――第六十二章 文庫の薄闇――
夜明け前の寺は、音が少ない。
少ないが、何もないわけではない。井戸の底で水がわずかに鳴り、囲炉裏の熾きが時折ちいさくはぜ、庭木の葉先にたまった露がひとつ落ちる。そういう音だけが、静かな闇の中にぽつりぽつりと残っている。伊織は本堂の縁に腰を下ろし、その音を聞いていた。
戻る場所へ戻れと言われれば、戻る。
だが戻ったからといって、胸の内まですぐ静まるわけではない。
主水の顔。
秋庭の震える返事。
戻し帳の重さ。
そして――真壁蔵人。
止まる前の手。
文がまだ文庫に息を置いている、そのわずかな間に横へ抜く手。
そこまで来ると、もはや火も紙も箱も、ただの形に過ぎない。
いちばん恐ろしいのは、誰にも見えぬところで、まだ罪とも決まっていないものの向きを変えてしまうことだ。
「寝てねぇな」
後ろから声がした。振り向くまでもない。新兵衛だった。
肩に古い羽織を引っかけ、眠そうな顔をしているが、目は起きている。こいつも結局、こういう夜は眠れぬのだろう。
「お前もだ」
伊織が言うと、新兵衛は鼻を鳴らした。
「お前ほど難しい顔はしてねぇ」
縁にどかりと腰を下ろし、庭を眺める。
「秋庭のこと、気になるんだろ」
伊織は少し黙った。
気になる。
それは否定できなかった。
秋庭は一度、白紙に魅せられた。
その秋庭を、主水はもう一度白紙のそばへ戻す。
戻すために、戻らせる。
理は分かる。
分かるが、それで本当に戻れるのか。
あるいは、そのまま二度と戻らぬのか。
そこに主水の冷たさと厳しさがある。
「気になる」
伊織は正直に言った。
「だが主水殿のやり方も分かる」
「分かるから余計だな」
新兵衛が言う。
「俺ぁ、そういうのは嫌いだ。危ねぇ橋渡らせて、落ちなきゃ戻れるって理屈だろ」
「そうだ」
「けど」
新兵衛は少しだけ声を落とした。
「落ちねぇと、自分がどこまで滑るか分かんねぇ奴もいる」
伊織は、その横顔を見た。
珍しく、からかいのない声だった。
新兵衛もまた、どこかでそういう橋を渡ったことがあるのかもしれぬ。
人は皆、程度の差こそあれ“少しだけ楽な方”へ滑る。
その滑りを知るには、一度は縁まで行かねばならぬこともある。
だが行って戻れぬ者もいる。
そこが苦しい。
「秋庭は戻る」
伊織は、半ば自分に言い聞かせるように言った。
「戻らねぇと困る」
新兵衛は苦く笑った。
「お前はそういう時、祈ってるみてぇな顔するな」
「祈っているのかもしれぬ」
「坊主か」
「寺にいるからな」
そう返すと、新兵衛がようやく声を出して笑った。
その笑いにつられ、伊織も少しだけ口元が緩む。
こうして余計な言葉を挟めるのが、戻る場所の効き目なのだろう。
朝餉の席で、母はいつも通りに振る舞った。
味噌汁。
少し固めの飯。
昨夜の煮物の残り。
変わらぬ支度。
だが伊織には、母が少しだけこちらを見ていることが分かった。心配しているのではない。ただ、どこまで“人の顔”が残っているかを量っている目だ。
「今日は早いんだろ」
母が言う。
「ああ」
「なら、早く食べな」
「母上」
伊織が珍しく自分から口を開くと、母が顔を上げた。
「何だい」
「人は、どこで戻れなくなると思う」
箸を持つ母の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
志乃もお澪も、言葉を飲み込む。
新兵衛だけが、飯をかき込みながらこちらを見た。
母は少し考えてから答えた。
「戻れなくなる時なんて、そんなにはっきり分かるもんじゃないよ」
「では」
「気づいた時には、だいぶ遠くまで行ってる」
静かな声だった。
「だけどね、遠くまで行っても、腹が減ったり、寒かったり、誰かの顔を見たくなったりするうちは、まだ完全には戻れなくなってない」
伊織は黙って聞いていた。
「逆に、一番怖いのは」
母は味噌汁を置いた。
「腹も減らず、寒さも忘れて、誰の顔も見たくなくなった時だよ。そうなったら、人は役だけになっちまう」
老僧が、そこで小さく頷いた。
「よいことを言う」
「当たり前だよ」
母はこともなげに言い、また飯をよそい始めた。
それで話は終わったように見えたが、伊織の胸には深く残った。
腹が減る。寒い。誰かの顔を見たい。
そういうものが残っている限り、人はまだ役だけにはならない。
秋庭にも、それが残っているか。
真壁にはどうか。
沼田は。
杉浦は。
宗次は。
考えればきりがない。
だが考える価値はあると思った。
城へ入ると、まだ人の動きは少なかった。
文庫の周りは特に静かだ。大役人の出入りする派手な廊下でもなければ、町方のように声が飛び交う場所でもない。ただ、紙を抱えた下役や使番が、決まった足取りで行き来するだけ。だからこそ、文がどこで一息つき、どこで止まり、どこで抜かれるのかが見えにくい。
主水はすでに準備を整えていた。
机の上には、一通の文。
本所水路改めの文。
昨夜聞かされた、あの“餌”だ。
封も糊も済んでいる。
あとは文庫へ回るだけ。
秋庭は、主水の控えの隅に座っていた。顔色は冴えぬが、逃げる目ではない。
「秋庭」
主水が呼ぶ。
「は」
「おぬしがこれを文庫へ持つ。いつも通りの顔で、いつも通りの足で、何も思うな」
秋庭の喉が上下する。
「何も……」
「そうだ」
主水は淡々と言う。
「考えれば顔に出る。顔に出れば真壁は触れぬ。おぬしはただ、主水の控えから差し出された一通を置き、半日後に戻る。それだけだ」
秋庭は目を伏せ、それから静かに答えた。
「承知しました」
伊織は、その横顔を見た。
強いとは言えぬ。
だが弱いとも言い切れぬ。
震えながら立つしかない時、人はそこで初めて自分の足の細さを知るのかもしれない。
「榊原」
主水が次に伊織を呼んだ。
「おぬしは文庫の正面には出るな。真壁に顔を知られているかもしれぬ」
「では、どこを」
「裏の廊下だ。文庫へ差し戻された文が、一度だけ置かれる小棚がある。そこへ抜くなら、真壁は必ずその小棚に触れる」
「岡野は」
「別口で見ている」
主水は短く答えた。
「だが今朝は、なるべく手を少なくしたい」
伊織は頷いた。
手が多ければ多いほど、息が乱れる。
止まる前の手を捕まえるには、こちらも息を殺さねばならぬ。
秋庭が文を受け取る。
その時、伊織は小さな声で言った。
「戻れ」
秋庭は一瞬だけこちらを見た。
何も言わぬ。
だが小さく頷いた。
文庫の裏廊下は、朝でも薄暗かった。
窓はあるが高く、小さく、光がまっすぐには入らぬ。紙を守るにはそれでよいのだろうが、人の顔を見るには都合が悪い。しかも音が吸われる。足音も、衣擦れも、遠くの咳払いさえ柔らかくなって届く。こういう場所では、人はかえって大胆になる。見られていないと思うからだ。
伊織は小棚の陰に身を寄せた。
ほどなくして、秋庭の足音がした。
軽い。
だが無理に軽くしているのではない。
意識して“いつも通り”を作っている足音だった。
それでよい、と伊織は思った。
怖れていることを隠すのではない。
怖れを抱えたまま、いつもの動きをなぞる。
それがいま必要な強さだ。
秋庭は文庫の前で立ち止まり、形式通りに声をかけ、中へ文を置いた。
中から返事をする声。
低い。
乾いている。
伊織は、真壁蔵人をまだ見てはいなかったが、その声だけで“紙を長く見てきた男”だと分かった。人の声というより、紙をめくる音に近い声だった。
秋庭はそのまま去っていく。
廊下に再び静けさが戻る。
しばらく何も起きない。
伊織は呼吸を浅く保ったまま、小棚を見ていた。
時間が長い。
だがこういう時、焦りが一番いけない。
焦れば早く動きたくなる。
だが真壁のような男は、その“早く動きたくなる気”そのものに気づく。
やがて、文庫の障子が少しだけ開いた。
男が出てきた。
四十代の半ばほど。
背は高くなく、顔も地味だ。
まさに“どこにでもいそうな役人”の顔。
だが目が、伊織の想像以上に澄んでいた。
濁っていない。
そこがかえって怖かった。
沼田のような疲れた濁りも、秋庭のような揺れもない。
ただ静かに、文を文として見ている目。
(真壁蔵人)
男は、差し戻し用の小棚の前に立ち、他の文と一緒に今朝の文を置いた。
いや――置いたように見えた。
だが伊織は見逃さなかった。
指先が、文の位置をほんの少しだけ変えた。
他の文より、一寸ほど手前に。
それだけ。
それだけだ。
だがその一寸が、“あとで横へ抜く印”なのだろう。
真壁は、そのまま障子を閉めて中へ戻った。
伊織の胸が静かに鳴る。
これだけか。
これだけで文は死なず、別の息を吹き込まれるのか。
恐ろしく小さい動きだった。
小さすぎて、見ようと決めていなければ絶対に見逃す。
(だが、まだだ)
印をつけただけなら、まだ“触った”とは言い切れぬ。
本当に抜く瞬間を見なければならない。
時間が過ぎる。
廊下の向こうを、下役が二人通った。
別の文が運ばれた。
茶が一度だけ運ばれた。
それでも真壁は出てこない。
やがて、日が少し傾き始めたころだった。
再び障子が開く。
真壁が出てくる。
手には何も持っていない。
だが足が迷わず、小棚へ向かう。
そして、先ほど一寸手前に置いた文を、ごく自然に袖の影へ滑らせた。
滑らせた。
まるで最初からそこに“なかった”かのように。
他の文は動かさず、一通だけを。
見事な手際だった。
火もない。
音もない。
ただ文が一通、息を変える。
その瞬間、伊織は物陰から出た。
「真壁蔵人」
低い声。
だが廊下には十分響いた。
真壁の手が、ぴたりと止まる。
顔を上げる。
驚きは一瞬。
すぐに目が静まった。
その静まり方が、ますます不気味だった。
「……榊原殿」
やはり名を知っている。
「文をどこへ戻すつもりだった」
伊織が言うと、真壁は袖の中の文を隠しもしなかった。
むしろ、そのまま見せるように静かに答えた。
「戻す?」
「違うのか」
「差し戻しの順を整えようとしただけです」
主水の部屋で、何度も聞いた理屈。
だが真壁の口から出ると、いよいよ紙そのものの声に聞こえた。
感情がない。
ただ役だけが喋っている。
「一寸手前に置いたのも、順のためか」
伊織が問う。
真壁の目が、ほんの少しだけ動いた。
見られていたことを悟ったのだ。
だが、それでも乱れない。
「よくご覧になっている」
「見る役になった」
「厄介ですな」
真壁はそう言って、袖から文を出した。
逃げぬ。
火もつけぬ。
言い逃れだけで済ませるつもりでもない。
そこが、これまでの相手と決定的に違った。
「どこへやる」
伊織が再び問う。
「文庫の裏棚です」
「そのあと」
「刻を見て、別の控えに混ぜます」
「なぜ」
真壁は、そこで初めて小さく息を吐いた。
「一通の文を、すぐに上へ出してよい時ばかりではない」
「またそれか」
「また、です」
真壁は言う。
「人は、都合よく同じことを繰り返す」
その言葉に、伊織は胸の奥がざらついた。
この男は、自分が今まで戦ってきた相手すべてを知っているかのようだ。
土井も、内膳も、沼田も、杉浦も、宗次も、榎本も。
皆が口にした“少しだけ”を、もっと薄く、もっと前の段階で使っている。
それが真壁蔵人なのだろう。
廊下の向こうから、足音がした。
主水だ。
主水は、静かな顔のまま二人の前へ来て止まった。
真壁は、そこで初めて深く頭を下げる。
「主水殿」
「見た」
主水が言った。
「お前の手も、文も」
真壁は顔を上げなかった。
「ならば申し開きはいたしませぬ」
その潔さに、伊織は逆に寒気を覚えた。
この男は、悪を隠そうとはしない。
ただ、それが必要だと思っていたのだ。
だから申し開きもいらぬ。
それが一番深い。
「なぜだ」
主水が問う。
真壁はしばらく黙っていたが、やがて答えた。
「文は、生まれた時が一番危ういからです」
伊織の胸に、その言葉が落ちる。
「生まれた時……」
「書かれたばかりの文は、まだ熱い」
真壁は言う。
「怒り、恐れ、見栄、保身――そういうものがそのまま乗っている。いきなり通せば、あちこちを裂く。だから少し寝かせ、横へ置き、別の息を入れてから流す」
「お前は、自分を何だと思っている」
主水の声が低くなる。
「産婆か。医師か。神か」
真壁はそこで初めて顔を上げた。
その目はやはり澄んでいた。
濁っていない。
だからこそ、伊織にはますます怖かった。
「……継ぎ目です」
真壁は静かに言った。
「それだけです」
その答えに、伊織は息を呑んだ。
帳合。
杉浦。
嘉兵衛。
徳兵衛。
皆、どこかで継ぎ目だった。
だが真壁は違う。
自分を継ぎ目だと、最初から自覚している。
しかもそれを悪とも思っていない。
ただ必要な場所だと思っている。
主水が、長い沈黙のあとで言った。
「お前は、止める前の手だ」
「はい」
「ならば、お前を止めれば、一つの流れは確かに切れる」
「そうでしょう」
真壁は少しも動じない。
「だが別のところでまた生まれます」
その言葉は脅しではなかった。
事実としての確信だった。
そこに伊織は、今までで一番大きな疲れを感じた。
ここまで追い、ようやく継ぎ目に手をかけても、なお“別のところでまた生まれる”と相手が平然と言う。
しかも、それがきっと嘘ではないのだ。
主水は、しかし顔を変えなかった。
「それでも切る」
それだけだった。
真壁は、そこでわずかに目を伏せた。
負けた顔ではない。
だが、これで一度は途切れると認めた顔だった。
岡野が入ってきて、真壁の腕へ縄をかける。
真壁は抵抗しない。
文は主水の手に戻り、餌であったはずの一通は、ようやく本来の流れへ戻される。
伊織は、その一連の動きを見ながら思った。
火は上がらなかった。
紙も燃えなかった。
だが今、この廊下で確かに一つの流れは切れたのだ。
それがどれほど長く保つかは分からぬ。
だが、切らぬよりはいい。
波瀾万丈の物語は、ついに“止まる前の手”へ触れた。
敵はまだ尽きない。
だが、ここから先はもう、ただ追われるだけの話ではなくなっていく。
どこで止め、どこで通し、どこへ戻すか。
その選びの物語へ、伊織は足を踏み入れていた。
(第六十三章につづく)

コメント