第六十四章 将軍という御影
馬は再起館の門前で横滑りするように止まった。
乗っていたのは、西徳寺から来た篠田弥兵衛だった。
額も袖も煤だらけ。
右手には、濡れ布に包まれた紙。
「榊原殿!」
「根帳の残りですか」
「はい!」
「誰が見つけた」
「源太郎殿、宮坂殿、高梨殿、それに御影宗伯殿!」
「四人だけか」
「伊助と寺男二人もおります!」
「よい」
新之介が手を伸ばしかける。
途中で止めた。
「ここで開きます」
「今?」
「今だからです」
「立会人は」
新之介は周囲を見る。
家慶。
玄斎。
宗太郎。
直之助。
志乃。
清太郎。
吉松。
半九郎。
千代。
四十七番。
辰蔵。
留蔵。
そして屋根の上に、御影宗一。
「多いな」
家慶が言った。
「多いからよい」
玄斎が先に答える。
「上様も慣れてきましたな」
「慣れたくはない」
「皆、同じことを申します」
新之介が言う。
篠田が布を広げた。
焦げた紙。
端は炭化し、ところどころ穴が開いている。
だが文字は残っている。
「触らずに読みます」
清太郎が膝をつく。
「最初の行」
皆が息を止めた。
「――御影の役、永く続けるべからず」
宗一が屋根の上で目を細める。
「次」
「――見えぬ者が人を動かせば、必ず役そのものが主となる」
宗太郎が父・宗伯の言葉を思い出したように呟く。
「父だ」
「筆跡は」
「似ている」
「決めないでください」
「分かっておる」
清太郎が続ける。
「――御影が役を終えぬ時」
「――その監視は、将軍家自ら負うべし」
家慶の顔が硬くなる。
宗一が言った。
「ほらな」
「まだ続きがあります」
清太郎が止める。
「――ただし」
宗一の眉が動いた。
「何」
「――将軍を御影としてはならぬ」
再起館が静まり返った。
宗一の顔から表情が消える。
「何だと」
清太郎は紙へ顔を寄せる。
「間違いありません」
「――将軍は、御影を監視する一人にすぎず」
「――御影の代わりとなるべからず」
家慶が長く息を吐いた。
新之介は宗一を見る。
「そなたの言ったことと違う」
「……」
「根帳には、将軍が御影になると書いてある、と」
「そう読んだ」
「どこで」
「写しで」
「誰の写しだ」
宗一は答えなかった。
「名を申せ」
「知らぬ」
「またか」
玄斎が呻く。
「知らぬ相手の写しを信じたのか!」
「御影の印があった」
「印は割った!」
「今さっきだろう!」
「昔から印だけで信じるなと言っておる!」
「先生が言い始めたのは最近です」
「新之介、今は黙れ!」
◇
清太郎がさらに読む。
「下に書き込みがあります」
「誰の」
「筆が違います」
「年代は」
「根帳本文より新しいと思われます」
「読め」
清太郎はゆっくり声に出した。
「――御影は終えぬ」
「――人は迷い続ける」
「――ゆえに最後に一人の決断者を置く」
新之介が顔を上げる。
「そこだ」
「宗一殿が見たのは」
「その部分だけかもしれません」
「続けます」
「――決断者は将軍たるべし」
家慶の顔が険しくなる。
「誰が書いた」
「署名があります」
「誰だ」
清太郎は紙の焦げた端を慎重に見る。
「三文字ほど欠けています」
「読める部分は」
「――宗……」
宗太郎。
宗一。
宗伯。
宗山。
この一件では、あまりに多い字。
「その下に印があります」
「どんな」
「御影ではありません」
「では」
清太郎が答える。
「葵です」
全員が家慶を見る。
「将軍家の印」
直之助が呟いた。
「誰の時代だ」
家慶が問う。
「紙だけでは」
「年号は」
「焼けています」
「なら決めない」
家慶は即座に言った。
新之介がわずかに笑う。
「何だ」
「慣れましたね」
「嬉しくない」
「皆」
「それはもうよい」
◇
宗一が屋根から飛び降りた。
着地した瞬間、半九郎が身構える。
「武器は」
「持っていない」
「見せろ」
宗一は両手を広げる。
右半分の火傷。
左手の親指がない。
「宗一」
宗太郎が一歩前へ出た。
「父上」
「その呼び方をするなら、答えろ」
「何を」
「二十年前の火事」
宗一の目が止まる。
「何だ」
「そなたが死んだと思った火事だ」
「……」
「どこで起きた」
「本所」
「違う」
全員の視線が宗一へ。
「父上」
「火事は深川だ」
「……」
「そなたは誰だ」
半九郎が刀の柄へ手を置く。
「待て」
新之介が止める。
「顔型かもしれない」
千代が宗一へ近づく。
「耳の後ろを見せろ」
「触るな」
「なら自分で」
宗一は動かない。
「御影宗一なら」
千代が言う。
「右耳の下に、小さな焼印がある」
「何の」
「御影の旧工房へ入った者の印」
「そんな」
宗太郎が息を呑む。
「私は知らぬ」
「監視する御影だけが知っていた」
「なぜ息子に」
「宗一自身が望んだ」
宗一の顔が歪む。
「黙れ」
「見せろ」
「黙れ!」
宗一が後退する。
辰蔵が横へ回る。
「逃げるな」
「近づくな!」
「名を見せるだけだ」
「名前じゃねえ!」
「なら何だ」
「印だ!」
宗一は自分で右耳の下を掻きむしるように触った。
そして。
止まる。
「……ない」
宗太郎の顔が青ざめた。
「誰だ」
宗一は自分の指を見る。
皮膚。
傷。
記憶。
「私は」
「名を」
新之介が言う。
「生まれた名を」
「……知らない」
「忘れたのか」
「違う」
「奪われた」
千代が呟く。
「また四十七番と同じ」
「誰に」
新之介が問う。
男は顔を覆った。
「宗一に」
「本物の御影宗一に?」
「ああ」
「いつ」
「二十年前」
宗太郎が震える。
「火事の時か」
「そうだ」
「では本物の宗一は」
「生きている」
「どこに!」
「知らない」
「嘘を申すな!」
「本当に知らない!」
男は叫んだ。
「私はあの日、火傷を負った!」
「宗一は私を助けた!」
「その後、私へ自分の名を渡した!」
「なぜ」
「自分が死んだことにするためだ!」
「誰から逃げた」
「御影から!」
宗太郎が言葉を失う。
「そなた自身も御影を」
「宗一は、命じる御影をやめようとしていた!」
「だから殺されると思った」
「ああ!」
「誰に」
「三代の御影全部だ!」
「坂崎」
「千代」
「もう一人」
男は千代を見る。
「そなたではない」
「何」
「千代も途中で入れ替わっている」
千代の顔が変わる。
「ふざけるな」
「お前が鷹見千代を名乗る前に、別の千代がいた!」
「知っている」
「その前にもだ!」
「何」
「鷹見千代も、御影と同じく役目だ!」
玄斎が天を仰いだ。
「もう勘弁してくれ」
「先生」
「何人でも増えるではないか!」
「役目を名にした結果です」
「分かっておる!」
◇
家慶は焦げた根帳の紙を見つめていた。
「榊原」
「はい」
「この紙には二つの考えがある」
「そう見えます」
「宗伯のもの」
「御影を終え、将軍も一人の監視者に留める」
「後の書き込み」
「将軍を最後の決断者にする」
「どちらが本物の根帳だ」
「両方です」
家慶が振り向く。
「何」
「違う時代に、違う者が書いた」
「なら根帳は一つではないではないか」
「一冊でも、中に複数の声がある」
新之介は紙を指した。
「だから一冊を一つの答えとして読むのが危ない」
家慶は苦笑した。
「私が御影になるべし、と書いた者が父なら」
「まだ分かりません」
「もし父なら」
「家慶殿が従う理由にはならない」
「将軍の父でもか」
「父の言葉を将軍家の永遠の命にするのですか」
「……」
「本人がいないなら、なおさら」
家慶は空を見上げた。
「父上は、死んでも面倒を残す」
玄斎が頷く。
「師も同じです」
宗太郎が玄斎を見る。
「すまぬ」
「そなたは今、黙っておれ」
◇
「根帳の残りを全部出すべきです」
志乃が言った。
「西徳寺から?」
「はい」
「火で傷んでいる」
「だからこそ」
「誰が読む」
「男だけでは駄目です」
志乃は家慶を見る。
「米の帳面も借財の帳面も、最後に食べる量を減らすのは女です」
「前にも申したな」
新之介が言う。
「何度でも申します」
「では立会人へ」
「私一人では駄目です」
「誰を」
「お園さん」
「町の女からも」
「おきよさん」
「商家からは」
「お志津さん」
「寺は」
「了順様」
「火消し」
「辰蔵さん」
「船」
「伊助さん」
「役人」
「水野様、源太郎様」
「将軍家」
全員が家慶を見る。
「私か」
「はい」
「一人です」
「一人だからです」
「将軍家から複数を」
「誰を信用します」
家慶が苦笑する。
「痛いところを突く」
「なら、まず一人で」
「後から増やす」
新之介が言った。
「そして」
清太郎が筆を持つ。
「誰がどこを読んだか、全部記します」
「根帳を全部写すのか」
「いいえ」
「なぜ」
「写せば写しが独り歩きします」
「では」
「要点」
「原文を見た者」
「伏せた場所」
「伏せた理由」
「異論」
「全部並べます」
家慶が言う。
「時間がかかるぞ」
「はい」
「その間に江戸は」
「今も動いています」
新之介が答える。
「止まっていません」
「米も」
「配っています」
「外国船も」
「水野様たちが見ています」
「御影は」
「捕えられる者は捕え」
「分からない者は追う」
「全部同時に」
「役を分ける」
家慶がため息をつく。
「そなたの答えは、いつも人手が要るな」
「一人で決めるより」
「金もかかる」
「戸田殿に」
「押しつけるな」
「では幕府へ」
家慶が初めて声を出して笑った。
「それは私の仕事か」
「はい」
「ようやく将軍らしい役目をくれたな」
◇
その時。
再起館の門外で、馬がもう一頭止まった。
「水野様から!」
海防掛の若侍が駆け込む。
「何があった」
新之介が問う。
「朝風丸から伝書です!」
「異国船は」
「修理中!」
「二十三人は」
「全員無事!」
「沢渡は」
「まだ見つかりません!」
「鷹見宗一郎殿は」
宗太郎が一歩出る。
「朝風丸から離れました!」
「どこへ」
「小舟で江戸へ!」
「一人か」
「いいえ!」
「誰と」
「安西主税殿」
「矢倉勘蔵殿」
「それから――」
若侍が紙を見る。
「相模屋長兵衛!」
お志津が驚く。
「父が?」
「長兵衛は牢から消えたはず」
「海にいたのか」
「どこで合流した」
「品川沖です!」
「なぜ」
「分かりません!」
「行き先は」
若侍が答える。
「江戸城です!」
家慶の表情が変わる。
「城へ」
「はい!」
「宗一郎殿から伝言があります!」
「何と」
「『二代目に会いに行く』」
宗太郎が目を閉じた。
「二代目?」
玄斎が言う。
「根帳では鷹見静山が二代御影と」
「だが宗太郎はここにいる」
新之介が言う。
「なら宗一郎が会いに行く二代目は」
「別の二代目」
半九郎が頭を抱える。
「もう数え方を変えませんか」
「賛成だ」
玄斎が即答する。
「御影の代と静山の代が混ざっております」
清太郎が真面目に言う。
「後で系図を作ります」
「頼む」
「ただし」
「何だ」
「確定していない箇所は点線で」
「全部点線になりそうだな」
◇
若侍が、もう一枚紙を差し出した。
「まだあります」
「何です」
「宗一郎殿が、長兵衛から聞いたことだと」
「読んでください」
「『続帳の最後の一頁は、まだ誰も見ていない』」
新之介の顔が変わる。
「続帳の最後」
「はい」
「どこに」
「江戸城御記録所」
直之助が立ち上がる。
「私の職場だ」
「知っていたか」
「知らない!」
「続き」
「『そこには、今後五年で罪人にする者の名がある』」
半九郎が息を呑む。
「未来の罪人名簿」
「また」
お志津の声が低くなる。
「父が作った続帳は、そこまで」
「長兵衛自身は」
「途中で手を引いたと申しています!」
「なら誰が書き足した」
若侍は最後を見る。
「宗一郎殿の伝言です」
「『筆跡は三つ』」
「一つは」
「相模屋長兵衛」
「一つは」
「三宅主膳」
「最後は」
若侍が家慶を見る。
「徳川家慶公」
誰も動かなかった。
家慶本人が、最初に口を開く。
「私は書いていない」
「そうでしょうね」
新之介が答える。
「なぜ、すぐそう言える」
「ご本人がそう申しているから、まずそう記します」
「信じるのか」
「いいえ」
「……本当に容赦がないな」
「後で筆跡を確認します」
清太郎がすでに書いている。
――続帳最終頁、徳川家慶公筆跡の可能性。
――家慶公本人は否定。
「本人の否定まで並べるのか」
「はい」
家慶は苦笑した。
「これがそなたの国か」
「私の国ではありません」
「では」
「私たちがいる国です」
◇
「江戸城へ行く」
家慶が言った。
「待ってください」
新之介が止める。
「またか」
「将軍が戻れば、それだけで城中が一つの声へ戻る」
「私が将軍だ」
「だからです」
「何をしろと」
「戻る前に、条件を決めます」
「条件?」
「城へ入った後」
「家慶公の命だけで、誰も捕えない」
「何」
「最低二者の確認」
「緊急時は」
「理由を記録」
「軍事は」
「水野様と別系統で確認」
「大奥は」
「別の立会いが必要」
「それを今決めるのか」
「今だからです」
家慶がしばらく新之介を見た。
「私は将軍だぞ」
「はい」
「そなたに条件をつけられる立場ではない」
「なら断ってください」
「何」
「その断りも記録します」
玄斎が噴き出した。
「新之介」
「何です」
「そなた、将軍相手でもやるのだな」
「先生方より話が早いです」
「それはどういう意味だ!」
家慶が笑った。
だがすぐ真顔へ戻る。
「分かった」
「条件を受ける」
「全部ですか」
「一部は城で詰める」
「なら、それも記録」
「しつこいな」
「皆」
「同じことを申す、だろう」
「はい」
◇
家慶が再起館を出る準備を始めた。
だがその時。
新三郎が、外された仕掛けを見て言った。
「榊原殿」
「何です」
「この箱」
「はい」
「音がします」
全員が振り返る。
外したはずの胸元の小箱。
留蔵と辰蔵が顔を近づける。
「触るな」
「分かってる」
かち。
かち。
先ほど止まったはずの音。
「また動いた?」
「違う」
留蔵が耳を当てる。
「中に別のものがある」
「開けられるか」
「ゆっくりなら」
「立会いを」
辰蔵が新之介を見る。
「もう黙れ」
「はい」
二人で小箱を開く。
中には火薬ではなく。
細い紙筒。
そして小さな金属板。
清太郎が紙を広げる。
短い文章。
「読みます」
「――徳川家慶が江戸城へ戻る時」
家慶が止まる。
「――大手門を開けるな」
「何」
「――将軍を名乗る者を、城へ入れてはならぬ」
監物がいれば怒鳴っただろう。
だがここにいる者は黙って聞く。
「続き」
「――本物の将軍は、すでに城内にいる」
家慶の顔から笑みが消えた。
「何だと」
「署名は」
「ありません」
「では誰の指示か分からない」
「ですが」
清太郎が金属板を見る。
「これ」
「何です」
表には葵。
裏には番号。
――二。
「二」
宗太郎の顔が変わる。
「見覚えが」
「将軍家の非常時替印だ」
家慶が即座に言った。
「知っているのですか」
「ああ」
「誰が持つ」
「将軍本人と」
「もう一人」
「誰」
家慶は答えに詰まった。
「上様」
新之介が問う。
「誰です」
家慶はゆっくり言った。
「影武者だ」
誰も言葉を出さなかった。
「将軍にも」
玄斎が呟く。
「顔を代える者が」
「非常時だけだ」
「今は非常時ですね」
新之介が言う。
家慶は黙った。
「影武者の名は」
「公にはない」
「本名を」
「知らぬ」
玄斎が天を仰ぐ。
「上から下まで、それか」
「私も今、そう思った」
家慶は苦々しく答えた。
「影武者は、今どこに」
「本来なら江戸城奥」
「生きているか」
「分からぬ」
「顔は家慶公と同じ」
「ああ」
「声は」
「訓練されている」
「筆跡は」
家慶の目が止まった。
「私に似せる」
「続帳の最後の筆跡」
新之介が言う。
「家慶公ではなく」
「影武者かもしれぬ」
清太郎が記す。
「では江戸城にいる本物の将軍とは」
半九郎が呟く。
「影武者が将軍を名乗っている可能性」
「逆もあります」
志乃が言う。
「ここにいる家慶公が」
全員が家慶を見る。
志乃は躊躇しない。
「影武者かもしれません」
町方の同心が息を呑んだ。
家慶はしばらく志乃を見た。
「そなたも厳しいな」
「顔だけでは決めないと、皆で決めたでしょう」
「その通りだ」
新之介が家慶へ向く。
「家慶殿」
「何だ」
「申し訳ありませんが」
「言わなくても分かる」
家慶は自分で両腕を広げた。
「私が徳川家慶であることを、もう一度確かめるのだな」
「はい」
「何で」
「顔でも声でもないもの」
「何がある」
新之介は答えなかった。
将軍本人しか知らないこと。
だが秘密も盗まれる。
癖も真似られる。
筆跡も。
傷も。
名も。
最後に残るものは何か。
その時。
門外から、町人の叫び声が上がった。
「大変だ!」
「江戸城から高札が出た!」
「何と!」
志乃が外へ走る。
ほどなく紙を持って戻る。
「読みます」
高札の写し。
――将軍徳川家慶、病により本日薨去。
家慶本人が、目の前に立っている。
さらに。
――世継ぎ定まるまで、江戸城封鎖。
――将軍を名乗る者、すべて逆賊として捕縛せよ。
再起館の全員が、家慶を見る。
家慶は自分の死亡を告げる高札を見つめた。
「どうやら」
かすかに笑う。
「私は、また死者になったらしい」
新之介は笑わなかった。
江戸城には、家慶を名乗る者がいるかもしれない。
再起館にも一人。
そして高札の上では、すでに将軍は死んでいる。
死者の声。
死者の名。
死者の命令。
ついに、この国の頂まで。
同じ病が届いていた。
(第六十五章へ続く)

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