――第九十七章 甘い風――
褒め言葉は、刃より遅く効く。
伊織は、そのことをまだ十分には知らなかった。悪名は痛い。嘲りは腹にくる。だが、褒め言葉は痛くないぶん、胸の奥へ入りやすい。
翌日、佐平の瓦版が出た。
――榊原流、若名を救う。
――荒筆、稚筆、病筆、三つの名を立て直す。
――江戸に新しき人育ての道あり。
新兵衛はそれを読んで、顔をしかめた。
「気持ち悪ぃな」
伊織も同じだった。
悪く書かれているわけではない。
むしろ、よく書かれている。
だが、そこに清之進の恥も、伊之助の幼さも、直之助の病もない。
ただ“よい話”になっていた。
よい話になると、人は苦しみを忘れる。
苦しみを忘れた名は、また本人の手を離れる。
昼過ぎ、清之進が寺へ来た。
顔が赤い。
怒っているのかと思えば、少し違った。
戸惑っている顔だった。
「榊原殿」
「読みましたか」
「はい」
「どう思いました」
清之進は唇を噛んだ。
「最初は、嬉しかったのです」
正直な言葉だった。
「笑われるより、褒められる方が嬉しい。家中でも、少し見直したような顔をする者がいました」
「それで」
「でも……」
清之進は瓦版を握りしめた。
「私の文は、まだ下手です。なのに“若名を救う”などと書かれると、急に立派でいなければならぬ気がして」
伊織は頷いた。
「それが甘い風です」
「甘い風」
「冷たい風は、人を縮ませる。甘い風は、人を浮かせる」
清之進は、しばらく黙った。
「私は、まだ浮きたくありません」
「なら、今日も一字直せばよい」
清之進は少し笑った。
「はい。一字だけ」
それでよかった。
遠山伊之助は、もっと素直だった。
「榊原さま、私は救われたのですか」
瓦版を持って、首をかしげている。
「伊之助殿は、どう思いますか」
「よく分かりません」
「それでよい」
「でも、救われた人は、もう立派にならないといけないのですか」
「いいえ」
伊織は言った。
「救われた、という言葉は、外の人が勝手につけたものです。伊之助殿は、昨日と同じように書けばよい」
伊之助はほっとした。
「では、今日も子どもの文でよいのですね」
「よい」
「来年の私に、また書きます」
幼い名は、甘い風にも流されやすい。
救われた子、賢い子、将来ある子。
どれも立派な言葉だ。
だが、その言葉が早すぎれば、幼い名はまた自分を失う。
久我直之助は、瓦版を読んで笑った。
「病筆が、今度は美談になりましたか」
「怒っていますか」
「半分は」
直之助は答えた。
「もう半分は、少し嬉しい。人は厄介ですね」
「はい」
「病を売り物にされるのは嫌だ。だが、病のまま外へ出ることを褒められると、また無理をしたくなる」
家老が隣で心配そうに見ていた。
「今日は風が強い」
直之助は空を見た。
「だから出ません」
家老が安堵する。
「けれど」
直之助は続けた。
「瓦版に褒められたから出ないのではない。風が強いから出ない。それを間違えぬようにします」
伊織は深く頭を下げた。
直之助は、自分の速さを知り始めている。
それは病のせいで得た知恵でもある。
苦しみが、必ず人を歪めるわけではない。
時には、人に自分の速さを教える。
夜、寺では三通りの話が戻り帳に記された。
お澪は静かに筆を走らせた。
――牧野清之進。
――美名に浮きかけるも、一字を直す道へ戻る。
――遠山伊之助。
――救われた子の名を着せられんとす。
――昨日と同じ幼き文へ戻る。
――久我直之助。
――病筆の美談に揺れるも、風の強さに従い出ぬことを選ぶ。
伊織はその文字を見て、静かに息を吐いた。
「佐平のことも書くかい」
母が言った。
「はい」
お澪は次の行に書いた。
――佐平。
――美名を売る。
――褒め言葉もまた、人の速さを奪うことあり。
新兵衛が腕を組んだ。
「で、佐平をどうする」
「会う」
伊織は答えた。
「悪く書くなと言えば、よく書く。よく書くなと言えば、今度は黙って面白がる。あの男には、名を売ることの怖さを見せねばならぬ」
「見せて分かるかね」
「分からぬかもしれぬ」
伊織は囲炉裏の火を見た。
「だが、まず会う」
翌朝、伊織は佐平のもとへ向かった。
佐平は瓦版の版木を前に、上機嫌だった。
「榊原様、評判です」
「評判に困っています」
佐平は目を丸くした。
「悪く書いておりませんが」
「悪くないから困るのです」
佐平は笑った。
「妙なことを仰る」
「人の名を売り物にする時、悪名だけが危ういのではありません」
伊織は静かに言った。
「美名も、人を縛る」
佐平は少しだけ黙った。
「しかし、世の者はよい話を欲しがります」
「欲しがるから売るのですか」
「それが商いです」
「では、あなたは人の戻りを商うのですね」
佐平の顔から笑いが少し消えた。
「私は、世に知らせているだけです」
「知らせることと、形にすることは違う」
佐平は反論しようとしたが、伊織は続けた。
「清之進殿は、まだ一字を直している。伊之助殿は、来年の自分へ文を書いている。直之助殿は、今日は風が強いから外へ出なかった。――それを“救われた若名”とまとめれば、三人はまた自分の速さを失う」
佐平は、版木を見た。
「細かすぎます」
「人は細かい」
「細かい話は売れませぬ」
「なら、売るな」
新兵衛が低く言った。
佐平は苦笑した。
「食えなくなります」
その言葉に、伊織は黙った。
商い。
飯。
またそこへ戻る。
佐平もまた、噂で飯を食っている。
美談が売れれば、刷る。
悪名が売れれば、刷る。
それだけの男かもしれない。
だが、それだけで済ませれば、また人の名が紙になる。
「佐平殿」
伊織は言った。
「売るなら、速さまで書いてください」
「速さ?」
「はい。戻った、と書くな。戻りはじめ、と書け。救った、と書くな。今日も一字直した、と書け」
佐平は眉をひそめた。
「そんなものが売れますか」
「売れぬなら、売らぬ方がよい」
長い沈黙があった。
佐平は版木を指で叩いた。
「……一字直した若様、来年へ文を書く若様、風が強いから出ぬ若様」
小さく呟く。
「地味ですな」
「はい」
「しかし、妙に残る」
佐平は苦笑した。
「分かりました。次は少し、地味に書きましょう」
伊織は頭を下げた。
「お願いします」
寺へ戻ると、母が言った。
「美談も薄味にしなきゃね」
「薄味?」
「濃すぎる褒め言葉は、体に悪いよ」
新兵衛が笑った。
「また飯だ」
伊織も笑った。
だが、母の言葉は正しかった。
濃い美談は、人の名を太らせる。
太った名は、本人の身に余る。
ならば薄味でよい。
地味でよい。
今日一字直した、今日は出なかった、来年へ書いた。
そのくらいが、人の名にはちょうどよい。
戻り帳に、お澪は最後の一行を足した。
――榊原伊織。
――甘い風を避け、人それぞれの速さを薄味のまま残す道を選ぶ。
囲炉裏の火が、静かに揺れた。
波瀾万丈の物語は、美名の甘い風を知った。
人は悪く言われても流れ、良く言われても流れる。
だからこそ、自分の速さに戻ることが大事なのだ。
伊織は、そのことをまた一つ、胸に刻んだ。
(第98章につづ)

コメント