――第七十六章 三家の若名――
三家、という言葉は軽くない。
一家の若名なら、まだ家の内の傷で済む。恥をかき、文を洗い、己の手で書き直せば、戻る道はある。だが三家となれば、話は変わる。家と家の面子が絡み、役目が絡み、婚姻や養子や出世の筋まで絡む。名は一人のものではなくなり、家の旗のように風を受ける。
伊織は、主水から届いた文を何度も読み返した。
――若名は牧野家のみならず。
――三家に及ぶ疑いあり。
――急ぐな。余白を持て。
急ぐな。
だが、遅れればまた誰かの名が使われる。
その狭間に立つことが、いまの役目なのだろう。
朝、寺の庭に出ると、清之進が残していった荒い書付の写しが、まだ小机の上に置かれていた。整っていない。けれど、息がある。伊織はそれを見て、ふと思った。
名を戻すには、整えるより先に、乱れを許す場所が要る。
その場所を奪われた若者は、采女のような手に頼る。笑われるのを恐れ、荒さを恥じ、やがて自分の名を他人へ渡す。
「兄さま」
志乃が庭先から声をかけた。
「今日は、また難しい顔です」
「ああ」
「三家、というのが気になるんですね」
「聞こえていたか」
「聞こえました」
志乃は少しだけ考え、それから言った。
「若い人の名前を勝手に使うなんて、ひどいです」
単純な言葉だった。
だが、その単純さが芯を突いていた。
「ああ。ひどい」
伊織は頷いた。
「だが、使われる方にも、使わせてしまう弱さがある」
「弱いからって、使っていいことにはなりません」
「その通りだ」
伊織は静かに言った。
そこを忘れてはいけない。
点があるからといって、点を突いた者の罪が軽くなるわけではない。
流れやすいからといって、流した者が許されるわけではない。
その境を誤れば、戻り帳もただの言い訳になる。
城へ入ると、主水の部屋にはすでに清之進がいた。
昨日より顔は固い。だが逃げてはいない。机の上には、三家の名が書かれた小紙が置かれている。
牧野家。
久我家。
遠山家。
いずれも大身ではないが、役目の筋に顔を出し始めた若い家だ。若名を“整える”には、たしかに都合がよい。
「采女は何と言いました」
伊織が問うと、主水は短く答えた。
「三家とも、若い名を借りた。だが借り方は違う」
「違う?」
「牧野は、若本人の未熟さを整える形だった」
主水は一枚目を指す。
「久我は、病弱な若を表へ出すための名代」
二枚目。
「遠山は、まだ若が幼い。だから先に“将来こういう声を持つ者”として名を育てている」
伊織は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「まだ幼い者まで」
「そうだ」
主水の声は低い。
「采女一人の考えではない。若い名を早く形にしたがる家中の癖がある。采女はそこへ入り込んだ」
清之進が、苦しげに口を開いた。
「私も、その癖に乗りました」
誰も責めなかった。
清之進は自分でそれを言うために来ているのだ。
「では、まずどこを見る」
主水が伊織に問う。
伊織は三つの名を見た。
牧野はもう顔を見た。
久我は病弱。
遠山は幼い。
名を戻すなら、まず最も声を持たぬところから見るべきだと思った。
「遠山家です」
主水の目が動く。
「理由は」
「幼い名は、自分でまだ違うと言えません。戻す余白すら、人に作られてしまう」
清之進が小さく息を呑んだ。
主水は頷いた。
「よい。遠山から見る」
遠山家は、城下の北寄りにあった。
屋敷は古く、手入れは行き届いているが、どこか静かすぎる。子どものいる家の気配が薄い。伊織はそこに、まず違和を覚えた。
案内に出てきた用人は、丁寧すぎるほど丁寧だった。名を名乗ると、奥へ通された。
若――遠山伊之助は、まだ十二だった。
小柄で、顔色が白い。だが病弱というより、外へ出る機会が少ない子の白さである。机の前に座り、手習いの紙を前にしていた。字は素直だが、まだ幼い。
「この方が、榊原様です」
用人が言うと、伊之助はぎこちなく頭を下げた。
「遠山伊之助にございます」
その声はまだ子どもだった。
伊織は、胸が痛んだ。
この名を、采女たちは“将来こういう声を持つ者”として育てようとしていた。まだ自分の言葉も定まらぬ子に、先に外向きの名を着せようとしていたのだ。
「伊之助殿」
伊織は柔らかく言った。
「ご自分の文を、誰かに直してもらっていますか」
伊之助は用人を見た。
用人の顔がわずかに硬くなる。
「……先生が、直してくださいます」
「先生?」
「立花先生です」
新兵衛が横で、低く息を吐いた。
采女は、ここでは“先生”になっていたのだ。
「どのように」
伊織が問うと、伊之助は机の引き出しから紙を出した。
一枚目は子どもの文だった。
父に褒められたい、弓がうまくなりたい、書が苦手だ、といった素直な書付。
二枚目は、それを整えたものだった。
――幼少ながら武家の道を思い、文武両道に励む所存。
伊織は、その一文を見て目を閉じた。
子どもの息が消えている。
代わりに、家中が好む“立派な若”が置かれている。
「これは、伊之助殿の文ではない」
伊織が言うと、用人がすぐに口を挟んだ。
「しかし、若君のお心を整えたものでございます」
「違う」
伊織は静かに言った。
「これは、若君がまだ言わなくてよい言葉だ」
伊之助が驚いたように伊織を見た。
「言わなくて……よい?」
「ああ」
「でも、父上は立派な文を喜びます」
「父上に喜ばれるために、今の言葉を捨てなくてもよい」
伊之助の目が揺れた。
まだ幼い。
だからこそ、その言葉は真っ直ぐ届いたようだった。
「弓がうまくなりたい、と書いてよいのですか」
「よい」
「書が苦手だ、と書いても?」
「よい」
「武家なのに?」
「武家だからこそ、自分の弱いところを知らねばならぬ」
伊之助は、黙って自分の幼い文を見つめた。
その時、奥の襖が開いた。
年配の男が入ってきた。遠山家の当主だろう。顔には厳しさがあるが、目には疲れもある。
「榊原殿」
低い声。
「我が子を弱くなさるおつもりか」
伊織は立ち上がり、一礼した。
「弱くするのではありません。弱さを隠すために、他人の強い言葉を着せるのを止めたいのです」
当主の目が細くなる。
「幼い名は、早く形を作らねば家中に侮られる」
「早く作った形は、すぐ割れます」
伊織は答えた。
「割れた時、名を背負うのは伊之助殿です。整えた者ではありません」
部屋が静まった。
伊之助は、父と伊織を交互に見ている。
その目に恐れがある。
だが、恐れの中に小さな願いもあった。
自分の幼い文を、捨てなくてよいと言ってほしい。
そういう願いだ。
当主は長く黙った。
やがて、机の上の二枚を見た。
子の文。
整えられた文。
そして、子の文の方を手に取った。
「……弓がうまくなりたい、か」
伊之助が小さく肩をすくめた。
「はい」
「書が苦手」
「はい」
当主は、ふっと息を吐いた。
笑ったのか、嘆いたのか分からぬ息だった。
「父も、書は苦手だった」
伊之助が顔を上げた。
「父上も?」
「ああ。今も苦手だ」
その一言で、部屋の空気が変わった。
堰が一つできた。
父が自分の弱さを見せたことで、子の名が他人の強さを借りずに済む場所が生まれたのだ。
用人は青ざめている。
采女の筋は、ここで一つ途切れた。
「立花采女の手の文は、すべて集めてください」
伊織が言うと、当主は頷いた。
「そうしよう」
「若君の名は、若君自身の速さで育てるべきです」
当主は伊之助を見た。
「……遅くてもよいか」
伊之助は、しばらく考え、それから小さく頷いた。
「はい」
その声は幼い。
だが、その幼さこそが今の名だった。
屋敷を出ると、新兵衛が大きく息を吐いた。
「子どもの文まで整えるたぁな」
「一番狙いやすいのだろう」
伊織は言った。
「まだ自分で違うと言えぬから」
「嫌な話だ」
「ああ」
だが、遠山家では一つ戻った。
当主が自分の苦手を口にした。
それだけで、伊之助の名は少し守られた。
名を守る堰は、大きな理ではなく、時に父の一言でできる。
寺へ戻ると、お澪が戻り帳を開いて待っていた。
「書きますか」
伊織は少し迷った。
戻ったと言えるか。
まだ早いか。
だが、今日の一瞬は残す価値があると思った。
「余白に、少しだけ」
お澪は頷いた。
――遠山伊之助。
――幼き名、他人の強き言葉を着せられんとす。
――父、己の弱きを口にし、子の幼き文を許す。
――戻りはじめ。
戻りはじめ。
その言葉が、伊織にはちょうどよく思えた。
囲炉裏の火が小さく揺れる。
波瀾万丈の物語は、若い名をめぐってさらに広がっている。
だが今は、一つの幼い名が、自分の幼さを許された。
それだけで、闇の中にまた小さな灯が増えたのだった。
(第77章につづく)

コメント