――第九十二章 泣けぬ者――
宗庵の庵から戻った翌朝、寺には重い静けさが残っていた。
囲炉裏の火はいつも通り燃えている。
母は味噌を溶き、志乃は井戸から水を運び、お澪は紙を干している。
何も変わらぬ朝だ。
だが伊織の胸には、宗庵の最後の顔が残っていた。
――自分で決めた、か。
あの時の宗庵の声には、初めて「理」ではなく、「悔い」があった。
新兵衛が欠伸をしながら言った。
「昨日の爺さん、最後はただの疲れた老人みてぇだったな」
「疲れているのだろう」
「でも、まだ危ねぇぞ」
「ああ」
伊織は頷いた。
古傷を見せたからといって、人がすぐ戻るわけではない。むしろ、自分の傷を見せた時こそ、人は余計に硬くなることもある。宗庵は長い間、自分の怖れを“理”で固めてきた。その固まりにひびが入った今、どう動くかはまだ分からない。
その時、門を叩く音がした。
志乃が出る。
戻ってきた彼女の顔は少し強ばっていた。
「兄さま……宗庵殿が」
「来たのか」
「いえ」
「では」
「倒れたそうです」
伊織と新兵衛は顔を見合わせた。
宗庵の庵へ向かうと、庭は静まり返っていた。
竹垣の向こうに、草履がいくつも並んでいる。
町医者。
近所の者。
そして、見覚えのある武家の使い。
宗庵は奥の部屋に寝かされていた。
熱があるらしい。
額に汗を浮かべ、呼吸も浅い。
あの整った男が、今は乱れた布団の上で苦しげに横たわっている。
町医者が言った。
「無理が続いていたのでしょう。もともと胸を患っておられたようです」
「胸を」
「はい。長く咳を隠しておられた」
伊織は宗庵を見た。
病める名を奥へ置こうとした男が、自分の病は隠していた。
新兵衛が低く呟く。
「皮肉なもんだな」
伊織は答えなかった。
宗庵は目を開けた。
熱に濁った目が、伊織を捉える。
「……榊原殿」
「はい」
「来ましたか」
「倒れたと聞きました」
宗庵はかすかに笑った。
「人を閉じ込めてきた罰かもしれませぬ」
「そういう言い方はやめてください」
伊織は静かに言った。
「病は罰ではない」
宗庵は目を閉じた。
「私は……長く咳を隠しておりました」
「なぜ」
「人に弱みを見せれば、相談役は務まらぬ」
その言葉に、伊織は宗庵の孤独を見た。
怖れを売る者。
だがその実、自分の怖れも病も、誰にも分けられなかったのだ。
「宗庵殿」
伊織は言った。
「あなたは、人の怖れを抱えすぎた」
「違う」
宗庵は苦しげに首を振った。
「抱えたのではない。押さえつけたのです」
「それも同じです」
宗庵は答えなかった。
夕方になると、熱は少し下がった。
宗庵は起き上がろうとしたが、伊織が止めた。
「今日は寝ていてください」
「寝てばかりでは、名が鈍る」
「久我直之助殿にも、同じことを言いましたか」
宗庵は苦く笑った。
「……言いました」
「なら、今日は宗庵殿が聞く番です」
宗庵は布団に戻った。
その時、庵の外から声がした。
「宗庵先生!」
若い男だった。
見ると、小さな武家の次男らしい。
顔色を変えて駆け込んできた。
「先生、大丈夫ですか」
宗庵は驚いた顔をした。
「なぜ来た」
「知らせを聞いて……」
男は泣きそうな顔をしている。
「先生がいなければ、私はとっくに家を飛び出していました。父と兄の間で潰れそうだった時、“まず三日待て”と言ってくださった」
宗庵は黙った。
「先生は、怖い人です。厳しい。ですが、私は救われました」
男は深く頭を下げた。
その姿を見て、伊織は胸が詰まった。
宗庵は、確かに人を縛ってきた。
だが同時に、救ってもいたのだ。
怖れを押さえつけることで、崩れずに済んだ者もいる。
人は、白と黒ではない。
戻る者も、戻せぬ者も、その間にいる。
男が帰ったあと、宗庵はぽつりと言った。
「私は、間違ってばかりでもなかったのでしょうか」
「はい」
伊織は即座に答えた。
「だが、正しいばかりでもなかった」
宗庵は、長く息を吐いた。
「それが、一番苦しい」
「そうでしょう」
「間違いだけなら、捨てられる。正しさだけなら、誇れる。……半分ずつだから、捨てきれぬ」
伊織は、戻り帳の余白を思い出した。
人は、半分ずつでできている。
怖れも、優しさも、誤りも。
だから戻るには余白が要る。
夜、宗庵は熱にうなされた。
伊織は庵に残った。
新兵衛は「まるで看病役だな」と言いながらも、水を替え、薬を煎じた。
夜半、宗庵が突然、小さく呻いた。
「……若君」
伊織は振り向く。
「外へ、出たいのです」
宗庵の目は閉じたままだ。
夢を見ている。
「雨でございます」
「それでも……私は……」
相良家の若君だろう。
宗庵は、今もあの日の雨の中にいる。
「止めてください……」
その声は、初めて聞くほど弱かった。
「止めて……ください……」
伊織は、胸が締めつけられた。
宗庵は、ずっと止められなかった自分を責め続けている。
だから今度は、誰より先に人を止めようとした。
新兵衛が小さく言った。
「泣いてるな」
宗庵の閉じた目から、涙が流れていた。
伊織は静かに答えた。
「ああ」
母の言葉が蘇る。
――泣けない怖れは、人を硬くする。
宗庵は今、ようやく泣いている。
相良家の若君のために。
止められなかった自分のために。
そして、おそらく、自分自身のために。
朝方、熱はさらに下がった。
宗庵は目を開けると、涙の跡に気づいたようだった。
「……見ましたか」
「はい」
「情けない」
「違います」
伊織は静かに言った。
「ようやく、怖れをひとりで抱えなくなった」
宗庵は、長い間何も言わなかった。
やがて、小さく呟く。
「私は……戻れますか」
伊織はすぐには答えなかった。
戻れる、と軽く言ってはいけない。
戻れぬ者もいる。
だが、余白はある。
「分かりません」
伊織は正直に言った。
「ですが、今は余白に立っています」
宗庵は目を閉じた。
その顔は、初めて少しだけ“整っていない”人の顔に見えた。
寺へ戻ると、お澪が戻り帳を開いた。
「宗庵殿、ですか」
「ああ」
伊織は静かに言った。
「今日は、余白のままでいい」
「書かないのですか」
「いや」
伊織は少し考えた。
「一行だけ」
お澪は筆を持つ。
――扇屋宗庵。
――熱に伏し、相良家の若名の夢に泣く。
――怖れ、初めて他人の前で崩れる。
――余白、なお続く。
囲炉裏の火が静かに燃えていた。
波瀾万丈の物語は、怖れを売る者の涙へ辿り着いた。
だが涙は終わりではない。
そこから戻る者もいれば、崩れる者もいる。
伊織は火を見つめながら思った。
戻り帳とは、結局、人が「まだ終わっていない」と記す帳なのかもしれない。
(第93章につづく)

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