上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第七十章

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第七十章 三人の新之介

 大手門の前には、二人の榊原新之介が立っていた。

 一人は灰色の羽織。

 もう一人は濃紺。

 顔。

 背丈。

 髪。

 肩の幅。

 立ち方。

 遠目には、どちらも新之介だった。

 そして地下から上がってきた本物の新之介を見た瞬間。

 二人は、ほとんど同時に言った。

「遅かったな」

 新之介本人が足を止める。

 玄斎がその顔を見る。

「そなたも申いそうだな」

「先生」

「何だ」

「今、そこは重要ですか」

「かなり重要だ」

 三人。

 同じ顔。

 周囲の兵たちは完全に混乱している。

「どれが榊原殿だ」

「全部同じだ!」

「傷は!」

 一人の兵が叫ぶ。

「本物は肩に傷がある!」

 灰色の新之介が右肩を見せた。

 古い傷。

 濃紺も。

 同じ場所。

 本物も。

「……ある」

 神谷が呻く。

「三人とも」

 玄斎が言った。

「傷人は皆、同じことを申す」

「先生」

「何だ」

「傷まで同じなので、その言葉は本当にやめてください」

 ◇

 新之介は二人へ近づいた。

「名を聞きます」

 灰色が答える。

「榊原新之介」

 濃紺も。

「榊原新之介」

「それは今の名です」

「生まれた名を」

 灰色が少し黙る。

「庄吉」

 濃紺は言わない。

「そなたは」

「……新八」

「姓は」

「ない」

「庄吉殿は」

「高木」

「高木庄吉」

「そうだ」

「新八殿は」

「新八だけだ」

「分かりました」

 玄斎が驚く。

「分かったのか」

「名が分かりました」

「本物かどうかではないのか」

「後です」

 灰色――高木庄吉が笑う。

「相変わらずだ」

「私を知っているのですか」

「十五年前から」

「どこで」

「道場」

 玄斎の顔が変わる。

「わしの?」

「黒川道場」

「そなた」

 庄吉が玄斎を見る。

「三か月だけ」

「名は」

「高木庄吉」

 玄斎が目を細める。

「覚えがない」

「それでよい」

「何」

「覚えられぬようにしていた」

 濃紺――新八が言った。

「私は屋敷の外から見ていた」

「榊原家を?」

「ああ」

「何のために」

「代替のため」

 新之介は二人を見る。

「どちらも、私になるために育てられた」

「そうだ」

「誰に」

 庄吉が答えた。

「御影系統」

 新八が続ける。

「だが命令元は時期で違う」

「名を」

「最初は御影宗太郎」

 新之介の顔が硬くなる。

「次に」

「坂崎修理」

「最後は」

 二人が黙る。

「誰です」

 新八が言った。

「川辺主馬」

 ◇

「川辺!」

 阿部が振り返る。

 川辺は三本の縄をかけられ、少し離れた場所にいる。

「本当か」

 川辺は二人の新之介を見た。

 長い沈黙。

「……知っている」

「では」

「代替候補の存在は」

「だが」

「だが何だ」

「私が引き継いだ時点で、候補は一人と聞いていた」

「どちら」

「庄吉」

 新八の表情が動かない。

「私ではない」

 川辺が言う。

「そなたは記録にない」

 新八が笑った。

「それが御影だ」

「何」

「記録に残らない代替を、一人置く」

「誰が」

「そなたの前の御影」

「二代目?」

「名は知らない」

 玄斎が空を仰ぐ。

「またか」

「先生」

「何だ」

「今回は言ってよいです」

「もう疲れた」

 ◇

「まず」

 新之介は三人で並ぶことを避けた。

「私も含めて、別々に話を聞きます」

「そなた自身からも?」

 水野が問う。

「はい」

「自分で自分へ質問するのか」

「清太郎殿に聞いてもらいます」

 清太郎が慌てる。

「私が?」

「公平でしょう」

「榊原様へ?」

「今は三人とも榊原です」

「だから困るのです!」

 吉松が横から言う。

「甲乙丙にしますか」

 玄斎が即座に止める。

「将軍だけで懲りた!」

「では」

「本名で」

「本人だけ新之介」

「庄吉殿」

「新八殿」

「それでよい」

 ◇

 最初に高木庄吉。

 立会人。

 町方。

 海防掛。

 阿部側。

 町人として三吉。

 記録は清太郎と吉松。

「いつから榊原新之介を」

 清太郎が問う。

「十五年前」

「年は」

「当時十七」

「新之介様は」

「十八だった」

「一つ下」

「はい」

「何を真似た」

「剣」

「字」

「声」

「歩き方」

「食べ方」

「癖」

「考え方」

 三吉が顔をしかめる。

「考え方まで真似できるのか」

「最初は言葉だけ」

「では後から」

「判断の仕方を覚えた」

「例えば」

 庄吉が少し考える。

「人を先にする」

 新之介本人が外で聞いている。

「役目を盾にするな」

「戻る場所を間違えるな」

「迷うことを恐れるな」

 玄斎が眉を上げる。

「最後は静山の言葉だ」

「そうです」

「では新之介を真似ながら、静山の言葉も」

「両方を与えられた」

「誰に」

「宗太郎」

「目的は」

「新之介が死んだ時の代わり」

「死ぬ予定があったのか」

「違う」

「病」

「事故」

「暗殺」

「失踪」

「どれでも使えるように」

 清太郎の筆が止まる。

「人がいなくても、役を残す」

「そうだ」

 三吉が吐き捨てる。

「家畜の代えみてえだな」

 庄吉は否定しない。

「そうだった」

 ◇

「使われたことは」

「二度」

「何として」

「一度目は五年前」

「どこで」

「神奈川宿」

「新之介様が江戸にいた時」

「何をした」

「海防掛の役人と会った」

「内容は」

「外国船への備え」

 水野の顔が険しくなる。

「その時の記録がある」

「私も知っている」

「榊原が来た、と」

「本人ではなかった?」

「私だ」

 水野は新之介本人を見る。

「そなたは」

「行っていません」

「なら」

「偽りの新之介が、五年前から公文書にいる」

「二度目は」

「一年前」

「場所」

「戸田家下屋敷」

 阿部が眉をひそめる。

「何を」

「井沢敬之助と話した」

「続帳の」

「そうだ」

「何を伝えた」

「四冊が揃った時」

「誰にも一人で読ませるな」

 新之介が目を細める。

「それは」

「正しいように見える」

「だから使われた」

 庄吉が答える。

「正しい言葉なら」

「誰が言ったかを疑わない」

 玄斎が呟く。

「本当の言葉を並べても」

 新之介が続ける。

「本当の話になるとは限らない」

 ◇

 次に新八。

「生まれた場所は」

「知らない」

「覚えている最初の場所」

「品川」

「年は」

「今三十四」

「新之介様より」

「少し若い」

「なぜ似ている」

「似た者を探した」

「顔を変えた?」

「少し」

「沢渡が」

「そうだ」

 水野が歯を食いしばる。

「声も」

「訓練」

「身体の傷」

「つけた」

「誰が」

「沢渡」

「本人の傷をどう知った」

「記録」

「誰が取った」

 新八は新之介を見る。

「弥吉」

 地下にいた藤吉の息子。

 新之介の家へ三年入っていた男。

「弥吉殿が」

「ああ」

「全部」

「全部ではない」

「何を」

「寝言」

「何」

 場が一瞬静まる。

 三吉が笑う。

「そこまで必要か」

 新八は真顔だ。

「本人確認に使える」

 新之介が嫌な顔をする。

「何を言っていたのです」

「知りたいか」

「……いいえ」

「では記録しない」

 清太郎が言う。

「いや、存在だけは記録します」

「内容は伏せる」

「理由」

「本人の尊厳」

 新之介が清太郎を見る。

「ありがとうございます」

「後で聞かれても出しません」

「助かります」

 玄斎が笑う。

「何を言っていたのだ」

「先生」

「冗談だ」

 ◇

「新八殿が実際に新之介として動いたことは」

「七回」

 場の空気が変わる。

「多い」

 神谷が言う。

「どこで」

「三度は江戸」

「二度は横浜近辺」

「一度は戸田家」

「一度は」

 新八が止まる。

「どこ」

「西徳寺」

 玄斎の顔が変わる。

「いつ」

「十五年前」

「何をした」

「鐘楼へ竹筒を隠した」

 全員が凍りつく。

「竹筒を隠したのは」

 新之介が言う。

「玄斎先生では」

「玄斎殿が隠した竹筒とは別だ」

「何」

「もう一本あった」

「どこに」

「鐘の内側」

「だから」

 新之介は思い出す。

 鐘を割れ。

 名簿。

 竹筒。

 複数の声。

「中身は」

「知らない」

「誰の命で」

「鷹見千代」

「どの千代」

「分からない」

 玄斎が杖を地面へ叩く。

「もう名で聞くな!」

「何と聞けば」

「顔だ!」

「声だ!」

「いや、それも駄目か!」

「先生」

「何だ!」

「落ち着いて」

「誰のせいだ!」

 ◇

「新八殿」

 清太郎が続ける。

「なぜ今日、ここへ」

「命令が来た」

「誰から」

「榊原新之介」

 全員が新之介本人を見る。

「私は出していません」

「分かっている」

「内容は」

「大手門へ行け」

「本物と並べ」

「その後」

 新八は新之介本人を見る。

「本物を殺せ」

 一瞬。

 半九郎の手が刀へ。

 神谷も。

 水野も身構える。

「抜くな!」

 新之介が叫ぶ。

「命令は実行していません」

 新八は両手を上げる。

「なぜ」

「嫌になった」

「何が」

「新之介になることが」

「今さら?」

「ああ」

「十五年」

「長すぎた」

「なぜ今」

 新八は少し黙った。

「日本橋を見た」

「千代が新之介の顔で人を煽った」

「それを見て」

「私より偽物だった」

 新之介が眉をひそめる。

「意味が」

「私は十五年、お前になろうとした」

「だから」

「迷う癖まで真似た」

「千代は、迷わない新之介を作った」

「それを見た時」

「何です」

「初めて分かった」

「何を」

「私は新之介ではない」

 新八は自分の胸へ手を当てる。

「私は」

「迷い方まで借りていただけだ」

 ◇

「庄吉殿は」

 新之介が問う。

「今日、何のために」

「同じ命令」

「本物を殺せ」

「はい」

「なぜ実行しない」

「先に新八を見つけた」

「それで」

「二人で話した」

「何を」

「どちらが本物を殺すか」

 三吉が呆れる。

「物騒な相談だな」

「最初はな」

「最後は」

「どちらもやめた」

「なぜ」

 庄吉が答える。

「命令文に書かれていたからだ」

「何が」

「『一人が迷えば、もう一人が斬れ』」

 新八が続ける。

「私たちは」

「迷うように作られていた」

「なのに」

「迷うなと命じられた」

 庄吉が笑った。

「それで命令主は、私たちを知らないと分かった」

「なるほど」

 新之介が言う。

「そなたたちを新之介として使いたいが」

「新之介として育てた結果を理解していない」

「そうだ」

 玄斎が笑い出す。

「どうしました」

「面白い」

「何が」

「偽物を真面目に育てすぎて」

「本物と同じく面倒になった」

 庄吉と新八が同時に言う。

「嬉しくない」

 玄斎がさらに笑う。

「三人とも同じことを申す」

 ◇

「では」

 阿部が言った。

「二人を捕縛する」

「待ってください」

 新之介が止める。

「なぜ」

「罪を整理する」

「偽名を使い」

「公務に介入」

「それはある」

「殺害命令を受け」

「実行していない」

「だから減刑か」

「私は裁く者ではありません」

「では」

「まず拘束」

「三系統で」

 町方。

 海防掛。

 阿部側。

 庄吉が苦笑する。

「私たちも三本か」

「逃げにくいです」

「聞いた」

「千代殿から?」

「いや、川辺から」

「皆同じですね」

「その言葉まで取るな」

 新之介が少し笑った。

 ◇

 その時。

 玄斎が庄吉の歩き方を見ていた。

「待て」

「何です」

「右足」

 庄吉が止まる。

「何」

「十五年前の品川船宿」

 玄斎の顔が強張る。

「わしが見た『鷹見静山』」

「左を引いていた」

「だが本来の先生は右」

「何の話です」

 新之介が問う。

「庄吉」

 玄斎が言う。

「歩いてみろ」

「今?」

「十歩」

 庄吉が歩く。

 右。

 左。

 わずかに左足を引く。

 玄斎の顔から血の気が引く。

「そなた」

「何」

「十五年前」

「品川の船宿にいたか」

 庄吉は答えない。

「名を申せ!」

「高木庄吉」

「違う!」

「その時の役だ!」

 庄吉の目が変わった。

「……鷹見静山」

 一同が静まり返る。

「何」

 新之介が問う。

 庄吉はゆっくり答えた。

「三日だけ」

「私は鷹見静山だった」

 玄斎の握る杖が震える。

「では」

「わしが見た、足を引いた先生は」

「私だ」

「宗一郎ではなく」

「違う」

「宗太郎でも」

「違う」

「何のために」

「弁財丸から名簿を運び出すため」

「誰の命」

 庄吉が新之介を見る。

「御影宗太郎」

 新之介の顔が硬くなる。

「また宗太郎殿」

「筆跡を確認する必要があります」

 清太郎が言う。

「だが」

 庄吉は続けた。

「命令を直接渡したのは、宗太郎ではない」

「誰です」

「女だった」

「右手の小指は」

「なかった」

 玄斎の目が鋭くなる。

「鷹見千代」

「その名を使っていた」

「顔は」

「白い面」

「声は」

「若い女」

「お琴」

「お加代」

「鷹見千代」

 玄斎の記憶とつながる。

「その女は死んだはず」

「誰が確認した」

 今度は庄吉が言った。

 玄斎は何も返せなかった。

 ◇

「庄吉殿」

 新之介が問う。

「その女は今どこに」

「知らない」

「十五年前、最後にどこで」

「西徳寺」

「何をしていた」

「十六人のうち」

 庄吉は言葉を選ぶ。

「一人を連れ出していた」

「誰」

「十番」

 地下の見分帳。

 十番。

 御影。

「十番は」

 お冬から聞いた。

 十六人の中で、御影へ入れられた一人。

「名は」

「その時はなかった」

「今は」

「ある」

「誰」

 庄吉が答えようとした時。

 江戸城の奥から。

 鐘。

 一度。

 二度。

 三度。

 四度。

 救いの合図。

 西徳寺。

 再起館。

 そして今。

 江戸城。

「誰が鳴らした!」

 水野が叫ぶ。

 城内から兵が走ってくる。

「御記録所の下!」

「人が閉じ込められています!」

「何人!」

「一人!」

「名は!」

 兵は息を切らす。

「鷹見千代を名乗っています!」

 玄斎の顔が変わる。

「女か!」

「分かりません!」

「顔を!」

「面をつけています!」

 新之介が走り出す。

「どこへ!」

「地下です!」

 庄吉も動こうとする。

 縄が止める。

「待て」

「何です」

「その者が十番かもしれない」

「なぜ」

「十番へ与えられた最初の役が」

 一呼吸。

「鷹見千代だった」

 新之介が止まる。

「では」

「千代という名も」

「御影を監視するために作られた」

「人ではなく役」

「ああ」

「そして十番は」

 庄吉は目を閉じた。

「男だ」

 玄斎が息を呑む。

「では十五年前」

「女の声」

「服」

「白い面」

「すべて役だった」

「今も」

「生きていれば」

 鐘がまた四度。

 新之介は地下へ向かう。

「人が先です!」

「帳面も名も後!」

 玄斎が続こうとする。

「先生は!」

「何だ!」

「膝人!」

「また置いていく気か!」

「今回は走ります!」

「わしも行く!」

「無理です!」

「新之介!」

 背後から怒声。

 新之介は振り返らず、御記録所の地下へ走った。

 今度、待っているのは。

 鷹見静山でも。

 御影でも。

 家慶でも。

 自分の偽物でもない。

 十五年前。

 名を奪われた十六人の一人。

 そして。

「鷹見千代」という役を最初に与えられた者だった。

(第七十一章へ続く)

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