山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第七十五章

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――第七十五章 余白に立つ者――

 戻り帳に余白を残した翌朝、伊織はその白さが気になって仕方がなかった。

 白紙は危うい。
 だが、余白は必要だ。

 同じ白でありながら、その二つは違う。白紙は、誰かが何かを書き込もうと狙う場所である。余白は、まだ書かずに待つための場所である。待つことができるかどうかで、人は白紙に呑まれるか、余白を保てるかが決まるのかもしれなかった。

 囲炉裏の前で、伊織は戻り帳を見つめていた。

 牧野清之進。
 秋庭。
 そして、その下に残された広い余白。

 お澪が横に座り、筆を整えている。

「気になりますか」

「ああ」

「何か書きたいのですか」

「書きたいというより……」

 伊織は言葉を探した。

「書かぬことが、難しい」

 お澪は静かに頷いた。

「分かります」

「分かるのか」

「はい。紙を前にすると、人は何かを残したくなります。でも、書いてしまうと、書いたものに引っ張られます」

 その言葉に、伊織は小さく息を吐いた。
 まさにそうだった。
 点帳も戻り帳も、道具である。
 だが、道具はいつの間にか人の目そのものになる。
 点帳を持てば点ばかり見え、戻り帳を持てば戻った証ばかり欲しくなる。
 どちらも危うい。

 老僧が茶をすすりながら言った。

「余白は、待つためにある」

「待つため」

「そうだ。人はすぐに裁きたがる。悪と書き、善と書き、戻ったと書き、戻らぬと書く。だが人の心は、そんなに早く字にならぬ」

 伊織は黙って頷いた。
 杉戸も、真壁も、采女も、清之進も、秋庭も。
 皆、すぐに一つの字では書けない。
 だから余白が要る。
 それを忘れれば、戻り帳すら人を縛る縄になる。

 その時、門の方で声がした。

 今度は慌ただしい声ではない。
 遠慮がちな、それでいて迷いを抱えた声だった。

「ご免ください」

 志乃が門へ走った。
 しばらくして戻ってきた彼女の後ろに、一人の男が立っていた。

 牧野清之進だった。

 昨日より質素な着物を着ている。供は一人もいない。顔色はまだ悪いが、目はまっすぐだった。

「榊原殿」

 清之進は深く頭を下げた。

「お願いがあって参りました」

「若様が一人で来られるのは危うい」

 伊織が言うと、清之進は苦笑した。

「そう言われると思いました。ですが、供を連れてくれば、また誰かに整えられます」

 その言葉に、伊織は少しだけ驚いた。
 昨日の清之進とは違う。
 まだ弱さはある。
 だが、自分の弱さがどこで利用されるかを、少し見始めている。

「願いとは」

 清之進は、懐から一通の書付を出した。

「これを読んでいただきたい」

「私が?」

「はい」

 伊織は受け取り、開いた。

 文は荒かった。
 昨日の下書きよりもさらに荒い。
 言葉はつまずき、同じことを繰り返し、時には余計な怒りも混じっている。
 だが、そこには清之進の顔があった。
 整ってはいない。
 しかし、他人の手ではない。

 読み終えるまで、伊織は何も言わなかった。

「どうですか」

 清之進が問う。

 その声は震えていた。
 笑われるかもしれない。
 幼いと言われるかもしれない。
 それでも持ってきたのだ。

「荒い」

 伊織は正直に言った。

「はい」

「余計な言葉もある」

「はい」

「だが、若様の文です」

 清之進は、深く息を吐いた。

「それが聞きたかった」

 母が、奥から湯を持ってきた。

「まず座りなさい。文は立ったまま読むものじゃないよ」

 清之進は戸惑った。

「私は……」

「ここでは客だよ」

 母はきっぱり言った。

 清之進はしばらく迷い、それから素直に座った。
 湯呑を受け取る手が、少しだけ震えている。
 それを見て、伊織は思った。
 この若い名は、まだ戻りの途中にある。
 ならば戻り帳にすぐ書くべきではない。
 まだ余白に立っているのだ。

 清之進は湯を一口飲み、ぽつりと言った。

「私は、楽をしたかったのです」

 誰も口を挟まなかった。

「采女が整えてくれれば、家中で笑われずに済む。父にも、叔父にも、少しは見込みがあると思ってもらえる。……そう思いました」

 その顔は痛々しかった。
 だが、それを口にしたことが大事だった。

「けれど、整えられた文を見るたびに、少しずつ胸が重くなりました。自分が褒められるたび、別の者が褒められているようで」

 伊織は静かに聞いた。

「それでも、やめられなかった」

 清之進は言った。

「やめれば、元の自分に戻るのが怖かった」

 それは、人の中の点だった。
 楽をしたい。
 笑われたくない。
 見込みがあると思われたい。
 誰にでもある小さな窪み。
 采女はそこへ水路をつけた。
 だが窪みそのものは、清之進の中にあった。

「若様」

 伊織は言った。

「それを知ったなら、もう前と同じではありません」

「そうでしょうか」

「同じではない。だが、戻りきったわけでもない」

 清之進は頷いた。

「分かっています」

「なら、その文は自分で直してください」

「榊原殿は、直してくださらぬのですか」

「直せば、また人の手になります」

 伊織がそう言うと、清之進は一瞬だけ困った顔をした。
 だが、すぐに笑った。
 弱いが、素直な笑いだった。

「では、私はまた笑われますな」

「笑われても、自分の文です」

「はい」

 清之進はその書付を大事に畳んだ。


 清之進が帰ったあと、お澪が戻り帳を開いた。

「書きますか」

 伊織は首を振った。

「まだだ」

「余白ですか」

「ああ。若様はいま、余白に立っている」

 お澪は頷き、何も書かなかった。
 ただ、その頁の端に小さく日付だけを記した。
 出来事の名も、人の名も書かない。
 余白に日付だけ。
 それが、いまはふさわしいと思えた。

 老僧が言った。

「よい」

「よいのですか」

「戻り帳は、戻った者だけを書く帳ではない。戻るかもしれぬ者を、急いで書かぬための帳でもある」

 伊織は、その言葉を胸に受けた。


 その夜、主水から文が届いた。

 ――采女、口を開く。
 ――若名は牧野家のみならず。
 ――三家に及ぶ疑いあり。
 ――急ぐな。余白を持て。

 伊織は文を読み終え、しばらく火を見つめた。

 三家。
 若名を整える筋は、牧野家一つでは終わらなかった。
 当然だろう。
 若い名はどこにでもある。
 焦り、見栄、期待、恐れ。
 采女のような手は、その窪みを見つけて入り込む。

 新兵衛が文を覗き込み、低く言った。

「また広がったな」

「ああ」

「どうする」

「急がぬ」

 伊織は言った。

「主水殿もそう書いている」

「余白を持て、か」

 新兵衛は頭を掻いた。

「戦で余白ってのも変な話だな」

「だが必要だ」

 伊織は戻り帳を見た。

「急いで名を汚す者がいるなら、こちらは急いで名を裁かぬことだ」

 新兵衛は、少しだけ感心したように伊織を見た。

「お前、ほんと坊主みてぇになってきたな」

「そうかもしれぬ」

 伊織は少し笑った。

 しかし胸の奥では、次の嵐の気配がしていた。
 三家に及ぶ若名の筋。
 采女の口が開けば、また新しい名が出る。
 だが、名は紙のようには扱えない。
 切ればよいのではない。
 洗い、戻し、時には余白に立たせねばならない。

 囲炉裏の火が小さく揺れた。

 波瀾万丈の物語は、再び広がろうとしている。
 だが伊織は、以前のようにすぐ剣を握りはしなかった。
 まず見る。
 そして待つ。
 名が自分の顔を取り戻す余白を残す。

 それが、新しい戦い方なのだと、今は分かり始めていた。

(第76章につづく)

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