――第八十三章 名を洗う井戸――
伊織の名を汚す紙は、翌日にはさらに広がっていた。
広がる、といっても、火のように見えるものではない。町角で大声で読まれるわけでもなく、辻に貼られるわけでもない。ただ、誰かの懐から誰かの袖へ、文箱の底から客間の隅へ、茶の席の沈黙の中へ、少しずつ移っていく。
そういう広がり方が、いちばん始末に悪い。
正面から斬れぬ。
燃やしても灰が残る。
そして何より、読む者の心に「少しは本当かもしれぬ」という点を置く。
伊織は、その日も町へ出た。
新兵衛が隣にいた。
何も言わずについてくる。
こういう時、新兵衛は案外、余計な口をきかない。普段は騒がしい男だが、人が本当に自分の名と向き合っている時には、黙ることを知っている。
神田から浅草へ、浅草から屋敷町へ。
伊織は、自分の名がどこで避けられ、どこで囁かれ、どこで踏みとどまっているかを見た。昨日と同じようで、少し違う。今日は、避ける者の中に迷いがあった。
悪く言いたい者。
信じたい者。
信じたくないが、何となく距離を取る者。
そして、紙を読んだうえで何も変えぬ者。
人の名は、他人の胸の中でそれぞれ別の形になるのだと、伊織は思った。
昼前、遠山家の前を通った時、小さな声がした。
「榊原さま」
振り向くと、遠山伊之助が門の陰に立っていた。供はいない。手に紙を持っている。
「伊之助殿」
伊織が近づくと、伊之助は少し緊張した顔で紙を差し出した。
「これを、読みました」
伊織の名を貶める紙だった。
「怖かったか」
伊織が問うと、伊之助は正直に頷いた。
「少し」
「なぜ」
「榊原さまが悪い人なら、私に言ってくださったことも、嘘になるのかと思いました」
その言葉は、伊織の胸に静かに刺さった。
名を汚されるとは、自分だけが傷つくことではない。
自分の言葉を受け取った者の胸に、疑いを置くことでもある。
それが、相手の狙いなのだろう。
「それで、どうした」
伊織が問う。
伊之助は少しだけ胸を張った。
「父上に聞きました」
「何と」
「榊原さまは、本当に悪い人ですか、と」
新兵衛が横で吹き出しそうになったが、こらえた。
「父上は、何と」
「“悪いところもあるだろう”と」
伊織は思わず笑った。
「そうか」
「でも、“お前の幼い文を許せと言ったことは、悪いことではない”とも言いました」
伊之助は紙を畳んだ。
「だから私は、この紙を全部は信じません」
「全部は?」
「はい。榊原さまにも、悪いところはあるかもしれないので」
新兵衛が今度こそ笑った。
「いいぞ、坊主。よく見てる」
伊之助は少し顔を赤くした。
だが、逃げなかった。
伊織は深く頷いた。
「それでよい。全部信じるな。全部捨てるな。自分で見たものと比べろ」
「はい」
伊之助は小さく頭を下げた。
その姿を見送ってから、新兵衛が言った。
「戻り帳に書けるな」
「ああ」
「お前の名を汚す紙が、あの坊主の堰を太くした」
「皮肉だな」
「世の中、だいたい皮肉だ」
伊織は苦笑した。
だが、その通りだった。
敵が投げた紙が、若い名をかえって強くすることもある。
もちろん、いつもそうとは限らない。
だが今日、伊之助は少し強くなった。
久我家では、直之助が縁側に出ていた。
体調はよくなさそうだった。だが外の風を受けている。そばには家老がいて、半刻だけと決められた外気浴なのだろう。
「榊原殿」
直之助は、伊織を見るなり笑った。
「あなたも、病人のような顔をしておられる」
「名が少し病んでいます」
伊織が答えると、直之助は声を立てずに笑った。
「なら、奥へ閉じ込められぬようお気をつけなさい」
その言葉は冗談の形をしていたが、芯があった。
「例の紙は?」
伊織が問うと、直之助は懐を叩いた。
「持っています」
「信じましたか」
「半分ほど」
直之助は正直に言った。
「あなたは、若い者に自分の名を背負わせる。これは本当でしょう」
「そうかもしれません」
「けれど、それは私を奥へ閉じ込める名とは違う。私は自分で背負いたいと言った。あなたは、その言葉を聞いただけだ」
直之助は少し咳をした。
家老がすぐに背を支える。
直之助はそれを受け入れた。以前なら、支えられることそのものを嫌がったかもしれない。だが今は、弱さを消さずに外へ出ることを学び始めている。
「榊原殿」
「はい」
「名が病んだ時は、寝かせすぎてはいけません」
伊織は直之助を見た。
「奥に置くと、勝手に美談にされます」
直之助の目は鋭かった。
「外へ出しなさい。風に当てなさい。笑われても、疑われても、外に置く。そうしないと、名は本当に病みます」
伊織は深く頭を下げた。
「覚えておきます」
家老が静かに言った。
「若様の口から、よいことを聞きましたな」
直之助は少し照れたように顔を逸らした。
伊織は思った。
戻りはじめた者は、時に戻す側へもなる。
直之助は、病める名を持ったからこそ、伊織の名の病み方を見抜いたのだ。
夕方、牧野家へ寄ると、清之進は庭で薪を割っていた。
下手だった。
新兵衛が見たら大笑いするだろうと思うほど下手だった。
だが、清之進は汗をかきながら斧を振っていた。
「清之進殿」
伊織が声をかけると、清之進は顔を上げた。
「榊原殿。見ないでください。まだ下手です」
「見ます」
「意地が悪い」
清之進は苦笑した。
その顔に、昨日より少しだけ強さがあった。
「例の紙は」
伊織が問うと、清之進は斧を置いた。
「読みました」
「どう思いました」
「腹が立ちました」
「私に?」
「最初は」
清之進は正直に言った。
「なぜ、私をこんな騒ぎに巻き込んだのかと。榊原殿が来なければ、私は采女の文で、それなりに家中から褒められていたかもしれない」
伊織は頷いた。
「そうでしょう」
「ですが、薪を割っているうちに、思いました」
清之進は手の豆を見せた。
「この豆も、誰かに代わってもらえば痛くない。でも、代わってもらったら、私はいつまでたっても薪を割れません」
それは稚拙な例えだった。
だが清之進自身の言葉だった。
「文も同じだと思いました」
清之進は言った。
「荒くても、自分で割らねばならない」
新兵衛が横で「いいこと言うじゃねぇか」と呟いた。
清之進は少し照れた。
「だから、例の紙は残します。私がまた楽な方へ流れそうになった時に読むために」
伊織は黙って頭を下げた。
敵の紙が、ここでも堰になった。
汚された名は痛む。
だが痛みの扱い方を誤らなければ、その痛みは誰かの堰を太くする。
寺へ戻る頃には、日が暮れていた。
お澪は、伊織の顔を見るなり戻り帳を開いた。
「今日は、書くことがありそうですね」
「ああ」
伊織は囲炉裏の前に座った。
「まず、遠山伊之助」
お澪が筆を取る。
――伊之助、榊原の悪名を読み、父に問う。
――全部を信じず、全部を捨てず、自分の見たものと比べる。
――堰を太くす。
「次に、久我直之助」
――直之助、名の病みを語る。
――名は奥へ閉じ込めず、風に当てよと諭す。
――戻る者、戻す言葉を得る。
「最後に、牧野清之進」
――清之進、榊原の悪名に腹を立てるも、薪割りの痛みにより己の文を思う。
――代わられぬ痛みをもって、名を自分へ戻す。
――堰を太くす。
書き終えると、お澪は少しだけ微笑んだ。
「榊原様ご自身は?」
伊織は余白を見た。
自分の名のために残された頁。
そこはまだ白い。
だが昨日ほど怖くなかった。
「まだ書かぬ」
「はい」
「だが、日付だけではなく……一行だけ書いてくれ」
「何と」
伊織は少し考え、ゆっくり言った。
「汚された名を持って町を歩く。人の堰を見る」
お澪は静かに書いた。
――榊原伊織。
――汚された名を持って町を歩く。
――人の堰を見る。
それだけだった。
戻ったとも、戻りはじめとも書かない。
ただ、歩いたことだけを残す。
それで今は十分だった。
母が味噌汁を置きながら言った。
「歩けるうちは大丈夫だよ」
「そうか」
「そうだよ。名が重くても、足が動くならまだ戻れる」
伊織は椀を受け取り、深く頷いた。
夜が更けるにつれ、寺は静かになった。
だが伊織の胸は、昨日より少しだけ静まっていた。
名は汚された。
だが、その汚れを見て、三人の若い名がそれぞれ自分の堰を確かめた。
自分の名の痛みが、誰かの戻る道に使われるなら、それもまた背負うべきものなのかもしれなかった。
波瀾万丈の物語は、汚された名を抱えながらも、少しずつ別の灯を増やしていく。
そして伊織は、名を洗うとは一人で清くなることではなく、人の堰と堰の間を歩き続けることなのだと、ようやく思い始めていた。
(第84章につづく)

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