山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第六十九章

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――第六十九章 戻る水のかたち――

 杉戸文左衛門を縄で取っても、水神下新田の朝は何事もなかったように続いていた。

 簀桁を揺らす音。
 水を切る音。
 干し棚の紙が風に鳴る音。
 そのどれもが静かで、正しく、暮らしのための音に聞こえる。ついさっきまでその中に“点”が生まれていたというのが、かえって信じがたかった。だが信じがたいからこそ、見逃されてきたのだろう。

 杉戸は、拘えられたまま一度も大きく抗わなかった。

 逃げられぬと知ったからではない。
 おそらく、逃げることそのものに意味がないと思っているのだ。
 点を置く者は、自分一人が止まっても流れは残ると知っている。
 そういう静けさが、この男にはあった。
 それが伊織にはまだ不気味だった。

「主水殿へ戻す」

 伊織が言うと、杉戸は川を見たまま、小さく言った。

「戻す、か」

「そうだ」

「私は戻されるのではなく、切られると思っていた」

「切る時もある」

 伊織は答えた。

「だが今は、お前の口と、お前が見ていた水の筋が要る」

 杉戸は、それ以上何も言わなかった。
 その横顔には失望も安堵もない。
 ただ、自分が“点”として見られていることを受け入れた顔だけがあった。

 秋庭が、少し後ろで息を整えている。
 新兵衛は杉戸の縄を確かめながら、周囲の職人たちへ目を配っていた。
 紙漉き場の者たちは、何が起きたのか半分も分かっていない顔をしている。
 それでいい、と伊織は思った。
 ここは“紙の生まれる場所”であって、悪の本丸ではない。
 ここにいる者の多くは、ただ紙を作っていただけだ。
 点の意味など、知らぬまま手を動かしていたのだろう。

 若い紙漉き職人だけが、青ざめた顔でその場に立ち尽くしていた。

「お前」

 伊織が声をかけると、男はびくりとした。

「は、はい」

「名は」

「弥吉と申します」

「弥吉」

 伊織は、点の入った紙を一枚見せた。

「お前はこれを、誰に教わった」

 弥吉は唇を震わせた。
 答えにくいのではない。
 答えた途端、自分の中で何かが崩れるのが怖いのだ。
 その顔を見て、伊織は少しだけ声を和らげた。

「怒鳴りはせぬ。見たままを言え」

 弥吉は何度か唾を飲み込み、それからようやく言った。

「杉戸様に……」

 やはり、と思う。

「何と教わった」

「これは内庫へ回る紙だから、少しだけ繊維を寄せろと……。そうすると束が乱れぬと」

「乱れぬ、か」

 伊織は杉戸を見た。
 杉戸は目を伏せている。
 否定もしない。

「その意味は聞いたか」

「いえ……。ただ、城へ入る紙は皆そうするものだと」

 弥吉は言った。

「逆らえば、仕事が減ると」

 新兵衛が低く吐き捨てる。

「結局そこか」

 銭。
 仕事。
 明日の飯。
 どれほど理を重ねても、最後はそこへ降りてくる。
 だからこの流れは強い。
 紙の上の理だけではなく、現に口を動かすものがそこにあるからだ。

「お前は、もうその点を打つな」

 伊織が言うと、弥吉は強く頷いた。

「はい……!」

「だが、それだけでは終わらぬ。お前が打たぬなら、別の手が来るかもしれぬ」

 弥吉の顔が強ばる。

「では……どうすれば」

 その問いは、伊織にとっても重かった。
 点を打つな、と命じるのは簡単だ。
 だが点を打たずに済むように、仕事と水と紙の流れを整えねば、また別の杉戸が現れる。
 主水が言う“戻す場所”は、こういうところにも要るのだろう。

「主水殿が手を打つ」

 伊織は言った。

「だがその前に、お前自身で見ろ。紙はどこへ行くのか。誰の手を通るのか。分からぬまま打つな」

 弥吉は、驚いたように伊織を見た。
 おそらく叱られると思っていたのだろう。
 だが、ここで必要なのは叱責ではない。
 “見ぬまま手を動かすな”ということを覚えさせることだ。
 見れば、少なくとも同じ“うっかり”は減る。

 秋庭が、そのやりとりを黙って聞いていた。
 そして、小さく言った。

「……それが、戻すということかもしれません」

 伊織は振り返った。

「何だ」

「いままで私は、戻すというのは、表に出すことか、元に戻すことだと思っていました」

 秋庭は、まだ少し青い顔で言った。

「でも違う。……見ぬまま動いていた手を、一度立ち止まらせて、どこへ行くかを見せることも、戻すことなのかもしれません」

 杉戸が、それを聞いて初めて秋庭を見た。
 そして、ほんの僅かに笑った。

「若いな」

 その声に、嫌味は薄かった。
 むしろ、どこか遠いものを見るような響きがあった。

「若いから言えるのかもしれん」

 杉戸は続けた。

「だが、見せれば皆止まると思うな。見てもなお、流れる者もいる」

「知っています」

 秋庭は答えた。

「私も一度、見てなお白紙へ寄りましたから」

 杉戸の目が、そこで一瞬だけ細くなった。
 その言葉を真正面から返されるとは思わなかったのだろう。
 伊織は、そのやりとりに小さく息をついた。
 秋庭は本当に、少しずつ戻っている。
 ただ白紙を恐れるだけではなく、自分がそこへ寄ったことを言葉にできるようになってきた。
 主水が彼を使ったのは冷たいが、無意味ではなかったのだろう。


 城へ戻る途中、杉戸はほとんど黙っていた。

 だが川の橋を渡る時、ぽつりと言った。

「榊原」

「何だ」

「お前は、なぜそんなに“戻る”に拘る」

 唐突な問いだった。
 だが伊織は、少しも不意を突かれた気がしなかった。
 いずれ誰かに問われると思っていたからだ。
 いや、自分自身に何度も問うていたからかもしれぬ。

「戻る場所があるからだ」

 伊織は答えた。

「寺か」

「ああ」

「それだけか」

「それだけではない」

 伊織は少し考えて言葉を継いだ。

「母がいて、志乃がいて、お澪がいて、新兵衛がいて、老僧がいる。師範も、主水殿も、主馬殿も、それぞれ違うが“戻る”を知っている。……そういう顔を知ってしまった」

 杉戸は小さく鼻を鳴らした。

「情だな」

「そうだ」

 伊織はためらわなかった。

「情がなければ、人は水と同じになる」

 杉戸はそれ以上何も返さなかった。
 だがその沈黙は、少し前までの“答える価値もない”沈黙とは違っていた。
 反論しないのではない。
 どこかで、それを考えたことがある顔だった。

 十年前、紙庫番を外された杉戸文左衛門。
 その時、もし戻る場所が別にあったなら、点を打つ男にはならなかったのだろうか。
 伊織には分からない。
 だが分からぬからといって、その問いを捨ててよいわけでもないと思った。


 主水は、杉戸を見ても驚かなかった。

 戻し帳と兵部の紙片、そして伊織たちの言葉だけで、もう半ばは見えていたのだろう。
 だが杉戸の顔を見た時、ほんの一瞬だけ、その目の奥に古い疲れのようなものが走った。
 主水も、この男のことを昔から知っていたのかもしれぬ。

「杉戸文左衛門」

 主水が言う。

「久しいな」

 杉戸は頭を下げなかった。
 ただ、主水をまっすぐ見た。

「主水殿は、まだそこにおられたか」

「お前こそ、まだそこにいたか」

 短い応酬。
 だがそれだけで、二人の間に古い因縁のようなものがあると分かる。

「点を打っていた」

 主水が言う。

「ああ」

「なぜだ」

 杉戸は少し考えるように天井を見、それから答えた。

「文が生まれる前が、一番無防備だからだ」

「無防備なものに先回りして、道をつけるか」

「道ではない」

 杉戸は言った。

「窪みです。人は大きな道より、小さな窪みに先に足を取られる」

 主水の目が冷える。

「お前は昔から、人を水としか見なかったな」

 伊織は、その言葉に少し驚いた。
 昔から。
 つまり杉戸の“点”は、この十年で急に生まれたものではない。
 もっと前から、その目はそうだったのだ。

「水は嘘をつかぬ」

 杉戸は静かに答えた。

「高きから低きへ流れる。置けば溜まり、隙があれば漏れる。……人も同じです」

「違う」

 伊織が口を開こうとした瞬間、主水が先に言った。

「人は、自分で堰を作る」

 部屋が静まる。

 杉戸の目が、わずかに動いた。

「堰、ですか」

「そうだ」

 主水は続ける。

「情、義理、恥、約束、恩、怖れ――名は何でもよい。人は自分の中にいくつも堰を持つ。だからお前の点だけでは、皆が同じ方へは流れぬ」

 伊織は、その言葉を胸の奥で強く受けた。
 母の言葉。
 老僧の言葉。
 戻る場所。
 それらがいま、主水の口で“堰”という形になって出た。
 たしかにそうだ。
 人は水ではない。
 流れやすさは持っている。
 だが同時に、自分で流れを止めるものも持っている。
 だから戻れる。
 だから継ぎ目だけで決まらぬ。

 杉戸は、そこで初めて目を伏せた。

「……ならば、主水殿は勝てるでしょう」

「勝つつもりはない」

 主水は言う。

「止めるだけだ。お前の点をな」

 その一言には、奇妙な静けさがあった。
 善が悪に勝つ、というような言葉ではない。
 ただ、一つの流れをここで止める。
 主水は本当に、それだけを見ているのだろう。
 その冷たさと節度の両方に、伊織はあらためてこの男の輪郭を見た気がした。


 その日、主水はすぐに大きな処分を下さなかった。

 杉戸を別に置き、水神下新田の紙漉き場には別の筋から手を入れる。
 若い職人たちは一度散らし、点のついた束はすべて押さえる。
 だが公にはしない。
 真壁も、兵部も、杉浦も、宗次も、いまはまだ“切れた継ぎ目”として伏せたままにする。

 それを聞いて、新兵衛は不満そうに言った。

「また伏せるのか」

「伏せる」

 主水はきっぱり答えた。

「いまは堰を作る時だ。騒げば、川筋ごと荒れる」

 その理も、伊織には分かった。
 だが同時に、分かることの怖さもある。
 必要だから伏せる。
 必要だから止める。
 その必要の積み重ねの先に、真壁や沼田がいた。
 だからこそ主水は、“戻す場所”を何度も強調するのだろう。

「榊原」

 主水が伊織を呼んだ。

「はい」

「おぬしは今日、点を見た」

「はい」

「では次に、おぬし自身の中の点も見よ」

 伊織は一瞬、言葉の意味が分からなかった。

「私の中の……」

「そうだ」

 主水は静かに言った。

「人が流れやすい窪みを持つように、おぬしの中にも、文を止めたくなる点、誰かを切ってしまいたくなる点、正しさへ寄りすぎる点があるはずだ。それを知らぬまま継ぎ目を追えば、いずれお前自身が継ぎ目になる」

 部屋がしんとする。

 その言葉は、痛かった。
 だが痛いだけに、真実でもあった。
 伊織は今、自分が“紙の理”で喋ることに慣れ始めている。
 戻る場所を知っているつもりでも、つもりのままでは危うい。
 自分の中の点。
 どこで楽な方へ流れやすいのか。
 どこで“必要だから”を言い訳にしやすいのか。
 それを見ておかねばならぬ。

「……はい」

 伊織は、深く頭を下げた。

 それ以上の返事はできなかった。
 だがその一言で、いまは十分だとも思った。


 寺へ戻ると、すでに日が傾いていた。

 門をくぐると、志乃がすぐにこちらへ走ってくる。

「兄さま」

 顔を見るなり、ほっとしたように笑う。
 その笑いが、今日はやけに胸に沁みた。
 戻る場所。
 堰。
 人が水と違うのは、こういう顔があるからだ。
 そのことが、主水の言葉のあとではいっそうはっきり分かった。

「どうでしたか」

 お澪が小机から顔を上げて訊く。

 伊織は、しばらく言葉を探した。
 点を見つけたこと。
 杉戸を押さえたこと。
 流れの源に触れたこと。
 どれも事実だ。
 だが今日いちばん強く胸に残っているのは、別のことだった。

「……人は水ではない、ということが、少しだけ分かった」

 そう言うと、お澪は驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頷いた。

「少しだけ、ですか」

「ああ」

「それで十分だと思います」

 母が囲炉裏の前から言った。

「何でも、分かったつもりになるのが一番危ないからね」

 伊織は、その言葉に思わず笑った。
 主水も、老僧も、母も、結局は同じところへ戻ってくる。
 分かったつもりになるな。
 戻る場所を忘れるな。
 見ぬまま手を動かすな。
 そういうことなのだろう。

 囲炉裏の火が、静かに燃えていた。

 波瀾万丈の物語は、まだ終わらない。
 点を打つ手は止めた。
 だが人の中の点までは、まだ消えぬ。
 これから伊織が向き合うのは、流れだけでなく、その流れやすさそのものなのだろう。
 剣より長く、紙より深い道。
 だが少なくとも、戻る場所の灯はまだここにある。
 それだけで、今は十分だった。

(第70章につづく)

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