上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第六十二章

目次

第六十二章 始帳

 井戸の底から、冷たい風が吹き上がってきた。

 再起館の裏庭。

 井戸の縁には、新之介、玄斎、半九郎、志乃、清太郎。

 少し離れて家慶。

 御影宗太郎。

 千代。

 四十七番。

 誰もすぐには下りなかった。

「下りてこい」

 底の若い男が、もう一度言った。

「始帳を開いた」

 新之介が井戸へ身を乗り出す。

「先に名を申せ!」

「必要ない」

「なら、こちらも下りない」

「怖いか」

「当たり前だ」

 玄斎が横で眉を上げた。

「認めるのか」

「暗い井戸の底から名も申さぬ男に呼ばれて、怖くない方がおかしいでしょう」

「それはそうだ」

 底の男が笑った。

 初めて、人らしい笑いだった。

「榊原新之介」

「何だ」

「そなたは、もっと勇ましい男だと思っていた」

「誰から聞いた」

「記録で」

「また帳面か」

「帳面は便利だ」

「人間よりか」

「人間ほど言い訳をしない」

 新之介の顔が険しくなる。

「帳面は、書いた者の言い訳をそのまま残す」

 底の男が黙った。

「だから名を聞く」

「……」

「誰が書いたか分からぬ帳面ほど、危ないものはない」

 家慶が井戸へ歩み寄る。

「私が下りる」

 周囲が一斉に止めた。

「上様!」

「お待ちください!」

 家慶が手を上げる。

「私を鍵として呼んだのであろう」

 底から声。

「そうだ」

「なら私が行かなければ始まらぬ」

「始めなくてもよいかもしれません」

 新之介が言った。

「何」

「始帳を読むことが、本当に必要か分からない」

「ここまで来てか」

「ここまで来たからです」

 宗太郎が井戸を見つめる。

「始帳には、家斉公の命令がある」

「それは見たことが」

「ない」

「ない?」

「父から聞いただけだ」

「宗伯殿も」

「原本は見ていない」

「では」

 新之介は宗太郎を見る。

「始帳が本当にあることさえ、確認されていない」

「今、下で開いたと言っている」

「声だけです」

 玄斎が頷いた。

「学んだな」

「先生方のおかげです」

「嬉しくない」

 ◇

 井戸の底から、紙をめくる音がした。

 わざと聞かせているように。

「嘉永以前」

 若い男が読み上げる。

「寛政十二年」

 家慶の顔が動く。

「松平定信の頃か」

「その後だ」

 宗太郎が言う。

 声は続く。

「飢饉に備え、江戸市中の米穀、商人、寺社、諸藩蔵屋敷を調べること」

「ただし」

 一同が耳を澄ます。

「一揆、打ちこわしの際、先に取り潰すべき家、先に処罰すべき者を分けること」

 志乃の顔が変わる。

「米を出す家ではなく」

「潰す家を決めた」

 清太郎が呟く。

 底の男はさらに読む。

「騒擾が広がる場合」

「百人を救うため、十人を捨てることをためらうな」

 新之介の目が細くなる。

 これまで何度も聞いた考え。

 大事のために小事を捨てる。

 人を数へ変える。

「誰の言葉だ」

 新之介が問う。

「署名を見たいか」

「見たい」

「なら下りてこい」

「上へ持ってこい」

「嫌だ」

「なぜ」

「この帳面は、外へ出せない」

「誰が決めた」

「私だ」

 新之介は大きく息を吐いた。

「では、そなたも同じだ」

「何が」

「御影と」

 底の声が止まる。

「人を守るためと言い」

「自分だけが扱えると言う」

「記録を隠し」

「読む者を選び」

「最後は自分が決める」

「違う」

「何が」

「私は役人だ」

「だから何だ」

「将軍家の記録係だ」

「役目を盾にするな!」

 声が井戸へ響いた。

 志乃が、新之介を見る。

 彼自身も少し驚いていた。

 反射的に出た言葉だった。

「役目があるなら」

 新之介は続ける。

「その役目の名を申せ!」

 しばらくして。

 底から、低い返事。

「御記録方、堀田直之助」

 全員が黙った。

「堀田」

 家慶が問う。

「新三郎と関わりが」

「叔父だ」

「御小納戸の堀田新三郎」

「そうだ」

「今どこに」

「日本橋にいると聞いている」

「そなたは江戸城の者か」

「今も籍はある」

「誰の命で始帳を」

「誰の命でもない」

「なら勝手に」

「将軍家の恥を、将軍本人へ見せるためだ」

 家慶が静かに言った。

「私を試すのか」

「違う」

「では」

「選ばせる」

 新之介が井戸へ向かって吐き捨てる。

「またか」

 ◇

 半九郎が縄梯子を確認した。

「下はどのくらい」

「十間ほどです」

「途中に横穴」

 宗太郎が言う。

「昔の米道なら、五間ほどで踊り場がある」

「人数を分けます」

 新之介が言った。

「私」

「上様」

「反対だ」

 玄斎が即座に止める。

「将軍を先に下ろすな」

「私が鍵だ」

 家慶が答える。

「鍵でも人です」

 志乃が言った。

 家慶が彼女を見る。

「名は」

「志乃です」

「役目は」

「再起館を預かっています」

「では志乃」

「はい」

「私を残せば話が進まぬぞ」

「進まなくても死人は出ません」

 家慶が微かに笑う。

「耳が痛いな」

「上にいる人ほど、痛い話を聞くべきです」

 玄斎が頷いた。

「よい女だ」

「先生」

「何だ」

「今それを申すと話が」

「分かっておる」

 新之介は決めた。

「私と半九郎殿が先に下ります」

「私も」

 宗太郎が言う。

「なぜ」

「始帳の仕掛けを知っている」

「見たことがないのでは」

「入口だけだ」

「なら三人」

「私は」

 家慶が口を開く。

「二陣です」

 新之介が言い切った。

「誰と」

「志乃殿、玄斎先生」

「わしも?」

「上様一人で下ろせません」

「わしは護衛か」

「膝人ですが」

「まだ申すか!」

「下りられますか」

「下りる!」

「では」

 清太郎が筆を上げる。

「順番を記します」

「そこまで」

 家慶が言う。

「書きます」

「なぜ」

「後で、誰が先に見たかで揉めるからです」

 新之介が頷いた。

「よい」

「第一陣、榊原新之介、真崎半九郎、御影宗太郎」

「第二陣、徳川家慶、黒川玄斎、志乃」

「上には」

「清太郎、吉松、町方二名、海防掛二名」

「千代と四十七番は」

「縄をつけたまま上」

 千代が苦笑した。

「信用がないな」

「あると思っていたのですか」

「少しは」

「ありません」

「清々しい」

 ◇

 井戸を下りる。

 湿った石壁。

 古い苔。

 五間ほどで横穴。

 宗太郎が小声で言う。

「ここから先は、私も三十年以上入っていない」

「では何があるか」

「分からぬ」

「またそれですか」

「老いた者は知らぬことが増える」

「宗伯殿と同じことを」

「あの父にしてこの子か」

 半九郎が言った。

「嬉しくない」

 横穴の奥に灯り。

 人影。

 堀田直之助が待っていた。

 三十代半ば。

 痩せている。

 髪は乱れているが、目だけが異様に澄んでいる。

 刀は持っていない。

 腰に筆入れ。

「ようやく来た」

「名を申したのは良い」

 新之介が言う。

「顔も見せた」

「次は何だ」

「そなたを一人で信じない」

「それでよい」

 直之助は笑わない。

「始帳は」

「こちらだ」

 小さな石室。

 中央に木箱。

 箱の蓋は開いている。

 中に、薄い帳面が一冊。

 根帳ほど大きくない。

 むしろ拍子抜けするほど薄い。

「これが」

 半九郎が呟く。

「始帳」

 新之介は近づかない。

「触ったのは」

「私だけだ」

「いつ開けた」

「半刻前」

「鍵は」

「将軍家の印と、御影の古印」

 宗太郎の顔が変わる。

「古印?」

「父のものではない」

「誰の」

「初期の勘定方が使ったものだ」

「それがなぜそなたに」

「江戸城御記録所にあった」

「誰も気づかなかったのか」

「古い文箱の底に」

「記録は」

「なかった」

「なら持ち出したのは」

「私だ」

「窃盗です」

「そうだ」

「認めるのか」

「必要だった」

「それで済ませるな」

「後で裁け」

「後で逃げる気は」

「ない」

「信じません」

「それでよい」

 新之介は少し苛立った。

「何です」

「何が」

「そなた、妙に私の言うことを受け入れる」

「記録を読んだからだ」

「私の」

「半年前から」

「御影と同じか」

「違う」

「何が」

「私は、そなたを答えに使う気はない」

「では」

「間違いに使う」

 ◇

 第二陣が下りてきた。

 家慶。

 玄斎。

 志乃。

 家慶を見るなり、堀田直之助は膝をついた。

 だが頭は下げなかった。

「上様」

「直之助」

「ご存じで」

「御記録方の名くらいは」

「顔まで」

「一度見ている」

「いつ」

「父の法要で」

 直之助の目が揺れた。

「覚えておられた」

「名より顔を覚える方だ」

 新之介が家慶を見る。

「それを先ほどから」

「言うな」

 家慶は始帳へ向いた。

「開けたか」

「はい」

「読んだか」

「一部だけ」

「なぜ全部を読まぬ」

「上様の前で読むためです」

「私に責を負わせるためか」

「はい」

 家慶は少し驚いた。

「正直だな」

「他に意味はありません」

「では読め」

「私が?」

「そなたが開けた」

「しかし」

「読め」

 直之助は帳面へ近づく。

 新之介が止めた。

「一人で読むのですか」

 家慶が振り返る。

「では」

「立会いを」

 玄斎が呆れた顔をする。

「将軍の命にもか」

「むしろ」

 志乃が答える。

「将軍の命だからこそ」

 家慶は少し考え。

「よい」

「誰が記録を」

「清太郎を下ろします」

「上の確認役が減る」

 半九郎が言う。

「吉松がいます」

「では呼べ」

 縄を引く。

 合図。

 清太郎が下りてくる。

「また地下ですか」

「最近多いですね」

「帳面が傷みます」

「自分の心配を」

「しています」

 ◇

 始帳が開かれる。

 最初の頁。

 紙は黄ばんでいる。

 筆跡は複数。

 日付。

 寛政十二年。

 家慶が呟く。

「父上が将軍となる前だ」

「家斉公はすでに将軍です」

 直之助が訂正する。

「ああ」

 家慶が苦く笑った。

「息子でも年を取り違える」

 清太郎が記そうとする。

「それは書かなくてよい」

「書きます」

「なぜ」

「今、間違えたことも前と後ろです」

 家慶は諦めたように頷いた。

「読め」

 直之助が声に出す。

「――江戸市中、飢饉騒擾の備えについて」

「――米蔵の所在、蓄え、売買量を把握すること」

「――米価高騰の折、買い占めを行う者を記すこと」

 ここまでは、救済のためにも見える。

 次の行。

「――ただし、騒ぎが起きた際、民心を鎮めるため、処罰すべき者をあらかじめ定めること」

 玄斎が低く唸った。

「罪を犯す前に」

「罪人を決めた」

 新之介が言う。

 さらに。

「――処罰対象は、事実の有無より、民の納得を優先する場合あり」

 志乃が息を呑む。

「そんな」

「つまり」

 半九郎が言う。

「本当に米を隠した者でなくても」

「人々が悪いと思いやすい者を」

 直之助が続ける。

「罪人として差し出す」

 新之介の拳が握られる。

 文吉の続帳。

 偽りの名。

 未来の罪人。

 全ての根。

「誰が書いた」

 新之介が問う。

 直之助が頁の下を見る。

「勘定吟味役、松平左京」

「知らぬ名だ」

 家慶が言う。

「さらに署名があります」

「誰」

 直之助の声が止まる。

「申せ」

 家慶が言う。

「御意」

 直之助が読む。

「――将軍、徳川家斉」

 石室の空気が変わった。

 家慶は動かない。

「父上が」

 誰も答えない。

「本物の筆か」

「確認が必要です」

 新之介が言う。

「今ここで決めない」

「私の父だぞ」

「だからです」

 家慶が彼を見る。

 しばらくして。

「そうだな」

 清太郎が記す。

 ――家慶公、家斉公の署名を見て発言。

 ――ただし真筆未確認。

「そこまで書くか」

「はい」

 ◇

 頁をめくる。

 次。

 処罰候補の家。

 商人。

 寺。

 浪人。

 町年寄。

 そしてそれぞれに。

 ――民衆の怒りを集めやすい。

 ――犠牲として適。

 ――処罰時の反発少なし。

「人を」

 志乃の声が震える。

「最初から、捨てる側で見ていた」

「腹を見ず」

「顔も見ず」

「数だけ」

 新之介が言う。

 直之助が次の頁を開く。

「ここから筆跡が変わります」

 宗太郎が身を乗り出す。

「父だ」

「御影宗伯?」

「ああ」

 そこには、余白へ大量の書き込み。

 ――誰が悪いかを先に決めるな。

 ――米を数える前に、腹を見よ。

 新之介たちは息を止めた。

 第一冊の表紙へつながる言葉。

「宗伯殿は」

 清太郎が言う。

「この始帳を見て、変わったのですね」

「最初からではない」

 宗太郎が答える。

「何」

「父は最初、これを作る側だった」

「御影宗伯も」

「ああ」

「勘定方の下役として」

「処罰候補を調べた」

「では」

「自分で人を数へ変えた」

「その後」

「飢饉の現場へ出た」

「そこで」

「子どもが死ぬのを見た」

 志乃が静かに問う。

「名は」

「何」

「その子の」

 宗太郎が黙った。

「知らない」

「宗伯殿も?」

「ああ」

「では、それが最初の」

「後悔だ」

 宗太郎は始帳へ手を伸ばしかけ、止める。

「父は何度も申した」

「何と」

「最初に名を聞けばよかった、と」

 ◇

 さらに頁をめくる。

 書き込みが増える。

 処罰候補の横へ、

 ――妻あり。

 ――子三人。

 ――母、病。

 ――米を隠した理由、藩の命。

 ――商人本人の利だけにあらず。

 数字へ人が戻っていく。

 根帳の前。

 四冊の前。

 鷹見静山の前。

「これが」

 新之介が呟く。

「始まり」

「そうだ」

 宗太郎が答える。

「では、なぜ始帳を隠した」

 直之助が言った。

「将軍家の名があるからだ」

「それだけか」

「違う」

 家慶が自分で答えた。

「将軍家が、民を守る前に、誰を捨てるか考えていたと知られるからだ」

「上様」

 直之助が言う。

「私は、それを世へ出したい」

「なぜ」

「この国の始まりが嘘だったと」

「国の始まりではない」

 新之介が止めた。

「何」

「一つの帳面の始まりです」

「同じだ!」

「違う!」

「将軍家が命じた!」

「将軍家の全てではない!」

「署名がある!」

「真筆か確かめていない!」

「また時間をかけるのか!」

「かける!」

 直之助が初めて怒鳴った。

「その間に隠される!」

「だから複数で持つ!」

「将軍家が奪う!」

「家慶公本人がここにいる!」

「今だけだ!」

「なら、この人にも名を書かせる!」

「何を」

 新之介は家慶を見る。

「始帳を見た者として」

 家慶は少し考えた。

「書こう」

 直之助が驚く。

「上様」

「私も、この帳面の後へ生きている」

「では責任を」

「父の罪は父のものだ」

「逃げるのですか」

「違う」

 家慶は始帳を見つめた。

「父が作った仕組みを、私が残したなら、その分は私の責だ」

 新之介が頷く。

「その二つを分けて記します」

 清太郎が筆を走らせる。

 直之助は黙って見ていた。

 ◇

 その時。

 井戸の上から吉松の声。

「榊原様!」

「何だ!」

「江戸城から急ぎです!」

「何があった!」

「堀田新三郎殿が!」

 直之助の顔が変わる。

「新三郎が」

「どうした!」

「連れ去られました!」

 直之助が立ち上がる。

「誰に!」

「分かりません!」

「ただ、残された紙に」

「何と!」

 上から紙が縄で降ろされる。

 清太郎が受け取る。

 開く。

 墨は新しい。

「読みます」

「――始帳を開いた者へ」

 全員が清太郎を見る。

「――人を数へ戻したいなら」

「――堀田新三郎一人を捨てよ」

 直之助の顔が青ざめる。

「何」

「続きがあります」

「――新三郎を救いたいなら」

「――始帳を焼け」

 玄斎が吐き捨てる。

「また選ばせる気か」

 新之介は紙を取らない。

「誰の署名だ」

 清太郎が最後を見る。

 目が止まる。

「申せ」

「御影宗一」

 宗太郎の顔が歪んだ。

「私の息子」

「江戸城で捕えられていたはずでは」

「逃げたのか」

「あるいは」

 新之介が言う。

「宗一の名を、また誰かが使った」

 直之助が始帳へ手を伸ばす。

「焼く」

 新之介が腕を掴んだ。

「待て」

「新三郎は甥だ!」

「分かっている!」

「一人を見捨てる気か!」

「違う!」

「なら焼け!」

「それを決めるために作られたのが、この始帳だ!」

 直之助が止まる。

 新之介は紙を指した。

「百人のために十人を捨てろ」

「今度は帳面のために一人を捨てろ」

「同じ問いを、相手が作っている!」

「ではどうする!」

「二つに分ける!」

「何を!」

「新三郎殿を探す者!」

「始帳を守る者!」

「また役を分けるのか!」

「そうだ!」

「時間がない!」

「だからこそ、他人の命を使うな!」

 直之助が息を止めた。

「清太郎!」

「はい!」

「上へ!」

「新三郎殿が最後に見られた場所、時刻、誰といたか全部集めろ!」

「はい!」

「玄斎先生!」

「何だ!」

「上へ戻れますか!」

「膝人をなめるな!」

「では千代と四十七番を連れて、人の顔を見てもらう!」

「分かった!」

「半九郎殿!」

「私は」

「傷人ですが」

「言わせません!」

「町方と海防掛を分けて追ってください!」

「承知!」

「志乃殿」

「始帳ですね」

「はい」

「私と家慶公、宗太郎殿、堀田直之助殿で残る」

「なぜ私が」

 直之助が問う。

「甥を追いたいでしょう」

「当たり前だ!」

「だから残ってください」

「何」

「そなた一人が追えば、始帳を焼こうとした者が甥を救いに行ったと後で言われる」

「では」

「ここで、焼かないと決めた責を持て」

 直之助の目が揺れる。

「私に」

「甥を捨てるのではない」

「追う者を信じろ」

「……」

「一人で全部を背負うな」

 長い沈黙。

 やがて直之助は、始帳から手を離した。

「分かった」

 ◇

 皆が上へ戻り始める。

 玄斎は縄梯子へ足をかけ、振り返った。

「新之介」

「何です」

「戻る場所を間違えるな」

「はい」

「今度は、ここかもしれぬぞ」

「始帳が」

「違う」

「では」

「人が戻ってくる場所だ」

 玄斎は上へ。

 半九郎。

 清太郎。

 志乃。

 最後に新之介が残る。

 石室には家慶、宗太郎、直之助。

 始帳。

「上様」

「何だ」

「この帳面、焼きたいですか」

 家慶はすぐ答えなかった。

「……焼きたい」

 直之助が驚く。

「上様」

「父の名がある」

「将軍家の恥だ」

「だが」

 家慶は帳面から目を離さない。

「焼けば、私が楽になる」

「だから焼かない」

 新之介が頷く。

「その理由も記します」

「本当に容赦がないな」

「清太郎殿が戻ったら」

「書かせよう」

 宗太郎が静かに笑った。

「父が見れば喜ぶ」

「宗伯殿が」

「ああ」

「人を数へした帳面を、将軍が焼きたいと認めながら残す」

「父が四十七年かけて、ようやく見たかったものかもしれぬ」

 その時。

 始帳の最後の頁が、風もないのにめくれた。

 一枚。

 また一枚。

 直之助が近づく。

「触るな」

 新之介が言う。

「分かっている」

 最後の見開き。

 そこだけ紙が新しい。

「後から足された」

 宗太郎が呟く。

 墨も新しい。

 数日前。

 いや、今日かもしれない。

 文章は短い。

 ――最後の見分。

 ――始帳を焼くか。

 ――堀田新三郎を救うか。

 ――榊原新之介が選ぶ。

 新之介は、しばらく紙を見た。

「やはり」

 直之助が言う。

「そなたを使う」

「違う」

「何が」

 新之介は最後の一行を指した。

 さらに下。

 小さな字。

 ――ただし榊原が選ばぬ時。

 ――徳川家慶が選ぶ。

 家慶の顔が変わる。

 その下。

 もう一行。

 ――家慶も選ばぬ時。

 ――始帳自身が選ぶ。

「帳面が」

 宗太郎が呟く。

「どうやって」

 かち。

 石室の中で、小さな音がした。

 新之介の顔が変わる。

「時限仕掛け」

 床下。

 始帳を載せた台の中。

 かち。

 かち。

 かち。

 直之助が叫ぶ。

「火薬か!」

 宗太郎が台を調べる。

「違う!」

「では」

「油だ!」

 台の下に細い壺。

 火打ち。

 一定の刻が来れば、始帳だけが燃える仕掛け。

「あとどれくらい!」

「分からぬ!」

「壊せるか!」

「触れば火が落ちるかもしれぬ!」

 家慶が始帳を見る。

「つまり」

 新之介が言った。

「新三郎殿を追っている間にも」

「帳面が自分で燃える」

 直之助の顔が歪む。

「何が『始帳自身が選ぶ』だ」

「誰かが仕掛けた選びです」

「また人の手か」

「はい」

 新之介は台から一歩離れた。

「どうする」

 家慶が問う。

 新之介は答えた。

「選びません」

「何」

「帳面を焼くか、人を救うかではない」

「なら」

「火を止める人を呼ぶ」

 直之助が言う。

「誰を」

 新之介は井戸の上へ向かって叫んだ。

「辰蔵を呼べ!」

「火の仕掛けを壊せる者を!」

 上から返事。

 だが。

 ほぼ同時に、別の声が落ちてきた。

 玄斎だった。

「新之介!」

「新三郎を見つけた!」

「どこです!」

 玄斎の声が震える。

「再起館の表だ!」

「一人で歩いて戻ってきた!」

「無事ですか!」

「生きておる!」

 新之介たちは息を吐いた。

 直之助の膝から力が抜ける。

「新三郎……」

「ですが!」

 玄斎の声が続いた。

「本人が申しておる!」

「自分を助けるな、と!」

「何?」

「何を言っている!」

 直之助が叫ぶ。

 玄斎の返事。

「新三郎の腹に、火薬が巻かれておる!」

 石室が凍りついた。

「外せば爆ぜる仕掛けだ!」

「そして!」

 少しの沈黙。

「火縄が――始帳の台と、同じ刻で動いておる!」

 二つの火。

 一つは帳面。

 一つは人。

 同じ刻。

 今度こそ、誰かが一つを選ばせようとしていた。

(第六十三章へ続く)

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