上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第十三章

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第十三章 両国の火

 両国の夜空に、火の粉が舞った。

 船宿の屋根は熱を帯び、瓦の隙間から黒煙が吹き上がる。

 新之介は佐吉の腕を掴み、隣の屋根へ身を移した。

「下を見るな」

「見ております!」

「見るなと言った」

 佐吉は青ざめている。

 大黒屋の手代として帳面には慣れていても、屋根伝いに火事場を逃げることなどあるはずもない。

 源太郎は懐に帳面を入れ、後ろを警戒していた。

 玄斎は最後尾である。

 老人は木刀一本を手に、瓦の上とは思えぬ身軽さで歩いている。

「若い者より足が確かだな」

 玄斎が笑った。

 その時、下の路地から矢が飛んだ。

 新之介は佐吉を押し倒す。

 矢は瓦を砕き、火の粉が散った。

「伏せろ!」

 源太郎が叫ぶ。

 黒装束の男たちが下から屋根へ上がってくる。

 敵は火で逃げ道を狭め、屋根で仕留めるつもりらしい。

「源太郎、佐吉を先へ」

「承知!」

 新之介は刀を抜いた。

 屋根の上での斬り合いは、平地とは違う。

 一歩誤れば滑り落ちる。

 刀を大きく振れば体勢が崩れる。

 間合いも足運びも、すべてが制限される。

 黒装束の一人が短刀を手に迫る。

 新之介は斬らず、蹴った。

 男は瓦を滑り、雨樋にしがみつく。

 玄斎の木刀が別の男の膝を打った。

 男は悲鳴を上げて屋根から転げ落ちた。

「殺すなとは言われておらぬが、面倒は少ない方がよい」

 玄斎は平然と言った。

 新之介は苦笑する暇もなく、次の刃を受けた。

 炎の熱。

 煙。

 足元の瓦。

 すべてが敵だった。

 ◇

 隣の船宿へ移ると、そこも騒然としていた。

 客たちは表へ逃げ出し、女中が水桶を運んでいる。

 川面には屋形船が離れ、火の粉を避けようとしていた。

 だが、一艘だけ近づいてくる小舟があった。

 源太郎が目を細める。

「あれは奉行所の舟ではありません」

「敵か」

「おそらく」

 新之介は佐吉を見た。

「舟には乗るな」

「ではどこへ」

「橋へ出る」

 両国橋までは近い。

 だが火事の騒ぎで人が溢れている。

 敵が紛れるには格好の場所でもあった。

 四人は裏階段を下り、路地へ出た。

 熱と煙が背後から追ってくる。

 両国広小路は、夜とは思えぬ喧騒に包まれていた。

「火事だ!」

「水を持ってこい!」

「子どもがまだ中に!」

 声が重なる。

 火消しの纏が見えた。

 町人たちが水桶を手渡しで運んでいる。

 新之介は一瞬足を止めた。

 この町を守るために、武士だけでは足りない。

 火消し、船頭、魚河岸、人足。

 江戸は名もなき者たちの手で支えられている。

 だが今は佐吉と帳面を守らねばならぬ。

 それが、火を消すことと同じく江戸を守ることだ。

「行くぞ」

 新之介は走った。

 ◇

 両国橋のたもとで、敵は待っていた。

 黒装束ではない。

 町人姿の男たちである。

 手には鳶口、棍棒、短刀。

 火消しに紛れれば怪しまれない。

 源太郎が舌打ちした。

「手が込んでいますね」

「佐吉を渡せば見逃す、という顔ではないな」

 玄斎が言った。

 男たちは無言で広がる。

 その背後に、一人の武士が立っていた。

 年は四十ほど。

 品のよい顔だが、目つきは冷たい。

「榊原新之介殿」

「誰だ」

「酒井丹波守様の家臣、村垣平八郎」

 ついに名乗った。

 酒井丹波守。

 佐吉の帳面に記されていた幕府中枢の名。

 新之介は刀を構えた。

「佐吉を消しに来たか」

「消すなどと物騒な」

 村垣は微笑んだ。

「主の帳面を盗んだ手代を連れ戻しに来ただけです」

「帳面は奉行所へ渡す」

「渡せば、榊原家も無事では済みませぬぞ」

 新之介の眉が動いた。

 村垣はさらに続ける。

「裏帳簿には榊原家の名がある。叔父君の証文もある。世間は真実など見ませぬ。帳面に名があれば、それが罪となる」

「だから何だ」

「ここで帳面を返せば、榊原家の名は消しましょう」

 源太郎が怒りをあらわにした。

「取引のつもりか」

「町方は黙っておれ」

 村垣の声が冷たくなる。

 新之介は静かに言った。

「村垣殿」

「はい」

「そなたは武士か」

 村垣の顔から笑みが消えた。

「当然」

「ならば恥を知れ」

 新之介は一歩踏み込んだ。

「家名を餌に人を脅し、火を放ち、証人を消す。それを武士の仕事と思っているなら、刀を差す資格はない」

 村垣の目が鋭くなった。

「青侍が」

 手が上がる。

 男たちが一斉に襲ってきた。

 ◇

 両国橋のたもとで刃が交わった。

 火事の喧騒が周囲を包み、誰が敵で誰が町人か分かりにくい。

 新之介は前へ出すぎないよう心がけた。

 守るべきは佐吉。

 そして帳面。

 源太郎は佐吉を背に庇い、棍棒を受け流す。

 玄斎は鳶口を持つ男の手首を木刀で打った。

 骨の砕ける音。

「火消し道具を人殺しに使うとは、罰当たりめ」

 玄斎の声は低かった。

 村垣が抜いた。

 鋭い剣だった。

 新之介は受けた瞬間、相手がただの用人ではないと悟った。

 重い。

 しかも間合いが巧い。

「やるな」

 村垣が笑う。

「榊原殿もなかなか」

「褒め合う場ではない」

「そうですな」

 村垣の刃が下から跳ねる。

 新之介は半歩引き、返す刃で袖を裂いた。

 浅い。

 村垣はすぐ距離を取る。

 その間にも敵は佐吉へ迫る。

「いやだ、私は死にたくない!」

 佐吉が叫んだ。

「ならば逃げるな!」

 源太郎が怒鳴る。

 その時、橋の上から別の声が響いた。

「控えろ!」

 南町奉行所の捕り方である。

 源太郎が事前に放っていた者たちが、ようやく駆けつけた。

 形勢が動く。

 村垣は舌打ちした。

「退くぞ」

「逃がすか」

 新之介が追おうとする。

 だが村垣は懐から小さな筒を投げた。

 煙。

 また目くらまし。

 視界が白く閉ざされる。

 煙が晴れた時、村垣の姿は消えていた。

 捕えたのは手下数人だけ。

 だが佐吉と帳面は守った。

 それだけでも大きかった。

 ◇

 火は明け方近くにようやく収まった。

 船宿二軒が焼けたが、両国橋への延焼は防がれた。

 火消したちは煤だらけになりながら座り込み、町人たちは水を配っている。

 佐吉は震えたまま、源太郎のそばに座っていた。

「本当に証言するのだな」

 新之介が問う。

 佐吉は小さく頷いた。

「もう逃げても無駄です」

「無駄だからではない」

 新之介は言った。

「自分で選べ。証言するのか、しないのか」

 佐吉は顔を上げた。

 しばらくして、震える声で答えた。

「証言します」

「よい」

 源太郎が頷いた。

「ならば奉行所で保護する」

 その時、佐吉は懐からもう一枚、折り畳んだ紙を出した。

「これも」

「まだあるのか」

「大黒屋様が、いざという時に酒井様へ渡すつもりだった書付です」

 新之介は受け取った。

 そこには、借財整理を止めるための策が書かれていた。

 戸田備前守を失脚させる。

 水野監物に評定を乱させる。

 大久保家を使い、浪人騒ぎを起こす。

 必要なら、江戸城内で刃傷沙汰を起こす。

 そして最後の一行。

 ――榊原家を罪に落とし、忠左衛門を口封じとする。

 新之介の指が震えた。

 父は最初から狙われていた。

 鷹見塾の過去を知り、勘定方の帳面を見抜く父。

 邪魔だったのだ。

「父上が危ない」

 新之介は立ち上がった。

 玄斎も顔を変えた。

「急げ」

 ◇

 榊原家へ戻る道は、やけに長く感じられた。

 夜明け前の江戸は、火事の名残を除けば静かだった。

 だが新之介の胸には嫌な予感が走っていた。

 屋敷が見えた。

 門は開いている。

 門番の姿がない。

 新之介は走った。

「父上!」

 書院へ飛び込む。

 そこに忠左衛門はいなかった。

 布団は乱れ、床には血の跡が残っている。

 頼母が柱にもたれて倒れていた。

「叔父上!」

 頼母は腹を斬られていた。

 だがまだ息がある。

「新之介……すまぬ」

「何があった!」

「兄上を……連れていかれた」

「誰に」

 頼母は血を吐きながら言った。

「酒井の……者だ」

「どこへ」

「小石川……古い米蔵……」

 そこまで言って、頼母の声は途切れた。

 新之介は叔父の手を握った。

 頼母は微かに笑った。

「兄上に……言えたぞ……すまぬ、と」

 そして静かに息を引き取った。

 新之介は目を閉じた。

 怒りが胸を満たす。

 だが、その怒りは刃を曇らせる。

 玄斎が背後から言った。

「泣くのは後だ」

「はい」

「怒るのも後だ」

「……はい」

 新之介は立ち上がった。

 父は連れ去られた。

 叔父は死んだ。

 家名を守る戦いは、ついに家族の命を奪った。

 だがここで止まれば、頼母の死も、矢代の死も、すべて闇に呑まれる。

 新之介は刀を差し直した。

「小石川へ行きます」

 源太郎が頷く。

「奉行所の手勢を集めます」

 玄斎は木刀を握った。

「今度は遅れるな」

 夜明けの空が白み始めている。

 江戸の一日はまた始まろうとしていた。

 その明るさの下で、新之介は初めて、心の底から人を斬る覚悟をした。

 父を取り戻すため。

 榊原家の名を守るため。

 そして、武士の名をこれ以上汚させぬために。

(第十四章へ続く)

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