鈴木光司を模倣し、エリサ・ラム事件モチーフにした完全オリジナルホラー小説『水槽の女』第二十四章

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第二十四章 水槽の女

 水は、忘れたものを返す。

 忘れなければ、ただ流れる。

 悠真はその一文を、何度も読み返した。

 佐伯亮が残した最後の言葉。

 いや、本当に佐伯亮の言葉だったのかは分からない。水の底で拾われ、HDDの中に浮かび上がった言葉だ。死者のものか、記録のものか、あるいは水そのもののものか。

 だが、今の悠真には、それを疑う必要はなかった。

 大切なのは、誰が言ったかではない。

 それをどう残すかだった。

 朝の光が、机の上のノートを照らしている。

 ページの最初に、悠真は題名を書いた。

《水槽の女 記録篇》

 書いた瞬間、ペン先がかすかに震えた。

 恐怖ではない。

 責任の重さだった。

 白蘭の井戸。

 秩父の貯水槽。

 福島の便槽。

 北星丸の七番タンク。

 産女淵。

 それぞれの水底に、人がいた。

 ただの怪談ではない。

 ただの都市伝説でもない。

 そこには、名前を奪われた者がいて、声を奪われた者がいて、場所を奪われた者がいた。

 悠真は、最初の一行を書いた。

《これは、怪談として語られてきたものの奥にあった、名前と声の記録である。》

 書いたあと、しばらく手が止まった。

 どこまで書くべきか。

 見たものをすべて書けば、読む者を引き込むかもしれない。

 しかし書かなければ、また水は戻る。

 怪談にするのではない。

 消費するのでもない。

 怖がらせるためではなく、覚えるために書く。

 その線を間違えれば、記録はまた呪いになる。

 昼前、佐伯がやって来た。

 紙袋を二つ抱えている。

 中には、コピー用紙、外付けSSD、ボイスレコーダー、ラベルシール、透明ファイル。

 まるで小さな編集部だった。

「全部、複数保存します」

 佐伯はそう言って、机に機材を並べた。

「デジタルだけでは危ない。紙だけでも危ない。音声、紙、複数人の記憶。全部に分散させます」

 悠真は頷いた。

「語る相手も必要だな」

「はい」

 佐伯は一枚のリストを出した。

 黒川千尋の姉。

 宮原佳代子。

 安西の息子。

 相原真帆の記事を書こうとしている記者。

 三沢由美子の資料を受け取った郷土資料館職員。

 そして、悠真の母。

「この人たちに草稿を読んでもらいます。ひとりに背負わせない」

「読んだ人がまた巻き込まれないか」

「巻き込まれる可能性はあります。でも、今回は“呼ぶ”文章ではなく、“残す”文章にしなければいけない」

「違いは何だ」

 佐伯は少し考えた。

「秘密にしないことです」

 悠真はその言葉を受け止めた。

 秘密にしない。

 たしかに、すべての水は隠された場所から始まった。

 井戸に隠す。

 貯水槽に隠す。

 便槽に隠す。

 タンクに隠す。

 淵に隠す。

 隠されたものは腐らず、声を持ち、水音になって戻る。

 ならば、開くしかない。

 光へ出すしかない。

 ただし、乱暴に暴くのではなく、名前を呼ぶように。

 午後、最初の記録会を開いた。

 場所は悠真の実家の居間だった。

 母が茶を淹れた。

 佐伯は録音機を三台置いた。

 悠真はノートを開く。

 母は、産女淵で見た夢の話をした。

 幼い頃から繰り返し見ていた、黒い水の庭。

 白い着物の女。

 赤ん坊を抱いて泣く声。

 祖母、悠子が寝言で口にしていた「みなも」という言葉。

 それまで母は、ただの夢だと思っていた。

 だが今は違う。

 それは、血の中に残った記録だった。

 母の声は途中で何度も震えた。

 それでも最後まで話した。

「私たちは、何も知らなかったわけじゃないのね」

 母は言った。

「知らないふりをしていたのかもしれない」

 悠真はその言葉を書き留めた。

 知らないふり。

 それもまた、沈黙の一種だった。

 夕方、黒川千尋の姉から電話があった。

『千尋の話を書くなら、妹を“幽霊”だけにしないでください』

「もちろんです」

『あの子は怖い存在じゃなかった。よく笑う子でした。人の弁当のおかずを勝手に食べるような子で』

 姉は電話の向こうで、少し笑った。

 その笑いが、悠真にはとても大事に思えた。

 死者を恐怖の形だけで残すことは、また別の隠蔽なのだ。

 怖い女。

 濡れた女。

 顔の崩れた女。

 水槽の女。

 そう呼ぶだけでは、彼女たちはまた名前を失う。

 黒川千尋は妹だった。

 三沢由美子は母になるはずだった。

 片桐修一は誰かを守ろうとした青年だった。

 相原真帆は旅の途中にいた編集者だった。

 蘭は名前を覚える少女だった。

 千草は水面の母だった。

 書くべきなのは怪異ではなく、人間だった。

 夜になって、悠真は一人でパソコンに向かった。

 白蘭の章を書き始める。

 最初に出てきた言葉は、以前ならこうだっただろう。

 深夜二時十三分、古いホテルのエレベーターに女が映る。

 だが、悠真はそれを消した。

 代わりに書いた。

《榊水紀は、自分が見たものを記録しようとしていた。彼女は怪異に追われたのではなく、隠された死者たちの記録へ近づきすぎた。》

 書いた瞬間、部屋の空気が少し冷えた。

 ポタ。

 どこかで水音がした。

 悠真は手を止めなかった。

《彼女の白いワンピースは、恐怖の記号ではない。最後に誰かに見つけてもらうための、彼女自身の輪郭だった。》

 水音は、それ以上続かなかった。

 深夜二時十三分。

 モニターが一瞬だけ暗くなった。

 悠真は身構えた。

 画面に、白い文字が浮かぶ。

《書け》

 命令ではなかった。

 懇願に近かった。

 悠真は頷いた。

「書く」

 その時、背後で足音がした。

 パシャ。

 濡れた足音。

 ゆっくり振り返る。

 部屋の隅に、女が立っていた。

 白いワンピース。

 濡れた髪。

 榊水紀。

 だが、以前のような恐ろしさはなかった。

 顔は見えない。

 それでも、彼女がこちらを見ているのが分かった。

 水紀は机の上のノートを指さした。

 そして、小さく首を振った。

「違うのか」

 悠真は書いた文章を読み返した。

 彼女は怪異に追われたのではなく――。

 そこか。

「追われていたんだな」

 水紀は頷いた。

「でも、怪異じゃない」

 水紀はもう一度頷いた。

 悠真は文章を書き直した。

《彼女は、人間にも、記録にも追われていた。ホテルの中で何が起きたのかを知った時、彼女は生きた人間からも、水底の声からも逃れられなくなった。》

 水紀は動かなかった。

 肯定している。

 悠真は続けた。

「君は、何を一番残してほしい?」

 水紀はしばらく黙っていた。

 やがて、髪の奥から声がした。

「怖かった」

 その声は、ひどく普通の若い女性の声だった。

「怖かったと、書いて」

 悠真は息を呑んだ。

 そうか。

 英雄にしなくていい。

 真相を暴く強い女性としてだけ書かなくていい。

 彼女は怖かった。

 怖くても、記録した。

 それを書かなければならない。

 悠真は打った。

《榊水紀は怖がっていた。それでも撮った。怖くなかったからではない。怖くても、誰かが見なければならないと思ったからだ。》

 水紀の姿が少し薄くなった。

 部屋の床に水滴が一つ落ちる。

 透明な水だった。

「ありがとう」

 彼女の声がした。

 そして消えた。

 翌日から、同じことが続いた。

 秩父の章を書いていると、赤い櫛が机の上に現れた。

 三沢由美子の声はしなかった。

 ただ、産着の《みお》の刺繍が、悠真の目に焼きつく。

 彼は書いた。

《三沢澪は、生まれなかった命ではない。生まれる前に名前を持っていた命である。》

 福島の章では、カセットテープが勝手に再生された。

 片桐修一の声。

『俺は、覗きなんかしていません』

 悠真はそれをそのまま引用し、さらに書いた。

《彼が求めていたのは、同情ではない。事実である。》

 フェリーの章では、窓に海水が張りついた。

 真帆の手帳が開き、葛西隆之と松野圭の名前が滲まずに残った。

 悠真は書いた。

《相原真帆は海に消えたのではない。船内に隠された。海は流したのではなく、船が隠した。》

 そして、産女淵。

 千草と水面の章に入ると、しばらく何も書けなかった。

 怖かった。

 これが根だ。

 すべての水音の底。

 書き間違えれば、また水が戻る。

 母は言った。

「完璧に書こうとしなくていいのよ」

「でも、間違えたら」

「間違えたら、訂正すればいい。隠さなければいい」

 悠真は母を見た。

 その言葉に救われた。

 記録とは、絶対の正解ではない。

 訂正可能なものとして開いておくこと。

 隠さず、消さず、間違いも含めて残すこと。

 それが呪いと記録の違いなのかもしれなかった。

 悠真は書いた。

《千草と水面の物語は、すべての始まりではないかもしれない。さらに古い水音があるのかもしれない。しかし、私たちが辿れた底はここだった。名を奪われた母と子。その名を呼び戻すことから、この記録は始まる。》

 その夜、夢を見た。

 広い水面。

 岸辺に、今まで出会った人々がいる。

 蘭は、少女たちと笑っている。

 由美子は澪の産着を干している。

 片桐は遠くの道を歩いている。

 真帆は船の手帳を閉じ、海を見ている。

 千草は水面を抱いている。

 佐伯亮もいた。

 彼は弟の佐伯律を見て、少しだけ笑った。

 最後に、白いワンピースの水紀が悠真の前に立った。

「題名」

 水紀が言った。

「題名を変えて」

「水槽の女じゃだめか」

 彼女は首を横に振った。

「私だけじゃない」

 悠真は夢の中で頷いた。

 目が覚めると、朝だった。

 机の上の原稿の表紙に、水滴がついていた。

 その水滴の下で、題名の文字が滲んでいる。

《水槽の女 記録篇》

 悠真はペンを取り、線を引いた。

 新しい題名を書く。

《水の底の名前》

 その瞬間、部屋に朝の光が満ちた。

 ポタ。

 どこかで水が落ちた。

 だがもう、それは呼ぶ音ではなかった。

 流れる音だった。

(第25章につづく)

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