――第八十四章 堰と堰のあいだ――
翌朝、伊織は戻り帳の自分の頁を、しばらく見つめていた。
――榊原伊織。
――汚された名を持って町を歩く。
――人の堰を見る。
たった三行である。
だがその三行が、妙に重かった。
点帳に名を記されるのは、外から狙われた証である。
戻り帳に名を記すのは、自分がどう戻るかを見届ける約束である。
どちらも紙だ。
だが、紙の重さはまるで違う。
母が朝餉の椀を置きながら言った。
「今日は、どこへ行くんだい」
「主水殿のところへ」
「また紙かい」
「今日は、人です」
母はそれを聞いて、少しだけ笑った。
「紙の話も、結局は人の話だよ」
伊織は頷いた。
その通りだった。
紙を追い、点を追い、名を追い、ようやく人へ戻ってきた。
長く遠回りをしたようで、最初からそこにあった道だったのかもしれない。
主水の部屋には、三家の若名に関する文が並べられていた。
牧野、遠山、久我。
それぞれの家から、采女の手が入った文の控えが集まっている。
その数は、伊織が思っていたより多かった。
「よくもこれだけ」
新兵衛が低く言う。
「名は、使いやすいからな」
主水が答えた。
「金より足がつきにくく、米より軽く、文より長く残る」
伊織は黙って文を見た。
名を使う。
言葉にすれば簡単だ。
だが、使われた本人には一生残る。
笑われること。
疑われること。
自分の言葉を失うこと。
それらが、名にこびりつく。
「采女は」
伊織が問う。
「口を開き始めた」
主水は一通の紙を出した。
「ただし、自分の罪を語っているのではない。自分の技を語っている」
「技」
「若い名をどう整えるか。未熟な者は恥を恐れさせる。幼い者は父の期待を使う。病める者は美談に閉じる。……よく見ている」
その言葉に、伊織の胸が冷えた。
采女は悪人である。
だが、ただの悪人ではない。
人の弱さを見る目を持っている。
その目を、戻すためではなく、使うために働かせた。
それが恐ろしい。
「榊原」
主水が言った。
「お前の悪名を書いた紙も、采女の筋だ」
「やはり」
「だが筆は采女ではない」
主水は、紙の端を指で叩いた。
「別の者がいる。采女の理を受け、さらに広げる者だ」
「誰です」
「まだ名はない」
主水は答えた。
「だが、堰と堰のあいだを歩く者だ」
伊織は眉をひそめた。
「堰と堰のあいだ?」
「そうだ。若名を戻した者たちの周りを歩き、どこがまだ弱いかを見る。牧野の家中、遠山の父子、久我の家老、お前自身。……それぞれの堰のあいだに隙があるかを探る」
新兵衛が舌打ちした。
「嫌な歩き方する奴だな」
「嫌な歩き方だから、まだ見えぬ」
主水は言った。
「人は堰そのものは見張る。だが堰と堰のあいだは油断する」
伊織は戻り帳の一行を思い出した。
――人の堰を見る。
だが、それだけでは足りないのだ。
堰と堰のあいだ。
人と人の間。
そこに隙ができる。
牧野清之進は自分の文を背負い始めた。
だが家中との間にはまだ隙がある。
遠山伊之助は父の言葉で堰を得た。
だが用人たちとの間はどうか。
久我直之助は外へ出た。
だが家老以外の者が、それをどう見ているか。
そして伊織自身も、寺では戻れる。
だが町との間、城との間、主水との間には、まだ隙がある。
「次は、間を見るのですね」
伊織が言うと、主水は頷いた。
「そうだ」
まず牧野家へ向かった。
清之進は庭にいた。
今日は薪ではなく、文机を外へ出している。家中の者が通る庭先で、自分の文を書いていた。
笑う者もいた。
横目で見る者もいた。
だが、清之進は顔を赤くしながらも筆を止めなかった。
伊織は、その様子を少し離れて見た。
「よくやっている」
新兵衛が言った。
「ああ」
だが伊織の目は、清之進ではなく周囲に向いていた。
若い家士の一人が、清之進の文机を見て、何か言いかけてやめた。
別の者は、笑いそうになって、隣の者に肘で止められた。
そして奥の廊下で、年配の家士がじっと見ていた。
その目は冷たい。
清之進を笑う目ではない。
清之進が自分で文を書くことで、何かを失った者の目だった。
「あれだな」
新兵衛が低く言う。
「見たか」
「見た」
年配の家士は、伊織の視線に気づくと、すぐに奥へ消えた。
「追うか」
「いや」
伊織は首を振った。
「あれは堰そのものではない。堰の脇の湿りだ」
「また妙なことを」
「すぐ踏めば、水が散る。どこへ染みるかを見る」
新兵衛は不満そうだったが、黙った。
清之進が伊織に気づき、少し笑った。
「榊原殿。今日は、まだ三行しか書けません」
「三行書ければ十分です」
「家中で笑われています」
「知っています」
「ひどいですね」
「笑われる稽古です」
清之進は苦笑した。
その笑いは、昨日より少しだけ強かった。
次に遠山家へ向かった。
伊之助は父と手習いをしていた。
父は自分の下手な字を見せている。
伊之助はそれを見て、時々笑っていた。
その光景は温かかった。
だが温かい光景ほど、周囲からは反発も生む。
廊下の隅で、用人が二人、小声で話しているのが聞こえた。
「殿まで若君に合わせて、あのような……」
「家の格が下がる」
「立花殿の文なら、まだ形になっていたものを」
伊織は足を止めた。
伊之助の堰は父との間にできた。
だが用人たちとの間にはまだ水路が残っている。
彼らは悪人ではない。
家の格を守りたいだけだ。
その“守りたいだけ”が、また名を整える手を呼ぶ。
伊織はあえて姿を見せず、その場を離れた。
新兵衛が小声で言う。
「放っとくのか」
「今は」
「なんでだ」
「伊之助殿の前で用人を責めれば、父子の堰が他人の戦場になる」
新兵衛は少し考えた。
「面倒くせぇな」
「ああ」
だが名を戻すとは、こういう面倒を避けないことなのだろう。
正しいことを正しい場所で言わねば、正しさそのものが人を傷つける。
最後に久我家へ行くと、直之助は縁側に出ていた。
今日は半刻ではなく、四半刻だけだという。
家老がそう決めたらしい。
少しずつ外へ出る。
病を無視せず、病に閉じ込められず。
その道を探っている。
「榊原殿」
直之助は伊織を見ると笑った。
「今日は私の堰の隙を見に来たのですか」
伊織は驚いた。
「分かるのですか」
「病人は、人の気配に敏いのです」
直之助は咳をした。
「私は外へ出たい。だが、外へ出ると周りが怖がる。怖がられると、私も自分の体が怖くなる」
家老がそばで黙っていた。
その顔にも苦さがある。
「若様を守るつもりで、また奥へ押し戻したくなります」
家老は自分でそう言った。
「それが私の点でございます」
伊織は深く頷いた。
ここでは、点が隠れていない。
家老が自分で見ている。
それだけで堰は強くなる。
「では、どうします」
伊織が問うと、直之助が答えた。
「怖い時は、怖いと言うことにしました」
「誰が」
「私も、家老も」
家老が苦笑した。
「若様が外へ出る時、私は怖いと申します。若様は、それでも出たいかどうかを言う。そう決めました」
伊織は、久我家では一つ先へ進んでいると感じた。
堰の隙を、隠さず名づけている。
それは強い。
寺へ戻る頃、伊織は疲れていた。
戦ったわけではない。
走ったわけでもない。
ただ、人と人の間を見て歩いただけだ。
それなのに、刀を振った後より疲れている。
囲炉裏の前で、母が言った。
「今日は、目が疲れてるね」
「人の間を見てきました」
「そりゃ疲れるよ」
母は味噌汁を出した。
「人は、一人ずつ見るより、間を見る方が難しいからね」
お澪が戻り帳を開いた。
「書きますか」
「ああ」
伊織は少し考えた。
「まず牧野。清之進殿は笑われながら書く。だが年配の家士に湿りあり」
お澪は筆を走らせる。
「遠山。父子の堰は温かし。だが家格を守る用人に水路あり」
「久我。若と家老、互いの怖れを口にす。堰の隙を名づける」
書き終えると、頁には“戻った”という言葉はなかった。
だが、戻るための地図が少しずつできているように見えた。
老僧が言った。
「伊織」
「はい」
「堰を見る者は、水ばかり見てはならぬ」
「では、何を」
「堰を作る者の疲れだ」
伊織は黙った。
「人は戻る。だが戻るのは疲れる。疲れた時、また流れる。そこを忘れるな」
伊織は深く頷いた。
その夜、戻り帳の自分の頁に、お澪は伊織の言葉を一行だけ足した。
――榊原伊織。
――堰と堰のあいだを歩く。
――戻る者の疲れを見る。
囲炉裏の火が、静かに揺れた。
波瀾万丈の物語は、敵の顔を追うだけではなく、人が戻る時の疲れまでも見届けるものになっていった。
そして伊織は、その疲れを見落とす者こそ、また新しい点を打つのだと、ようやく知り始めていた。
(第85章につづく)

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