第二十五章 剣術道場
翌朝、新之介は夜明け前に目を覚ました。
庭にはまだ薄い霧が残っている。
松葉の先には露が光り、井戸端では家僕が水を汲む音がした。
謹慎中の榊原家は静かだった。
出仕差し控えとなった忠左衛門は書院に籠もり、古い帳面の整理を続けている。
新之介も勘定方の役目を一部外され、以前ほど急いで屋敷を出る必要はない。
だが、暇になったわけではなかった。
むしろ役目を外れたことで、これまで見えなかったものが見え始めている。
「遅い」
中庭へ出るなり、玄斎が言った。
老人はすでに木刀を持って立っていた。
「卯の刻前です」
「昔も同じ言い訳をしたな」
「覚えておられましたか」
「弟子の愚かさは忘れぬ」
新之介は木刀を取った。
向かい合う。
朝霧の中、二人の呼吸だけが聞こえる。
玄斎は構えなかった。
ただ木刀を下げたまま立っている。
新之介は正眼に構えた。
「来い」
短い声。
新之介が踏み込む。
木刀を振り下ろす。
玄斎は半歩だけ動いた。
新之介の木刀は空を斬る。
次の瞬間、脇腹に痛みが走った。
玄斎の木刀が深く入っている。
「ぐっ」
新之介は下がった。
「もう一度」
再び構える。
今度は打たない。
相手の動きを待つ。
玄斎は何もせず立っている。
沈黙が長くなる。
新之介の呼吸が少しずつ乱れた。
いつ動く。
どこから来る。
考えた瞬間、玄斎が踏み込んだ。
速い。
新之介は受けた。
だが木刀ごと押し込まれ、喉元へ切っ先を突きつけられた。
「負けだ」
玄斎は木刀を下ろした。
「何が悪いのでしょう」
「答えを急いでおる」
「剣の話ですか」
「すべてだ」
新之介は黙った。
玄斎は庭石に腰を下ろした。
「このところのお前は、何を見ても武士とは何かと考えておる」
「悪いことでしょうか」
「悪くはない。だが、答えを一つにしようとするな」
「一つではないのですか」
「武士は一人ずつ違う」
玄斎は朝霧の向こうへ目を向けた。
「剣を取る者。帳面を取る者。家を守る者。家を捨てる者。死ぬ者。生きて恥を受ける者」
「では、武士道とは」
「知らぬ」
玄斎はあっさり答えた。
新之介は目を瞬いた。
「先生でも分からぬのですか」
「分かったと思ったことは何度もある」
「そのたびに違った」
老人は自分の木刀を見た。
「若い頃は、強い者が武士だと思った。少し年を取ると、勝つ者が武士だと思った。さらに年を取ると、生き残る者が武士だと思った」
「今は」
「問い続ける者だと思っている」
新之介は先日の自分の考えと重なったことに驚いた。
玄斎は続ける。
「だが、これも明日には変わるかもしれぬ」
「頼りないお答えですね」
「人の生き方を一言で決めようとする方が、よほど頼りない」
その時、門の方から家僕の声がした。
「若様、お客様でございます」
◇
訪れたのは、真崎半九郎だった。
山寺から戻って以来、しばらく姿を見せていなかった。
粗末な羽織は変わらない。
だが今日は腰に刀を差していない。
「真崎殿」
「榊原殿。朝早くに申し訳ない」
「何かありましたか」
真崎は一通の書状を差し出した。
「鷹見塾に関わった者の子弟を集めたいと思っております」
「何のために」
「道場を開きます」
新之介は書状を開いた。
そこには、江戸の外れにある空き道場の借用願いと、数名の名が記されている。
「剣術道場ですか」
「剣だけではありません」
真崎は言った。
「読み書き、算術、兵法、武家の作法。家禄の少ない御家人や浪人の子にも教えるつもりです」
新之介は真崎を見た。
「鷹見塾を再び」
「同じものにはできません」
「なぜ」
「鷹見先生の塾は、理想が高すぎた」
真崎の声には敬意と苦さが混じっている。
「若い侍たちは世を正すことばかりを考えた。だが、己の暮らしをどう支えるかまでは学ばなかった」
「だから矢代のような者が」
「はい」
真崎は頷いた。
「正しさだけを持つ者は、世の曲がりに耐えられないことがあります」
玄斎が口を挟んだ。
「ならば何を教える」
「負け方です」
新之介は眉を上げた。
「負け方?」
「世は思いどおりにはなりません。役目を失うことも、家を継げぬこともある。正しいことが通らぬこともある」
真崎は静かに続けた。
「その時、世を恨んで刃を向けるのではなく、どう生き直すかを教えたい」
頼母の顔が新之介の脳裏に浮かんだ。
家を継げなかった叔父。
矢代。
松井。
いずれも負け方を知らなかったのかもしれない。
「私に何を」
「道場の後見をお願いしたい」
「私が?」
「榊原殿は剣も使う。帳面も読める。そして、家名に傷を負った」
「褒められている気がしません」
「褒めています」
真崎は真顔だった。
「傷のない者が武士の生き方を語れば、ただの訓戒になります」
玄斎が笑った。
「よいところを突く」
新之介は書状を見つめた。
後見。
それは名を貸すだけでは済まない。
道場で何か起これば、榊原家にも責が及ぶ。
しかも今は謹慎中である。
「父に相談します」
「承知しています」
真崎は頭を下げた。
◇
忠左衛門は書院で話を聞くと、すぐには答えなかった。
膝の前には、古い帳面が積まれている。
頼母が残した証文も、その中にあった。
「道場か」
「はい」
「よい話に聞こえる」
「危うい話でもあります」
「そうだな」
忠左衛門は書状を手に取った。
「若い侍を集めれば、また誠心組のようなものになる恐れがある」
「真崎殿は、それを避けるために負け方を教えたいと」
「負け方など、教えられるものか」
「父上は反対ですか」
「いや」
忠左衛門は首を振った。
「教えられぬからこそ、学ぶ場が要るのかもしれぬ」
新之介は父の顔を見た。
「では」
「榊原家として後見を引き受ける」
「よろしいのですか」
「家名に傷がついた今だからこそできることもある」
父は書状を畳んだ。
「ただし条件がある」
「何でしょう」
「道場の勘定をすべて明らかにせよ」
新之介は思わず笑った。
「父上らしい条件です」
「金の流れを隠すところから、腐りは始まる」
忠左衛門は真顔だった。
「月ごとの入金、支出、寄付、すべて帳面に残す。榊原家もそれを改める」
「承知しました」
「もう一つ」
「はい」
「身分で弟子を分けぬこと」
新之介は少し驚いた。
忠左衛門は続ける。
「武士の子だけではない。町人の子でも、学びたい者がいるなら入れよ」
「武家の道場に町人を?」
「江戸を動かしているのは町人だと、お前は以前から申していたではないか」
新之介は頭を下げた。
「分かりました」
「ただし刀を持たせるかは慎重にせよ」
父はかすかに笑った。
◇
道場は神田の外れにあった。
以前は小身旗本が家臣の稽古に使っていたが、家が絶え、長く空いていたという。
壁はくすみ、床板も一部軋む。
庭には雑草が生い茂り、井戸の蓋には苔がついていた。
だが梁は太く、道場としての形は残っている。
新之介、真崎、玄斎、源太郎は朝から掃除に追われた。
「なぜ私まで」
源太郎が雑巾を絞りながらぼやいた。
「町方の目も必要です」
「聞こえはよいですが、ただ人手が足りないのでしょう」
「分かっているなら聞くな」
玄斎が箒で源太郎の足を払った。
「先生、危ないですよ」
「剣を持たぬ時ほど足元を見よ」
「掃除でも稽古ですか」
「何事も稽古だ」
新之介は床板を拭きながら、久しぶりに穏やかな時間を感じていた。
刀を抜く必要もない。
誰かを疑う必要もない。
ただ汚れた床を拭き、壊れた障子を張り替える。
それだけのことが、ひどく尊く思えた。
昼過ぎ、志乃が女中を伴って訪れた。
「お手伝いに参りました」
「志乃殿が?」
「大久保家は家禄を減らされましたが、私まで何もできなくなったわけではありません」
志乃は持参した包みを開いた。
中には筆、硯、紙が入っている。
「読み書きに使えるものです」
真崎が深く頭を下げた。
「ありがたく頂戴いたします」
「頂戴ではありません」
志乃は静かに言った。
「私も教える側に加えてください」
「何を」
「武家の娘に必要な作法、手紙の書き方、家のやりくり」
新之介は志乃を見た。
「よいのですか」
「家を守るには、女も帳面を知らねばなりません」
その言葉に忠左衛門の考えが重なった。
真崎はすぐに頷いた。
「お願いします」
志乃の顔に、初めて少し明るい笑みが浮かんだ。
◇
道場開きの日、集まった者は十五人だった。
旗本の次男。
禄の少ない御家人の子。
浪人の娘。
札差の手代の倅。
魚屋の少年。
火消しの若者。
武士だけではない。
年も身分もばらばらである。
皆、緊張した顔で板の間に座っていた。
玄斎は正面に立ち、一同を見回した。
「まず立て」
弟子たちは慌てて立つ。
「次に座れ」
また座る。
「先生」
新之介が小声で言った。
「何をなさっているのです」
「立ち方と座り方を見る」
玄斎は弟子たちを見た。
「刀を振る前に、立つことを覚えよ」
一人の少年が手を上げた。
魚屋の倅だった。
「立つくらい、誰でもできます」
周囲がざわつく。
玄斎は怒らなかった。
「ならば、そこへ立て」
少年は前へ出た。
「押すぞ」
「はい」
玄斎が指一本で少年の胸を押した。
少年は簡単に後ろへよろけた。
笑いが起こる。
「笑うな」
玄斎の一声で静まった。
「立つとは、倒れぬことではない。倒れても戻れることだ」
少年は顔を赤くしながら立ち直った。
「もう一度お願いします」
玄斎は小さく頷いた。
新之介はその様子を見ていた。
倒れても戻る。
真崎が言った負け方と同じである。
◇
道場の初日は剣を使わなかった。
午前は立ち方、歩き方、礼。
昼からは読み書き。
志乃が筆の持ち方を教え、真崎が算術の初歩を教える。
新之介は米一俵を銭に換える計算を板書した。
「侍が算術を学ぶのですか」
旗本の次男が不満そうに言った。
「学ばなかった結果、多くの侍が札差に頭を下げた」
新之介が答えると、少年は黙った。
「算術は商人のものではない。家を守る者のものだ」
火消しの若者が笑った。
「侍様も銭勘定をするんですね」
「する」
「刀ばかり振っていると思っていました」
「刀は腹を満たさぬ」
教室に笑いが起きた。
新之介も笑った。
身分が違っても、同じ板の間で学ぶ。
それは小さなことだった。
だが、鷹見静山が見ようとしたものの先に、こうした形があったのかもしれない。
◇
夕刻。
弟子たちが帰った後、新之介は道場の戸締まりをしていた。
床には一日の足跡が薄く残っている。
玄斎は縁側で茶を飲んでいた。
「どうでしたか」
「騒がしい」
「嫌ですか」
「いや」
玄斎は庭を見た。
「よい騒がしさだ」
真崎が帳面を持ってきた。
「本日の支出です」
紙、墨、箒、米、茶。
一文単位で記されている。
新之介は目を通した。
「細かいですね」
「榊原様からの条件です」
「父上の条件です」
「同じことでしょう」
その時、門の外に人影が立った。
若い浪人である。
衣服は汚れ、頬は痩せている。
腰には刀を差していた。
「何用です」
新之介が問う。
浪人は道場の看板を見上げた。
まだ新しい木札には、真崎が選んだ名が記されている。
再起館。
浪人は低く言った。
「ここでは、負けた侍でも学べると聞いた」
真崎が一歩前へ出た。
「学ぶ気があるなら」
「剣を教えてほしい」
「何のために」
浪人は答えなかった。
ただ、刀の柄を強く握った。
その目には、かつての矢代に似た暗い光があった。
新之介は静かに近づいた。
「まず刀を置け」
「侍に刀を捨てろと申すか」
「違う」
新之介は浪人の目を見た。
「刀を置いても、侍でいられるかを確かめよ」
浪人の顔が強張った。
長い沈黙。
やがて、腰の刀を外した。
床へ置く。
その手は震えていた。
「名は」
「片桐宗次郎」
「明朝、卯の刻前に来い」
「剣を教えるのか」
「掃除からだ」
宗次郎は不満そうな顔をした。
玄斎が縁側から言った。
「嫌なら来るな」
宗次郎は刀を拾い、何も言わず門を出た。
だが、その背には来ない者の迷いではなく、来る者の迷いがあった。
新之介は再起館の看板を見上げた。
人は一度倒れる。
家を失い、役目を失い、信じるものを失う。
その時、刀だけを握れば、矢代のように世を斬ろうとするかもしれない。
だが、刀を置き、もう一度立つことができれば。
武士の文化とは、礼法や剣術や家名だけではない。
倒れた者を立たせる術もまた、残すべきものではないか。
夕暮れの道場に、子どもたちが書いた拙い文字が並んでいた。
礼。
役。
家。
誠。
その中に、一枚だけ別の文字がある。
魚屋の少年が書いたものだった。
立。
新之介はその紙をしばらく見つめた。
明朝、片桐宗次郎は来るだろう。
そして彼だけではない。
これから多くの者が、この門をくぐる。
刀を学ぶため。
算術を学ぶため。
あるいは、もう一度立つために。
再起館の最初の一日は、静かに暮れていった。
(第二十六章へ続く)

コメント