上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第十一章

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第十一章 勘定方の影

 江戸城を出た時、日はすでに傾いていた。

 堀の水面は夕陽を受け、赤銅色に光っている。

 新之介は肩に巻かれた布を押さえながら、城門の外へ出た。

 門外では玄斎と源太郎が待っていた。

「生きておりましたか」

 源太郎が安堵したように言う。

「勝手に殺すな」

「城内は、外より恐ろしいところですから」

「それは否定できぬ」

 玄斎が新之介の肩を見た。

「また傷を増やしたか」

「浅手です」

「浅手を重ねて死ぬ者もおる」

 老人は呆れたように言った。

 だが、その目にはわずかな安堵があった。

 新之介は声を低くした。

「水野監物は捕えられました」

「やはり内におったか」

「はい。ただ、背後はまだ見えません」

 源太郎が眉をひそめる。

「間宮、大久保、水野。これだけ出てもまだ背後があるのですか」

「ある」

 新之介は言い切った。

「水野は、勘定方にも名があると申しました」

 玄斎の顔が険しくなる。

「お前の役所か」

「はい」

 勘定方。

 米、金、普請、年貢。

 幕府の血の巡りを司る役所である。

 そこに腐りがあれば、幕府の体そのものが病んでいるに等しい。

「父上にも報せます」

「その前に休め」

 玄斎が言った。

「休んでいる間に証拠は消えます」

「死ねば証拠も何も追えぬ」

 新之介は黙った。

 だが心はすでに決まっていた。

 役目を越える罪は後で受ける。

 今は、動くしかない。

 ◇

 その夜、榊原家では忠左衛門が床に伏していた。

 城門で受けた銃創は深く、熱も出ている。

 それでも新之介が戻ると、父は上体を起こした。

「水野は」

「捕えられました」

「そうか」

「ですが、勘定方にも関わる者がいると」

 忠左衛門は目を閉じた。

「やはりな」

「心当たりがあるのですか」

「借財整理に関わる帳面は、勘定方を通る」

「はい」

「その帳面をいじれる者は限られる」

 父は苦しげに息を吐いた。

「勘定組頭、あるいはそれに近い者だ」

 新之介の脳裏に数名の顔が浮かんだ。

 その中に、日頃温厚に笑う男がいる。

 松井弥十郎。

 同僚であり、近頃多くの噂を新之介へ伝えた男。

 いや、疑うには早い。

 だが疑わねばならぬ。

 戸田の言葉が蘇る。

 ――この先、身内を疑うことになる。

「父上」

「何だ」

「勘定方の帳面を見ます」

「許されぬ」

「承知しております」

「勝手に見れば罪だ」

「それも承知しています」

 忠左衛門は新之介を見つめた。

 やがて、枕元の小箱から鍵を取り出した。

「蔵の奥に古い控えがある」

「控え?」

「正式な帳面ではない。私が若い頃から癖で残してきた写しだ」

「なぜ」

「帳面は嘘をつくことがある」

 父は静かに言った。

「だが、嘘を見抜くには、嘘をつく前の数字が要る」

 新之介は鍵を受け取った。

「父上」

「礼は要らぬ。これは榊原家の役目だ」

 忠左衛門は再び横になった。

「ただし、新之介」

「はい」

「数字を斬る時は、人を斬るより慎重であれ」

 ◇

 榊原家の蔵は、屋敷の裏手にあった。

 古い米俵の匂いと、紙の匂いが混じっている。

 新之介は行灯を手に、奥の棚を開けた。

 そこには、年ごとに束ねられた帳面の写しが並んでいた。

 父の字は端正で、乱れがない。

 米の出入り。

 蔵屋敷への払い。

 札差への取次。

 旗本への貸付。

 数字の列が、武士の暮らしを無言で語っていた。

 しばらくめくるうちに、新之介は一つの名に目を留めた。

 大黒屋宗兵衛。

 札差である。

 その名は近頃、何度も耳にしていた。

 旗本の借財を多く握り、勘定方にも顔が利く男。

 帳面では、大黒屋への支払いがここ三年で急に膨らんでいる。

 しかも、支払い先の名義がいくつも分かれていた。

 表向きは別人。

 だが筆跡、日付、金額の癖が同じである。

「隠れ蓑か」

 新之介は低く呟いた。

 大黒屋は、複数の名義を使って金を動かしている。

 その金が、大久保家へ流れ、矢代の浪人集団へ渡った可能性がある。

 さらに帳面を追う。

 すると一枚の付箋が挟まっていた。

 父の字ではない。

 細く、癖のある筆跡。

 ――松井へ渡す分、別口。

 新之介の手が止まった。

 松井。

 松井弥十郎か。

 あるいは同姓の別人か。

 だが胸の奥は冷えた。

 疑いは、ついに身近な者へ届いた。

 ◇

 翌朝、新之介はいつもより早く勘定所へ出仕した。

 肩の傷は痛む。

 だが痛みは、むしろ意識を冴えさせた。

 勘定所では、まだ人が少ない。

 畳に置かれた帳箱。

 棚に並ぶ証文。

 墨の匂い。

 ここは戦場ではない。

 しかし、今の新之介には鷹見塾の炎より恐ろしい場所に思えた。

「早いな、榊原殿」

 声がした。

 松井弥十郎である。

 いつものように柔らかく笑っている。

「そちらも早い」

「昨今は仕事が多いのでね。借財整理など、面倒な話ばかりだ」

「面倒か」

「面倒だろう。正そうとすれば恨みを買う。放っておけば腐る。役人とは損な仕事だ」

 新之介は松井を見た。

 この男は、以前から真実に近いことを口にしていた。

 それは協力者だからか。

 それとも、新之介を誘導していたからか。

「松井殿」

「何だ」

「大黒屋宗兵衛をご存じか」

 松井の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。

「札差の大黒屋か。名は知っている」

「取引は」

「私の家の禄高では、大黒屋と縁など持てぬよ」

「そうか」

「なぜ聞く」

「少し気になっただけだ」

 松井は笑った。

「榊原殿は近頃、気になることが多いようだ」

「ええ」

「気をつけた方がよい」

「何に」

 松井は筆を取った。

「気になるものを追いすぎると、戻れなくなる」

 それは忠告か。

 脅しか。

 新之介には判断できなかった。

 ◇

 昼前、勘定所に大黒屋宗兵衛が現れた。

 札差らしく、地味だが上等な羽織を着ている。

 年は五十前後。

 丸顔で、いかにも商人らしい穏やかな笑みを浮かべていた。

 だが目は笑っていない。

 大黒屋は勘定組頭と奥で話し込んでいた。

 新之介は遠くからその様子を見た。

 すると松井が隣へ来た。

「あれが大黒屋だ」

「知っているのではないか」

「顔くらいはな」

 松井は軽く笑った。

「江戸の武士で、大黒屋の名を知らぬ者はおらぬ」

「なぜそこまで力を持つ」

「武士が金を借りるからだ」

 松井の声には皮肉があった。

「刀を差しても腹は膨れぬ。米をもらっても銭に換えねば暮らせぬ。札差はその弱みを握っている」

「武士の弱みか」

「そうだ」

 松井は新之介を見た。

「榊原殿。武士は強いと思うか」

「強くあろうとするものだと思う」

「立派な答えだ」

 松井は笑った。

「だが現実の武士は、借金に怯え、家名に縛られ、役目を失うことを恐れる。そこへ少し金を流せば、どんな立派な侍も頭を下げる」

「そなたは、それを見てきたのか」

「毎日見ている」

 松井の表情から笑みが消えた。

「だから嫌になる」

 その声には、本物の苦さがあった。

 新之介はさらに分からなくなった。

 松井は敵か。

 それとも、敵を憎む者か。

 ◇

 その夕刻、新之介は大黒屋の店を見張ることにした。

 場所は蔵前。

 米蔵と札差の店が集まる一帯である。

 隅田川沿いには米俵が積まれ、商人や人足が絶えず動いている。

 武士の俸禄は米である。

 だがその米は、こうして札差の手を通り、銭となり、借財となって武士を縛る。

 蔵前は、武士の胃袋であり、同時に喉元でもあった。

 新之介は町人姿で、大黒屋の向かいの茶屋に座った。

 ほどなく源太郎が来た。

「奉行所の者も周囲に置きました」

「大黒屋を押さえるには証拠が要る」

「分かっています」

「今夜、必ず何か動く」

 そう読んだ理由は単純だった。

 水野が捕えられた。

 大久保は口を開こうとしている。

 ならば背後の者は、帳面か証人を消すはずである。

 日が暮れる。

 蔵前に灯がともる。

 やがて、大黒屋の裏口から一人の男が出た。

 顔を手拭いで隠している。

 小さな風呂敷包みを抱えていた。

「追う」

 新之介は立ち上がった。

 男は裏路地を抜け、川沿いへ向かった。

 歩き方に見覚えがある。

 背丈。

 肩の揺れ。

 新之介の胸が重くなる。

 男は人通りのない河岸で足を止めた。

 そこに小舟が待っていた。

 船頭が手を差し出す。

 男が包みを渡そうとした瞬間、新之介が声をかけた。

「松井殿」

 男の動きが止まった。

 ゆっくり振り返る。

 手拭いの下から現れた顔は、やはり松井弥十郎だった。

「榊原殿」

「その包みは何だ」

 松井は小さく笑った。

「見逃してはくれぬか」

「できぬ」

「そうだろうな」

 源太郎が背後から回り込む。

「松井様、奉行所です」

 松井は逃げなかった。

 包みを地面へ置いた。

 中には帳面があった。

 大黒屋の裏帳簿。

 金の流れが記されたものに違いない。

「なぜ持ち出した」

 新之介が問う。

 松井は川を見た。

「燃やすためだ」

「誰に命じられた」

「誰にも」

「嘘をつくな」

 松井は静かに首を振った。

「本当だ。私はこれを燃やして、すべて終わらせたかった」

「終わらせる?」

「この帳面が出れば、多くの家が潰れる」

「不正をした家だ」

「家臣もいる。妻子もいる。何も知らぬ者もいる」

 松井の声が震えた。

「武士の不正を正せば、武士の家が壊れる。家を守れば、不正は残る。榊原殿、お前ならどうする」

 また問いだった。

 矢代とは違う問い。

 松井の問いは、もっと現実の泥にまみれていた。

 新之介は答えた。

「隠しても、いずれ壊れる」

「正せば今壊れる」

「ならば、壊れ方を選ぶしかない」

 松井は目を見開いた。

「壊れ方……」

「不正を隠して腐るより、痛みを受けて正す方を選ぶ」

「きれい事だ」

「そうだ」

 新之介は認めた。

「だが、きれい事を捨てた武士に、何が残る」

 松井は黙った。

 その時、川の小舟から短筒が向けられた。

「伏せろ!」

 新之介は松井を突き飛ばした。

 銃声。

 弾は松井のいた場所を抜け、土手を削った。

 船頭が舌打ちする。

 証人を消す気だ。

 源太郎が叫ぶ。

「捕り方!」

 周囲に潜んでいた同心たちが飛び出す。

 小舟は逃げようとする。

 新之介は川岸の杭を蹴り、舟へ飛び乗った。

 船頭は短筒を捨て、刀を抜いた。

 狭い舟の上で刃が交わる。

 新之介は肩の痛みに顔を歪めながらも踏み込んだ。

 船頭の腕を斬り、組み伏せる。

 源太郎が舟へ縄を投げた。

「生け捕れ!」

 今度は逃がさなかった。

 ◇

 大黒屋宗兵衛が捕えられたのは、その半刻後であった。

 裏帳簿を失ったと知った大黒屋は逃げようとしたが、奉行所の手がすでに店を囲んでいた。

 帳簿には、驚くべき名が並んでいた。

 旗本。

 御家人。

 大名家の用人。

 勘定方の役人。

 そして水野監物へ流れた金。

 さらに、ひときわ大きな金額の横に、ある家名が記されていた。

 榊原家

 新之介は目を疑った。

「これは……」

 源太郎も言葉を失う。

 松井は青ざめた顔で言った。

「だから燃やしたかった」

「榊原家が関わっているというのか」

「帳面上は」

「実際は」

「分からない」

 新之介は裏帳簿を握り締めた。

 父が不正に関わったとは思えない。

 だが帳面は、榊原家の名を示している。

 敵はそこまで手を打っていた。

 あるいは、榊原家にも知らぬ闇があるのか。

 その夜、蔵前の川風は冷たかった。

 新之介はようやく理解した。

 身内を疑うとは、役所だけのことではない。

 家そのものもまた、疑いの中に置かれるということだ。

 武士とは何か。

 家を守ることか。

 真実を守ることか。

 その二つがぶつかった時、どちらを選ぶのか。

 答えを出す刻が、近づいていた。

(第十二章へ続く)

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