第4章 ホテル白蘭
カウントダウンは、止まらなかった。
モニターの右下。
黒い画面に白い数字だけが浮かんでいる。
六日、二十三時間、五十八分、十二秒。
十一秒。
十秒。
悠真は電源ボタンを長押しした。
画面が消える。
だが、暗くなったモニターの表面に、まだ数字が映っていた。
九秒。
八秒。
七秒。
「くそ……」
コンセントを抜いた。
外付けハードディスクも抜いた。
ルーターも抜いた。
部屋中の電源を切った。
それでも、モニターの黒い画面に白い数字は残っている。
六日、二十三時間、五十七分、五十九秒。
悠真は笑いそうになった。
恐怖が限界を越えると、人は笑うのだと初めて知った。
窓の外はすっかり朝だった。
いつもの街だ。
自転車に乗る学生。
ゴミ袋を出す主婦。
宅配便のトラック。
その日常の音が、むしろ異様だった。
こんなに世界は普通なのに、自分だけがもう別の場所へ半分引き込まれている。
悠真は濡れた服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
湯を出したはずなのに、最初に流れてきたのは冷たい水だった。
黒くはない。
ただ、どこか鉄の匂いがした。
排水口に目をやる。
髪が絡まっている。
長い黒髪。
一本ではない。
何本も。
悠真は吐き気をこらえ、シャワーを止めた。
もう家にはいられない。
佐伯に指定された場所は、新宿駅西口の喫茶店だった。
午後一時。
それまでに悠真は、ホテル白蘭について調べた。
検索すると、情報は断片的にしか出てこなかった。
廃業した格安ホテル。
築五十年以上。
昭和の終わりには長期滞在者向けの安宿として知られていた。
数年前に営業停止。
公式サイトは閉鎖。
レビューサイトには、奇妙な書き込みが残っていた。
《夜中に上の階から水音がする》
《エレベーターが勝手に十三階へ行った》
《部屋の鏡に知らない女が映る》
《朝、浴槽に水が溜まっていた。使っていないのに》
どれも、心霊好きが書いた冗談に見えた。
だが一つだけ、悠真の目を止める投稿があった。
三年前の投稿。
《水の味がおかしい。フロントに言ったら、飲まないでくださいと言われた。なら、なぜ客室に出しているのか》
投稿者名は、Mizuki713。
悠真は画面を見つめた。
水紀。
偶然ではない。
彼女は生前、ホテルの異常をネットに残していた。
そのページを保存しようとした瞬間、投稿は消えた。
ブラウザを更新しても戻らない。
まるで、悠真に見せるためだけに一瞬現れたようだった。
午後一時前。
喫茶店の一番奥の席に、佐伯はいた。
二十代後半。
痩せた男だった。
無精髭。
黒いパーカー。
目の下に濃い隈。
初対面なのに、悠真はすぐ分かった。
同じものを見た人間の顔だった。
佐伯はノートパソコンを開いたまま、悠真に座るよう目で促した。
「岸本悠真さんですね」
「あんたが佐伯か」
「佐伯律。兄は佐伯亮。三年前に消えた」
佐伯は余計な挨拶をしなかった。
テーブルの上に、紙の資料を数枚並べる。
ホテル白蘭の外観写真。
古い新聞記事。
宿泊者名簿。
そして、六人分の顔写真。
「これが、俺の把握している失踪者です」
悠真は写真を見た。
年齢も性別もばらばらだった。
動画編集者。
都市伝説ライター。
配信者。
元ホテル従業員。
フリーカメラマン。
そして佐伯の兄。
「全員、あの映像を見たのか」
「見ています。最初は全員、仕事として受け取っている。監視映像の修復、検証、記事化、番組制作。つまり、見る理由を与えられている」
「誰が送ってる」
「分かりません。ただ、送信元は毎回違う」
佐伯は一枚の紙を指で叩いた。
「けれど共通点があります。全員、七日以内にホテル白蘭へ行っている」
「自分から?」
「ええ。行かされるんです。水音、映像、電話、夢。追い込まれて、結局行く」
「行ったらどうなる」
「戻った人間はいません」
悠真は黙った。
佐伯はノートパソコンを悠真に向けた。
画面には古い監視映像が表示されている。
ホテルのロビー。
フロント。
榊水紀。
彼女は何かを訴えている。
その背後に、制服の男。
「この男を見てください」
佐伯が映像を止める。
ノイズで顔は潰れている。
だが胸元の名札だけは読めた。
吉岡。
「元フロント係の吉岡誠。水紀が失踪した当時、夜勤担当でした」
「今は?」
「行方不明です」
「またか」
「違います。彼は失踪者リストに入っていない。映像を見て消えたのではなく、事件の直後に姿を消した」
佐伯は次の資料を出した。
退職届のコピー。
日付は榊水紀失踪の翌日。
「水紀は何を見つけたんだ」
「貯水槽です」
その言葉だけで、悠真の喉が締めつけられた。
「ホテル白蘭では、水に関する苦情が何度も出ていました。匂い、味、濁り。だが記録はほとんど残っていない。消されている」
「貯水槽に死体があった?」
「水紀が撮った映像では、少なくとも一人、別の女性が浮いていました」
「その女性は誰なんだ」
佐伯はしばらく黙った。
「おそらく、最初の一人です」
最初の一人。
悠真は資料に目を落とした。
そこに古い新聞の切り抜きがあった。
《歌舞伎町のホテル従業員女性、突然の失踪》
日付は一九九八年。
名前は黒川千尋。
二十二歳。
ホテル白蘭の清掃員。
「この女性が最初だと?」
「断定はできません。ただ、彼女の失踪後から、水の苦情が急増しています」
「でも、二十年以上前だぞ」
「白蘭は、その頃から壊れていたんです」
佐伯は声を落とした。
「水紀は、千尋の遺体を見つけた。だから消された」
「誰に」
「人間に。そして、それ以外のものに」
悠真は苦笑した。
「便利な言い方だな」
「俺もそう思います。でも、昨日あなたが見たものを説明できますか」
答えられなかった。
佐伯はバッグから小型のビデオカメラを取り出した。
古い機種。
手のひらサイズ。
「これは?」
「水紀が使っていたものと同型です。今夜、白蘭で元のカメラを探します」
「本当に残ってると思うのか」
「残っているから、呼ばれている」
「誰に?」
佐伯は悠真を見た。
「水紀にです」
その言葉は、意外にも悠真を落ち着かせた。
あの女がただの怪物なら逃げるしかない。
だが、何かを伝えようとしているのなら。
止める方法があるかもしれない。
午後八時。
二人はホテル白蘭の前に立っていた。
新宿の裏通り。
ネオンの届かない、暗い一角。
ビルとビルの隙間に押し込まれるように、その建物はあった。
十階建て。
外壁は黒ずみ、看板の一部は剥がれている。
白蘭、という文字のうち、白の字だけがかろうじて読めた。
入口には鉄製のシャッター。
だが中央が少しだけ開いている。
人が一人、屈めば入れるほど。
「廃業したホテルにしては、誘ってるみたいだな」
悠真が言うと、佐伯は頷いた。
「そうです。誘っている」
二人は中へ入った。
ロビーは暗かった。
埃の匂い。
古い絨毯。
割れたシャンデリア。
フロントカウンターの上には、宿泊者カードが散乱している。
だが不自然なほど、水気があった。
床のところどころに、水たまりがある。
天井から漏れているわけではない。
床から滲み出している。
佐伯は懐中電灯を向けた。
「エレベーターは使わない」
「当然だ」
「階段で七階まで上がります。水紀の部屋は713号室」
ロビーの奥に非常階段があった。
扉は錆びている。
佐伯が押すと、嫌な音を立てて開いた。
階段は真っ暗だった。
一階。
二階。
三階。
上がるたびに、気温が下がった。
外は蒸し暑い夜だったのに、建物の中だけ冬のように冷たい。
四階に着いた時、下から音がした。
エレベーターの到着音。
チン。
悠真は足を止めた。
「使ってないよな」
「ええ」
階段の隙間からロビーを見る。
エレベーターの扉が開いていた。
中は真っ暗。
誰もいない。
だが床に水が流れ出している。
佐伯が小声で言った。
「見ないでください」
二人は上がった。
五階。
六階。
そして七階。
廊下に出ると、空気が変わった。
ここだけ、まだ営業中のようだった。
壁の照明がぼんやり点いている。
赤い絨毯は濡れていない。
客室のドアも整っている。
だが人の気配はない。
713号室は、廊下の突き当たりにあった。
悠真のポケットの中で、カードキーが震えた。
朝、自分の部屋に現れたものだ。
佐伯が目を細める。
「持ってきたんですね」
「持ってこさせられた気がする」
悠真はカードキーを差し込んだ。
電子音。
緑のランプ。
古いホテルなのに、鍵だけが生きていた。
扉が開く。
部屋の中は、整っていた。
ベッド。
机。
テレビ。
カーテン。
七年前から時間が止まっているようだった。
机の上に、ノートが置かれている。
濡れていない。
表紙には、細い文字で書かれていた。
《水の記録》
悠真はページを開いた。
一行目。
《水は、上から来るのではない。下から戻ってくる》
次のページ。
《夜二時十三分、エレベーターは十三階に向かう》
さらに次。
《貯水槽の中に、女がいる。彼女は私を見ていた》
佐伯が息を呑んだ。
「兄のメモと同じだ」
「同じ?」
「兄も同じ言葉を書いていた。水は下から戻る」
その時、浴室から音がした。
ポタ。
ポタ。
悠真と佐伯は同時に振り返った。
浴室の扉が少し開いている。
中は暗い。
佐伯がカメラを構えた。
「開けます」
悠真は頷いた。
扉を開く。
浴槽には水が溜まっていた。
黒い水。
水面に何かが浮いている。
ビニール袋。
その中に、小型カメラが入っていた。
佐伯の手が震えた。
「これだ……」
悠真が袋を取ろうとした瞬間、水面が揺れた。
浴槽の底から、白い顔が浮かび上がる。
榊水紀。
目を開けている。
口が動いた。
声はない。
だが、悠真には読めた。
――見つけて。
次の瞬間、部屋のテレビが勝手についた。
砂嵐。
そして映像。
屋上の貯水槽。
夜。
水紀がカメラを持っている。
背後から、制服の男が近づく。
吉岡。
彼は水紀の肩を掴む。
水紀が振り返る。
揉み合い。
カメラが落ちる。
画面が横倒しになる。
そして映った。
貯水槽の蓋。
内側から、誰かが叩いている。
ドン。
ドン。
ドン。
水紀の悲鳴。
吉岡の怒鳴り声。
その直後。
画面の奥に、黒川千尋が立っていた。
二十年以上前に消えたはずの清掃員。
びしょ濡れの制服姿で。
彼女は水紀ではなく、カメラを見た。
いや、画面のこちら側を見た。
悠真を見た。
そして言った。
「七人では、足りない」
テレビが消えた。
部屋の照明も消えた。
暗闇の中で、浴槽の水が溢れ始めた。
佐伯が叫ぶ。
「カメラを持って逃げろ!」
悠真はビニール袋を掴んだ。
冷たい。
重い。
浴槽の中から無数の手が伸びる。
佐伯の腕を掴んだ。
「佐伯!」
「行け!」
佐伯は悠真を突き飛ばした。
悠真は部屋の外へ転がり出る。
廊下の奥、エレベーターの扉が開いていた。
中に白いワンピースの女が立っている。
だが今度は、水紀ではなかった。
清掃員の制服を着た女。
黒川千尋。
彼女は笑っていなかった。
怒っていた。
廊下全体に水が広がる。
713号室の中から佐伯の悲鳴が聞こえた。
悠真は袋を抱えたまま走った。
背後で、テレビの砂嵐の音が廊下中に響いた。
そのノイズの中に、女の声が混じる。
「見た者は、戻れない」
悠真は階段へ飛び込んだ。
下へ。
今度は下へ。
水が追ってくる。
黒い水が、階段を流れ落ちてくる。
ホテル全体が、巨大な水槽になろうとしていた。
(第5章につづく)

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