第六十五章 死んだ将軍
高札の写しを前に、徳川家慶はしばらく黙っていた。
――将軍徳川家慶、本日薨去。
自分の死を告げる文字。
しかも江戸城から出た正式な高札だという。
「上様」
町方の同心が恐る恐る呼ぶ。
家慶が顔を上げた。
「その呼び方は、しばらくやめた方がよいな」
「ですが」
「高札の上では、私は死んだ」
「だからといって」
「そして城内に、私を名乗る者がいるかもしれぬ」
家慶は新之介を見る。
「榊原」
「はい」
「私なら、どうする」
「聞く相手を間違えています」
「何」
「家慶殿が、どうするかです」
「私へ返すか」
「将軍であるか確定していない者へ、将軍としての答えを求められません」
「相変わらず厳しいな」
「今は特に」
玄斎が高札を覗き込んだ。
「しかし、死んだ者へ逆賊とは妙だな」
「何がです」
「次を見ろ」
清太郎が読み返す。
「――将軍を名乗る者、すべて逆賊として捕縛せよ」
「死んだと告げながら、名乗る者が出ることを予想しておる」
新之介の顔が変わった。
「高札を出した者は」
半九郎が言う。
「家慶公を名乗る者が複数現れることを知っている」
「少なくとも一人は」
志乃が家慶を見る。
「ここにいることを知っていた」
「再起館まで見張られている」
辰蔵が屋根を見上げた。
「さっきの宗一を名乗っていた男は」
「消えました」
兵馬が答える。
「高札の騒ぎの時に」
「追ったか」
「二人で」
「それ以上は?」
「新之介様が、全部で追うなと」
新之介は頷いた。
「戻りましたか」
「一人は」
「もう一人は」
「まだです」
玄斎が新之介を見る。
「またか」
「何です」
「帳面、将軍、偽物、行方不明」
「最近、多いですね」
「慣れるな」
◇
「高札そのものを確かめる」
新之介が言った。
「写しだけでは駄目です」
「本物ならどうする」
直之助が問う。
「誰が出したかを確認する」
「江戸城は封鎖された」
「だから城へ行く」
家慶が言った。
「待ってください」
「またか」
「今、家慶殿が大手門へ行けば」
「逆賊として捕えられる」
「それだけではない」
千代が口を挟む。
「殺される」
「なぜ」
「高札を出した側からすれば、生きた家慶は一番都合が悪い」
「本物なら、ですね」
「偽物でもだ」
「何」
「よくできた偽物なら、民衆にとっては本物と同じ危険になる」
家慶が千代を見る。
「そなたは経験者らしいな」
「榊原新之介の顔で、日本橋へ立った」
「どうだった」
「顔を借りると」
千代は一瞬だけ新之介を見る。
「本人より本人らしく振る舞おうとする」
「なぜ」
「少しでも迷えば、偽物と疑われるからだ」
家慶は静かに頷いた。
「ならば城内の私も」
「本物より将軍らしく振る舞うでしょう」
志乃が言った。
「命令が明確で」
「迷わず」
「逆らう者を許さない」
「それを皆が将軍らしいと思えば」
「厄介だ」
玄斎が言う。
「本物は迷うから偽物にされる」
新之介は家慶へ問う。
「影武者について、もっと詳しく」
「公には話せぬ」
「今もですか」
「……」
「その秘密を守った結果」
高札を示す。
「今があります」
家慶は目を閉じた。
「分かった」
「影武者の本名は知らぬと申しましたね」
「ああ」
「誰が管理していた」
「御庭番の一部」
「名は」
「私が知る限り三名」
「知る限り?」
「影武者の仕組みは、将軍本人にも全てを知らせぬ」
玄斎が呆れた。
「誰のための仕組みだ」
「将軍家のためだ」
「本人より家が先か」
「そういうことになる」
家慶は苦い顔をする。
「一人目。御庭番支配、服部半蔵正義」
「半蔵」
「名は代々のものだ」
「また役目の名か」
玄斎がうめく。
「本名は」
「服部正義でよい。そこは戸籍もある」
「ほかは」
「奥医師、曲直瀬玄朴」
「医師が」
「体格、古傷、病歴を合わせるためだ」
「三人目」
家慶が躊躇した。
「申してください」
「御小納戸頭取、川辺主馬」
新之介が顔を上げる。
「先ほど、偽声を知っていた三人の一人」
「ああ」
「今どこです」
「城内にいるはずだ」
「本当に」
「分からぬ」
「では最初に川辺殿を探す」
「なぜ」
「影武者の管理と、偽声の件の両方を知る」
「だが城内だ」
「城へ入らず呼び出す」
「どうやって」
新之介は少し考えた。
「本人しか答えられない秘密を」
「それでは同じだ」
家慶が言った。
「秘密も盗まれる」
「そうですね」
「では」
「秘密を一つだけ使わない」
「何」
「三人の別々の記憶を重ねる」
「誰の」
「家慶殿」
「川辺殿」
「もう一人、第三者」
「誰だ」
新之介は玄斎を見る。
「私を見るな」
「先生ではありません」
「なら誰だ」
「奥医師です」
◇
「医師なら城外に一人いるかもしれません」
志乃が言った。
「誰」
「南町の薬種問屋へ出入りする御典医がいます」
「名は」
「曲直瀬玄朴」
家慶が驚いた。
「なぜ知っている」
「薬を買いに行った時に見ました」
「将軍の奥医師が町へ」
「薬は城の中だけに生えません」
家慶は返す言葉を失った。
「いつ見た」
「昨日」
「昨日?」
「夕方です」
「江戸城から出ていたのか」
「供は一人」
「帰ったか」
「知りません」
「薬種問屋は」
「日本橋本町」
新之介が言う。
「清太郎」
「はい」
「玄朴殿を探す者を」
「町方二人」
「志乃殿」
「私も行きます」
「顔を知っている」
「はい」
「兵馬」
「行きます」
「三人」
家慶が問う。
「私の確認に、町人の女と若者を使うのか」
「不満ですか」
「いや」
家慶は少し笑った。
「昔なら考えもしなかった」
「昔の話は後で」
「厳しいな」
◇
その時、門外から再び声。
「御触れだ!」
「新しい御触れが出たぞ!」
吉松が走っていく。
戻った時には顔色が変わっていた。
「何です」
「高札が追加されました」
「内容は」
「読みます」
紙を広げる。
「――逆賊榊原新之介」
全員が新之介を見る。
「また私ですか」
「続けます」
「――将軍を騙りし者を匿い」
「――江戸市中を惑わす」
「――再起館を即刻封鎖」
「――館内の者、抵抗あらば討ち取り可」
兵馬の顔が青ざめる。
お園が裏口を見る。
「来るのですか」
「誰が」
「幕府の兵」
清太郎が問う。
「この御触れの発令者は」
吉松が最後を見る。
「老中・阿部伊勢守」
家慶が即座に言った。
「偽りだ」
「なぜ分かる」
新之介が問う。
「阿部はそのような書き方をせぬ」
「内容ではなく文体?」
「ああ」
「どこが」
「『討ち取り可』ではない」
「では」
「『差し支えなし』と書く」
「些細ですね」
「だから本人を知る者には分かる」
「声の前と後ろと同じ」
「そうだ」
新之介は清太郎へ言う。
「記録」
「はい」
「ただし家慶殿の記憶のみ」
「確認前」
「分かりました」
「もう一つ」
「何」
「阿部伊勢守本人を探す」
家慶が言う。
「難しいぞ」
「なぜ」
「今日、登城しているはずだ」
「なら城内」
「ああ」
「城が封鎖された今」
「出られない」
「生きていれば」
家慶の顔が曇る。
「そうだ」
◇
玄斎が外を見た。
「人が増えておる」
再起館周囲。
町方ではない。
武士。
足軽。
町人も。
「封鎖に来た兵か」
半九郎が刀へ手をかける。
「まだ抜くな」
新之介が止める。
「旗を見ろ」
「南町奉行所」
「海防掛」
「戸田家」
「さらに火消し」
辰蔵が眉をひそめる。
「何で火消しまで」
外から声。
「榊原殿!」
源太郎。
「開けてくれ!」
門を開ける。
源太郎、大場、宮坂。
さらに三吉、おきよ、徳松。
蔵前の人々までいる。
「何です、この人数」
新之介が問う。
「高札を見た」
源太郎が答える。
「再起館を封鎖せよ、と」
「ならなぜ中へ」
「封鎖する側が誰か分からぬ」
「それで」
「見に来た」
三吉が言う。
「榊原が将軍を匿ってるっていうからな」
「見物ですか」
「半分」
「残りは」
「俺たちの名まで続帳へ入ってるって聞いた」
「どこで」
「日本橋だ」
「誰が」
「知らねえ男」
「またか」
「でもよ」
三吉は真顔になる。
「知らねえ奴の話だけで、ここを焼かせるのも嫌だ」
おきよも頷く。
「子どもたちは近所へ預けました」
「危険です」
「分かっています」
「なら」
「来るかどうかは自分で決めろって、いつも榊原さんが言うでしょう」
新之介は言葉を止めた。
「……はい」
「だから来ました」
家慶が彼らを見る。
「この者たちは」
「蔵前で米を分けた者です」
「町人が、私を守りに?」
三吉が即座に答えた。
「違う」
家慶が驚く。
「将軍だから来たんじゃねえ」
「では」
「本物か偽物か、まだ分からねえんだろ」
「……そうだ」
「なら、ここで死なれたら確かめられねえ」
玄斎が笑う。
「榊原病がうつったな」
「何だそれ」
「確かめたがる病だ」
「悪いか」
「いや」
玄斎は少し嬉しそうだった。
「悪くない」
◇
「囲む者を、また囲むことになります」
清太郎が言った。
「何」
「幕府の兵が再起館を囲む」
「その外を町人や別の役人が囲む」
「それでは争いになります」
新之介が頷く。
「なら門前へ線を引く」
「線?」
辰蔵が問う。
「誰も越えない場所」
「話し合いの場所か」
「はい」
「相手が撃ってきたら」
「その時は別です」
「誰が決める」
「門前にいる複数人」
「またか」
家慶が言う。
「はい」
◇
日が傾き始めた頃。
北から整然とした足音が聞こえた。
幕府歩兵。
およそ八十。
前に騎馬武士。
「来ました!」
兵馬が叫ぶ。
「門を閉めるか」
「開けたまま」
新之介が言う。
「本気か」
源太郎が問う。
「閉めれば籠城になります」
「開ければ入ってくる」
「線を引く」
辰蔵が白灰を持ってきた。
門前の道へ一本。
長い白線。
「この線を越えたら」
三吉が問う。
「何する」
「まず止める」
「それでも」
「次を決める」
「決めてねえのか」
「相手が何をするか分からない」
「なるほど」
「慣れましたね」
「嫌だけどな」
騎馬武士が白線の前で止まる。
「再起館へ告ぐ!」
「将軍を騙る逆賊を引き渡せ!」
新之介が門前へ。
「名を!」
騎馬武士が怒る。
「こちらが問うている!」
「名を申してください!」
「御徒目付、神谷作左衛門!」
「神谷殿」
「榊原新之介!」
「命令を誰から」
「御城より!」
「誰です」
「老中首座、阿部伊勢守様!」
「本人から聞きましたか」
「書状だ!」
「声は」
「不要!」
「印は」
「ある!」
「本人の顔は」
「見ていない!」
背後の歩兵がざわめく。
また同じ。
神谷自身も気づいた。
「だが!」
懐から書状を出す。
「老中印!」
「大目付連署!」
「御城代印!」
「三つだ!」
新之介の顔が険しくなる。
複数の証。
一人の偽命令ではない。
「井戸端見分と同じ仕組みを」
清太郎が後ろで呟く。
「逆に使っています」
神谷が叫ぶ。
「将軍を騙る男を出せ!」
すると。
「私だ」
家慶が門から出てきた。
「家慶殿!」
新之介が止めようとする。
「顔を見せる」
「危険です!」
「そのために皆がここへ来たのだろう」
神谷の顔が変わった。
「上……」
膝をつきかけ。
止まる。
高札には、将軍は死んだとある。
「そなた」
家慶が神谷へ言う。
「神谷作左衛門であったな」
「はい」
「三年前、吹上で馬から落ちた」
神谷の顔が青ざめる。
「なぜ、それを」
「私が見ていた」
「しかし」
「そなたは落ちた直後、痛くないと申した」
玄斎が小声で言う。
「傷人は皆」
「先生」
「今は申すな、だな」
神谷は家慶を見つめる。
「上様しか」
新之介が割って入る。
「決めるな!」
神谷が振り返る。
「何だと!」
「その話を誰かから聞いた可能性があります!」
「そこまで疑うのか!」
「はい!」
家慶本人が頷いた。
「疑え」
神谷は言葉を失う。
「私が本物なら」
家慶は続ける。
「確かめられて困ることはない」
「ですが」
「偽物なら、なおさらだ」
歩兵たちが互いを見る。
命令を持ってきた者。
目の前の将軍。
どちらへ従う。
「神谷殿」
新之介が言う。
「そなた一人で決めないでください」
「では誰と」
「隊から二人」
「町方から一人」
「海防掛」
「町人」
「そして家慶殿本人」
「本人を確認するのに本人を入れるのか」
「本人の主張も記録する」
「それだけです」
「……」
「刀はその間、抜かない」
神谷は後ろを見る。
八十人。
命令へ従えば突入。
迷えば役目を疑われる。
「私は」
「はい」
「御徒目付だ」
「だからこそ」
「命令へ従うのが」
「役目ですか」
「そうだ」
「なら、誤った命令へ従った時も役目のせいにしますか」
神谷の顔が歪んだ。
「卑怯な問いだ」
「はい」
「答えにくい」
「私も答えられないことばかり聞かれています」
神谷は大きく息を吐く。
「十分」
「何」
「十分だけ待つ」
「時刻を記録」
清太郎が即座に筆を取る。
神谷が睨む。
「本当に何でも書くな」
「後で、なぜ待ったか分からなくなるので」
「……好きにしろ」
◇
確認役を選んでいる最中。
遠くから女の声。
「榊原様!」
志乃だった。
兵馬と町方を連れ、薬種問屋から戻ってきた。
その間に一人の老人。
医師。
「曲直瀬玄朴殿?」
新之介が問う。
「そうだ」
「証は」
玄朴が眉を上げる。
「いきなりか」
「最近、皆こうです」
「志乃殿が顔を確認」
「薬種問屋主人も」
志乃が答える。
「では仮確認」
玄朴は家慶を見る。
目が大きくなる。
「上様」
「玄朴」
新之介が二人の間へ立つ。
「すぐ決めない」
「分かっておるわ!」
玄朴が怒鳴った。
「ここへ来る間に志乃殿から散々聞いた!」
「よい」
「何を確認します」
「身体です」
玄朴が家慶を見る。
「左脇腹」
家慶の目が止まる。
「何がある」
「二十年前、腫れ物を切った痕」
「影武者にも同じ傷を」
「つけさせた」
「では証にならない」
「最後まで聞け」
「はい」
「傷の下」
「何が」
「切り損じた針が一本、体内に残っている」
一同が黙る。
「何」
「私が失敗した」
玄朴は苦い顔をする。
「誰にも記録していない」
「なぜ」
「医者として恥だった」
「今、言うのですか」
「必要だからだ」
「どう確かめる」
「触れば分かる」
「影武者は」
「傷だけを作った」
「針までは入れていない」
「本当に」
「少なくとも私が知る影武者には」
「では触診を」
「立会いは」
玄朴が自分で問う。
新之介が少し笑った。
「慣れましたね」
「志乃殿が道中ずっと申した!」
◇
館の一室。
家慶。
玄朴。
新之介。
志乃。
神谷。
さらに町方一名。
家慶が衣を緩める。
左脇腹。
確かに古い傷。
玄朴が指で探る。
「ここだ」
家慶が顔をしかめる。
「痛い」
「あります」
「針が?」
「ああ」
玄朴の指先。
皮膚の奥。
硬い小さな感触。
「これで」
神谷が言う。
「上様だ」
「待ってください」
新之介が言う。
全員が一斉に彼を見る。
「まだ何だ!」
玄朴が怒鳴る。
「玄朴殿本人が本物か、仮確認です」
「そこからか!」
「はい」
「ではどうしろ!」
「薬種問屋主人の確認と」
「志乃殿の昨日の確認」
「加えて家慶殿が玄朴殿を知っている」
「循環しているぞ」
家慶が言う。
「はい」
「なら」
「完全ではないと記録する」
神谷が頭を抱えた。
「いつ終わるのだ」
「終わりません」
「何」
「ですが」
新之介は家慶を見る。
「今ここで動くには、十分だと思います」
「ようやく決めたか」
「仮に」
「何を」
「目の前の方を、徳川家慶本人として扱う」
清太郎が記す。
――複数確認により、暫定本人。
――完全証明にあらず。
「暫定将軍か」
家慶が苦笑する。
「日本で初めてかもしれません」
「嬉しくないな」
「皆」
「それはもうよい」
神谷が膝をついた。
だが今度は、命令にではない。
自分の判断で。
「神谷作左衛門」
家慶が言う。
「立て」
「は」
「私はまだ暫定らしい」
神谷の口元がわずかに緩んだ。
「では」
「城へ戻る」
「お供します」
「待て」
新之介が言う。
神谷が振り返る。
「まだあるのか!」
「あります」
「何だ!」
「城へ戻る前に、こちらから江戸城へ使いを出す」
「誰へ」
「阿部伊勢守」
「川辺主馬」
「そして」
新之介は高札を見る。
「城内の『徳川家慶』へ」
本物かもしれない者。
影武者かもしれない者。
偽物かもしれない者。
「何を伝える」
家慶が問う。
新之介は答えた。
「こちらにも徳川家慶がいる、と」
「挑発か」
「いいえ」
「では」
「会ってください、と」
「将軍同士を?」
玄斎が言う。
「同じ場所へ呼ぶのか」
「はい」
「危険だぞ」
「だから多くの目の前で」
「どこへ」
「江戸城では駄目です」
「再起館も」
「どちらかの場所になる」
「なら」
新之介は考えた。
「井戸端」
「何」
「最初の見分をした場所」
再起館の井戸。
「狭い」
「将軍を二人並べる場所ではない」
「では」
辰蔵が言った。
「もっと広い場所にしろ」
「どこ」
「江戸城と再起館の間」
「日本橋か」
「人が多すぎる」
伊助が言う。
「水の上はどうだ」
「水?」
「隅田川」
「誰の屋敷でもない」
「逃げ道も見える」
「船なら武器も制限できる」
新之介の目が動く。
「舟を複数」
「一艘へ集めるな」
「立会人を分ける」
「良い」
家慶が言った。
「将軍を川へ呼ぶのか」
「嫌ですか」
「面白い」
「見世物ではありません」
「分かっている」
その時。
館の外で、低いどよめき。
兵馬が走り込む。
「榊原様!」
「今度は何です」
「江戸城から!」
「また高札か」
「違います!」
「人です!」
「誰」
兵馬は息を切らしながら答えた。
「徳川家慶公です!」
誰も動かなかった。
再起館の門外。
八十の歩兵の向こう。
葵の紋をつけた一人の男が、徒歩で立っている。
供は二人だけ。
顔。
背丈。
年齢。
すべて、再起館の中にいる家慶と同じ。
外の男が言った。
「榊原新之介」
声まで同じだった。
「私を呼び出す手間は省けたぞ」
館内の家慶が、ゆっくり立ち上がる。
門の内と外。
二人の徳川家慶。
そして外の家慶は、左脇腹へ手を当てた。
「曲直瀬玄朴」
玄朴の顔が凍りつく。
「二十年前」
「そなたが私の腹へ残した針」
「まだ痛むぞ」
新之介は何も言わなかった。
玄朴の秘密を知る家慶が。
もう一人。
門の外にも立っていた。
(第六十六章へ続く)

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