第六十章 一つの答え
根帳の扉は、すでに半ばまで開いていた。
西徳寺の地下へ降りた新之介は、その前で足を止めた。
石造りの広間。
中央には四つの鉄箱。
第一冊。
第二冊。
第三冊。
第四冊。
その向こうに、九十一歳の御影宗伯。
宗伯を囲むように宮坂孫六、高梨勘兵衛、源太郎、篠田弥兵衛、伊助。
誰も刀を抜いていない。
だが誰も坂崎修理へ近づけない。
石扉の内側。
根帳を納めた部屋の前に、坂崎修理が立っていた。
「遅かったな」
坂崎は言った。
「榊原新之介」
聞き慣れた声だった。
声筒ではない。
井戸端見分で何度も聞いた、あの静かな声。
帳面の封を確かめ。
立会人の名を記し。
決して自分の考えを前へ出さなかった男。
「坂崎殿」
新之介が答える。
「名を変えなくてよいのですか」
「何」
「御影と呼んだ方が」
「今は坂崎修理でよい」
「今は」
「ああ」
玄斎が杖を鳴らした。
「三十年前は何だった」
坂崎は玄斎を見る。
「御影だ」
「名前ではない!」
「その前か」
「そうだ!」
「坂崎修理」
「では、それが生まれた名か」
「違う」
「またか!」
玄斎が頭を抱える。
「この一件、まともに本名を持っておる者はおらぬのか!」
宗伯が言った。
「わしは忘れた」
「爺は黙っておれ!」
「九十一だぞ」
「それも聞き飽きた!」
緊張の中で、源太郎だけが僅かに口元を緩めた。
だが新之介は笑わなかった。
「本当の名を聞きます」
坂崎が目を細める。
「必要か」
「必要です」
「なぜ」
「御影という役目へ話しかける気はない」
「では坂崎修理へ」
「それも役目です」
坂崎はしばらく黙った。
「……坂井修吉」
「生まれた名ですか」
「ああ」
「なら、まず坂井修吉殿として聞きます」
「何を」
「なぜ四冊を一つへ戻す」
坂崎――坂井修吉は、ゆっくり根帳の部屋を振り返った。
「一つでなければ、国は動かぬからだ」
◇
「またその話か」
玄斎が吐き捨てた。
「三宅も沢渡も申した」
「彼らとは違う」
「何が」
「私は四冊を読んだ」
その言葉に、一同が動いた。
「全部を?」
源太郎が問う。
「ああ」
「いつ」
「井戸端見分が始まる前から、一部は」
「どうやって」
「御影だからだ」
「封は」
「破っていない」
「では」
「写しがある」
お志津が地下へ降りてきた。
「誰が作った写しです」
「私だ」
「四冊が見つかる前から?」
「中身の元となった紙片は、御影の手へ戻るよう仕組まれていた」
新之介の顔が険しくなる。
「宗伯殿」
「わしの時代の仕掛けではない」
「では」
「二代目以後だ」
「この男が」
宗伯は坂崎を見る。
「私の仕組みを直した」
「直したのではない」
坂崎が答える。
「完成させた」
「何を」
「記録が消えない仕組みだ」
「人を監視する仕組みの間違いでは」
お志津が言った。
「同じことだ」
「違います」
「記録するには見る必要がある」
「見る者が権力を持てば」
「だから名を捨てた」
「それで責任まで捨てたのか!」
新之介の声が響いた。
坂崎が彼を見る。
「責任を捨てたつもりはない」
「誰へ負った」
「国へ」
「国の誰です」
「また名を聞くか」
「国という名で人を隠すな!」
坂崎の口元が僅かに動いた。
「半年前、宗伯へ書いた通りだ」
「何を」
「そなたは面倒だ」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めていない」
◇
その時、地上から何か崩れる音がした。
細かな砂が天井から落ちる。
「火が回っている!」
宮坂が叫ぶ。
「本堂脇の火です!」
「誰が消火を」
「了順殿と寺男、それに町方が!」
「人は」
「一人、地下へ降りたまま戻っていません!」
新之介が振り返る。
「誰だ」
「寺男の庄七!」
「どこへ」
「第一冊が落ちた通路の枝道です!」
「先に助ける」
新之介が言った。
坂崎が眉をひそめる。
「今か」
「今です」
「根帳が開いている」
「人が一人いない」
「根帳には国を揺らす名が」
「庄七にも名がある」
「一人の寺男と国を比べるのか」
「比べない!」
新之介は半九郎を見る。
「行けますか」
「浅いです」
「傷人は皆」
「今は言わせません」
「では私と」
「新之介殿はここへ!」
「なぜ」
「坂崎殿が待っていたのは、あなたです!」
「だから」
「あなたがいなくなれば話が進まない!」
玄斎が頷く。
「わしが行く」
「先生は膝人です」
「また申した!」
「私が行きます」
伊助が前へ出た。
「地下道は水の流れを見れば戻れます」
「一人では」
「高梨殿」
「行こう」
高梨が頷く。
「二人で庄七を探す」
「見つけたら」
「人を先に戻す」
「根帳の紙より」
「分かっている」
二人が枝道へ走る。
坂崎はその背中を見ていた。
「それで国が動くと思うか」
「何が」
「一人ずつ名前を聞き、一人ずつ助け、一つずつ確かめる」
「動かないこともある」
「なら」
「それでも人を踏んで速く進むよりよい」
「異国船が砲を向けていてもか」
「必要なら速く決める」
「誰が」
「その場にいる者が」
「皆で相談している間に砲弾が来る」
「だから役を分ける」
「最後の判断は一人だ」
「責任を負う者は必要です」
「同じではないか」
「違う」
「何が違う!」
初めて坂崎の声が荒くなった。
「一人が決めることを認めながら、なぜ一つの答えを拒む!」
新之介は静かに答えた。
「決めた後で、間違いだったと言えるかどうかです」
坂崎が止まった。
「何」
「一つの答えにしてしまえば、後から間違いを認めた者が裏切り者になる」
「……」
「役目として決めるなら、記録する」
「誰が何を見たか」
「何を知らなかったか」
「なぜ、その時そう決めたか」
「後で違う事実が出たら、変える」
「それでは権威が落ちる」
「落ちればよい」
「国が揺れる!」
「間違ったまま固まるよりよい!」
◇
坂崎は根帳の部屋へ一歩入った。
「なら見ろ」
新之介たちへ手招きする。
石室の中央。
台の上に、巨大な一冊の帳面。
四冊を合わせたより厚い。
表紙に文字はない。
黒い革。
角は擦り切れている。
「これが根帳」
半九郎が呟く。
「触るな」
源太郎が言う。
「誰もまだ立会を決めていない」
「今さらか」
坂崎が笑う。
「今だからだ」
源太郎は退かなかった。
「誰が開く」
「榊原」
「なぜ私が」
「そなたが最後の一人だからだ」
「何の」
「根帳に足りなかった者」
「意味が分かりません」
坂崎は帳面の横に置かれた紙を一枚取った。
「根帳は最初、誰が悪いかを記す帳面だった」
「宗伯殿から聞きました」
「次に、誰を使えば国が動くかを記す帳面になった」
「それが御影」
「ああ」
「さらに」
「三代目から変わった」
「何へ」
坂崎は紙を新之介へ見せる。
そこには縦に項目が並んでいた。
役目。
家。
利。
恐れ。
恩。
弱み。
そして最後に、
――何を失えば動くか。
「人の扱い方」
お志津の顔が強張る。
「そうだ」
「続帳の元ですね」
「ああ」
「父も、ここから」
「相模屋長兵衛は一部を見た」
「それで人の弱みを帳面へ」
「商いへ使った」
「文吉は」
「さらに声へ」
「三宅は」
「家へ」
「宗山を名乗った者は」
「思想へ」
新之介は帳面を見た。
すべてが一本の根から伸びている。
「根帳を焼けば終わる」
坂崎が言った。
玄斎が眉をひそめる。
「先ほどは開けると」
「開けてから焼く」
「なぜ」
「最後の一頁を書くためだ」
「何を書く」
坂崎は新之介を見た。
「誰にも、一つの答えを決めさせるな」
全員が黙った。
新之介は坂崎を見返す。
「私と同じことを」
「そうだ」
「ならなぜ」
「それを最後の答えとして残す」
「矛盾しています!」
半九郎が言った。
「矛盾ではない」
「一つの答えを決めるな、という一つの答えでしょう!」
「だから強い」
「何が」
「誰も二度と御影を作れなくなる」
「どうやって」
「根帳に、榊原新之介がそう決めたと書く」
新之介は、ようやく坂崎の狙いを理解した。
「私を最後の御影にする気か」
「御影ではない」
「では」
「御影を終わらせた者だ」
「同じです」
「違う」
「違いません!」
新之介の声が地下へ響いた。
「そなたはまた一人の名を使う!」
「榊原新之介が決めた!」
「榊原新之介が終わらせた!」
「後の者は私の名へ従う!」
「私が死ねば、死者の声になる!」
玄斎が息を吐いた。
「ようやく分かったか」
坂崎の顔に苦悩が浮かぶ。
「では、どう終わらせる」
「終わらせない」
「何」
「仕組みは一日で終わらない」
「御影も残すのか!」
「役目を持つ者がいる限り、似たものは生まれる!」
「なら何をする!」
「見えるようにする!」
新之介は根帳を指した。
「隠すから御影になる!」
「誰が見ているか!」
「誰が記録したか!」
「誰が封じたか!」
「全部残す!」
「そして読まれたくない理由も残す!」
「国家機密は」
「必要なら伏せる!」
「だが伏せた者の名と理由は残す!」
「それを敵が読めば」
「読ませる相手を決める!」
「また決めるではないか!」
「だから、その決め方も記録する!」
坂崎が言葉を失う。
「終わりませんよ」
新之介が言った。
「何が」
「問いは」
「……」
「そなたは終わらせたかった」
「私は三十年やった!」
「疲れたのですか」
坂崎の顔が変わった。
「何」
「御影を」
「黙れ」
「人を見張り」
「名を変え」
「記録を集め」
「誰にも自分の仕事を言えず」
「黙れ!」
「終わらせたかったのは国の迷いではない!」
「そなた自身の役目でしょう!」
坂崎の手が震えた。
「分かったような口を」
「分かりません」
「なら言うな!」
「だから聞いている!」
「何を」
「坂井修吉殿!」
新之介は彼の生まれた名を呼んだ。
「御影をやめたいのですか」
坂崎は答えなかった。
◇
地上で柱が崩れる音。
煙が地下へ流れ始める。
「火が!」
篠田が言う。
「入口まで来ます!」
「根帳を運ぶ」
坂崎が即座に帳面へ手をかけた。
「待て!」
「焼ける!」
「一人で持つな!」
「では手を貸せ!」
新之介は周囲を見る。
「四人」
「何」
「町方、海防掛、戸田家、町人」
「寺もです!」
お志津が言う。
「寺は了順殿が地上です」
「では、ここでは五つ目に私が」
「相模屋としてでは」
「お志津として」
坂崎が苦笑した。
「帳面一冊運ぶにも立会か」
「今までが今までですから」
源太郎が言う。
根帳の四隅へ手を入れる。
坂崎。
源太郎。
宮坂。
お志津。
新之介。
「半九郎殿は」
「何を」
「道を見てください」
「また傷人だからですか」
「はい」
「正直ですね」
「今は」
「申すな、でしょう」
五人で持ち上げる。
重い。
想像以上。
「紙だけで、この重さか」
「四十七年分だ」
宗伯が言った。
「人の罪は重い」
「格好をつけるな!」
玄斎が怒鳴る。
「爺も持て!」
「九十一だぞ!」
「知っておる!」
◇
「いたぞ!」
枝道から高梨の声。
伊助と二人で、寺男の庄七を担いで戻ってくる。
庄七の足には木片が刺さっている。
「生きているか!」
「生きています!」
「先に上へ!」
「根帳は」
「後だ!」
坂崎がそのやり取りを見ていた。
五人の手から、根帳が一瞬揺れる。
「坂井殿」
新之介が言う。
「何だ」
「手を離さないでください」
「分かっている」
「庄七殿が先です」
「帳面が燃えたら」
「皆で責任を負う」
「簡単に言うな」
「一人で負うよりよい」
庄七が先へ運ばれる。
その後を根帳。
だが通路の途中で、千代が立ち止まった。
「待て」
「何です」
「声がする」
全員が耳を澄ます。
地下の奥。
根帳の石室。
誰も残っていないはずの場所。
声。
「榊原新之介」
新之介の声だった。
偽声。
続けて、
「坂崎修理」
今度は水野の声。
「根帳を焼け」
戸田備前守の声。
「四冊も焼け」
将軍家慶の声。
「上意である」
玄斎が顔をしかめる。
「最後までこれか」
千代が首を振った。
「違う」
「何が」
「声筒だけではない」
床下から、かち、と音。
弥助がいない。
彼ならすぐ分かっただろう。
新之介も聞いたことがある。
異国船の船底。
時限の火打ち。
「火薬だ!」
半九郎が叫んだ。
「根帳の部屋に!」
坂崎の顔色が変わる。
「そんな仕掛けは知らぬ!」
「今の御影です!」
千代が言う。
「誰が!」
「そなたの後です!」
「私は役目を誰にも」
「御影は勝手に名乗れる!」
玄斎が怒鳴った。
「さっき自分たちで申しただろう!」
かち。
かち。
かち。
速くなる。
「根帳を置け!」
新之介が叫ぶ。
「走れ!」
「帳面は!」
坂崎が問う。
「持ったままでは全員遅い!」
「捨てるのか!」
「置く!」
「焼ける!」
「人が先だ!」
「四十七年が!」
「紙の四十七年より、今いる人だ!」
坂崎は動かない。
「坂井修吉殿!」
新之介が怒鳴る。
「根帳を離せ!」
「……」
「御影としてではない!」
「坂井修吉として選べ!」
坂崎の指が、帳面から離れた。
「離す!」
五人が同時に手を離す。
根帳が石床へ落ちる。
「走れ!」
一同が通路を駆ける。
玄斎は走れない。
「先生!」
「先へ行け!」
「今度は置いていきません!」
新之介と半九郎が左右から玄斎を支える。
「自分で歩ける!」
「遅い!」
「膝人を馬鹿にするな!」
四十七番が宗伯を背負う。
「お前も足が悪いだろう!」
「兄に会うまで死ねぬ!」
「ならわしを置け!」
「九十一を置けるか!」
「今日は皆、年寄りへ優しいな!」
千代が最後尾で振り返る。
「来る!」
閃光。
地の底が白く光った。
爆発。
熱風。
新之介は玄斎を抱えるように伏せた。
石が飛ぶ。
煙。
轟音。
耳が何も聞こえなくなる。
しばらくして。
新之介は顔を上げた。
「先生!」
玄斎の口が動く。
聞こえない。
「半九郎殿!」
半九郎も生きている。
お志津。
源太郎。
宮坂。
篠田。
高梨。
伊助。
千代。
四十七番。
宗伯。
坂崎。
一人ずつ目で確かめる。
全員いる。
やがて耳へ音が戻る。
「根帳は」
坂崎が呟いた。
後方。
石室は炎に包まれていた。
入口が崩れている。
「燃えたか」
「分かりません」
「戻る!」
坂崎が立とうとする。
新之介が腕を掴んだ。
「今は無理です!」
「四十七年だ!」
「人が先です!」
「もう全員いる!」
「火が収まってからです!」
「その間に!」
「では一人で行くのですか!」
坂崎が止まる。
息が荒い。
目には涙とも煙とも分からぬもの。
「私は……」
「はい」
「三十年、あれを終わらせるために」
「分かっています」
「最後に燃えるのを見ているだけか」
「まだ燃えたと決まっていません」
「もし燃えたら」
「残っているものを確認する」
「何が残る」
「私たちが読んだ部分」
「四冊」
「宗伯殿の記憶」
「そなたの記憶」
「お志津殿の記録」
「玄斎先生の顔」
「皆、ばらばらだ」
「だからよい」
坂崎が新之介を見る。
「一つでなくてもよいと」
「はい」
「また迷うぞ」
「迷います」
「国が」
「それでも」
「人が苦しむ」
「だから決める時は決める」
「そして」
「間違えたら戻る」
坂崎は長く黙った。
やがて、自分の腰から御影の印を取り出した。
小さな黒い印。
何十年も持っていたもの。
「これを」
新之介へ差し出す。
新之介は受け取らない。
「なぜ私へ」
「終わらせろ」
「断ります」
「何」
「私へ渡せば、次の御影になる」
「では誰へ」
「誰にも」
「どうする」
新之介は篠田を呼ぶ。
「紙を」
「はい」
「今ここにいる全員の名を」
「何のために」
「この印を壊した者として残す」
坂崎の目が動く。
「皆で壊すのか」
「皆で見る」
源太郎が石を一つ拾った。
「叩くのは」
玄斎が杖を上げる。
「わしだ」
「先生一人では」
「では皆で杖を持つか」
「滑稽です」
「それでよい」
新之介は笑った。
玄斎の杖の上へ。
新之介。
半九郎。
お志津。
源太郎。
宮坂。
高梨。
伊助。
四十七番。
千代。
最後に坂崎自身が手を重ねる。
「宗伯殿は」
「九十一だぞ」
「手くらい出せます」
「仕方ない」
老人も触れる。
御影の印を石床へ置く。
「これで御影が終わると思うか」
坂崎が問う。
「思いません」
「ではなぜ」
「少なくとも、この印は終わる」
「小さいな」
「小さいところからです」
全員で杖を振り下ろした。
黒い印が割れた。
二つ。
三つ。
細かな欠片。
篠田が記す。
――御影印、破却。
――立会人、以下十二名。
「十二?」
玄斎が数える。
「庄七殿を忘れています!」
新之介が言う。
「彼は先に運ばれました!」
「ここにはいない」
「爆発の前までいました!」
「では十三」
「了順殿は」
「地上だ」
「記録の確認者に」
「増えるな」
「多いからよい!」
源太郎が笑った。
◇
その時。
崩れた石室の向こうから、一枚の紙が風に乗って飛んできた。
焦げている。
半分だけ。
新之介の足元へ落ちる。
「根帳の紙か」
坂崎が拾おうとする。
「待て」
新之介が止める。
「立会を」
「こんな時まで」
「こんな時だからです」
お志津が布を広げる。
紙をその上へ。
全員で見る。
黒く焦げた紙。
上半分は失われている。
残る文字。
人名。
年。
役目。
そして一番下。
――御影宗伯、二代。
――坂崎修理、三代。
坂崎が息を呑む。
「三代?」
「二代では」
「私は二代目と聞かされていた」
宗伯の顔が変わる。
「違う」
「何が」
「わしが役目を渡した男は、坂崎ではない」
地下が静まり返った。
「先ほど」
新之介が言う。
「千代殿は、二代目の本名が坂崎修理だと」
「私はそう教えられた」
「誰から」
千代が答える。
「坂崎本人だ」
全員の目が坂崎へ向く。
「そなた」
宗伯が低く言った。
「二代目を殺したのか」
坂崎の顔から血の気が引いた。
「知らぬ」
「ではなぜ自分を二代目と」
「そう聞かされて」
「誰に!」
坂崎は焦げた紙を見た。
さらに下。
まだ一行残っている。
半分焼けて読みにくい。
新之介が灯りを近づけた。
――二代御影、本名――
そこから先が焦げている。
「読めない」
半九郎が言う。
「待て」
お志津が紙を斜めにする。
炭化した部分の下に、墨の跡。
一文字。
次の一文字。
完全ではない。
だが玄斎が先に声を出した。
「……鷹見」
全員が固まる。
新之介が残る文字を読む。
最後の二文字。
「静山」
焦げた根帳には、こう残っていた。
――二代御影、本名 鷹見静山。
玄斎の顔が真っ白になる。
「そんな」
海にいる男。
鷹見宗一郎。
静山を名乗る者。
だが根帳は、別の「鷹見静山」が二代目御影だったと記している。
宗伯が震える声で呟いた。
「違う」
「何が」
新之介が問う。
「わしが二代目へ渡した時」
「はい」
「あの男はまだ――」
老人は、焦げた紙から目を離せない。
「鷹見静山とは名乗っていなかった」
「では誰です」
宗伯が答えようとした瞬間。
地上から、了順の叫び声が響いた。
「榊原殿!」
「江戸城から急使です!」
「将軍家慶公が――」
新之介たちは一斉に振り返った。
「見つかったのか!」
「はい!」
「どこで!」
了順の声が震える。
「再起館です!」
新之介は息を呑んだ。
井戸。
第一冊が最初に見つかった場所。
すべてが始まった場所。
「ご本人は」
「生きておられます!」
「誰と!」
短い沈黙。
そして了順は答えた。
「鷹見静山と名乗る男と、ご一緒です!」
海には、すでに一人いる。
それなのに。
再起館にも、もう一人。
今度こそ。
鷹見静山は、一人ではなくなった。
(第六十一章へ続く)

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