――第七十八章 名を狙う影――
三家の若名を戻しはじめたあと、伊織はかえって胸の落ち着かぬものを覚えていた。
牧野清之進は、自分の文を自分で書き直すと言った。
遠山伊之助は、幼い文を父に許された。
久我直之助は、病を美談にされることを拒んだ。
それぞれ小さな戻りだった。
だが、小さな戻りほど、壊されやすい。
大きな決意は、見た目には強い。
しかし人の心を支えるのは、案外、小さな決意の方である。
笑われてもよい。
幼くてもよい。
弱くてもよい。
そういう言葉は、口に出した直後がいちばん危うい。まだ根を張っていないからだ。そこへ誰かが「やはり無理でしたな」と水を差せば、簡単に崩れる。
伊織は、戻り帳を前にしていた。
お澪の筆で記された三つの名。
いずれも末尾は「戻りはじめ」となっている。
それがよかった。戻った、と書いてしまえば早すぎる。戻らぬ、と切ってしまえば冷たすぎる。戻りはじめ。人には、その途中がある。
「兄さま」
志乃が縁側から顔を出した。
「また帳面ですか」
「ああ」
「戻り帳は、読んでいると少し温かいですね」
「そうか」
「はい。点帳は怖い感じがします。でも戻り帳は、まだ大丈夫、という感じがします」
伊織は小さく笑った。
「まだ大丈夫、か」
「はい」
その言葉は、伊織の胸に残った。
戻り帳とは、つまり“まだ大丈夫”を記す帳なのかもしれない。
完全に清い者の帳ではない。
失敗せぬ者の帳でもない。
流れかけ、迷い、使われ、傷つき、それでもまだ大丈夫だと記す帳。
その時、門の方から足音がした。
駆けてくる音ではない。
だが、急いでいる。
そして、迷っていない。
新兵衛が先に立ち上がった。
「来たな」
伊織も立った。
門前にいたのは、岡野だった。
息は乱れていない。だが目が鋭い。
いつもの無駄のない顔だが、どこかに火急の色があった。
「榊原殿」
「何があった」
「三家の若名に、別の文が流れました」
伊織の胸が静かに冷えた。
「別の文?」
「はい。牧野、遠山、久我、それぞれにです。差出人は不明。ただし中身は同じ筋です」
「読んだのか」
「写しを持ってきました」
岡野は懐から三通の写しを出した。
伊織は一通目を開いた。
牧野清之進宛。
――若き名は、一度乱れれば家を乱す。
――己の荒き文を世に出すは、家中への不孝なり。
――整えられし文を恥じるな。
――人は、見える顔で測られる。
伊織は二通目を開く。
遠山伊之助宛。
――幼き言葉は、幼きままなら侮られる。
――父の優しさは、一時の慰めなり。
――名は早く形を持つべし。
三通目。
久我直之助宛。
――病める身は、奥にて澄む。
――外へ出ることのみが役にあらず。
――美しき弱さもまた、家の飾りなり。
伊織は、紙を畳んだ。
「狙っている」
「ああ」
新兵衛が低く言った。
「戻りはじめたところを、もう一度流そうとしてやがる」
岡野が頷く。
「主水殿は、差出しの筋を追っています。ただ、文そのものはすでに三家へ届いている可能性があります」
「若様たちは」
「牧野清之進殿は、まだ読んでいないようです。遠山家と久我家は分かりません」
伊織はすぐに決めた。
「三手に分ける」
新兵衛が眉を上げる。
「三家を同時にか」
「遅れれば、一つは崩れる」
伊織は岡野を見た。
「主水殿には、私が三家へ向かうと伝えてくれ。まず遠山へ行く」
「幼い名からですか」
「ああ。自分で受け止めるには幼すぎる」
岡野は短く頭を下げ、すぐに門を出た。
伊織は新兵衛へ言った。
「お前は牧野へ行け」
「清之進のところだな」
「そうだ。あの若様は、自分で踏みとどまれるかもしれぬ。だが、隣で笑ってやれ」
「笑う?」
「整った文に負けるな、と言ってやれ」
新兵衛は、にやりと笑った。
「それなら得意だ」
「秋庭は久我へ」
奥にいた秋庭が顔を上げた。
「私が、ですか」
「病める名は、白紙に似ている。外へ出ぬまま、誰かに書かれやすい。お前なら分かるはずだ」
秋庭は一瞬だけ緊張した顔をしたが、すぐに頷いた。
「承知しました」
遠山家へ着いた時、屋敷の空気は昨日と違っていた。
門番の顔が硬い。
下働きの足音も早い。
何かがもう家中に入っている。
伊織はそう感じた。
通されると、遠山伊之助は父の前に座っていた。
机の上には、あの文がある。
すでに読んでいた。
伊之助は泣いてはいない。
だが顔は白い。
父の顔も暗い。
「榊原殿」
遠山家の当主が言った。
「この文は、いったい誰が」
「若君の名を再び他人の形へ戻したい者です」
伊織は答えた。
伊之助が小さく言った。
「やはり、幼い文は駄目なのでしょうか」
その声はか細かった。
昨日できたばかりの堰は、まだ細い。
そこへ、この文はまっすぐに打ち込まれていた。
伊織は、文を手に取った。
「伊之助殿」
「はい」
「この文は、あなたを侮っている」
伊之助が顔を上げた。
「私を?」
「そうです。幼い言葉は侮られる、と書いてある。だが、本当に侮っているのは、この文を書いた者です」
伊織は文を畳んだ。
「あなたが幼いからではない。あなたを、自分の言葉を育てられぬ者として見ている。だから、早く形を与えようとしている」
伊之助は黙って聞いていた。
「幼い文は、恥ではありません」
伊織は続けた。
「幼いのに、大人の文を書かされる方が恥です」
父が、そこで深く息を吐いた。
「伊之助」
「はい」
「父は昨日、書が苦手だと言ったな」
「はい」
「本当は、今も手習いの手本を見るのが嫌いだ」
伊之助が、少しだけ目を丸くした。
「父上も、まだ?」
「ああ。まだだ」
当主は苦笑した。
「だが、それでも印は押す。家を預かるからだ。苦手は消えぬ。消えぬまま、少しずつ持つしかない」
伊之助の顔に、ほんの少し血が戻った。
「私も、幼いままで……少しずつでよいのですか」
伊織は頷いた。
「少しずつでよい」
当主も頷いた。
「少しずつでよい」
その二つの頷きで、伊之助の堰は少し太くなったように見えた。
伊織は、例の文を当主へ返した。
「これは残してください」
「残すのですか」
「はい。捨てれば、また同じ文が来た時に怯える。残しておけば、“こういう手が来る”と分かる」
当主はしばらく文を見て、やがて頷いた。
「分かった。これは、伊之助のために残す」
伊之助は文を見た。
怖いものを見る顔だった。
だが、目を逸らさなかった。
牧野家では、新兵衛がうまくやっていた。
戻ってきた彼は、寺の門前で伊織と合流するなり、笑った。
「清之進の若様、怒ってたぜ」
「怒っていた?」
「ああ。文を読んでな」
新兵衛は清之進の言葉をそのまま伝えた。
「“私は荒い文を恥じる。だが、恥じるのは私であって、お前に恥じさせられる筋合いはない”ってよ」
伊織は小さく笑った。
「強くなったな」
「まだ震えてたけどな。でも、震えながら文を破らずに残した。自分で直すって言ってたぜ」
よかった、と伊織は思った。
破るのではなく残す。
それは、遠山にも伝えたことと同じだ。
怖い文を残すことも、堰になる。
しばらくして、秋庭も帰ってきた。
彼の顔は少し疲れていたが、暗くはなかった。
「久我様は?」
伊織が問う。
「読んでいました」
秋庭は答えた。
「ですが、怒っておられました」
「怒っていたか」
「はい。“美しき弱さなど要らぬ。弱さがあるなら、汗をかく弱さでありたい”と」
新兵衛が吹き出した。
「いいな、その病弱な若様」
秋庭も少し笑った。
「家老殿も、今回は止めませんでした。ただ、外へ出るなら半刻だけと決めていました」
「それでよい」
伊織は頷いた。
弱いまま外を見る。
病を無視するのでも、美談に閉じ込めるのでもない。
半刻でもいい。
それが直之助の堰になる。
夜、寺では戻り帳が開かれた。
お澪が筆を取る。
「三家とも、書きますか」
「書く」
伊織は言った。
「ただし“戻った”ではない」
「では」
「堰を太くす、と」
お澪は頷き、書いた。
――牧野清之進。
――荒き文を恥じるも、恥を己のものと知る。
――堰を太くす。
――遠山伊之助。
――幼き文を侮る手に触れるも、父と共に少しずつを選ぶ。
――堰を太くす。
――久我直之助。
――美しき弱さを拒み、汗をかく弱さを願う。
――堰を太くす。
その文字を見て、伊織は静かに息を吐いた。
敵は、戻りはじめた名を狙ってきた。
だが三つの名は、かえって少し強くなった。
傷つけられそうになったことで、自分の堰を自分で確かめたからだ。
老僧が言った。
「よい。戻る者は、一度揺さぶられてから強くなる」
「揺さぶられすぎれば、折れます」
伊織が言うと、老僧は頷いた。
「だから誰かがそばにいる」
伊織は、囲炉裏の火を見た。
そうだ。
堰は一人では作れぬこともある。
父の一言、女中の声、新兵衛の笑い、秋庭の同席。
そういうものが、名を支える。
波瀾万丈の物語は、三家の若名を再び揺さぶった。
しかしその揺さぶりは、名を沈めるためではなく、名が自分の堰を見つけるための試練にもなった。
伊織はようやく、戻り帳の意味を少しだけ深く知り始めていた。
(第79章につづく)

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