第六十七章 政をつかさどる者
高札の最後の一行を、清太郎はもう一度読んだ。
「――本日より、一時政務を預かる者を置く」
そこで一度息を止める。
「――鷹見静山」
再起館の広間に、重い沈黙が落ちた。
玄斎が最初に口を開いた。
「……誰だ」
誰も答えない。
「鷹見静山の誰だ、と聞いておる!」
「先生」
「何だ!」
「それを今から確かめます」
「いつまで確かめ続けるのだ!」
「終わるまで」
「終わらぬではないか!」
「はい」
「素直に申すな!」
内側にいた徳川家慶――便宜上「甲」と呼ぶことになった男が、高札を見つめる。
「私が政務を退くとある」
外から来たもう一人の家慶――「乙」が言った。
「私も退くらしい」
「二人まとめてか」
「書いた者にとっては便利だろう」
阿部伊勢守が顔を歪めた。
「問題はそこではございませぬ」
「分かっている」
「鷹見静山が政務を預かるなど」
阿部は言葉を切った。
「制度上あり得ぬ」
「では偽りか」
新之介が問う。
「いや」
阿部は高札を指した。
「文面そのものは巧妙だ」
「どこが」
「将軍宣下でも、老中任命でもない」
「ただ『一時政務を預かる』」
「役職を書いていない」
「そうだ」
「つまり」
志乃が言う。
「何を預かるかも曖昧」
「だが町の者には」
三吉が口を挟む。
「将軍の代わりって聞こえるぞ」
「それが狙いでしょう」
清太郎が答えた。
徳松も高札を覗く。
「名前だけ強く見せて、中身はぼかす」
「商いでもありますね」
「何だ」
「『特別』と書いてあるが、何が特別か書いていない品」
三吉が笑う。
「それ、だいたい高いだけだ」
「今は笑い事ではありません」
「分かってるよ」
だが、笑いはすぐ消えた。
鷹見静山。
その名は今や、先生の名でも、死者の名でもない。
政そのものへ入り込もうとしている。
◇
「誰が高札を出した」
新之介が問う。
使者の町役人が答えた。
「日本橋御高札場へは、城方の役人が」
「名は」
「御徒頭・永井主水」
「本人を知る者は」
神谷作左衛門が手を上げる。
「私が知っている」
「顔は」
「知っている」
「声も」
「ああ」
「筆跡は」
「そこまでは」
「では永井殿が直接持ってきたのか」
「いや」
町役人が首を振る。
「部下です」
「名は」
「堀尾三十郎」
「本人確認は」
「しておりません」
玄斎がため息をついた。
「もう聞かずとも分かるようになった」
「何がです」
「上へ行けば行くほど、誰も本人を見ておらぬ」
家慶甲が言った。
「それが役所だ」
「威張るところではない」
「威張っていない」
新之介は高札の文面を見る。
「鷹見静山という名を、誰が知っている」
「江戸中です」
半九郎が答える。
「これだけ騒ぎになれば」
「だから使いやすい」
「将軍より?」
「今は」
志乃が言う。
「将軍は二人います」
家慶乙が苦い顔をする。
「三人目もいるらしい」
「城内に」
長兵衛が答える。
「さらに影武者の記録では、過去に七人」
玄斎が頭を抱える。
「将軍より静山の方が少ないのではないか」
「確定しているだけなら」
清太郎が真面目に数え始める。
「やめろ!」
◇
「江戸城へ行きます」
新之介が言った。
「今度こそか」
家慶甲が問う。
「はい」
「二人とも?」
「いいえ」
「何」
「家慶殿甲は残る」
「なぜ私が」
「再起館に一人は残してください」
「乙は」
「江戸城へ」
家慶乙が眉を上げる。
「なぜ私だ」
「今日、高札を出した側にいた」
「私が偽高札を認めたからか」
「はい」
「危険だぞ」
「だからです」
「榊原」
家慶甲が低く言う。
「私を残すということは、そなたは乙を本物と見ているのか」
「違います」
「では」
「二人を同じ場所へ持っていかない」
「何のために」
「城内の者がどちらへ反応するかを見る」
乙が笑った。
「囮にするのか」
「嫌ですか」
「嫌だ」
「では」
「行く」
「どちらです」
「嫌だが行く」
「記録します」
「そこまで書くな!」
清太郎はすでに筆を走らせている。
◇
「私も行く」
阿部が言った。
「当然です」
「なぜ当然なのだ」
「老中だからではありません」
「では」
「城内の文体を知っている」
「なるほど」
「水野様も」
「海防掛を離れてよいのか」
水野が自分で問う。
「代わりを置きます」
「誰」
「青山殿」
青山が頷く。
「異国船側は私が」
「第三冊は」
「朝風丸に戻していません」
「どこに」
「西徳寺側で多重封」
「よい」
「まだ完全では」
「完全でなくてよい」
「言うようになりましたね」
「榊原殿のせいです」
玄斎が笑った。
「皆、同じことを申す」
新之介は玄斎を見る。
「先生も行きますか」
「行く」
「膝が」
「今日は舟だろう!」
「城まで舟では入れません」
「途中までだ!」
「では」
「何だ」
「傷人も」
半九郎が先に言う。
「今は申すな」
「まだ何も」
「分かっています」
◇
「問題は誰を静山として探すかです」
清太郎が言った。
全員の顔が曇る。
「海の宗一郎」
「再起館にいる宗太郎」
「長泉寺で宗山を名乗った男」
「四十七番」
「そして」
「誰か別の者」
新之介が続けた。
「高札の静山が、この中の誰とも限らない」
「では何を探す」
家慶乙が問う。
「人ではなく」
「何を」
「政務を預かっている者」
「同じでは」
「違います」
「なぜ」
「鷹見静山という名を使っていても」
「実際に命を出している者」
「書いている者」
「封を押す者」
「伝える者」
「それぞれ違うかもしれない」
阿部が頷いた。
「役目を分けて追うか」
「はい」
「なら私は文書」
「水野様は命令の経路」
「神谷殿は現場」
「家慶乙殿は」
「私だけ殿を付けると妙だな」
「では」
「乙でよい」
「嫌では」
「もう諦めた」
「乙殿は」
「結局付くのか」
「城内の反応を見る」
「分かった」
「玄斎先生は」
「静山の顔を見る」
「誰が出ても?」
「出ればな」
「そして私は」
新之介は言った。
「誰が何をしたかを聞く」
玄斎が鼻を鳴らした。
「一番面倒な役だ」
「慣れています」
◇
江戸城へ向かう舟の上。
隅田川から堀へ入る途中、水野が新之介へ小声で問う。
「一つ気になる」
「何です」
「沢渡だ」
「はい」
「まだ生死が分からぬ」
「異国船の下へ潜った後」
「見つかっていない」
「だが」
「玄朴殿の話では、将軍の身体の秘密を知っていた」
「声も」
「薬も」
「顔の筋肉の癖も扱える」
「つまり」
新之介は水面を見る。
「家慶を作るのに最も都合のよい男」
「そうだ」
「だが高札の静山とは」
「別かもしれない」
「同じかもしれない」
「そこを今決めない」
水野が苦笑した。
「そなたと話すと、何も断言できなくなる」
「良いことです」
「役所では困る」
「だから理由を記録してください」
「またそれか」
舟の後ろで玄斎が叫ぶ。
「皆、同じことを申す!」
◇
江戸城外堀。
大手門は閉じていた。
橋の手前に柵。
その前に兵。
数は五十ほど。
「止まれ!」
門番が叫ぶ。
「誰だ!」
神谷が前へ。
「御徒目付、神谷作左衛門!」
「証は!」
新之介が小さく笑う。
「向こうから聞きましたね」
「笑うな」
神谷は腰札を見せる。
「同行者!」
「阿部伊勢守!」
兵たちがざわめく。
「本物か!」
阿部が怒る。
「私を誰だと思っている!」
新之介が横から言う。
「本人確認を」
「榊原!」
「今は重要です」
門番の一人が阿部の顔を見る。
「……存じております」
「名は」
「大橋喜内」
「阿部殿といつ会った」
「三日前の登城時」
「会話は」
「しました」
「何を」
「『また雨か』と」
阿部が言う。
「私は『雨なら米が持つ』と答えた」
大橋が頷く。
「その通りです」
「一人の確認」
清太郎が記す。
「同行の徳川家慶殿」
兵たちの顔色が変わる。
「上様は亡くなられた!」
乙が前へ出た。
「私は生きておる」
「偽物!」
「そうかもしれぬ」
兵が止まる。
乙は続けた。
「だから確かめろ」
「上様が、そのような」
「本物なら申さぬか」
「……」
「偽物なら申すかもしれぬ」
「……」
「だから困っている」
新之介が小声で言う。
「上手くなりましたね」
「嬉しくない」
「皆」
「言うな」
◇
「城内の鷹見静山へ会いたい」
阿部が叫ぶ。
門番たちが互いを見る。
「静山様は」
新之介の耳が動く。
「今、何と」
「静山様は」
「その呼び方をしているのか」
兵が戸惑う。
「政務御預かり役として」
「正式な役職名は」
「……ありません」
「ではなぜ様を」
「御城内で、そう」
「誰が最初に」
「分かりません」
「いつから」
「昼過ぎ」
「姿を見たか」
「私は」
門番は首を振る。
「見ていません」
「誰が見た」
「上役が」
「名は」
「大番頭・土井利勝様」
阿部が眉をひそめる。
「あり得ぬ」
「なぜ」
新之介が問う。
「土井利勝はとっくに死んでいる」
門番の顔が青ざめる。
「しかし」
「誰がその名を」
「御触れに」
「また死者か」
玄斎が吐き捨てる。
「静山を政へ入れる命令を」
「死んだ大番頭が伝えた」
「声は」
「城内で流れました」
「本人の?」
「土井様の声と」
「知っているのか」
「いいえ」
「では誰が」
「古参の者が」
「また伝聞」
新之介は門を見た。
中で、死者の声が役職を作っている。
◇
「開門できぬ」
大橋が言った。
「命令です」
「誰の」
神谷が問う。
「鷹見静山様」
「直接」
「書状です」
「見せろ」
「外へは」
「読める位置へ」
しばらくして。
城内から一枚の書状が柵越しに掲げられる。
――本日、江戸城内混乱につき、門を閉じる。
――老中といえども入城を許さず。
――ただし徳川家慶本人のみ、一人で入ることを許す。
阿部が怒鳴る。
「罠ではないか!」
乙は紙を見る。
「私一人で来いと」
「行きますか」
新之介が問う。
「行く」
「駄目です」
「聞いておいて止めるのか」
「一人で、という条件が相手のものです」
「では」
「条件を変える」
新之介が門へ叫ぶ。
「鷹見静山へ伝えろ!」
「徳川家慶は一人では入らない!」
「榊原!」
阿部が驚く。
「交渉するのか」
「こちらも条件を出す」
「何を」
新之介は門へ向かって続ける。
「静山本人も一人で大手門へ出てこい!」
「顔を見せろ!」
「名を申せ!」
「そして」
「家慶殿と同じ数の立会人を置く!」
門内がざわつく。
やがて返事。
「静山様は申されている!」
「何と!」
「『榊原新之介を先に入れよ』!」
玄斎が笑った。
「人気者だな」
「嬉しくありません」
「一人で来い、と」
門番が続ける。
「断る!」
新之介が即答する。
「なぜだ!」
「私は私を一人で証明しない!」
「意味が分からぬ!」
「こちらも最近そう思っています!」
◇
その時。
城内から、別の声が響いた。
「新之介」
玄斎が凍りつく。
声。
鷹見静山。
いや。
玄斎がかつて先生と呼んだ声。
「先生」
新之介が横を見る。
「宗太郎殿ですか」
「違う」
「宗一郎殿」
「……似ている」
「決められない」
「ああ」
声が続く。
「玄斎」
「十五年前、無音寺へ来なかったな」
玄斎の顔が歪む。
「兵庫」
「そなたは、私を斬ろうとした」
兵庫はいない。
だが海の静山も知っていた記憶。
「新之介」
「そなたは刀を小名木川へ捨てた」
新之介の表情が変わる。
その事実は知る者が多い。
だが。
「そして」
声が言う。
「川へ投げる直前」
「鞘の下緒を二度結び直した」
新之介は黙った。
近くにいた者しか見ていない。
いや。
自分自身も意識していなかった。
「覚えているか」
「……覚えています」
「なら入れ」
「それだけでは」
「まだ疑うか」
「はい」
声が笑った。
「よい」
玄斎が息を呑む。
「その笑い方」
「先生?」
「分からぬ」
「どちらです」
「宗太郎にも宗一郎にも聞こえる」
「では」
「顔を見ねば分からぬ」
声が続けた。
「榊原新之介」
「何です」
「私を信じるな」
新之介の顔が変わる。
「見ろ」
門の内側で。
ゆっくりと。
大手門が開き始めた。
兵たちが驚いて振り返る。
「命令では」
「開けるなと!」
「誰が!」
「分からぬ!」
重い門が半分まで開く。
その向こう。
江戸城大手門の内側に。
一人の男が立っていた。
白髪。
簡素な着物。
刀は持っていない。
玄斎が目を見開く。
「……宗一郎」
海にいたはずの男。
鷹見宗一郎。
静山を名乗った白髪の男だった。
その隣には。
相模屋長兵衛。
安西主税。
そして榊兵庫。
「兵庫!」
玄斎が叫ぶ。
兵庫は答えない。
代わりに宗一郎が言った。
「私が政務を預かる鷹見静山だ」
阿部が一歩出る。
「何の権限で!」
「ない」
「何」
「権限はない」
「では高札は」
「私が出した」
「勝手に?」
「ああ」
阿部の顔が真っ赤になる。
「逆賊だ!」
「そうなる」
「なぜそんなことを!」
「城内の者を外へ出すためだ」
「誰を」
宗一郎は江戸城の奥を振り返った。
「本当に政務を預かっている者を」
新之介の目が細くなる。
「そなたは囮として静山を名乗った」
「ああ」
「高札まで」
「人は名前へ寄ってくる」
「御影と同じことを」
「だから私は罪を負う」
「便利に罪を背負わないでください」
宗一郎が苦笑した。
「相変わらずだな」
「誰が本当の政務を」
宗一郎が答えようとした。
その時。
城内のさらに奥から、太鼓。
一打。
二打。
三打。
続いて鐘。
そして。
数十人の足音。
兵が大手門へ向かってくる。
「何だ」
神谷が身構える。
宗一郎の顔が変わった。
「来た」
「誰が」
「政を一つへ戻そうとする者だ」
門の奥から。
黒い衣の一団。
中央に一人。
顔を覆っている。
だが、その手には葵の紋。
もう片方には御影の割れた印を模した黒印。
将軍と御影。
二つを一つにした印。
「何者だ!」
阿部が叫ぶ。
黒衣の男が答えた。
「名はない」
玄斎が呻く。
「またか」
「名は必要ない」
「役があればよい」
新之介が前へ出る。
「その役を申せ」
黒衣の男は、静かに言った。
「国主」
家慶乙が眉をひそめる。
「将軍ではなく?」
「将軍は血で継ぐ」
「御影は名で継ぐ」
「どちらも間違えた」
「ゆえに」
黒衣の男は両手を広げた。
「血でも名でもなく、決断だけを継ぐ者を置く」
「それが国主」
「誰が決めた!」
阿部が怒鳴る。
「根帳だ」
「帳面が決めるか!」
新之介が叫ぶ。
「違う」
黒衣の男は答えた。
「根帳を読んだ者たちが決めた」
「誰だ」
「幕府」
「大名」
「商人」
「寺」
「海防」
「町方」
「嘘だ!」
清太郎が前へ出る。
「井戸端見分では、そんな合意はない!」
「そなたたちの見分だけではない」
「では誰の」
「四十七年前から続く見分だ」
宗一郎が顔を青ざめさせる。
「まさか」
「何です」
新之介が問う。
「御影の前だ」
「何」
「根帳を作る前」
「始帳を直した者たち」
「宗伯だけではなかった」
黒衣の男が言う。
「ようやく気づいたか、鷹見静山」
「そなたは誰だ」
「名はないと申した」
「では」
「最初の立会人だ」
宗一郎が息を呑む。
「あり得ぬ」
「四十七年前なら」
「生きていれば九十近い」
「私はその者ではない」
「なら」
「役を継いだ」
また。
名ではなく役。
「何人目だ」
新之介が問う。
黒衣の男は答えた。
「数えていない」
「数えろ」
「必要ない」
「必要だ!」
新之介の声が大手門へ響いた。
「誰がいつ何をしたか!」
「名がなくても、行いはある!」
「役へ罪を預けるな!」
黒衣の男が初めて黙った。
「国主でも」
新之介は続ける。
「御影でも」
「将軍でもない!」
「そなた自身の名を申せ!」
長い沈黙。
やがて男の手が、顔を覆う布へかかった。
ゆっくり外す。
現れた顔を見て。
阿部が息を呑んだ。
水野が一歩退く。
家慶乙の顔が凍りつく。
そして玄斎は、声すら出せなかった。
新之介だけが問う。
「知っている方ですか」
家慶乙が、震える声で答えた。
「……川辺主馬」
消えた御小納戸頭取。
影武者を管理していた男。
家慶の偽声を知っていた者。
七人の影武者の記録を持つ者。
そして。
川辺は、自分の顔を隠していた布を地面へ落とした。
「名を聞いたな」
「はい」
「なら記せ」
清太郎が筆を構える。
「川辺主馬」
「本日より」
川辺は二人の家慶。
鷹見静山。
阿部。
水野。
そして新之介を見渡した。
「徳川家の政を停止する」
家慶乙が怒鳴る。
「何の権限で!」
「御影と将軍の双方が偽り得ると証明されたからだ」
「だから誰が!」
「江戸城が」
「城は人ではない!」
新之介が叫ぶ。
川辺は、新之介だけを見る。
「では、そなたが決めろ」
「断る」
「まだ何も言っていない」
「その形が嫌いです」
「何」
「私一人へ国を渡すな」
川辺の目が細くなる。
「ならば」
「誰へ渡す」
「渡さない」
「国は誰かが持たねば動かぬ」
新之介は答えた。
「国を持つな」
門前が静まり返る。
「人が役を持て」
「役が人を持つな」
川辺の表情が初めて揺れた。
その瞬間。
江戸城奥から、さらに大きな鐘が鳴った。
非常鐘。
火事ではない。
城内騒擾。
水野が振り返る。
「何が起きた!」
黒衣の兵の一人が走ってくる。
「川辺様!」
「何だ」
「御座所で――」
息を切らす。
「もう一人の徳川家慶が!」
家慶乙が目を見開く。
「第三の」
「はい!」
「何を」
兵は叫んだ。
「自ら将軍ではないと申されました!」
「何」
「そして」
一同が固まる。
「本名を名乗りました!」
新之介が問う。
「名は」
兵が答えた。
「御影宗一」
宗太郎の息子。
死んだと思われた男。
命じる御影を捨てたはずの者。
七人の影武者の中へ入った可能性がある者。
江戸城の奥で。
第三の家慶が。
自分から顔を捨て。
御影宗一と名乗った。
川辺主馬の顔から、初めて完全に血の気が引いた。
「違う」
「何が」
新之介が問う。
「宗一は」
川辺が震える。
「二十年前に、私が殺した」
大手門の全員が動きを止めた。
役を捨てた者。
死んだはずの者。
生きて名乗った者。
そして殺したと告白する者。
新之介は川辺へ一歩近づいた。
「では」
「今度こそ」
「誰を殺したのか」
川辺主馬本人の口から。
その前と後ろを。
聞かなければならなかった。
(第六十八章へ続く)

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