第五十九章 将軍の顔
日本橋の向こうから、葵の紋が近づいてきた。
先頭に槍持ち。
その後ろに徒歩の供侍。
さらに白木の長持。
そして中央。
黒塗りの駕籠。
葵の紋は大きく、遠目にも分かる。
「道を開けろ!」
役人らしい男が叫んだ。
「上様のお成りである!」
群衆が一斉に膝をつき始める。
店先。
橋の上。
河岸。
先ほどまで「米を出せ」「罪人を裁け」と叫んでいた者たちまで、身体が先に動く。
「下がれ!」
「頭を下げよ!」
日本橋が急に静かになった。
新之介は立ったままだった。
半九郎が小声で言う。
「新之介殿」
「何です」
「皆、頭を下げています」
「見えています」
「我々も」
「まだ分からない」
「ですが、本物なら」
「だから見る」
新之介は駕籠を見つめた。
水野隼人正も馬から降りている。
だが頭は深く下げていない。
「水野様」
新之介が呼ぶ。
「この行列を、どこから」
「江戸城大手門から出た」
「見たのですか」
「ああ」
「上様のお姿は」
「見ていない」
「では」
「駕籠へ乗られたと聞いた」
「誰から」
「御側衆だ」
「顔は」
「知る者だった」
「名は」
「久松主膳」
「本人でしたか」
水野の顔が険しくなる。
「そこまで疑うか」
「今まで何を見てきたのです」
水野は答えなかった。
声。
顔。
印。
行列。
何一つ、それだけでは証にならない。
「行列を止めるのですか」
半九郎が問う。
「止めれば不敬になります」
「通せば」
「偽物だった場合、日本橋全体が従う」
「ならどうする」
新之介は駕籠の歩みを見る。
「こちらから動かない」
「何」
「来てもらう」
「将軍に?」
「本物なら、私の出頭を命じに来たのでしょう」
「そうだ」
「ならば向こうから私を呼ぶ」
「確かに」
「偽物なら」
「こちらへ来たくない理由がある」
玄斎が杖をつきながら言った。
「顔を見られるからか」
「先生」
「わしも見る」
「誰を」
「家慶公を」
「会ったことが」
「一度だけある」
「いつ」
「三十年ほど前」
「若い頃では」
「人の目は、年を取っても残る」
「顔は変わります」
「だから目を見る」
千代――今の御影を名乗っていた男が、台の上で静かに行列を見ていた。
逃げようとはしない。
「そなたは知っているのか」
新之介が問う。
「何を」
「あれが本物か」
「知らぬ」
「本当に」
「私が用意した行列ではない」
「では、そなたの計画にもなかった」
「ああ」
「誰が動かした」
「将軍家本人か」
「あるいは」
千代が笑う。
「私より先に、別の誰かが榊原新之介を使おうとしている」
「笑い事ではない」
「面白いではないか」
「そなたは国を動かそうとしていた」
「だからこそだ」
千代は駕籠を見る。
「誰かが私の仕掛けを逆に使っている」
「今の御影なのに」
「御影は一人とは限らぬ」
「何」
「役目は渡せる」
「いつ渡した」
「渡していない」
「では」
「勝手に名乗る者が出た」
玄斎が額へ手を当てた。
「また増えるのか」
「先生方のせいです」
「わしではない!」
◇
行列が日本橋の中央で止まった。
「榊原新之介!」
先触れの侍が叫ぶ。
「前へ!」
新之介は動かない。
「聞こえぬか!」
「聞こえています!」
「上様のお召しである!」
「どなたが上様です!」
群衆がどよめく。
侍の顔が真っ赤になる。
「無礼者!」
「今、駕籠の中におられる方です!」
「その方のお顔を拝見した者は!」
「頭が高い!」
「それでは答えになっていない!」
「榊原!」
水野が低く呼ぶ。
「やり方を考えろ」
「考えています」
「それでこれか」
「今さら声だけへ従えません」
先触れの侍が刀へ手をかける。
「逆賊として捕えるぞ!」
「それも上様の命ですか」
「私が判断する!」
「では、そなたの命ですね」
侍が止まる。
新之介は続けた。
「名を」
「何」
「そなたの名を申してください」
「御使番・榊原監物!」
群衆の一部がざわめく。
同じ榊原。
「親類か!」
「違う!」
監物が怒鳴る。
「榊原新之介とは縁もない!」
「では榊原監物殿」
「殿など要らぬ!」
「そなたは駕籠の中の方を見ましたか」
「見ていない!」
「なぜ上様だと」
「城から出た駕籠だからだ!」
「その駕籠へ乗った瞬間を」
「見ていない!」
監物の声が少し弱くなる。
「誰が乗られたと」
「久松主膳殿が」
水野と新之介が顔を見合わせる。
「久松主膳殿は今どこに」
「城に残った」
「誰か使いを」
「何を確かめる!」
「ご本人が本当に命を伝えたか」
「その間、上様をここへ」
「本物なら、お待ちいただく」
「不敬だ!」
「偽物なら、待たせるべきです!」
日本橋の群衆がざわつく。
誰も立ち上がらない。
だが耳は新之介たちへ向いている。
台上の千代が突然笑った。
「これが、そなたの国か」
「何」
「将軍が来ても、まず本人か確かめる」
「そなたたちがこうした」
「だから面白い」
「責任を他人事にするな」
「私は今、自分の仕掛けに驚いている」
「喜ぶな」
◇
黒塗りの駕籠の簾が、わずかに動いた。
全員の息が止まる。
中から手が出る。
白い。
細い指。
年老いた男の手ではない。
「若い」
玄斎が呟く。
簾が上がった。
出てきたのは、将軍ではなかった。
十五、六ほどの少年。
顔は青ざめている。
髪は武家の形。
豪奢な着物。
「誰だ」
監物が叫ぶ。
自分も知らないらしい。
少年は駕籠から転がるように降りた。
「助けてください!」
群衆が騒然となる。
「上様は!」
水野が走る。
「誰に乗せられた!」
少年は震えている。
「私は……小姓です」
「名は」
「堀田新三郎」
「誰の小姓だ」
「大奥ではありません……御小納戸です」
「なぜ駕籠に」
「久松様に」
「久松主膳が!」
「違います!」
少年は首を振る。
「久松様のお姿をした方です!」
「顔を作った」
半九郎が呟く。
「また」
「声も同じでした」
「何を命じられた」
「駕籠へ入れと」
「なぜ従った」
「上様のお命だと」
「本人の声を聞いたか」
少年は泣きそうな顔で首を振る。
「聞いていません」
また同じ。
人は印へ従い。
声へ従い。
役職へ従う。
「本物の家慶公は」
水野が問う。
「分かりません!」
「城にいるのか!」
「朝から、お姿を見ていません!」
群衆に動揺が広がる。
「将軍が消えた?」
「城で何が」
「誰が江戸を」
監物が少年の肩を掴む。
「何を申している!」
「本当です!」
「御座所は」
「空でした!」
水野の顔色が変わった。
「何時から」
「巳の刻には」
「誰が知っている」
「御側衆の一部だけです!」
「なぜ外へ出なかった」
「上様が病でお休みと」
「誰の命だ」
新三郎は答えた。
「久松主膳様」
水野が息を吐く。
「本物の久松が、すでに入れ替わっている可能性がある」
新之介が言う。
「ある」
「では江戸城そのものが」
「誰の声で動いているか分からぬ」
千代が台上から呟いた。
「やられた」
「何」
「私ではない」
「誰だ」
「御影を真似た者だ」
「名を!」
「だから知らぬ!」
千代の顔には、初めて本物の焦りがあった。
◇
「群衆を散らせ!」
水野が監物へ命じた。
「なぜ私が」
「このまま将軍失踪が広がれば江戸が崩れる!」
「隠すのですか」
新之介が問う。
「今は混乱を抑える」
「隠せば、また声だけが残る」
「では町人全員へ将軍が消えたと申すのか!」
「消えたかどうかも分からない」
「だからだ!」
水野は新之介へ詰め寄る。
「今は確かめる時間が必要だ!」
「時間がない者ほど」
「分かっている!」
水野が怒鳴った。
「他人の命を使うな、だろう!」
「なら」
「だから群衆を斬って散らす気はない!」
「どうする」
水野は日本橋の人々を見る。
「榊原」
「はい」
「そなたが話せ」
「何を」
「分からないことを」
「それで人が納得しますか」
「納得させるな」
「何」
「ここにいる者へ、分からないと伝えろ」
新之介は水野を見る。
その言葉を水野が言うとは思わなかった。
「役人が分からないと」
「ああ」
「信用を失います」
「もう失っている」
水野は苦く笑う。
「なら、最初から始めるしかない」
新之介は台へ上がった。
隣に千代。
同じ顔はもうない。
新之介だけが新之介の姿。
だがそれで信用されるわけではない。
「皆さん!」
群衆が静かになる。
「今、将軍家慶公が江戸城におられるか、分かりません!」
すぐに騒ぎ。
「消えたのか!」
「攫われた!」
「誰が将軍だ!」
「静かに!」
新之介は続ける。
「分からないことは、分からない!」
「役人なのにか!」
「私は役人ではありません!」
「じゃあ何だ!」
新之介は一瞬考えた。
「それも、説明すると長い!」
笑いが起きた。
少しだけ。
「ですが!」
「将軍が消えたと決まったわけでもない!」
「偽物の行列が来たことだけは確かです!」
「駕籠に乗っていた堀田新三郎殿は、ここにいる!」
少年が恐る恐る前へ出る。
「本人へ聞いてください!」
「誰が聞く!」
「一人ずつでは時間がない!」
「では代表を出す!」
蔵前と同じ。
町人。
商人。
女。
寺。
町方。
「三吉殿!」
「また俺か!」
「そなたは顔を知られています!」
「望んでねえぞ!」
群衆が笑う。
「おきよ殿!」
「はい!」
「徳松殿!」
「おります!」
「寺から誰か!」
了順は西徳寺。
代わりに日本橋近くの僧が一人手を上げる。
「本誓寺の智善」
「町方は」
「私が」
篠田弥兵衛が到着した。
地下から遅れて追ってきたらしい。
「五人で聞く!」
「何を」
「新三郎殿がどこで、誰に、何を命じられたか!」
「書く者は」
清太郎の声がした。
「私が書きます!」
人込みを抜け、吉松とともに現れる。
「なぜここに!」
新之介が驚く。
「日本橋に榊原様が二人いると聞きました!」
「見物か!」
「記録です!」
「半分は?」
「見物です!」
「正直すぎる!」
◇
代表者による聞き取りが始まった。
堀田新三郎は震えながら話す。
「朝、久松主膳様から呼ばれました」
「顔は」
「いつもと同じに」
「声は」
「同じでした」
「何か違和感は」
おきよが問う。
「……匂い」
「匂い?」
「香が強かった」
「何の」
「伽羅です」
清太郎が記す。
「久松様は普段、香を」
「使いません」
「なぜ気づかなかった」
三吉が問う。
「役目の方へ頭が行っていました」
「何を命じられた」
「上様が人目を避けて御成りになるため、駕籠へ先に入れと」
「意味が分からねえだろ」
「御小納戸は、意味を問わず従うことも」
「それが役目か」
「はい」
三吉が新之介を見る。
「役目って怖えな」
「人が見えなくなる時は」
「またその話か」
「大事です」
新三郎が続ける。
「駕籠へ入ると、外から鍵を」
「鍵?」
「出られなくなりました」
「途中で誰か話したか」
「はい」
「何と」
「榊原新之介を日本橋へ連れ出せ、と」
「誰の声」
新三郎が新之介を見る。
「あなたです」
全員が固まる。
「私の声が」
「はい」
「どこから」
「駕籠の床下です」
千代が動いた。
「声筒だ」
「何を言った」
「『将軍家慶は私が預かった』と」
日本橋が静まり返った。
「何」
新之介の顔から血の気が引く。
「続けてください」
「『四冊を根帳へ戻せ』」
玄斎が台へ上がる。
「誰がその声を入れた」
「分かりません」
「ほかには」
「『申の刻までに四冊が揃わなければ、将軍を殺す』と」
清太郎の筆が止まる。
四冊は今、西徳寺地下に集まっている。
すでに条件は満たされている。
「申の刻は」
半九郎が空を見る。
「もうすぐです」
「将軍を殺す必要はなくなった」
千代が言う。
「何」
「相手の目的は四冊を集めることだ」
「だが根帳は開いていない」
「そこだ」
千代の目が鋭くなる。
「箱だけでは足りない」
「何が」
「開ける者が要る」
「誰だ」
「御影宗伯」
新之介は地下に残してきた九十一歳の老人を思い浮かべた。
「宗伯殿が鍵なのか」
「四冊の金具を置く順番を知るのは、宗伯だけだ」
「では狙いは」
「日本橋で我々を引きつけ」
「地下で宗伯を」
玄斎が杖を床へ叩きつけた。
「戻るぞ!」
「待ってください!」
「何を待つ!」
「将軍家慶公は」
「こちらでも探す!」
水野が言った。
「私と青山は城へ戻る!」
「本物の久松主膳を」
「探す!」
「日本橋は」
「町方と戸田家へ任せる!」
「千代は」
全員が男を見る。
偽の新之介として民衆を煽った者。
御影という仕組みの現在の担い手。
「縄を」
半九郎が言う。
千代は抵抗しなかった。
「打て」
「逃げないのか」
新之介が問う。
「今の御影は私ではない」
「何」
「私は、もう外された」
「いつ」
「今、分かった」
「誰に」
「私の知らない仕掛けが動いている」
「だから協力する」
「御影を奪った者を見たい」
「復讐か」
「半分は」
「残りは」
千代が自分の剥がした新之介の顔型を見る。
「私は、自分の名を考えたい」
新之介は少し黙り、篠田へ言った。
「町方と海防掛、二本の縄を」
「戸田家も入れます」
宮坂が追いついてきた。
「三本」
「重いぞ」
千代が言う。
「逃げにくくてよい」
◇
西徳寺へ戻る一行は、新之介、玄斎、半九郎、千代。
そこへ四十七番も加わった。
「兄は」
四十七番が問う。
「海にいる」
「戻らないのか」
「二十三人と第三冊を見ています」
「そうか」
「会いたいですか」
四十七番は長い間答えなかった。
「怖い」
「兄弟なのに」
「兄弟だからだ」
「皆、それを申しますね」
「兄もか」
「先生も」
「なら、やはり兄だ」
「そこだけで決めないでください」
舟は小網町から西徳寺へ急ぐ。
途中、江戸城方面から鐘。
火事ではない。
登城を命じる鐘。
「何が起きている」
半九郎が言う。
新之介は答えなかった。
将軍が消えた。
四冊は地下。
根帳。
九十一歳の宗伯。
今の御影。
誰かが、これまでの全ての仕掛けをさらに上から利用している。
「新之介」
玄斎が言う。
「何です」
「相手は、そなたが根帳を開けぬと読んでいたと思うか」
「分かりません」
「開けると思ったかもしれぬ」
「それなら日本橋へ私の偽物を置く必要は」
「そなたを地下から出すためだ」
新之介の顔が変わった。
「では」
「根帳を開けるために必要なのは宗伯だけではない」
「私も」
「かもしれぬ」
「なぜ」
千代が答えた。
「御影宗伯は、半年前からそなたを見ていた」
「だから何です」
「根帳を開けた後、読む者が必要だ」
「私に読ませる」
「違う」
「では」
「そなたに、答えを選ばせる」
「私は選ばない」
「だから選ばせる価値がある」
千代は静かに言った。
「問い続けた榊原新之介が、一つの答えを選ぶ」
「それを皆へ見せれば」
「御影の正しさが証明される」
玄斎が舌打ちする。
「どこまで人を物語にしたがる」
「物語は人を動かす」
千代が答える。
「私もそれに囚われた」
「なら今度は」
新之介が言う。
「物語どおりに動かない」
「何をする」
「行ってから決める」
「またか」
「はい」
西徳寺の山門が見えた。
だが。
鐘楼がない。
いや。
煙に隠れている。
「火事だ!」
半九郎が立ち上がる。
「舟を寄せろ!」
境内から黒煙。
人々が水桶を運んでいる。
第一冊の土蔵ではない。
鐘楼でもない。
地下への入口がある本堂脇。
「宗伯殿は!」
新之介が岸へ飛び降りる。
「地下です!」
了順が走ってくる。
「宮坂殿たちは!」
「皆、地下へ!」
「何があった!」
「御影宗伯殿が――」
了順が息を整える。
「御自分で四冊を根帳の扉へ運ばせました!」
「何」
玄斎が叫ぶ。
「約束しただろう!」
「止めました!」
「なぜ」
「声が届いたのです!」
「誰の!」
了順が新之介を見る。
「榊原殿」
新之介の声。
今度は日本橋の偽物ではない。
「何を申した」
「『根帳を開けろ。これが私の答えだ』と」
「宗伯殿は、それを信じたのか!」
「違います!」
「では」
「聞いた後、笑われました」
「何と」
了順は答えた。
「『ようやく来た。二代目の私だ』と」
玄斎も四十七番も千代も、動きを止めた。
「二代目」
新之介が呟く。
鷹見静山ではない。
御影宗伯。
「今の御影は」
千代の顔が青ざめる。
「宗伯が役目を渡した、二代目御影本人だ」
「生きているのか」
「三十年前なら」
「年は」
「今、六十前後」
「誰だ」
千代は首を振った。
「私は顔を知らない」
「名前は」
「一度だけ聞いた」
「申せ!」
千代は答えた。
「御影宗伯が役目を渡した男の本名は――」
地下から、重い石扉が開く音が響いた。
ごごごご、と寺全体が震える。
根帳の扉。
開いた。
そして地の底から、老人ではない男の声が響く。
「榊原新之介」
新之介自身の声ではない。
鷹見静山でもない。
千代が震えながら、その名を口にした。
「坂崎修理」
四冊の見分に加わり、これまで一度も前へ出ず、記録と封を守る側にいた男。
井戸端見分の内側。
すべての保管場所と、すべての立会人を知る者。
地の底から、坂崎修理の声が続いた。
「待っていたぞ」
「根帳を読む最後の一人を」
新之介は、開いた地下口を見つめた。
これまで帳面を守る側にいた男が。
最初から、帳面を一つへ戻す側にいた。
(第六十章へ続く)

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