上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第十四章

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第十四章 小石川の蔵(前編)

 夜明けの空は鉛色だった。

 東の空にようやく光が差し始めても、新之介の胸中に朝は訪れなかった。

 叔父・頼母は息絶え、父・忠左衛門は連れ去られた。

 榊原家の屋敷には、まだ血の匂いが残っている。

 玄関先で源太郎が奉行所の同心たちへ指図を飛ばしていた。

「屋敷の周囲を改めろ。足跡も車輪の跡も残すな」

「承知!」

 若い同心たちが散っていく。

 玄斎は黙って庭を歩き、踏み荒らされた土を見ていた。

「先生」

「駕籠ではない」

「え?」

「忠左衛門殿は馬にも乗せられておらぬ」

 玄斎はしゃがみ込み、土に残る浅い轍を指した。

「荷車だ」

 新之介も膝をつく。

 たしかに車輪は細い。

 武家の駕籠ではなく、米俵を運ぶ荷車の跡である。

「小石川の米蔵……」

 頼母が最期に残した言葉が胸によみがえった。

 米蔵なら荷車で運ぶのが自然だ。

「まだ間に合う」

 新之介は立ち上がった。

「急ぎましょう」


 小石川へ向かう途中、江戸の町はいつもの朝を迎えようとしていた。

 魚河岸には荷が届き、豆腐屋は笛を鳴らし、寺では鐘が鳴る。

 誰も、昨夜の両国で何が起きたか知らない。

 江戸は巨大な町だった。

 一つの火事も、一つの陰謀も、翌朝には別の暮らしに飲み込まれていく。

「これが江戸です」

 源太郎が呟いた。

「昨日まで生きていた者が死んでも、町は止まらぬ」

「だからこそ守らねばならぬ」

 新之介は答えた。

「町ではない」

「え?」

「人だ」

 源太郎は何も言わなかった。


 小石川の外れには、幕府の米蔵がいくつも並んでいた。

 飢饉に備える備蓄米。

 諸藩から納められた年貢米。

 巨大な白壁の蔵が朝靄の中に立ち並ぶ。

 その一角だけ、人の気配がなかった。

 不自然なほど静かである。

「ここだ」

 玄斎が言った。

「鳥も鳴いておらぬ」

 蔵の裏手へ回る。

 荷車の跡はそこまで続いていた。

 扉は閉じられている。

 だが鍵は掛かっていない。

 源太郎が小声で言った。

「中におります」

 新之介は刀の柄を握った。

 深く息を吸う。

 扉を押す。

 軋む音が静寂を裂いた。


 蔵の中は薄暗かった。

 積み上げられた米俵。

 乾いた藁の匂い。

 高い梁から細い光が差し込んでいる。

「父上!」

 返事はない。

 その代わり、奥から拍手が聞こえた。

「見事だ」

 低い声。

 積まれた俵の陰から、一人の男が姿を現した。

 村垣平八郎。

 昨夜、両国で逃げた酒井家の家臣である。

「よくここまで辿り着いた」

「忠左衛門殿はどこだ」

 村垣は答えず、ゆっくりと歩く。

「榊原新之介」

「……」

「お前は父によく似ている」

「知ったような口を」

「知っている」

 村垣は笑った。

「鷹見塾にも来ていたからな」

 新之介の目が大きく開いた。

「何……」

「若かった」

 村垣は懐かしむように天井を見上げる。

「矢代も、忠左衛門も、わしも、同じ庭で木刀を振っていた」

「嘘だ」

「嘘ではない」

 玄斎の表情も変わった。

「お前も門人だったのか」

「そうだ」

 村垣は静かに頷いた。

「だから知っている。武士は変わらぬ」


 村垣は米俵の一つを叩いた。

「鷹見先生は武士を正そうとした」

「……」

「矢代は武士を壊そうとした」

「……」

「忠左衛門は武士を守ろうとした」

 新之介は刀を構える。

「そして、お前は何をする」

「答える必要はない」

「いや」

 村垣は首を振った。

「ここで決めるのだ」

 その言葉とともに、蔵の奥から人影が現れた。

 忠左衛門である。

 両手を後ろで縛られていた。

 しかし歩いている。

 生きていた。

「父上!」

 忠左衛門は首を横に振る。

「来るな」

 その声は弱い。

 しかし意志は失っていない。


 村垣は忠左衛門の肩へ手を置いた。

「榊原新之介」

「放せ」

「一つだけ選べ」

 村垣は笑った。

「父を取るか」

 一歩近づく。

「帳面を取るか」

 懐から帳面を示す。

「どちらか一つだ」

 蔵の空気が凍りついた。

 源太郎が小さく息を呑む。

 玄斎は木刀を握り直す。

 忠左衛門は静かに新之介を見つめた。

 その目は何も語らない。

 いや、語らぬことで語っていた。

 新之介の胸に、父が幼い頃に教えてくれた言葉が蘇る。

 ――武士とは、選ばねばならぬ時に逃げぬ者だ。

 父か。

 真実か。

 新之介はゆっくりと刀を抜いた。

 刃が朝の光を受けて静かに輝く。

 その瞬間、蔵の屋根の上で乾いた音が鳴った。

 弓弦である。

 玄斎が叫ぶ。

「伏せろ!」

 次の瞬間、無数の矢が屋根を突き破って降り注いだ。

 蔵の中は一瞬で修羅場と化した。

(第十五章へ続く)

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