠した。名前をつけようとしていた」

 その時、玄関の方で足音がした。

 ぎし。

 ぎし。

 誰かが入ってきた。

 佐伯がライトを消す。

 二人は息を潜める。

 廊下の向こうに、男が立っていた。

 濡れた作業服。

 中年。

 顔は泥のように崩れている。

 だが、手には白い石を持っていた。

 藤倉昭二。

 そう直感した。

 男は低く笑った。

「掘るな」

 声は、水を含んでいた。

「もう終わったことだ」

 悠真は産着を握りしめた。

「終わってないから、出てきたんだろ」

 藤倉は首を鳴らすように傾けた。

「女は面倒だ。死んでも喋る」

 佐伯が怒りを押し殺した声で言った。

「あなたが殺したんですか」

 藤倉は答えない。

 ただ、白い石を床に置いた。

 その石に文字が浮かぶ。

《おばけが出る》

「俺が書いたんじゃない」

 藤倉は言った。

「死んだ女が、自分で知らせたんだ」

 悠真は背筋が冷えるのを感じた。

 白い石は警告ではない。

 由美子が、自分の居場所を知らせるために動かしていた。

 誰かに見つけてもらうために。

 だが人々は、それを怪談として消費した。

 「おばけが出る」と怖がった。

 その奥にある死と子どもの名には、誰も触れなかった。

 藤倉が近づいてくる。

「返すな。名前をつけるな。生まれていないものは、人間じゃない」

 悠真の中で何かが切れた。

「違う」

 藤倉の足が止まる。

「生まれていなくても、いたんだ」

 産着が温かくなった。

 刺繍の《み》の横に、もう一文字、浮かび上がる。

《お》

 みお。

 悠真は息を呑んだ。

 鏡の中の由美子が、初めて口元を緩めた。

 佐伯が呟く。

「澪……」

 水の名前。

 三沢澪。

 その名を口にした瞬間、家の床下から赤ん坊の泣き声が響いた。

 今度は悲鳴ではない。

 産声のようだった。

 藤倉が叫ぶ。

「呼ぶな!」

 床板が割れる。

 黒く湿った土が露出する。

 その中から、小さな木箱が出てきた。

 悠真は膝をつき、箱を開けた。

 中には、母子手帳。

 表紙に、三沢由美子の名前。

 中のページ。

 胎児名の欄に、薄い鉛筆書き。

《澪》

 消されかけていた。

 だが残っていた。

 悠真ははっきり言った。

「三沢澪」

 家が震えた。

 鏡が割れた。

 破片の一つひとつに、由美子の顔が映る。

 どの顔も、もう崩れていない。

 藤倉は後ずさった。

「違う……そんな名前はない……」

 佐伯が母子手帳を掲げた。

「あります。ここに」

 藤倉の身体から、赤茶けた水が流れ出す。

 彼の足元に広がる水面に、貯水槽が映る。

 夜。

 藤倉が由美子の遺体を運んでいる。

 腹を押さえるようにして。

 貯水槽の蓋を開ける。

 投げ込む。

 だが、その前に彼は何かを取り出していた。

 母子手帳。

 産着。

 子どもの存在だけは、別に隠した。

 なぜか。

 罪を小さく見せるため。

 由美子一人の死にするため。

 生まれるはずだった命を、なかったことにするため。

 藤倉は水面の映像を足で踏みつけた。

「見るな!」

 悠真は言った。

「見た」

 佐伯も続けた。

「記録します」

 藤倉が二人へ飛びかかった。

 その瞬間、鏡の破片から白い手が伸びた。

 由美子の手。

 何本も。

 藤倉の腕を掴む。

 床下から、小さな手も伸びた。

 赤ん坊の手ではない。

 光のような、名だけの手。

 藤倉が悲鳴を上げる。

 由美子の声が、初めて聞こえた。

「この子は、いた」

 藤倉の身体が鏡へ引きずられる。

「やめろ! 俺はもう罰を受けた! 捕まった! 終わった!」

「終わってない」

 悠真は言った。

「澪の名前を消した」

 藤倉の顔が鏡の中へ沈む。

 最後に、彼は白い石を掴もうとした。

 だが石の文字が変わっていた。

《おばけが出る》

 その下に、新しく刻まれる。

《母と子がいた》

 藤倉は鏡の中へ消えた。

 家の中の水音が止まった。

 雨も止んだ。

 鏡台の上には、赤い櫛だけが残った。

 由美子の姿はもうない。

 だが、産着の刺繍ははっきり読めた。

《みお》

 佐伯が母子手帳を丁寧に包む。

「郷土資料館と警察に渡しましょう」

「記事にもする」

「はい」

 悠真は白い石を見た。

 もう怖くなかった。

 それは怪談の道具ではなく、墓標だった。

 その夜、二人は秩父の小さな宿に泊まった。

 悠真はノートに記録を書いた。

 三沢由美子。
 三沢澪。
 藤倉昭二。
 防火用貯水槽。
 白い石。
 赤い櫛。
 母子手帳。

 書き終えた時、窓の外で水音がした。

 身構える。

 だが、それは雨どいから落ちる普通の水だった。

 スマートフォンが震える。

 佐伯からだった。

《兄のHDDに、もう一つファイルがあります》

 悠真は画面を見た。

《FUKUSHIMA_TOILET_1989》

 胃の奥が冷えた。

 福島。

 便槽。

 閉じた水ではない。

 もっと暗く、もっと狭い場所。

 次のメッセージ。

《ファイルを開いていないのに、音だけ再生されています》

 悠真は耳を澄ませた。

 隣室からではない。

 窓の外からでもない。

 部屋の床下から、かすかに音がした。

 水音ではない。

 狭い管の奥で、誰かが爪を立てる音。

 カリ。

 カリ。

 カリ。

 そして、男の声。

「ここじゃない」

 悠真はノートを開いたまま、ペンを握り直した。

(第17章につづく)

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